血液型差別問題を題材に、自然科学と社会科学をまたがる事象の扱い方について述べてみました
僕は社会問題をテーマに小説を書くことがよくあるんですが、それで一度、“血液型差別問題”をネタにして、“献血不足問題”を訴える『全日本B型同盟の野望』って小説(?)を書いたんです。軽い感じのコメディとして“血液型差別問題”には触れましたから、それが冗談たって事は少し考えれば直ぐに分かってもらえると僕は思っていたのですが、ところがいざそれを投稿してみたら“血液型差別問題”の方に反応する人がとても多くて、しかもアクセス数までも比較的多い(飽くまで僕の投稿した小説の中ではって事ですがね)。それで、なんというか「思っている以上にこの問題に皆さん関心があるのだな」って、僕は吃驚してしまったのです。
それから少し間を開けて、僕は試しにもう一度“血液型差別問題”を題材にしたショートショートを書いて投稿してみました。これはホラーでコメディなお話です。すると、これもやっぱりそれなりにアクセス数が多い結果に。それを受けて、僕はこんなせこい手段を考えました。
『“血液型差別問題”で読者を誘って、本当は別の事を伝える小説やエッセイを書いてみてはどうだろうか?』
最初の『全日本B型同盟の野望』は意図した訳ではないのですが、同様の方法は使えるのじゃないかと思ったのですね。
が、少し迷って結局は止めました。そんな事を繰り返していたら信用を失いそうですし、それに“血液型差別問題”ばかりに注目が集まってしまって、本当に訴えたいテーマが軽視されかねませんからね。
ただし、“血液型差別問題”には無視できない特性がある点にもその辺りで僕は気が付き始めました。“血液型差別問題”って、生物学的な事柄(つまり、自然科学的な事柄)と社会的な事柄が重なり、しかも様々な誤解や事象を捉える事の難しさから、社会的なコンセンサスを得られ難くなっている問題の代表例っぽいのですよね。
自然科学的な事柄って、実は一般の人が思っているよりもずっと正確に把握する事が難しいのです。そして、社会科学の領域でそれを扱うとなると、また自然科学とは違った点を考慮しなくてはならなくなる。その理解がまったく進んでいない(というよりも、そもそも“違い”があるって事自体が把握されていない)のじゃないかと僕はかねてから思っていたのです。
それで“血液型差別問題”という題材を利用して、自然科学と社会科学にまたがる事象の扱い方について説明してみてはどうだろうかとふと思ったのです。
“血液型差別問題”は確かに問題ですが、優先順位で言えばかなり低いでしょう。本当なら、他にもっといくらでも自然科学と社会科学にまたがったもので、テーマとすべき深刻な問題はあります。
と言うかですね、実を言えば、僕はジェンダー問題を題材にしたいと思っていたのです。ですが、ジェンダー問題はテーマが奥深過ぎるので、避けました。「生物的な性差をどう求めるのか、どこまでその性差を信じて良いのか」といった問題の他にも「人間社会の多様性と歴史の長さ」についての追及も必要になってきてしまうので、“自然科学と社会科学にまたがる事象”を説明する為の題材には不向きだと判断したのですね。僕の実力でジェンダー論を扱うのなら、それだけに注視しないと無理です。
それに比べ“血液型差別問題”は比較的軽くて誤解の性質から考えても“ぴったりな題材”です。自然科学についても社会科学についても、そしてその差についても説明する余裕があります。
では、早速、説明を始めます…… といきたいところなんですが、その前に別の話題です(ヲイ)。本題に入る前準備に、問題って訳じゃないですが、生物学的な特性が人間社会に大きな影響を与えている事例として少し興味深い話をしてみたいと思います。
“近親婚のタブー”って知っていますか? まぁ、親や兄弟姉妹との間での婚姻を禁じるってヤツですね。これ、多くの人間社会で観察される文化なんですが(王族などで、“純血性を保つ”という理由で近親婚が認められているケースは存在するそうです)、実はこれ人間の“生物としての特性”が色濃く絡んでいる可能性が濃厚なのです。
近交弱勢といって、近親交配を繰り返すと個体が弱体化していく事が知られています。そして反対に雑種強勢といって、異なった遺伝子同士の交配の場合は強い個体が生まれる事が知られています。「雑種犬は強い」なんて言われていますが、それも恐らくは雑種強勢だろうと思われます(血統書付きの犬の遺伝病問題は近交弱勢でしょう)。この現象は生物で広く観られます(ただし、例外もあります。植物の場合は自家受粉植物など、逆に自分の花粉でしか受精しない種類もあります)。
どうしてこのような事が起こるのかは分かっていませんが、予想は立てられます。恐らくこれは、遺伝子の多様性を維持する為にある性質だろうと思われます。生物が生き残る為には、“ある程度は多様である事”が望まれるのですね。何故なら、もしその種の特性がまったく同じものばかりになってしまったら、何かしらの環境変異によって一気に絶滅してしまうリスクが高くなってしまうからです。そして、多様性を保つ為には近親交配によって誕生した個体を弱体化させ、生き残り難くしてしまえばいい。もちろんその前に「そもそも近親交配など行わせなければ良い」というのも当たり前の話な訳です。
野生の動物を観察すると、実際、近親交配は少ない傾向にあるそうです。そして、それは人間の場合でも同様なのですが、問題はどうやってそれを実現しているのか?といった点で、他の動物に関してはどうか分かりませんが、人間の場合はその為の手段の一つとしてどうやら社会が定めている“近親婚のタブー”の文化があるようなのです。
ただ、“近親婚のタブー”が完全に社会的な領域で発生したものなのかと問われるのなら、どうも違っているようですが。
人間以外の動物にも近親婚を嫌悪する特性があるようなのですが、(当然かもしれませんが)動物の一種である人間にも、同じ様に近親婚を嫌悪する特性があるようなのです。だからこそ、ほとんどの人間社会で“近親婚のタブー”が存在しているのではないかと思われます。
でも、ここで少し疑問に思いませんか?
“近親婚のタブー”を生物としての特性として持っているのなら、当然、人間には近親者とそれ以外の者の区別が“知識の領域”外でついていなければならなくなります。じゃ、人間ってどうやって知識以外で、つまり生理的に無自覚の内に、その区別をしているのでしょうか?
世界には様々な社会制度が存在します。実験が困難な“人間の特性”を研究する場合、その実験と同様の事を行っている社会制度を見つけるのが常套手段です。そして、そこでどんな事が起こっているのかを調査するのですね。
今回のケースでいえば、幼児の頃から結婚相手と一緒に養育する中国や台湾の養女婚(本来は別の名ですが、複数の書籍でこのように表現されていたのでこう表現しました)や、血縁者以外の子供達を一つのグループで一緒に育てるキブツ(イスラエルの集産主義的協同組合)の制度がその社会制度に当たるでしょう。
それぞれ説明します。
中国や台湾の養女婚では、夫婦の交配が少ないという調査結果が出ています。どうも互いに性行為に抵抗があるらしく、出産率が低いのですね。キブツの場合は、同一のグループで育てられた男女がパートナーになる可能性がとても低いらしいです。
これらの事例からは、「近親者でなくても、幼児の頃から一緒に生活をしていた相手と性行為する事を嫌悪する」という特性が、人間にはどうやらありそうだという事が分かるはずです。
つまり、近親者とそれ以外を、「幼児の時期に一緒に過ごしたかそうでないか」で人間は区別しているようなのですね(だから、妹が兄に恋愛感情を抱くなんてのは、まぁ、ないとは言い切れませんが、やっぱりフィクションなのでしょう)。
「同性婚を認めるべきかどうか」が議論になっていますが、「近親婚を認めるべきかどうか」が議論されているケースを僕は耳にした事がありません。そして、相変わらずにそれは禁止され続けている。それを考慮に入れるのなら、この“近親婚を嫌悪する”という特性は、なかなか強烈に人間社会に影響を与えていると言えるのではないでしょうか?
さて。
細かい点をブッ飛ばして色々と説明してしまいましたが、実はこの生物的特性が、“近親婚のタブー”という社会制度に影響を与えているという話には“証拠や根拠の提示”、または“近親婚のタブーを肯定する”ことにおいて、様々な疑問にするべき点や問題点があるのです(それでも僕は、この話はかなり確からしいと思っていますし、“近親婚のタブー”が存在して良いとも思っていますが)。もしも、これを読んでいるあなたが、それに気付いていたというのなら、あなたは非常に頭が良いか、自然科学や社会科学に関しての充分な知識があるか、或いはその両方でしょう。
さて、
これから述べる“血液型差別問題”では、むしろそういった細かな疑問にするべき点や問題点について特に詳しく説明するつもりでいます。
まぁ、それが「自然科学と社会科学をまたがる事象の扱い方」について説明するって事なのですがね。
では、説明を始めます。
思考方法の基本は、大きく“帰納的思考”と“演繹的思考”に分かれます(他にも“アブダクション”と呼ばれるものや、最近ではコンピュータを利用した新たな手続きの思考方法も存在しますが、話がややこしくなるので、ここでは取り上げません)。帰納的思考は、情報を集めてそこから法則なりなんなりを導くという思考方法で、演繹的思考は何らかの原理(公理)をベースとし、それを展開する事で法則なりなんなりを導く思考方法ですね。
血液型差別…… と言うか、血液型性格診断は、多くは“帰納的思考”の結果から導かれたものです。まぁ、早い話が、「たくさんの人を集め、性格を調査、それで各血液型の性格的傾向をまとめていく」といったような手法によって提案されたものです。もちろん、これは“統計処理”の範疇に入るので、適切な統計分析が求められます。
ただ、実はあまり知られてはいませんが、“演繹的思考”による血液型性格診断の根拠もあるにはあるのです。血液型によって“病気への耐性”が変わって来るのですが、それが人の性格に影響を与えているというのですね。
例えば、「B型は感染症への耐性が強い」ので、特に清潔にしていなくても平気です。それに対し、「A型は感染症に弱い」ので清潔にしなくてはいけない。結果として、B型は大雑把な性格に進化をし、A型は几帳面な性格に進化したのではないか?なんて仮説があります。
もちろん、これは飽くまで仮説に過ぎませんから、これが正しいかどうかを検証しなくてはなりません(因みに、近代科学とそれ以前の学問の差は、検証を重要視するかどうかといった点がかなり大きいです)。その為にはやっぱり帰納的思考と同じ様にたくさんの人を集めて調査し、その結果を適切に統計分析する必要があります。
つまり、“帰納的思考”にしろ“演繹的思考”にしろどちらにしろ“適切な統計分析”が必要になって来るって事です。そして、ならば当然ながら、最低限の“統計の基本”は抑えなくてはならないはずです。
ですが、“適切な統計分析”も“統計の基本”も、はっきり言ってかなり難しいんです。なのに、これを簡単に済ませてしまっている主張がとても多い。なにしろ、議論や説を展開する以前の問題として、
「果たしてその結論を出すのに、その情報の量と質で充分と言えるのか?」
って、ものすらもよく見かけるのです。
1.その情報は果たして本当に統計的に有意と言えるのか?
僕が血液型差別問題を訴える小説を書いた時にこんなようなコメントをしてくれた人がいました。
「私の周りのB型は、性格が悪かったです。だから、私は血液型性格診は正しいと思っています」
はい。
この人の知合いにB型が何人いるのかは分かりませんが、精々が10人程度でしょう。この世の中には十億って規模のB型の人がいるのです。なのに、たったそれだけの人数で「B型の性格は悪い」などと総じて決めつけられては堪ったものではありません(僕もB型なんで、一応、言わせてもらいます)。
早い話が、サンプリングで結論を出すにしても、充分な量の情報が必要になって来るってことです。
更に付け加えておくとですね、情報に偏りがあってもいけません。例えば、サンプリングで選んだB型の人達が、全員、過激な犯罪組織に属していたら、まぁ、偏った結果になるだろう点は当たり前なのです。だからちゃんとそういった偏りを防ぐ調査になっているのか、確かめないといけません(生物学的な性差を調べる調査で、そのほとんどが白人社会の大学生を対象としていたなんて事例もあるので、これは本当に注意が必要です)。
中にはこれを逆手にとって、意図的に偏った調査結果を提示する事で、自分達を有利にしようなんて輩もいますんで、それも気を付けた方が良いでしょう。
一応フォローを入れておきますが、この少し考えれば誰にでも分かる当たり前のミスを、知識人と呼ばれるような人達ですら、頻繁に犯してしまっています(というか、そもそも僕自身も油断するとやってしまっている事があります)。
有名なジャーナリストの人が、テレビで「私の知合いは皆こうだ! だから、世の中全体もこうなんだ」といったような主張をしているのを僕は見かけたことがあります。恐らくは極わずかの限られた情報から、つい結論を出してしまうような性質を人間は持っているのでしょう。
自然界で生き残るのだったら、まぁ、普通は限られた情報しか手にはできませんから、限界合理性で行くしかないってのは、当然っちゃ当然なので、そういう性質を人間が持っていても不思議ではないかと思います。
つまり、何が言いたいのかというと「私の周りのB型は、性格が悪かったです。だから、私は血液型性格診は正しいと思っています」ってコメントを書いてくれた人は確かに統計の基本を理解してはいませんが、特別愚かではないよってな話です。誰でもそういった思考をしてしまいがちなのですね。
さて。
“血液型性格診断”における情報量不足の点を書きはしましたが、世間にはそれなりの多くのサンプル調査結果から“血液型性格診断”の根拠を提示しているものもあります。ただ、「それで充分なのか?」と問われると「もっと慎重に考えろ」とそう返さざるを得ません。
統計分析って実は厄介で、処理の仕方によって“有利な分析結果”を作る事が可能なんです(長くなるので割愛しますが、多数決を取るような単純なものでも、取り方によって全然別の結果を“見せる”事が可能です)。が、問題はそれだけではありません。
何故なら、“因果関係”ってものは、簡単には導き出せないからです。
2.因果関係と相関関係の違い
テレビ番組なんかを見ていると、相関関係があるだろう事しか分かっていないのをさも「因果関係が証明された」かのように伝えていることがありますので注意をしてください。よく考えてみると、そこには誇張や歪曲があるかもしれません。
因果関係は“原因と結果”を示しますが、相関関係は単に“関係がある”という事しか示してはいません(正確に言うと、因果関係は相関関係の一部なのですが、説明がややこしくなるのでここではそれは考えないことにします)。仮に統計的に関連がありそうだという結果が出ても、それは相関関係に過ぎないのかもしれないのですね。
“交絡因子”って知っていますか?
二つの事象に働きかける因子がある場合、その因子を交絡因子と呼ぶのですが、因果関係があると証明する為には、この交絡因子の可能性を排除しなくてはなりません。例えば、「アイスを食べる人が増えた」と「海水浴客が増えた」って二つの事象があったとしましょう。データ上はまるで因果関係があるように見えてしまいますが、この二つの事象には、「夏になって気温が上がった」という交絡因子が存在しているのかもしれません。つまり、相関関係はあっても因果関係はありません。
血液型性格診断でも同様で、もしかしたら、“血液型”と“性格”に同時に影響を与える交絡因子が存在するかもしれません。が、その可能性を疑ったという話を僕は聞いた事がないのです。まぁ、流石にちょっと考え難いとは思いますが……。更に書いちゃうと、仮に交絡因子が存在していても、血液型が性格を判断する際の指標にはなると言えちゃったりもするのですが、この辺りの説明をし始めると長くなるので、割愛します。
また、その事象がそれを引き起こす多数ある要因の一つでしかない場合もあります。例えば、「男であること」と「スカートをはかない」という二つの事象があったとしましょう。確かに「男であること」は「スカートをはかない」という現象を引き起こす要因の一つにはなっていますが、完全に因果関係があるとは言えないはずです。何故なら、「男はスカートをはかない」という文化がなければ、それは起こらないからです。まぁ、実際に男でもスカートをはく文化だって存在していますしね。
血液型性格診断だってこれと似たようなケースが考えられます。例えば、B型の人が血液型性格診断を信じて、「自分はB型だから、こんな性格なんだな」って思い込んでしまったなら、本当にそんな性格になってしまうかもしれません。この場合、B型の人がそんな性格になってしまった原因は、“血液型”と“血液型性格診断を信じる文化”の両方だって事になるでしょう。
実を言うと、似たようなケースはまだまだ考えられます。こういう話をし始めると切りがないのでいちいち説明はしませんが、そもそも相関関係と因果関係の区別ってのは曖昧なものなのです。
物理法則なんかに比べ、生物学や社会学の領域では多因子による影響が複雑に相互作用したり循環したりしてその事象が引き起こされている場合が多いので、明確な“因果関係”が示し辛いのですね。つまり、何をもって“因果関係がある”とすれば良いのかがそもそも分からないのです。だから、その土台の上で提示される法則だって厳密性が失われる場合が多いのです。
例えば、“ベルクマンの法則”なんてものがあります。これは「恒温動物は、同じ種ならば寒冷地にいくほど身体が大きくなる」という生物に関する法則ですが、飽くまで傾向を示す程度のもので、例外もあります。人間は熱帯で暮らす黒人の方が、それより北に住む黄色人種よりも身体が大きかったりしますからね。
もちろん、だから“血液型性格診断”だってもし仮に正しくても、厳密に適応できるようなものじゃないはずです。傾向がある程度ってことになるでしょう。性格に影響を与える要因は数多にあり、とてもじゃありませんが、“血液型”だけで説明し切れはしないからです。
もしかしたら、これを読み終えた後でもまだ“血液型性格診断”は正しいと信じきっている人もいるかもしれませんが、その程度のものである点はよく把握しておくべきです。ここでよく考えてください。
このように、そもそもその土台となる思考方法の段階で、相関関係に過ぎないのか、それとも因果関係があると言えるのか、その線引きすら曖昧で仮に正しくても「傾向を示すに過ぎない法則」である、“血液型性格診断”の内容をそのまま信じて“人間評価の基準”にするというのは、いくら何でも安易に過ぎるとは思いませんか?
さて。
既に少し触れましたが、“血液型性格診断”の場合、更にここに「人の性格を客観的に観察する事が困難」という問題が加わります。心理学には「客観性がない」という批判がありますが(因みに行動主義心理学は、その反省から生まれた学問だと言われています。はっきりと目に見える“行動”をベースに、論を構築しようというのですね)、“血液型性格診断”でも同様の問題があります。
3.客観的観測の困難性
“確証バイアス”って知っていますかね?
これは先入観によって物事を歪んで捉えてしまう事を言います。例えば、「中国人だから、マナーが悪いに違いない」なんて思い込んでいたら、その中国人のほんの少しの失礼な行動でも過剰に「マナー違反だ」と捉えてしまう。そんな事が人間心理には起こるのですね。
この“確証バイアス”が“血液型性格診断”でも働いていて影響を与えているかもしれません。と言うかですね、ある程度はほぼ確実に影響を与えていると言っていいでしょう。
例えば「こいつはB型だから性格が大雑把に違いない」と思い込んで、少しその人がいい加減な行動を見せたら、「やっぱり大雑把だ」とそう判断してしまうといったような……
あ、私事で申し訳ありませんが、僕は似たような経験をした事があります。僕は仕事でプログラミングなんかをしていたりするのですが、ある現場で「ミスが多い」と言われていたのです。まぁ、性格がちょっと落ち着きない感じなんで、多分そう思われていたのでしょう。ところがどっこい、ある日、全員の出したバグを一覧でまとめた表が作成されたら、なんと僕はその中で最もバグが少なかったのです。一応断っておきますが、その現場の僕の仕事量は物凄く多かったです。確実に平均は越していました(担当業務が多かった)。
「ああ、性格で損をしている!」と、その時に僕は思いましたね(そういや、上司から「ソースが綺麗で吃驚した」と言われたこともありましたよ)。
ちょっと愚痴が入ってしまいましたが、まぁ、こんな感じで“血液型性格診断”を信じるあまり確証バイアスによって、適確にその人の性格を評価できていない可能性だってあるのです。
確証バイアスの他にも何かを歪んで捉えてしまう心理現象はあります。前述した「自分はB型だからこんな性格だろう」で、本当にその性格になってしまうという話とも被りますが、観測者効果っていって観測する行為が被観測者に影響を与えてしまうことが考えられるのです。教育心理学における“ピグマリオン効果”とも関係がありますが、観測者がその性格を期待して相手を観察すれば、相手もそれに合わせてそんな性格になってしまう可能性はあるのです。
その好例として、こんな“性差”に関する実験があります。
数学の試験を始める前に、「この試験結果には性差がある」と宣言すると女性の点数の方が低くなりました。ところが、別の集団に対して何も言わないで試験を始めてみると、なんと点数は男性と女性であまり変わらなかったらしいのです(黒人と白人でも同様の実験が行われたそうですが、やはり同じ結果になったらしいです)。
つまり、「この試験結果には性差がある」という先入観が、恐らくは試験を受けた人達のモチベーションに影響を与え、結果として成績に性差が現れてしまったようなのです(因みに、「女性は数学が苦手」と世間で言われていますが、だからそれが本当であるかどうかは分かりません。“思い込み”の所為でそんな傾向がつくられてしまっているだけかもしれないのですね。実際、女性でも“天才”と評価されている数学者はいます)。
また、“性格評価”というのは人間関係で変わってきます。嫌いな相手を評価する場合と好きな相手を評価する場合とで、性格の評価が変わって来るのは当たり前でしょう。早い話が、同じ人間でもその人と「どういう関係か?」で、性格評価が変わってしまうのです。
もし仮に血液型性格診断を信じている人が「こいつはB型だから性格が悪いに違いない」なんて先入観を持って相手に接したら、普通は険悪な関係になるでしょう。ならば、その“人間関係”も性格評価に大きな影響を与えているだろう可能性は充分にあります。
後は“バーナム効果”も見逃せません。これは“性格的特徴”が、多かれ少なかれ多くの人に当て嵌まるものであるにもかかわらず、自分だけに当て嵌まる特徴であるように感じてしまう心理現象をいいます。実は当たり前の事を言っているだけなのに、この効果により「血液型性格診断が当たっている」と錯覚してしまっているって要因もかなり大きいと考えられます。
4.“献血”という事例
このように人間の性格ははっきりとは目に見えないので、それを正確に捉える事が難しいのです。だから、仮に統計的に有意な数字が出たとしても、それをそのまま信じる訳にはいきません。
そもそも根本の“観測”の時点で問題があるからですね。
ただ、僕は一例だけ、「もしかしたら、血液型性格診断は正しいかもしれない」と思いかけた話があります(そのデータは確りと統計処理されている訳ではないのですが)。
それは“血液型別の献血における差”です。
僕はよく献血に行くのですが、何故か、B型の輸血用血液はあまり不足していない場合が多いのです。献血協力依頼のカンバンなどで、B型だけは不足を訴えられていなかったりするのですね(或いは不足人数が少なかったり)。それで不思議に思ってネットで検索して調べてみたら、この話はどうもそれなりに有名で、不思議に思っている人が大勢いるようなのです。
これは別に血液型性格診断が正しいかどうかを確認する為に集められたデータではありませんが、だからこそ逆に意図的にデータの改ざんが行われていないと信用できるような気もします。
この話をそのまま素直に解釈するのなら、「B型はよく献血に行く」か「B型は大怪我も病気も少なく、輸血需要が少ない」という事になります。観察しているのは明確に分かる“行動”なので、結果が主観で歪む要因も排除できます(行動主義心理学の発想と同じですね)。
もっとも、だからといってそれで「血液型性格診断は正しい」と僕が結論出したのかと言うと、そんな事はありません。
まぁ、そもそも、もしこの話が正しいとするのなら、俗説で言われているB型の性格とあまり一致しませんしね(無理に解釈すれば当て嵌められますが。例えば、B型は身の危険をあまり考えないので、献血に対しても抵抗があまりないとか。しかし、それこそそこには客観性がありません)。
この話を知った時はあまり深くは考えなかったのですが、これを書くに当たって、少しばっかり腰を据えて、「もし血液型による性格傾向に差がないのだとすれば、どうして、こんな事が起こってしまうのだろう?」と深く考えてみました。
もしかしたら、数字上のマジックでこのような事が起こっているだけかもしれませんから。
まず、気を付けなくてはいけないのは、これが“輸血用血液の不足”である点です。純粋な“献血者の数”ではありません。だから輸血用血液の‘需要’の方も考慮しなくてはなりません。需要が多ければ、“輸血用血液の不足”になりがちになるのは当たり前でしょう。そして“輸血用血液”の保存期間はあまり長くありません。
その点に注目するのなら、まずAB型が不足なりがちになる事が分かります。何故なら、AB型は人口割合が少ないからですね。人口割合が少ないと、自ずから‘供給’と‘需要’のマッチングに“ずれ”が発生する可能性が大きくなるのです。
平たく言っちゃえば「血液が欲しい時に、血液をくれる人を見つけるのが難しくなる」って事です。保存期間が長いのなら、また話が変わってきますが、だからAB型はタイミングによって不足しがちになるって事が多くなり易いはずです。
輸血用血液の需要の大きさで注目すべきなのはO型でしょう。O型は他の全ての血液型の人に対しても輸血が可能な需要が大きな血液です(最近では、緊急時にしか使われないそうですが、それでも需要は大きくなるでしょう)。なので、当然、不足しがちになります。
次はA型ですが、これはAB型とは逆に「人口割合が大きい」という点に注目をするべきかもしれません。
人口割合が大きいというのは、輸血用血液が消費される量も多いという事です。つまり減る速度も速い。だから「○○人不足しています」という数字が他の血液型よりも大きくなっても不思議ではありません。もちろんこの場合、血液が供給されるスピードも、つまり献血者の数もそれだけ多くいないとおかしい事になりますが。
最後に残ったB型には、これら要因がありませんから(これはA型も同様ですが、AB型への輸血は可能ですが)、結果として他の血液型に比べて輸血用血液が不足し難い……
……なんて、まぁ、一応は説明してみましたが、もちろん、この説明が正しいかどうかなんて分かりません。飽くまで、「血液型による性格傾向の差なんてない」という前提に立って、それが成立するような理屈を当て嵌めてみただけです。
これ“輸血用血液の不足”から考えているので分かり難くなっているだけなので、もし、献血センターが“献血者の血液型別の人口割合”を公表してくれるのなら一発で分かるのですがね。一応、軽く検索してみたのですが、そんなデータは見つけられませんでした(2015年10月現在)。そうすれば、全体の人口割合と比較して、割合が大きいか少ないかで血液型別の献血行動の差が判断できます。もちろん、“血液型別の輸血用血液の需要割合”も公表してほしいですがね(血液型によって、事故に遭い易いとかあるのかもしれない)。
これ、面白そうな話だと思いませんか? 性格診断の研究者とかテレビ番組とか雑誌とかで取り上げて調べてみて欲しいとか少し思っちゃう(もしかしたら、既に調べられているかもしれませんが)
さて。
以上、主に自然科学的視点から“結論の曖昧さ”や“問題点”について述べてみました(社会科学的なこともかなり語りましたが、それは自然科学と社会科学の境界線も実は曖昧だからです)。
どうです?
少しは物事はそんなに簡単に結論を出す訳にはいかないって事が分かってもらえたでしょうか? 何が事実かを調べて結論出すのって凄く難しいんです。特に多因子が絡まり複雑に相互作用していたり循環していたりして発生している事象については明確な結論を出し難いのですね。
では、次は、これに社会科学的視点を加えてみましょうか。すると、それにどんな事を加味して、その事象を扱わなくてはならないのかが見えてくるはずです。
5.文化を観察する
自然科学では、データを集めた上で統計処理を行い、それを仮説なりなんなりの根拠や証拠としますが、社会科学では別の手段も存在します。
それは“風習”や“流行語”などの文化です。
はっきりと数値化する事はかなり難しいでしょうが、それでもそんな風習や言葉が生まれた背景として社会があるのは事実でしょう。参考にはなるはずです。
例えば、「ゴキブリ亭主」や「粗大ごみ」などと父親を悪く言う言葉が一時流行りましたが、これは家族…… 特に夫婦間において父親が嫌われているという事が、極一般的に観られたという事を示しているはずです(調査結果では、それでも夫婦関係に関する満足度は男性で高い傾向にあり、女性の満足度は低い傾向にあるようなので、世の男性が都合の良い役割を女性に対して強いて来た結果、嫌われてしまったのではないか、という予想が立てられるのではないかと思います)。
もちろん、このような社会的事象は血液型性格診断の正しさの証拠にはなりませんが、先に挙げた“思い込み”や“バーナム効果”の相互影響などを参考情報にはなり得るはずです。そして、それがどんな機能を果たしているのか?といった点を考える場合にも、それら情報はとても役に立つはずです。
6.社会的機能を考える
自然科学で問題になるのはそれが“事実であるかどうか?”です。ですが、社会科学ではそうとばかりも限りません。社会科学では自然科学にはない“機能面”という観点が必要になってきます。
例えば、「信号が赤になったら止まる」というルールがあります。これは事実と言ってしまえば事実ですが、そんな事はわざわざ言うまでもなく、人間社会が決めている事なので当たり前でしょう。ですが、社会科学ではこれに「そのルールがどう役に立っているのか?」という観点が必要になって来るのです。
機能面から考えるのなら“「信号が赤になったら止まる」というルールのお蔭で交通事故が減っている。だから機能的に考えてこれは重要だ”って事になるでしょう。もし、それでは充分ではないと判断するのなら、別のルールを作るか修正する必要があり、研究としてはそこまで視野が広い事が望まれます(因みに、実際に交通渋滞が発生し難い、“他の信号機と連携する信号機”も開発されています)。
もっとこの考えを進めてみましょうか。
仮に“かなり疑わしい事実”や“嘘”があったとしましょう。自然科学的にはそれらは否定されるべきものですが、社会科学的に機能面に着目して捉えるのなら、そうとばかりも言えなくなります。
シャーマン等の施す呪術がまやかしだとしても、プラシーボ効果で実際に病人が癒せるのなら社会的機能としては否定できません。もっとも、それが霊感商法など害になっている場合もありますから、全てを認める訳にはいきませんが、それでもそう話が単純ではない事は分かるでしょう。
“霊”という概念もそれと同じです。自然科学的にはそれは“ない”のかもしれません。ですが、世の中では“霊”という概念によって成り立っている機能があります。葬式や、お墓等がそれに当たり、それらは地域社会の人間関係を調整する役割を果たしてきたとも言われています(もっとも、最近では既にそれはほぼ壊れているとも言われていますが)。
これは恐らくは逆の場合でも当て嵌まるのではないかと思います。つまり、「仮にそれが事実であったとしても、その事実を認める事で世の中の害になるのなら認めない」という事です(“事実を包み隠す”というのも大いに問題ですから、現実的には表現に気を遣うだとかいった対応になると思いますが)。
さて。
血液型性格診断が“正しい可能性”は一応はあります。その根拠となる原理を説明する理屈はありますし、不正確であるとはいえ正しいと裏付けるようなデータもあるにはあるからですね。少なくとも、それは完全には否定されていません(もっとも、“ない”事の証明は難しいのが普通なので、それは当たり前なのかもしれませんが)。
ですが、ならば「血液型性格診断は正しい可能性がある」という話を何の工夫もなく広めるべきなのかといえば、僕は違うと思うのです(もちろん、“正しい”と断定するなんてもっての外です)。先にも述べましたが、もし仮に血液型性格診断が正しくても、それは“漠然とした傾向”程度のものでしょう。因果関係と呼べるほどの関係性があるかどうかも分かりません。ですが、「可能性がある」というその表現の意味を、多くの人は理解しないのではないでしょうか?
そして「B型だから性格が悪いに違いない」と考えて、血液型差別を行ってしまうかもしれません。嘘か本当かは知りませんが、血液型性格診断が企業の採用試験に用いられていたなんて話も聞いた事があります(血液型の所為でもし仮に試験に落ちたら、「やってらんねぇ」って感じですよね)。
ならば、“血液型性格診断が正しい可能性”について述べる場合は、より慎重に誤解を招かないような表現をしたり、注意喚起を促すべきではないでしょうか?
例えば、「血液型別性格“傾向”は仮に正しいとしても当て嵌まらない事例も数多くある」なんて説明を常に心がけるとか。または、ちょっと話は違ってきますが、「B型的な性格は決して悪い性格とは言えない」と訴えるのも重要かもしれません(血液型性格診断に対する理解は進まないかもしれませんが、差別を少なくする事はできます)。
なんだか世間では「B型的な性格」は「悪い性格」ってなっちゃっているような気がしますが、血液型性格診断の内容を読んでみると、決して「悪い性格」って書いてある訳ではないのですよね(当たり前ですが)。
著者によって色々と差はあるようですが、大体共通してB型は“周囲に合せない”って事になっているようです。「“周囲に合せる”事が重要」って価値観を持っている人達にとっては、これは悪い性格になるのかもしれませんが、“周囲に合せない”って実は社会にとって必要な性格(役割)でもあるんですよ。
例えばですね、皆が犯罪行為をしようとしていたとします。この時に“周囲に合せる”人達だけだと、これは止まりません。ですが、“周囲に合せない”人なら、止めるよう働きかけをしてくれるかもしれません。つまり、集団全体が間違った方向に進もうとしている時、それを修正する為には“周囲に合せない”人が必要になるんです。また、“周囲に合せない”人がいるからこそ“新しい何か”が生まれたりもします。
短期間、狭い視野で捉えるのなら“周囲に合せない”って行為は社会にとって悪影響を与えているように思えてしまいますが、長期間、広い視野で捉えるのなら、とても重要な役割を果たしているんですね(すいません。自己弁護も入っています)。
この発想は恐らくは“合成の誤謬”とも関連があります。
7.“合成の誤謬”を把握しよう
“合成の誤謬”というのは本来は経済学の用語で、ミクロの視点では合理的な行動になるのに、マクロの視点ではそれが非合理的な行動になってしまうようなものをいいます。
例えば、企業が労働賃金を減らしたとします。ミクロの視点では、それは企業の利益を増やす事になりますが、マクロの視点では必ずしもそうとは限りません。何故なら、通貨は循環しているので、社会の企業の多くが労働賃金を減らせば、回り回って自らの利益を減らす事になるからです(因みに、これが繰り返されていくことを“デフレスパイル”と呼びます。この“デフレスパイル”が発生すると経済社会は委縮し続けてしまいます)。
世間で何かしら主張をしている人の内容をよく読むと、この“合成の誤謬”を理解していないのじゃないかと思えるものがあったりします。
「男が家事や育児を手伝うのは、企業にとってはマイナスだ。だから、そんな文化は定着させるべきではない」
僕はそんなような内容の記事を読んだ事があります。この主張をしている人は明らかに“合成の誤謬”を理解していません。
確かに企業の都合では、仕事だけに熱中して家庭を顧みない従業員の方が良いように思えます(色々と反論もありそうですが)。ですが、それを社会の全企業が求めると、女性の家事労働を増やす事に繋がり、それが出産を抑制する事になりかねません(日本の場合、家事労働も含めると、女性の労働時間の方がかなり長いのです)。すると、更に少子化問題が悪化する事になります。当然、それは社会全体を疲弊させてしまいます。
企業単体にとって“家事をやらない男性”は都合が良くても、それを社会全体でやるとマイナスの結果となってしまうのですね。
この“合成の誤謬”は個々人にとって観れば利益があるように思えてしまえるので、とても厄介です。だからこそ、社会全体での取り組みが重要になって来るのですが。
「“血液型性格診断は正しい”としてしまった方が、自分達にとっては都合が良いんだ。だから、社会機能的にも理に適っている」
もしかしたら、中にはそんな風に思っている人もいるかもしれませんが、だからそれは間違った考えなのです。
因みに“戦争・紛争”も恐らくは、似たような現象です。
相手と戦争して勝てさえすれば、まるで自分達にとって利益になるように思えますが、長期間、広い視野で捉えるのなら、それは不利益な結果を招く行動になってしまうのですね。歴史を観ればこれは明らかですが、先進国の多くの国々の間では戦争が劇的に減っています。戦争は互いに足を引っ張り合う愚かな行為なので、戦争を起こす国は発展がし難いのです。
“合成の誤謬”は、血液型性格診断の話からはやや逸脱しているような気もしましたが、とても重要な話なので取り上げてみました。
さて。
自然科学の領域では「事実かそうでないか」が重要で、それが全てみたいなところがあります。が、それを社会科学の領域で扱うとなると、その影響力まで考えないといけません。自然科学的には「分からない」って結論になる事でも、社会に対しては確り影響力を持ってしまいますしね(今回取り上げた、血液型性格診断もそうですが)。だからこそ、自然科学での何らかの認識を社会に吸い上げて普及したり展開したりする場合には、よく考える必要があるはずです。
もちろん、これは血液型性格診断に限らず言える事です。
「自然科学ではこんな事が言われている」なんて話をよく耳にしますが、ただそれを聞くだけじゃなく「社会においてはそれをどう扱うべきか?」って事まで考えた方が良いのじゃないかって、僕なんかは強く思ったりなんかするのです。
恐らくは、「低レベルの放射能の健康被害」なんてものもその一つだろうと思いますし、ジェンダー問題にかかわる「生物学的な性差」もその代表例でしょう。
最後に社会科学の領域と自然科学の領域にまたがる話として面白いものがあるので、紹介しておきます。
iPS細胞の功績で、山中教授がノーベル賞を受賞しましたが、実はこれって“キリスト教”が大いに関係している可能性が濃厚なのだそうです。
iPS細胞の登場以前に有望視されていたES細胞は、発生初期の胚からしか得られないので、これを赤ん坊と見做すかどうかで倫理的に問題視されていて、キリスト教では特に激しく議論されていたらしいのですが、iPS細胞の登場によってその問題が解決されたというのです。
キリスト教が大きな影響力を持つヨーロッパでは、この点がどうも高く評価されたようで、結果として、ノーベル賞は実績を残した人に対して与えられるのが普通なのに、まだ実験段階のiPS細胞の功績で、山中教授はノーベル賞の受賞に至った…… かもしれないのですね。
もちろん、それがなくても充分に受賞に適う研究だろうとは思いますが。
これはどれだけ純粋に自然科学を扱おうとしても、それを扱うのは結局は社会なので、どうしても社会科学的な事柄が関与してしまう、という事を示す好例かもしれません。
主な参考文献:
『ジェンダーの心理学ハンドブック 著者 青野 篤子 ナカニシヤ出版』
『認知や行動に性差はあるのか: 科学的研究を批判的に読み解く 著者 ポーラ・J. カプラン、 ジェレミー・B. カプラン 北大路書房』
『インセスト-生物社会的展望 著者 J.シェファー 学文社』
『日本語の科学が世界を変える 著者 松尾義之 筑摩書房』