第十二話 夏の終わり、別れの足音
ヒナミたちが呉から帰ってきた翌日。
お父さんの休暇は終わり、また船に乗って外国へむかった。次に帰ってくるのは三か月後だ。
幼いころから何度も経験したこととはいえ、やっぱり寂しいものだ。
ちゃんと、帰ってきてね。
ヒナミは心の中でそういった。
さらにその翌日。
「ヒナミちゃーん。準備できたー?」
リビングに、リュックサックを背負ったイチカちゃんが飛び込んできた。
ヒナミは胸元に名札を付けると、床に座ったまま、リュックサックを背負い、テーブルを支えにして立ち上がる。
「はい、どーぞ」
イチカちゃんは杖を差し出してくれた。
「ありがと」
ヒナミは杖を受け取り、握る。
「二人とも、準備できた?」
お母さんの声が聞こえた。キッチンから顔をのぞかせている。
「ハンカチとティッシュは?」
「持ってる」
ヒナミが答えた。
「歯ブラシは」
「入れたよ」
今度はイチカちゃんが答える。
「しおりは?」
「大丈夫」
ヒナミとイチカは同時にうなずいた。
「あ、名札名札」
イチカちゃんは小走りにリビングを出て行く。
「お待たせ―」
戻って来たとき、その胸元には名札が付いていた。
『四年二組
郡中 一花』
そんな名札だ。
「うん、じゃあ、行ってらっしゃい」
お母さんに見送られて、イチカちゃんとヒナミは玄関へ。
イチカちゃんは靴を履くと、表に出る。
ヒナミは玄関に座って靴を履く。マジックテープのスニーカーだ。
イチカちゃんは、ドアが閉まらないように抑えてくれている。
「いってきまーす」
ヒナミとイチカちゃん、二人同時に大声でいった。
海辺の道をゆっくりと歩く。イチカちゃんも、ヒナミ歩調を合わせてくれている。
ツクツクボウシが鳴いている。夏も、もう終わりだ。
ヒナミたちは、マンションの横で足を止めた。そこに、ミホがいた。
「おはよっ」
ミホは、ヒナミたちと同じく、いや、もっと大きなリュックサックを背負っている。
「あー。ミホちゃんだ。久しぶり」
イチカちゃんは今にも飛びはねそうな勢いだ。
「うん。おかえり。イチカちゃん。ヒナミから訊いたよ。大変だったみたいじゃん。よく頑張った」
ミホに頭をなでられて、イチカちゃんは「えへへ」と笑っている。
「ん? ヒナミもなでてほしいの?」
ミホと目が合った。
「いならない」
ヒナミはきっぱりと答えた。ちなみに、これ、本心だからね。ホントだよ。
坂を下って、横断歩道を渡ると、そこは学校だ。
ちらほらと、校門をくぐっていく人が見える。
ヒナミたち三人も、校門をくぐった。
普段だったら、ここから昇降口へむかうのだけど、今日は違う。体育館だ。
体育館の入り口に、ヒナミとミホのクラスの担任、立花先生がいた。
「おはようございます。ヒナミさん、ミホさん、イチカさん」
立花先生は名前を呼びながら、クリップボードに挟んだ名簿にチェックを入れる。
「おはようございます」
三人の声は、綺麗に重なった。
「今日は『学校に泊まろう』楽しんでくださいね」
立花先生はウインクした。
「せんせー。おっはよー」
そこに、のんびりとした声が。
「あ、おはようございます。カンナさん」
やって来たのは和田カンナちゃん。ヒナミのクラスメートだ。教室では二番目に背が低くて、マスコット的存在になっている。ちなみに、一番背が低いのはヒナミだ。すぐにおっきくなるもん。
カンナちゃんはイチカちゃんを見て、首をかしげる。
「ヒナミちゃんのー、お友達?」
「グンチュウ・イチカ。よろしくね」
イチカちゃんは笑顔を浮かべた。
「私、和田カンナ。イチカちゃんは何組?」
カンナちゃんはそういってから、「四年二組か」とつぶやいた。その視線は、イチカちゃんの名札を見ていた。
「あれー? 私も四年二組だよー?」
「えっと、イチカちゃんはね」
ヒナミがイチカちゃんのことをどう説明しようか考えていると、
「ま、いいや。よろしくね」
そういって、カンナちゃんは体育館へ入っていった。
体育館で、校長先生の挨拶を聞く。他の人たちは体育座りで話を聞いているけど、ヒナミはその後ろでパイプ椅子に座っていた。
校長先生の話が終わると、体育館の中に、班ごとにテントをたてる。
場所が場所だから、もちろんペグのないテントだ。テントをたてるときに使う杭の名前がペグっていうことを、ヒナミはじめて知った。イチカちゃんに教えてもらった。
ヒナミ達のテントが完成したのは、どこの班よりもはやかった。イチカちゃんのおかげだ。
「イチカちゃーん。手伝ってー」
お隣の班ーーカンナちゃんのところはまだ間だのようだ。
「うん。いいよー」
イチカちゃんは小走りで、カンナちゃんのところへ行った。
ツンっと塩素のにおいが鼻をつく。
昼食の後、予定通りプールとなった。
結局、イチカちゃんの水着は間に合わなかった。呉から帰ってから、みんな、バタバタと忙しかった。
イチカちゃんはプールサイドのベンチに座っている。ヒナミも、一応水着に着替えたけど、ずっとイチカちゃんの横に座っている。
今夏最後の出血大サービスといわんばかりに、日差しが照り付ける。ああ、日焼けしちゃうな。別にいいけど。
ミホは、五年生の男子と泳ぎの競争をしている。はやい、はやい。まるで、イルカみたいだ。
「ヒナミちゃーん、イチカちゃーん」
カンナちゃんがやって来た。こら、プールサイドは走るんじゃないぞー。
「ヒナミちゃん、プール入ろうよ」
ヒナミは、イチカちゃんの顔を見た。
「行っておいでよ、ヒナミちゃん」
イチカちゃんは遠くを見ているような目をしている。
「イチカちゃんは、入らないの?」
カンナちゃんは、尋ねた。
「うん。水着がないから」
「じゃあさ、足だけでも水に入れたら。冷たくて、気持ちいいよ」
カンナちゃんの言葉に、イチカちゃんは小さくうなずいた。
「そうだね。足だけ」
イチカちゃんは立ち上がり、イチカちゃんに手伝ってもらって、ヒナミも立ち上がった。
プールの縁まで移動して、座る。ヒナミはそのまま水に浸かり、イチカちゃんはズボンの裾をまくって足を水に浸した。
ヒナミは縁に手をかけて、足を浮かせる。
泳ごう。
「ちょっと行ってくるね」
ヒナミはそういって、泳ぎ出す。足が使えないから、腕の力だけで。これでも、うまくやればちゃんと泳げるのだ。
普段、地上を歩くときにどれほどもどかしさを感じていたかを思い知る。
このプールの中で、ヒナミは自由だ。
一周して、戻ってきた。
イチカちゃんは、カンナちゃんと楽しそうにしゃべっていた。カンナちゃんも、イチカちゃんと同じように、足だけを水に浸けている。
「ヒナミちゃん、すごかったよ。まるで人魚みたい」
イチカちゃんはそんなことをいった。ああ。確かに、その通りかもしれないな。
「イチカも、泳げたらな」
泳げたらどうなのか、尋ねる気にはならなかった。
「よしっ」
おもむろに、カンナちゃんは立ち上がる。
「それならいっそ、入っちゃえー」
突然、カンナちゃんはイチカちゃんを後ろから突き飛ばした。
「うわぁっ」
大きな水しぶきがあがった。
イチカちゃんは、声にならない声を出しながら、バタバタと暴れる。
「暴れないで、じっとしてて」
ヒナミの声は、イチカちゃんには届いていないようだ。
「イチカさん」
立花先生が、プールに飛び込むのが見えた。
立花先生は、イチカちゃんを引き上げ、落ち着かせると、保健室へ連れていった。
ヒナミとミホ、それからカンナちゃんも、着替えて保健室へ行った。
「お待たせ」
カーテンが開いて、着替えを終えたイチカちゃんが出てきた。
「あの、あの」
カンナちゃんは、口をパクパクと動かす。
「いいよ。カンナちゃん、イチカを楽しくしようとしてくれただけなんだよね。大丈夫、イチカ、ちゃーんとわかってる」
イチカちゃんがそういった途端、カンナちゃんはワッと泣き出した。
「イチカね、泳げないんだ。びっくりさせちゃったね」
イチカちゃんは恥ずかしそうに頭をかいた。
「……ごめん」
泣きながら、カンナちゃんはいった。
「気にしないで。たいしたことじゃないんだから。ねっ」
イチカちゃんは、なぐさめるようにカンナちゃんの二の腕をさする。
やがて、カンナちゃんは泣きやみ、保健室を出ていった。それまで、何回も「ごめんなさい」をいっていた。
「先生、助けてくれてありがと」
イチカちゃんは、深々と、立花先生に頭を下げた。
「大丈夫、ですか?」
立花先生がいうと、イチカちゃんは勢いよくうなずいた。
「さ、ヒナミちゃん、ミホちゃん。楽しい楽しいお泊まりにもどろ」
イチカちゃんは、部屋を出ようとドアノブに手をかけた。
「イチカちゃん」
ヒナミは、思わず呼び止める。
「イチカちゃん、大丈夫?」
「うん。へーきだよ」
日が暮れると、砂浜に移動してバーベキューをした。
ここでも、イチカちゃんは大活躍だった。みごと、飯ごうでご飯を炊いてみせた。
「パパに教わったんだ」
イチカちゃんは、得意げにそういった。
バーベキューの片付けが終わると、花火をした。
ヒナミ、ミホ、イチカちゃん。三人で、堤防にもたれるように座る。砂が服につくのは気にしない。
「あーあ。もうすぐ学校始まるなー」
線香花火を片手に、ミホがいった。
「ミホちゃん、がっこ嫌いなの?」
線香花火を片手に、イチカちゃんがいった。
「学校は嫌いじゃない。ただ、夏休みが好き。そうでしょ?」
線香花火を片手に、ヒナミがいった。
「せーっかい」
ミホが大きな声を出した途端、細い花火の先の火の玉が落ちる。
「あっ」
続いて、ヒナミの火の玉も落ちる。
「イチカのだけになっちゃった」
不思議と、イチカちゃんの線香花火はなかなか落ちることなく、燃え続けていた。
テントに戻ってから、トランプで遊んだ。ババ抜きをして、大富豪をして、それに飽きると、三人でいろいろな話をした。
イチカちゃんは、ずっと笑っていた。
眠るのが、もったいなかった。でも、いつしか眠りに落ちていった。
体が揺られる。なんだろう。
誰かが、ヒナミのことをおこそうとしている。
こういうことをするのは、ウミかな?
ヒナミは目を開けた。
予想は外れた。ヒナミをおこしたのは、ウミではなく、イチカちゃんだった。
「どうしたの?」
目をこすりながら、尋ねる。
「ねえ、ヒナミちゃん。ちょっと……お花を摘みに行ってきてもいいかな」
なんで、わざわざそんなこと訊くんだろう。
「うん。気を付けて。いってらっしゃい」
ヒナミはいった。
「ありがとう。とっても、楽しかったよ。さようなら」
イチカちゃんはそういってテントを出ていった。
なんだろう。
なんで、さようならなんていったんだろう。
明日も、明後日も、イチカちゃんはここにいるんだよね。
イチカちゃん、とっても寂しそうな顔をしていた。
追いかけなきゃ。
ヒナミは脇に杖を抱えると、はってテントを出た。
体育館の中には、イチカちゃんの姿はない。
出入口のドアが開いてる。
ヒナミは杖に体重を預けながら立ち上がると、出口を目指した。