最終話 花であるが故
体育館を出ると、涼しい風が髪を揺らした。雲の合間に、月が見える。満月だ。
「イチカちゃーん」
声を出しても、返事はない。
「イチカちゃーん」
どうしよう。
ひょっとしたら、本当にトイレに行っただけなんじゃないだろうか。そんな考えが頭をよぎる。いいや。それは、そう思いたいだけだ。ヒナミは首を左右に振った。根拠はないけれど、確証は持てた。
でも、どうしていいかわからない。
そのときだ、杖を握る手になにか冷たいものが触れた。
ウミが、ヒナミの手を握っていた。
「ウミ!」
そうだ、ウミがいた。
「ウミ、イチカちゃん、どっちに行ったかわかる?」
ウミはうなずくと、校門の方を指差す。
「出てったの?」
ウミは指差したままうなずいた。
校門は閉まっている。イチカちゃんはその上を乗り越えていったのかもしれない。だけど、ヒナミにはそんなことできない。
「……どうしよう」
ヒナミがつぶやくと、ウミは校門を指差す腕を動かした。校門の横、フェンスに穴が開いている。
ヒナミは、フェンスを四つん這いで抜けた。生まれてはじめて、自分が小柄であることに感謝した。年相応の体格だったら抜けられなかった。
ウミに導かれ、道路を渡り、踏切を渡り、砂浜へやって来た。
「イチカちゃーん!」
ヒナミは力いっぱい叫ぶ。しかし、その声は波に消えていった。
「……イチカちゃん」
そのとき、雲が切れ、月明かりが海面を照らした。
イチカちゃんが、いた。
腰まで海に浸かりながら、水平線を見つめている。
ヒナミは海に入った。服が濡れるのなんて、気にしない。
ザブリ、ザブリ。
杖を握る手を必死に動かし、まっすぐに、前に、ただ前に。
イチカちゃんの近くまで来たとき、ヒナミは呼吸が乱れていた。
イチカちゃんの胸の高さの海面。それは、ヒナミのあごの高さだ。
「イチカちゃん」
ヒナミは荒い息の合間に、なんとかそれだけをいった。
「ヒナミちゃん。タイタニックって、映画、知ってる?」
水平線を見つめながら、イチカちゃんはいった。
「ごめん。知らない」
ヒナミは答えた。
「終盤、タイタニック号が沈んで、主人公のジャックと、ヒロインのローズは海に投げ出されて、二人は船の破片につかまって浮かぶの。それでね、ジャックはいうの『絶対に生き残るって約束してくれ』って」
波が、押し寄せる。
「私は、パパからなにも託されなかった。当たり前だよね。パパもママも、私が殺したんだから」
「そんなことない。そんなことないよ」
「ありがとう。ヒナミちゃん。でもね、あの夜、フェリーから落ちたとき、私がさっさと海の怪物に引きずり込まれていたら、さっさと沈んでいれば、パパは死ななかった。生き延びられた」
ヒナミは杖から手を放して、イチカちゃんの背中にしがみついた。
「そんなこと、いわないで」
「海はね、パパとママの体を返してくれた。とっても嬉しかったんだ。きっと、命も返してもらえるはずだって思えたから。イチカが、命を海にあげたら、きっと返してくれるって思えたから」
ヒナミはふと、懐かしい声を思い出した。
『ヒナミさん、寝ちゃだめです。起きてください』
『おはようございます。ヒナミさん』
『算数の宿題、できましたか?』
『ずっと、こうしていたいな。三人で』
『私、森松チサトっていいます』
「イチカちゃん。死んだ人はね、生き返らないんだよ」
ヒナミにいえたのは、それだけだった。
「ずっと、悩んでた」
イチカちゃんはつぶやくようにいった。
「でもね、昼間、プールに落ちたときに思ったの。結局、逃げられないって。覚悟はできた。私は、これから死ぬ。それで、パパとママの命を返してもらう。ヒナミちゃん。死んだ人は生き返らない、なんていわないで。私の希望を、奪わないで」
そのとき、大きな波が押し寄せた。
「うわっ!」
ヒナミは、必死に踏ん張った。でも、脚に力が入らない。
波にのまれてバランスを崩した。足が地面から離れる。顔が水に浸かる。
口から、鼻から、どんどん水が入ってくる。
顔を、表に出さなきゃ。そう思っているのに、上手くできない。
息ができない。
苦しい。
助けて。
伸ばした手は、なにも掴むことはなかった。
目の前を、三葉虫が歩いて行く。
ヒナミは、地面に横たわっていた。
ウミユリが、揺れている。
少し、頭を動かす。それに合わせて、粒の細かい砂がフワリと舞い上がる。
上を見ると、光が、ゆらゆらと揺れている。
ここは、海底のようだ。ヘンだな。息が、出来る。いったい、なにがどうなったんだろう。
「ヒナミさん」
後ろから、声がした。とても懐かしい、声だった。
ヒナミは、上半身をおこし、声の方向を見た。
長い髪をサイドテールにした女の子が、そこにいた。
「チサト……ちゃん」
森松チサト。見間違えるわけがない。
「そっか。そういうことなんだ」
チサトちゃんがここにいる。それすなわち、ヒナミは死んだということだ。
ヒナミはうつむいた。お父さん、お母さん、ごめんね。
「ヒナミさん」
チサトちゃんは、フワリとしたやわらかい笑顔を浮かべて、ヒナミの横に座った。
「チサトちゃん、会いたかった」
ヒナミは、つぶやく。
「私もです」
チサトちゃんは、軽い口調だ。
「チサトちゃんがいなくなっても、朝が来て、昼がすぎて、夜になって、死んじゃったなら、死んじゃったなりの日常があって……。チサトちゃんなんて、はじめからいなかったような気になって、それに気が付いたとき、とっても悲しくなった。自分が嫌いになった」
チサトちゃんの手が、ヒナミの肩に触れた。
「いいんです。それで、いいんです」
「でも、それじゃあ……」
それじゃあ、チサトちゃんがかわいそうだよ。
「ヒナミさん、失くしたものは、なんですか?」
ヒナミは手のひらを見た。そこには、なにもない。
「ほら、まだまだたくさん持っているじゃないですか。今あるものを、大切にしてあげてください」
手のひらの上に火の子のような光の粒が集まる。熱くはない。
「失くしたものは、私のことは……たまに思いだしてくれたら、それでいいんです」
集まった火の子は、勾玉になった。
「イチカさんのところへ、行ってあげてください」
「まだ、間に合うの?」
「私、知ってます。ヒナミさんの足がはやいこと」
ヒナミは勾玉を握りしめた。あったかい。
「じゃあ、私はそろそろ行きますね」
チサトちゃんの体が、ゆっくりと泡になり、海面へと登っていく。
「待って、まだ……」
ヒナミの声は裏返っていた。
「はい。待ってます。私に会いに来てください。その脚で、ゆっくりと、ゆっくりと」
もう、チサトちゃんの姿はもう見えない。声だけが、聞こえた。
ヒナミはぎゅっと、目をつむった。
またね、チサトちゃん。
そして、目を開く。前から、光が迫ってくるのが見えた。青い、火の玉のような光。それは、ウミガメだった。まばゆい光をまとった、大きな大きなウミガメが、まっすぐに迫ってくる。
ヒナミは、息を吸って、吸って、吸って。
「ウミィー!」
叫んだ。
『ギュルゴォー』
ヒナミの声に応えるように、ウミガメは大きく吠えた。
まるで滑るようだ。ウミガメは猛スピードで海中を泳ぐ。クラゲも、ウニも、イワシも、エイも、ジンベイザメも、みんなみんな追い越していく。
「すごい、すごいよウミ」
ウミガメの甲羅に座るヒナミは、はしゃぎながらいった。ウミガメは、得意げな表情でヒナミに視線をむけた。
「あ、あそこ」
ヒナミは前を指差した。
イチカちゃんの体が、ゆっくりと沈んでいくのが見えた。
ウミガメは一度うなずくと、進路をイチカちゃんへむけた。
「イチカちゃーん!」
ヒナミは、手を伸ばしイチカちゃんの手を掴んだ。そして、甲羅の上に引き上げる。
「イチカちゃん」
イチカちゃんの体をゆする。
「うっ……ううっ」
イチカちゃんは、ゆっくりと目を開いた。
「ヒナミちゃん。どうして、助けてくれたの?」
イチカちゃんの声は、弱々しい。
「嫌だよ。イチカちゃんのお葬式に出るのは」
ヒナミははっきりと答えた。
「でも、そしたらパパとママが……」
イチカちゃんがなにかいいかけたときだ、突如、ウミガメが浮上し始めた。もの水後い速さで海面にむかう。ヒナミもイチカちゃんも、甲羅につかまる。
バッシャーン。
大きな音をたてて、海面に出た。
それは、不思議な眺めだった。
星が瞬く夜空の下、海面が金色に光っている。金の波が、ユラリ、ユラリとウミガメを揺らす。
海面から、プカリと泡が浮き出ては、夜空へと登っていく。まるで、金色のシャボン玉のようだ。
「イチカ」
男の人の声がした。
泡が二つ、浮かんできてイチカちゃんの顔の高さで止まった。泡はみるみる形を変え、ヒトの形になった。男の人と、女の人だ。二人とも、どこかイチカちゃんに似ている。
「パパ、ママっ!」
イチカちゃんが叫んだ。
「久しぶり、イチカ」
イチカちゃんのママがいった。
「ごめんな、苦労、させてしまったんね」
イチカちゃんのパパがいった。
「ごめんなさい。イチカのせいで、イチカのせいで」
パパと、ママが手を伸ばし、イチカちゃんの頭に触れた。
「イチカ、俺たちはうれしいんだよ。イチカが生きてくれていて。生き延びてくれて。ありがとう」
イチカちゃんの目から、涙がこぼれた。
「イチカを、許してくれるの?」
イチカちゃんは手のひらで涙をぬぐいながらいった。
「イチカ、欲しがっていた登山靴、買ってあげられなくてごめんね」
ママが、いった。
「いいの。そんなの、いいの」
イチカちゃんは、激しく首を横にふった。
「一緒に、富士山行きたかった」
パパがいった。
「いつか、イチカが行くから」
イチカちゃんは、顔を手で覆って、泣きじゃくる。
「もっと、いっぱいお手伝いしたらよかった。もっと、いい子でいたらよかった」
泣きながら、イチカちゃんはいった。
「甘えさせてあげたかった。もっと、優しくしたかった」
ママがいった。
イチカちゃん、パパ、ママ。三人で抱き合う。
「もっと、もぉっと、一緒にいたかったよ。お別れなんて、嫌だよ」
イチカちゃんは、いった。
「俺たちも、ずっとこうしていたかった」
パパが、ゆっくりとはなす。
「でも、もう行かなくちゃ。俺たちがいなくても、イチカはパパとママの子供だ。宇宙がひっくりかえったってそれは変わらない」
やがて、パパとママの体は鈍い光を放ちはじめ、そして、泡となって、舞い上がった。
「イチカ。お前は、世界で一番の花だ」
イチカちゃんは、その場に、泣き崩れた。
目を覚ますと、テントの屋根が見えた。
ゆっくりと、顔を横に動かす。イチカちゃんがいた。
「ヒナミちゃん、おはよう」
イチカちゃんは、横たわったまま、指先で目元を拭った。
「変だな。なんで、泣いているんだろう。ヒナミちゃん。胸にね、ぽっかり穴が開いたみたいなんだ」
イチカちゃんは、胸に手を当てた。ヒナミはそっと、イチカちゃんの髪をなでる。
「こうして、ヒナミちゃんといてもね、穴が埋まる感じはしないんだ。きっと、なにをやっても埋まらないんだと思う」
イチカちゃんは「でもね」と言葉をつないだ。
「イチカは、この穴を持ったまま、生きていけると思うんだ。ときどき、悲しくなって泣いちゃうときもあるだろうけど、でも、イチカは生きていける」
イチカちゃんは、ゆっくりと起き上がると、涙をぬぐい、ヘアゴムで髪を留めた。ヒマワリの飾りが付いた、ヘアゴムだ。
「ミホちゃん、おきて、朝だよ」
イチカちゃんは寝ているミホの体を揺らす。
ヒナミは、上半身をおこし、大きくのびをした。
イチカちゃんの親戚の人が、ヒナミの家にやって来たのは夏休み最後の日だった。イチカちゃんを引き取りたいのだという。
前のことがあるから、ヒナミも、ヒナミのお母さんも、慎重になっていた。イチカちゃんもかなり悩んでいたけど、その親戚の人のところで暮らすことにしたようだ。
九月の上旬、イチカちゃんはわずかな荷物をもって、家を出ていった。
そして、何事もなかったかのような日常が、はじまる。
ヒナミは海辺の道を、ゆっくりと歩く。その一歩ごとに、長い髪が揺れる。空気の匂いも、気温も、微かに秋の気配がする。
ある家の前で、足を止めた。
しばらく待っていると、その家のドアが開いた。出てきたのは、イチカちゃんだ。
「いってきまーす」
玄関で、イチカちゃんを見送っているのは、郡中ハナさん。そう、足をくじいたところをイチカちゃんが助け、イチカちゃんが呉に行った際には、その電話番号と住所をヒナミに教えてくれた、あのお婆さんだ。
「本当に、ついて行かなくて大丈夫?」
お婆さんはなんだか心配そう。
「うん。へーきだよ。ヒナミちゃんも、ミホちゃんもいるから」
イチカちゃんはそういって、お婆さんに手を振った。
「お待たせ、ヒナミちゃん。行こ」
ヒナミとイチカは、並んで歩き出す。
でも、数歩でイチカちゃんは足を止めた。そして、ふり返り、もう一度、大きく手を振った。
マンションの横で、ミホと合流した。
「イチカ、今日から?」
ミホは尋ねる。
「うん。色々手続きに時間がかかっちゃったんだけど、今日からイチカは二学期、ですっ」
三人で、並んで歩く。ゆっくり歩く。
線路をまたぐ橋を越え、坂を下り、横断歩道をわたって、小学校に到着だ。
靴を履き替えてから、イチカちゃんを職員室へ送っていった。
そして、ヒナミとミホは自分の教室、四年二組へ。ヒナミたちが一番乗りだった。
次第に、みんなが登校してくる。それにつれて、ザワザワと騒がしくなっていった。
「ヒナミちゃん、一組に一人、転校してくるってホント?」
ヒナミのところに、カンナちゃんがやって来た。
「うん。そうらしいね」
ヒナミが答えると、カンナちゃんは転校生についてあれやこれやと空想をはじめた。
そのとき、チャイムが鳴った。
立花先生が教室に入る。みんなは、一斉に席についた。
「起立、礼」
日直が、号令をかける。
「おはようございます」
挨拶のあと、全員が座ったのを確認してから立花先生は出欠を取りはじめる。今日は全員出席だ。
それから、立花先生は今日の注意事項を話しはじめる。でも、声が小さいから隣の教室の声も聞こえてくる。いや、むしろヒナミは隣の教室の声に聴き耳をたてていた。
「郡中イチカです。よろしくお願いします」
ヒナミは、小さく微笑んだ。
日差しの波打ち際2 ~しおかぜに揺れる花~
おわり