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第三話 悩めるヒナミ

 翌朝。

 ヒナミはママレードを塗った食パンを口に運ぶ。甘酸っぱいオレンジの味が口の中に広がる。

「イチカの顔になにかついてるかな?」

 ヒナミとテーブルをはさんで正面に座るイチカちゃんは、首をかしげる。

 お父さんにはイチカちゃんのことを頼む、なんていわれたけど、今朝のイチカちゃんは普通だ。昨夜のことなんてなかったみたいに。

「ううん。なんでもないよ」

 ヒナミはそういってから、もう一口、食パンを食べる。

 イチカちゃんは、テーブルの上のママレードの瓶に手を伸ばして、一度引っ込めて、ママレードの横のブルベリージャムの瓶をつかんだ。

 うーん。ヒナミはなにをするべきなんだろう。イチカちゃんのこと、頼まれちゃったしな。


 どうすればいいのかな。

「ねえ、ヒナミ」

 どうすればいいのかな。

「ヒナミ?」

 どうすればいいんだろうな。

「もしもーし。ヒナミさーん」

 ミホの声で、我に返った。

「あ、ごめん。なんだった?」

 今、ヒナミがいるのはマンションの一室。ミホの家だ。

 若草色のカーペット、ピンク色のカーテンには熊の模様が入っている。ベットのシーツも薄いピンク色で、部屋のすみにはトカゲやらイカやらのぬいぐるみが山積みになっている。あ、ミツクリザメもいる。

「え、いや、この問題がわかんなくて」

 ミホはテーブルの上に広げたプリントの一点を指でつつく。夏休みの宿題、社会のプリントだ。


問 次の愛媛県の地名を漢字で書きなさい。

1、昔から山岳信仰の対象になっている西日本最高峰の山。


 うん。これは簡単だ。ヒナミは社会が得意だからね。

「それはね、石鎚山」

 ミホは「ありがと」といいながら解答欄に『いしずちさん』と書いた。

「石鎚山の『づ』は『つ』に点々だよ」

 ヒナミがいうと、ミホは黙って消しゴムを持ち、書いたばかりの字を消しはじめる。

「っていうか、漢字で書きなさいって書いてあるよ」

 ミホの手が止まった。

「石手川の『石』とかねへんに追いかけるで『鎚』だよ」

 石手川というのは、松山市の中心を流れる川だ。以前、ヒナミが私立の小学校に通っていた頃、わざと遠まわりして川辺を歩いて家に帰ることがあったっけ。

「ヒナミ~」

 情けない声を出しながら、すがるような目でヒナミを見るミホ。

 まったく、もう。ヒナミは自分のノートのはしっこに『石鎚山』と書いて、ミホに見せた。

「ありがと~」

 ミホは鉛筆を走らせる。

「ねえ、ヒナミ。なんか悩んでる?」

 ミホは手元のプリントを見ながらいった。さっきの情けない声とはまるで違う、真面目な声だ。

「うーん。悩みごとってほどじゃないけど、考えごと」

「ほれ、いってみなさい」

 ミホは、顔を上げて、まっすぐヒナミを見つめる。

 ヒナミは息を吐いた。なんだろう。ちょっと、気持ちが軽くなった。

「実はさ、家に女の子がいるんだ。昨日から」

「ヒナミ……女の子じゃなかったんだ……」

「私以外のよ」

 まったく。ミホはふざけているのか、バカなのか。

「その女の子がね、なんだか様子がおかしいっていうか、昨夜、急に泣き出してさ、恐い夢を見たらしいんだけど、なんとなく気になるなって、思って」

 ミホは二、三度うなずく。

「ふーん。その女の子、なんでヒナミの家に来たの? 親戚?」

「ううん。はじめて会った。お父さんが連れてきた」

「じゃあ、その女の子はいつまでヒナミの家にいるの? 夏休みの間だけ? それともこれからずっと?」

「……わかんない」

 ミホはため息を吐いた。

「つまり、全くの正体不明ちゃんってわけ」

 ヒナミはうなずいた。

 ミホの表情が、ふと和らぐ。

「ヒナミ、今夜、星を見に行こうよ」

「星?」

「うん。今朝の新聞に載ってた。今夜、流星群が見られるかもって。その女の子も連れておいで。三人で、女子トークしよ」

 ヒナミは小さくうなずいた。

「ところでさ、ここんとこも教えて」

 ミホはプリントの一か所を、コツコツと指でつついた。


 ミホは、階段を下りるのを手伝うといってくれたけど、ヒナミは断った。一人で出来ることは、一人でやりたいから。ミホも、ヒナミの気持ちをわかってくれたみたいだった。

 マンションの階段を、ゆっくりと時間をかけて降りる。外は夕日でオレンジ色になっていた。額を、汗が流れる。

 家にむかって歩きはじめる。

 コツ、コツ、コツ。

 杖が、アスファルトに当たる音がする。

 コツ、コツ、コツ。

 コツ、コツ。

 コツ。

 ヒナミが足を止めたのは、曲がり道の手前だった。ここを曲がれば、海が見えてくるってところだ。

 道の真ん中で、うずくまっている人がいる。ヒナミからは、背中しか見えないけど、あれ、うずくまってる人だよね。

 ヒナミはゆっくりと近付く。

「あの、大丈夫ですか?」

 うずくまっていた人は、お婆さんだった。

「足を、くじいてしまったみたいで……」

 お婆さんは、足首を手で押さえている。

「動けそうに、ないですか?」

 ヒナミの声に、お婆さんはうなずいた。

 左右を見渡す。誰もいない。

「え、……えと、誰か、呼んできます」

 ヒナミは振り返ると、今、歩いて来た道を歩きはじめる。

 それしかできなかった。

 ちょっぴりくやしかった。

 お婆さんがうずくまっていたのは道の真ん中だった。つかまるものがない場所でしゃがむ、というか座ってしまうと、立ち上がれなくなる。

 だから、お婆さんの足首がどんな感じなのか、見てあげることができない。

 肩を貸して、道のはしっこに移動させてあげることすらできない。

 自動車にひかれませんように。そう祈るしかない。

 大きな、無力感。

 いつの間にか、うつむいて歩いていた。

 駄目駄目。うつむいていたら、助けてくれそうな人を見つけられないじゃないか。

 ヒナミは、顔を上げた。

 そこには、ウミが立っていた。Tシャツに、長ズボンという格好だ。

 ウミは、自分の胸を叩いた。まかせて、とでもいわんばかりに。

 そして、大きく息を吸い込む。

 吸って、吸って、吸って。

 ウミは頬をふくらませて、息を止めた、のも一瞬のこと。


「ギュルルルオー」


 次の瞬間、とてつもない大音量が響いた。

 ウミが、吠えていた。大きく口を開けて。

 風が吹く。ウミから、ヒナミへ。

 やがて、ウミは吸い込んだ空気を吐ききり、音は消えた。

 耳が、キーンってなる。

 ウミは、ニコリと微笑みを投げかける。

 草の生い茂っている脇道。そこがゴソゴソと音をたてる。

 ゴソゴソ。

 ゴソゴソ。

 ゴソ。

 出てきたのは、イチカちゃんだった。昨日と同く、リボンが巻かれた登山帽をかぶっている。

「やっと、出られたー。って、え、あ、ヒナミちゃん!?」

「イチカちゃん、助けて!」

 思わずヒナミは叫んだ。


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