第一話 ある夜の夢
夜の海。
思っていたより暗い。
エンジンの音と、潮の匂いがする風が、船が進んでいるよ、と教えてくれている。
海との境目がわからない空を見上げる。金銀赤青黄。見たことのないくらい、たくさんの星が輝いている。
「あっ」
思わず声が出た。
夜空の暗闇の中に、銀色の線が走った。流れ星だ。
甲板を走って行く。ドンドンドンと、足音が響く。
お父さんとお母さんは、船の一番後ろにいた。
「パパ、ママ」
パパとママの前まで行く。
「どうしたの? そんなに騒いで」
ママが、そっと抱きしめてくれた。ちょっと気持ちが落ち着く。
「流れ星、流れ星なんだよ」
ママの腕に抱かれながら、顔を上げる。
「お、どこだい」
パパは柵にもたれて、空を見上げた。
「さっき、確かに見たんだよ」
ママの腕を抜け出して、もう一度、夜空を見上げる。
さっきと変わらない、綺麗な星空だ。でも、そこに流れる星はない。
「気長に待とうか」
ママも、お父さんと同じように柵にもたれかかる。
「おいで」
ママが手招きする。
パパとママの間にすき間がある。そこに入って、柵にもたれた。
その途端、フワリとした浮遊感。落ちているということだけがわかった。
直後に全身に強い衝撃を感じた。
何が起こったのか、全くわからない。
暗い、暗いところに引き込まれていく。
息ができない。苦しい。
ふと、気配を感じた。
怪物だ。
オレンジ色の一つ目を光らせて、口を開けて、待ち構えている。
怪物の、鎌のように鋭くとがった爪が、足に触れた。
食べられる。飲み込まれる。
恐い。
助けて。
伸ばした手を、誰かがつかんだ。その手が、マメだらけの手だったことは、はっきりと覚えている。
体が重い。
いや、体自体が重いんじゃないな。体の上に何かが乗っているんだ。
ヒナミは目を開けて、頭を動かし、自分の体を見た。
ベットの上で仰向けに横たわるヒナミの体。その上に、銀色のモジャモジャが乗っていた。
なにこれ。
ヒナミはまばたきをした。
銀色のもじゃもじゃは女の子の髪の毛だった。銀色の髪をおかっぱにした、五、六歳くらいの女の子が、ヒナミの上で寝ていた。なんともまあ、気持ちよさそうな寝顔だ。
ヒナミの上はそんなに寝心地がいいんだろうか。
「重いんだけど」
ヒナミがいうと、女の子は目を覚まし、ゆっくりと体を起こすと、ヒナミの体に馬乗りになって座る。
「重いんだけど」
ヒナミがいうと、女の子はその青い瞳で、抗議するような視線をむけてくる。
「重いんだけど」
ヒナミがいうと、女の子は観念したように、ゆっくりとヒナミから降りる。未練がましい、ゆっくりとした動きだ。
この女の子の名前はウミ。目が青いからウミ。ヒナミが名付けた。
適当だって声が聞こえてきそう。でも、ウミが気に入ってるみたいだからいいの。
ときどき、ウミはヒナミの前に現れ、不思議な力で助けてくれる。動物としゃべれるようにしてくれたり、悩みごとを解決する方法をさり気なく教えてくれたり。
竜宮城の出身らしいけど、ヒナミも詳しいことは知らない。
やっと動けるようになった。
ベットに腰掛けると、昨日の夜から枕元に用意しておいた服に着替える。お気に入りの青いワンピースだ。それから、白いタイツを、タイツを……あ、しまった。用意するのを忘れてた。
しかたない。タンスから出すか。ちょっと面倒だけど。
ヒナミがベットから降りようとすると、目の前に白い物が現れた。ウミが、タイツをヒナミに差し出していた。頬をふくらませて、ふてくされた顔で。
「ありがと」
ヒナミは笑顔でタイツを受け取った。ウミは一瞬、とても嬉しそうな顔をして、すぐにまた不機嫌そうな顔に戻した。わざとやってるんだ。その顔。
ヒナミの足にはまっすぐ、大きな傷跡が残っている。右足と左足、合わせて三本だ。
ヒナミはタイツをはいた。
それから、お守りの勾玉を首から下げる。赤い勾玉だ。
『先月、航行中のフェリーの柵が折れ、乗客が海に転落した事故をうけて、安全管理に問題があったなどとして……』
自宅のダイニング。ヒナミは椅子に座って大きくのびをした。テレビのニュースは、ここ数日同じ話題ばかりだ。平和なのか平和じゃないのかよくわからない。
「ふあ~」
自然と、あくびが出てくる。
「寝不足?」
お母さんはそう尋ねながら、朝食のサラダをテーブルの上に置く。おいしそうなのはいつものこと。
「うん、変な夢見ちゃって」
ヒナミは自分のコップに牛乳を注ぐ。
「どんなの?」
お母さんが尋ねる。ヒナミは牛乳を一口、飲んだ。
「高いところから落ちる夢。久しぶりに、ちょっと怖かった」
あのストンとくる感覚はどうも苦手だ。
「高いところから落ちる夢を見ると、背が伸びるらしいよ」
ヒナミの横に座っているのは、弟のヨウタだ。
「えっ、ホント?」
ヒナミが思わず大きな声で尋ねると、ヨウタはヒナミを見ないでうなずいた。
ヒナミは誕生日が来てなくて十一歳。ヨウタは誕生日が来て十歳。背が高いのは、ヨウタの方だ。ちなみにヨウタは年相応の身の丈で、ずば抜けて高いわけではない。
ヒナミはコップをつかみ、一気に牛乳を飲み干した。
視界のすみに入ったのは、壁にかけたカレンダー。今日の日付ところに、船のシールが貼ってある。貼ったのはヒナミだ。
ヒナミは玄関に座って、靴を履く。マジックテープのスニーカーだ。紐靴はほどけたとき面倒くさい。ちょうちょう結びができないわけじゃないからね。念のため。
壁に付いている手すりを持って立ち上がる。
こけないように気を付けながら、左右に一本ずつ杖を持つ。バンドが付いていて、腕のところに固定できるようになっている杖だ。
「いってきまーす」
大きな声でそういうと、片方の杖に体重を預けて、もう片方の杖からは手を放す。バンドで腕に固定されているから、手を放したところで杖は床に落ちるわけではない。
空いた手で、ドアノブを握りながら、ドアにもたれかかるように体重をかける。
ドアが開き、ヒナミは表に出た。
海辺の道を、ゆっくりと歩く。その一歩ごとに、長い髪が揺れる。空気の匂いも、気温も、すっかり夏のものだ。腕と杖のバンドの間に汗がたまって気持ち悪い。あせもになっちゃいそうだ。
マンションの横を通り、電車の線路を越える橋を渡る。
そのとき、後ろから近づく足音に気が付いた。
ヒナミは、はしっこによって、ふり返る。
女の子が、走ってくる。短髪で、大柄で、ジャージを着ている。
「おはよっ、ヒナミ」
女の子はヒナミの横で足を止め、呼吸を整える。
横河原ミホ。ヒナミのクラスメイトで、友達。ケンカしたこともあったけど、友達。ヒナミはそう思っている。
「うん。おはよ」
ヒナミは、短くこたえた。
「ヒナミ、はやいね」
ヒナミはうなずく。いつもこの時間に登校している。一学期からずっと。
「うん。いつも通りにね。ミホはトレーニング?」
「うん。いつも通りね」
二両編成の電車が、カタコトと通過してゆく。
「お茶、飲む?」
ヒナミは肩から斜めに下げた水筒を見せる。最近、お母さんが買ってくれたおっきいやつだ。ちょっと重い。
「飲む」
ミホは手を伸ばしてヒナミの水筒を手に取ると、フタを外す。フタは、そのままコップとしても使えるようになっているから、そこにお茶を注ぎ、一気に飲み干した。
「ありがと」
ミホは、水筒を元に戻すと「じゃあね」といって、走って行った。
「がーんばれっ」
見る見るはなれてゆくミホの背中に、ヒナミはつぶやいた。
緩いカーブを描く県道は、緩やかな下り坂になっている。坂を下りきったところが、ヒナミが通う小学校だ。
ヒナミがいるのが、県道のこっち側。そんでもって、学校はあっち側。道路をまたぐ歩道橋はある。でもヒナミはその前を通り過ぎて、一番近くの横断歩道へむかった。
校舎に入ると、まっすぐに職員室へむかう。
一番はじめに来た人が、教室の鍵を開けることになっている。この時間なら、ヒナミが一番はやいだろう。
職員室に入ったところ、すぐ横の壁に各教室の鍵がかかっている。でも、四年二組の鍵は無くなっていた。誰かが、ヒナミより先に来た人がいるということだ。
ヒナミは職員室を出て、廊下を進み、全速力でゆっくりと階段を登る。
なんだろう。ドキドキしている。階段を上がったからじゃなくて、なにかを楽しみにしている。ヒナミより先に来たのが、教室の鍵を開けたのが誰なのか、一刻もはやく知りたいと思っている。
教室のドアは、開けっ放しになっていた。
教室の中をのぞくと、一人だけ、女の子がいるのだ。長い髪をサイドテールにした女の子だ。
彼女は、難しそうな本を、一生懸命読んでいるのだけど、ヒナミが来ると必ず、本を閉じて、優しい笑顔をむけてくれる。
そしていうのだ。
「おはようございます、ヒナミさん。今朝もはやいですね」
自分の方が先に来ているくせに、とヒナミは笑顔を浮かべながら、教室に入る。
それから、他の誰かが登校してくるまで二人でずっとおしゃべりをする。宿題を教えてもらって、たまに教えてあげて。
そうだったら、いいのにな。
ヒナミは、教室に入る。
「あら、おはようございます」
教室にいたのは、女の子ではなく、女の人だった。うつむきがちなのと、前髪が長いので、顔が暗く見える。
ヒナミのクラスの担任、立花先生だ。教卓に広げた書類に目を通している。
「おはようございます」
ヒナミは自分がちょっぴり残念に思っていることに気が付いた。なにを、期待していたんだろう。
ヒナミは自分の席についた。一番前の席だ。席替えしてもここだ。ここじゃないと黒板が見えない。
「今日で、終業式ですね。一学期は、いかがでしたか?」
先生は顔を上げて、ヒナミを見た。
「たのし……かっただけじゃなかったです。色々ありすぎて……なんていうか」
ヒナミは、椅子に座ったまま振り返る。ヒナミの斜め後ろの席。空席だ。
「そうですか」
立花先生の声が聞こえた。
「ところでヒナミさん。こんなの、いかがですか?」
立花先生が差し出したのは、一枚のパンフレットだった。
『学校に泊まろう』
「なんですか?」
ヒナミは首をかしげた。まあ、タイトルから大方の予想はつくけど。
「その名の通りです。夏休みの間、学校でキャンプをするんです。この学校の伝統行事です」
ヒナミは春に転校してきた。だから知らなかった。
「どうしようかな?」
ヒナミはそうつぶやきながら、パンフレットを受け取った。