第十話 父と娘、それぞれに
波を乗り越えるたびに、フワリ、フワリと上下に揺れる。
高速船は、海原を進む。駆け抜けるようなスピード感であっても、今のヒナミにはもどかしい。
イチカちゃん、今、行くからね。
船内は、たくさんの座席がずらりと並んでいて、そのほとんどが空席だ。
「お父さん。イチカちゃんは、これからどうなるの?」
ヒナミは、横の席に座るお父さんを見た。でも、お父さんは目をそらす。
「どうなるの?」
もう一回、声をかける。ヒナミは自分がいら立っていることに気が付いた。お父さんに対してではない。自分に対してだ。
なんで、イチカちゃんを引き止めなかったんだろう。ウミは、あの男の人が悪い人だと教えてくれたのに。
イチカちゃんを引き止める努力すらしなかった。
後悔先に立たず、である。
「また、引き取ってくれる人を探すよ。大丈夫、今度はゆっくり、信用できる人をさがすから」
お父さんは、少し、落ち込んでいるように見える。
「後悔、してるの? あの男に、イチカちゃんを渡したこと」
「しないはずないだろ」
そっか。お父さんもなんだ。
「お父さんがイチカちゃんを引き取ることはできなかったの?」
「やろうと思えばできたさ。だから、後悔してるんだ」
ディーゼルエンジンの音が、響く。
「でも、やらないんだ。なんで?」
「なんだかんだいっても、僕らは他人だ。本当に血のつながった家族じゃない。たとえ、遠い親戚でも、血のつながりがある方がいいと思ったんだ」
「ウソつき」
根拠はない。でも、ヒナミにはお父さんがウソをついているという確証があった。だてに十一年間、家族をやっているわけではないのだ。
お父さんは、静かに首を横にふった。
「そうだ。ごめん。違うんだ。ただ……怖かったんだ」
「なにが?」
「ヒナミやヨウタと同じように、イチカちゃんに接することが、できるか。もしかしたらイチカちゃんだけに酷い仕打ちをしてしまうかもしれない。それが、怖かった」
ヒナミは、体を横に倒し、お父さんの肩に寄りかかる。
「なあ、ヒナミ。僕が間違ったことをしたときは、そのときは、叱ってくれるか?」
「情けない。父親のくせに」
「僕だって、一人の人間さ。いつでも完璧でいられるわけじゃない」
「知ってる」
ヒナミは「でもね」と言葉をつなぐ。
「私はね、お父さんのこと、大好きなんだよ」
エンジンの音に、ぎりぎりかき消されないくらいの声で。
「だから、いつまでも私の好きなお父さんでいてね。出来るだけ」
窓の外に、大きな橋が見えた。船は橋の下をくぐる。もうすぐ、呉港に到着だ。
警察署の廊下。ヒナミはぼんやりと椅子に座っている。
もう、二時間もこんな状態だ。
お父さんは、警察の人と一緒に会議室に入ったきり出てこない。
「はあ」
ヒナミは、ため息をついた。ただ待っているだけというのも、結構疲れる。
ドアが、開いた。ヒナミは、ゆっくりと、顔をあげた。
「ヒナミちゃーん」
部屋から、イチカちゃんが飛び出てきたかと思うと、ヒナミに抱きつく。
「会いたかった。会いたかったよー。ヒナミちゃん」
イチカちゃんは、ヒナミの頭に頬をすりよせる。
「うん。元気そうで、よかった」
ヒナミは、自然と微笑んでいた。
「ねえ、ヒナミちゃん。イチカね、不思議な夢を見たんだよ」
「どんなの?」
「ヒナミちゃんが助けに来てくれる夢。ヒナミちゃんと一緒におじさんの家を出る夢。目が覚めたらね、駅にいたの。それで、お巡りさんに助けてもらったんだ」
「イチカちゃん、私もね、夢の中でイチカちゃんに会ってた」
「ほんとに? ビックリ! イチカ達、同じ夢を見てたんだね」
イチカちゃんとヒナミは、笑いあった。
警察署を出て、呉の街を歩く。
「おじさんの家ね、火事になったんだ」
歩きながら、イチカちゃんは話をはじめた。
「けが人はいなかったらしいんだけど、全焼だって」
ヒナミは、夢で嗅いだ煙の臭いを思い出した。いやな臭いだった。
「パパとママが、残してくれたお金も、全部焼けちゃったって。なんでか知らないけど、銀行に預けてなかったらしいんだ」
イチカちゃんは、ゆっくりと息を吸って、吐いた。
「これで、よかったって思うんだ」
その表情は、スッキリとした、清々しいものだった。
「顔に傷、残らないといいね」
お父さんがいった。
イチカちゃんの顔には、何か所か絆創膏がはられている。
「まあ、残ったら残ったで、仕方ないかな?」
絆創膏をなでるイチカちゃんの手には、大きなあざがあった。
「おなかすいたー。今日のお昼ご飯、なにかな?」
イチカちゃんは空を見上げながらいった。
「なんだろうね」
ヒナミも、ぼんやり空を見上げる。澄んだ青空に、入道雲が広がっている。
「帰ったら、お昼にしようか」
お父さんは、ニコニコといった。
やがて、呉駅が見えてきた。港は、駅を通り抜けたむこう側だ。
エレベーターにのって、二階のコンコースへ。はじめて来た場所なのに、はじめてじゃない気がする。昨夜の夢のせいだ。
「ねえ、ヒナミちゃん。お船ね、イチカの隣に座ってくれる?」
イチカちゃんの表情は、こわばっていた。
「まだ、恐い?」
ヒナミの問いに、イチカちゃんはうなずく。
「手も、繋いどいてあげる」
ヒナミはいった。
「ありがとぉ」
イチカちゃんは、笑った。でも、引きつった笑顔だった。
その様子を見ていたお父さんは、なにかを考えるような仕草をした。
「二人とも、ちょっと待っててくれるか?」
そういいのこして、お父さん早足で歩いて行った。行き先は、切符売り場だった。
「お待たせ。はい、これ」
戻ってきたお父さんは、ヒナミとイチカちゃんに、黄緑色の紙を配った。それは、切符だった。一人三枚ある。
『乗車券 呉→松山』
『特急券 広島→岡山 さくら 552号』
『特急券 岡山→松山 しおかぜ 15号』
三枚の切符には、それぞれそう書かれていた。
「電車で、帰ろうか」
お父さんは、そういった。
「電車でって、かなり遠まわりじゃない」
ヒナミは頭の中で瀬戸内の地図を広げながらいった。
「なんだヒナミ。嫌か?」
お父さんは試すような視線でヒナミを見る。
「もちろん、行く」
ホントはね、思いがけない小旅行にワクワクしていたのだ。
呉駅から、広島方面へむかう赤色の快速電車に乗った。
三人で、ボックスシートに座る。
電車はゆっくりと加速する。
イチカちゃんは、窓側の席で、ヒナミがその横に座った。
「あのね」
イチカちゃんは、ゆっくりと口を開く。
「ここは、いい街だったって思うんだ」
それは、独り言のようで、ヒナミにいっているような、そんな感じだった。
「とっても、いい街だったの」
電車はトンネルに入る。窓ガラスに、車内が、イチカちゃんの顔がうつる。
「たくさんのお船が行ったり来たり。にぎやかで、でも穏やかで……本当に、いい街だった」
視界が開けたトンネルを出たのだ。
「パパが、この街が好きだっていってたのも、納得できちゃうな。もっと、別の出会い方をしてたら、イチカもこの街を好きになれたんだろうな」
駅を通過し、再びトンネルへ。
「パパが好きだったものを、パパが愛したものを、パパの全部を、イチカも、好きになりたかったな」
トンネルを抜けると、車窓に海が広がった。




