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第七章:しばしの別れ

第七章:しばしの別れ

      *

 広い空間がある。

 天上も高く、壁の片面はガラス張りで、床はマットシートが敷き詰められている。

 シックな色調のその空間には、革張りの椅子が何脚もあり、置かれている調度品も中々の物が揃っていた。

 ガラスの向こうには、広大な平面。そこを走るのは、鋼の翼を持った鳥たちだった。

 空港。その要人用のラウンジだった。

 ラウンジには一組の集団がある。

 その殆どが同じ服装。紅白基調のブラザー、階級章所属章を着ける十名弱の集団。

 遠野たち、新東合学園の面子だった。

 インドの宣言から約半日が経過。彼らはすでに神州を発とうとしていた。

 搭乗までまだ時間があるため、集団でも会話のグループができていた。グループは四つ。一つは蒼衣を中心としたグループ。もう一つは二年D組。三つ目が遠野夫妻。そして最後、

「お前はいつも呑気だな」

「そう? 別にそんなに慌てる事でもないと思うけど」

 遠野と空、二人だけのグループだった。

「どうしてだ? 戦争になるかも知れない。ヒトが死ぬかもしれないんだぞ?」

 遠野の疑問に、空は少し逡巡した。が、ややあってから、少女は自信なさげに呟いた。

「別に、アウヴィダさんは戦争をさせたくてああ言ったんじゃないと思うんだけどなあ……」

「お前がそんな風に思えるのが俺にはよく分からない。会った事がないからか、もしくは馬鹿だからか。まあ取りあえず、悔いのないよう自分なりにやってこい。――それと、精々母さんにオモチャにされないよう気を付けるんだな」

「――ん」

 空は微笑で頷いた。

 二人の会話を少し遠目に見る一人の少女がいた。

 それは二年D組のグループの一人。波坂だった。彼女は吐息して、

「はぁ、格差社会ですわ」

 すると、そこにくねくねする少年がやってきた。

「ねえねえ波さん。現像できたぞーん!」

「縛しますわ」

「ぐへっ……! ――(ダメダメギブだって……!)」

 宿禰の念話に、波坂は〝邪眼束縛〟を行使しつつ、

「念話の余裕があるのならまだいけそうですわね」

「か、おぅおにいうお(と、遠野に言うぞ!)」

「さ、五万でよろしかったですわね?」

 さっさと異能を解除して、波坂は財布の紐を解いた。床に倒れた宿禰は掠れ声で、

「……毎度あり。今後とも御ひいきに―――」

「貴方のその胆力には感服する時がありますわ」

 眇ながらも波坂は宿禰を褒めた。と、そこに朝臣が口を挟んできた。

「全く、馬鹿の一つ覚えみたいに。ところでイサキ大佐は顧客なのかしら?」

「さ、そろそろ集合しないといけませんわね」

 と波坂は写真を手に持って逃げた。誤魔化しにジョニーも掴んで連れていく。

 長い緑の髪を二つに縛る朝臣は、彼女を見送りつつ小声で呟いた。

「総理の娘なのに随分と防御が甘いのね……。で、貴方はどう逃げるの?」

「……シャッターチャンス」

 眼下、宿禰はいつの間にか仰向けで〝本〟を開けて構えていた。宿禰の位置は朝臣の足元にあって、つまり、

「あら、悪いけど撮ったら病院送りにするわよ。それか今日の晩酌にでも付き合ってもらおうかしら」

「すいません遠慮します。ロシア女のヘルさんの飲みには流石に着いてけない。紅茶にウォッカとかもう」

 宿禰は蒼い顔をして〝本〟を消した。朝臣は冷たい瞳を湛えて、

「そ、なら私たちもそろそろ行くわよ。会長に目を着けられたら生きていけないわ」

「はーい!」

 宿禰は床に寝たまま元気に手を挙げて、朝臣の後を四つん這いで着いていった。

「……インド料理っておいしいのかしら」

「ぼ、ボケたのに」

 宿禰はウソ泣きしつつ、四つん這いを続けた。

      *

      *

「では龍也様。しばらくの間、ご奉仕ができなくなりますが、こちらは万事滞りなく致しますので何卒御身とご精神に余裕を持ち、ひいては件が順境に至る事を願っております」

 空港ラウンジ。皆が集まっている。見送りである遠野と櫛真はそれぞれに挨拶を交わしていた。櫛真の言葉に、蒼衣は頷いて返事した。

「ああ。和時の訓練の事も任せた。しばらくは空をこき使ってやる」

「はい。――それでは皆様にも幸多からん事を願っております」

 と櫛真は軽く会釈をした。その隣で、遠野は自分の母親に言葉を放っていた。

「母さんも親父も、他人に迷惑はかけないでくれよ。俺は目も当てられない」

「ダイジョーブダイジョーブ」

「何でカタコトになってんだよ母さん」

 いつも通り白い服に身を包めるエリスは、笑顔一杯に言った。

「ホワイ? ビコーズ、ザットジョーク!!」

「何を仰ってるのかサッパリですわね」

「和時君、今の何」

「外国語じゃねえのか。まあ適当に言っただけだろ。魔術以外で日本語以外を喋るところなんて見た事もないからな」

「ホワーイ!」

 エリスはしきりに騒いでいたが、空でお人形遊びをする事を覚えてすぐ少し静かになった。本当に少しだが。

「あはははぁ、――ほっぺが柔らかいねえ君はー」

「をにょにょ、かにゅときゅきんのおふぁふぁん」

 空とエリスを横に置いて、波坂は遠野を小突いた。小声で、

「何度見ても、あれが貴方の母親とは思えませんわ。まるで自由奔放な姉みたいですの」

「姉ねぇ。昔からああだから、俺にはどうにも判断できない。波坂の所はどうなんだ?」

「逆ですわね」

「父と母が、って事か?」

 ええ、と波坂は頷いた。

「ワタクシの場合、父様が馬鹿で母様が達観してますの。父様の馬鹿は貴方のお母様とベクトルがかなり違いますけど」

「そうか。一度会ってみたいもんだな。面白そうだ」

 そうでもありませんわ、と波坂は軽くげっそりしたふうに言葉を返した。が、ややあってから、遠野は真面目な面持ちでこう言った。

「程々にな。――俺の親、それと空の事も頼んだ。運が良ければ母さんに魔術の手ほどきが受けられるかも知れないぞ」

「ふふ、それは楽しみですわね。では―――」

 波坂は微笑を浮かべてから別れの言葉を告げた。遠野は無言で頷き、次いで、

「宿禰、朝臣、ジョニー。お前らも頑張れよ」

 クラスメイトに別れを告げ、遠野は最後に空に向いた。少女は、

「じゃあね。行ってくる」

 と笑んだ。遠野はくすりと笑って、少女の小さな頭をポンと叩いた。

 ラウンジから外交団の皆を見送って、残ったのは櫛真と遠野の二人だけとなった。意外とあっけない出発に、遠野は横の櫛真に言葉を送った。

「昨日の今日とはいえ、外交官が出発するっていうのに随分とあっさりなんだな。記者がカメラでも構えてるかと思ってたが」

 櫛真は彼の疑問に、特にリアクションもなく答えだけを差し出した。

「急遽決まった事ですので、情報だけは開示していますが記者団は断りしました。付け加えるならば、交友を深める訳でもありませんので」

「成程。それは殺風景にもなる訳だ」

 数度言葉を交わした二人は、示し合わせたように踵を返した。

 ラウンジを出て、飛行機の出発を見ずにそのまま空港をあとにした。

 空港前には蒼衣家が乗ってきたリムジンがあり、傍で運転手が待っていた。ふと、遠野は眉をひそめて運転手の顔を見た。

「? あの運転手は確か……」

「これは、いつぞやの少年ではありませんか。その節は空お嬢様がお世話になりました。今後とも御贔屓によろしくお願い致します」

 白髪頭の執事服を着る運転手は、柔らかな口調でそう言った。遠野は、

「あの時の老執事か。――出来る限りで良ければいくらでも」

 空と初めて出会い、そのまま自宅に保護した事があった。その際に少女を迎えに来た運転手の老執事だ。お嬢様に手を出すなと脅してきたのが今は酷く懐かしい。

「では遠野僚長、このまま学園まで送りますので車に乗って下さい」

「分かった」

 櫛真がドアを開けてくれた。運転手はそそくさと運転席に乗り込んでいっている。

 主人ではないゆえの微妙な待遇という訳か。とりあえず遠野は乗車した。

 車内は黒と赤を基調色とした造りで、窮屈さは微塵も感じられなかった、

 一応、下座に位置する座席に彼は腰掛ける。座席は六人分、ぐるっと車内をコの字状に囲んでいた。後から乗り込んだ櫛真も、下座に当たる部分に座した。

 運転手はこちら二人が乗った事を確認すると、静かなハンドル捌きでリムジンを動かし始めた。

      *

      *

 快晴の出雲。

 空いた自動車道を行くリムジンがある。

 車内には学生服の遠野と侍女服を着る櫛真、それと運転手。遠野は暇潰しに、

「一応質問させてもらうが、あの運転手は?」

「蒼衣家の執事長をなされている森田です。端的に言えば従者としての私めの間接的上司に当たります」

「間接的? 会長の従者ではあるが、蒼衣家の従者ではないという事か?」

 確認の言葉に、櫛真は首肯した。彼女は淡々と言う。

「ご明察です。厳密に言えば、龍也様個人が私めを使役しているので蒼衣家に確かな席がある訳ではない、といったところでしょう」

「難しい線引きだな」

「封建制と言えばもう少し安易に説明できます」

「そうか。だが、蒼衣家の当主はすでに会長になっていると聞いたが?」

 櫛真は一瞬執事長の方に視線を飛ばした。が、すぐ戻して、

「家の事情は、私めが述べる訳にはいきません。質問は私めの権限のある内に留めて頂けると助かります」

「分かった。以後気を付けよう」

 ややあってから、遠野はまた口を開いた。しかし、と前置きを入れてから、

「あの会長は一人でやっていけるのか?」

「一般の生活能力程度は弁えている筈です。そのために空お嬢様もおりますし」

「だがなぁ……」

 妙に心配しかできないあの二人に遠野は言葉を濁す。が、

「心配に及びません。空お嬢様にならばできるでしょう。あくまで仮定ですが」

「まあ居残りの俺たちにはどうしようもない事だな。――思ったが、あの外交メンバーはどうだったんだ?」

 問いかけに、櫛真は即答したものの、

「それは……、回答に窮してしまうのがもはや答えと言えますね……」

「大半が馬鹿だからな」

 遠野は空港のある方に眇を向けた。

      *

      *

 空港の滑走路。

 滑走路手前で中型のチャーター便は、何故か離陸準備のまま動かなくなっていた。

 何故ならば、

「お、お客様、機内でそのような破廉恥な恰好は―――」

「ワオォー!! CA美女キタコレぇえ! 全裸待機しててよかったわああ!!」

 全裸もとい海パン一丁の宿禰が、裸踊りをし始めたために離陸できずにいた。

 キャビンアテンダントが止めに入るが、宿禰は余計にテンションを高めていくだけだった。

 海パン野郎は叫び続けるが、ふと横から、

「アナタ、全裸ではないでしょう?」

「はぁ!? 何言ってんですか節度ですよ節度、せ・つ・どッ!!」

「死になさい」

 朝臣は宿禰を足蹴にした。

「お、お客様、機内での乱暴は―――」

 キャビンアテンダントは仲裁に入ろうとするが、朝臣は足蹴を続けながらも真顔で、

「ごめんなさい搭乗員の方。でもこれは違うのよ? 乱暴ではなく制裁よ!」

「そうご褒美デス!! アオウ!!」

 ケツバットを食らった宿禰はアヒンアヒン激痛に悶えながら愉しんでいた。ひとしきりケツを蹴り終えた朝臣は、達観した瞳で呟いた。

「何で来ちゃったのかしらアタシ……」

 足元に倒れ込んできた宿禰に、座席で一部始終を見ていた空は、

「真人君大丈夫なの?」

「ああ大丈夫だよ空ちゃん。もうテッカテカさッ! あぁ、あとこれ写真ね。……ガクリ」

 顔を真っ青にする宿禰は力尽きた。

「ねえホントに大丈夫なのかな真人君」

「放っておきなさいな蒼衣・空。そのうち回復しますわ」

「……ん、分かった」

 空以外に宿禰を気に留める者はいなかった。

「……けっこーハングリーですばい……」

 宿禰は力尽きたまま、チャーター便は離陸を開始した。

      *

      *

 学園へと向かうリムジン。

 遠野はふと先の空港での会話で思い出した事があった。それは、

「そういえば、会長が俺の訓練がどうのこうと言ってたな。あれはどういう意味だ」

「そのままの意味です。龍也様と戦われてから約二ヶ月が経過しましたが、それ以後、遠野僚長はまだ全力を出した戦闘を行っていません。あまつさえ、日に一度の間隔でしか神力が発動できない事は痛手でしかありません」

 故に、

「私めが直接指導致す事となりました。模擬戦の相手はまた別に用意しておりますが、具体的な方針や課題は私めが管理します」

「それはまた、何とも言えずグロッキーになりそうだ」

 肩を竦める遠野に対して、櫛真は注釈を入れた。

「鍛錬する訳ではありませんのでご心配はなく。遠野僚長の身体はすでに完成形に近いため、主に神力や異能の本格的な慣らしとお考え頂ければ結構です。この二ヶ月で何度か神力は使われているようですし」

 そこで言葉を終わらせようとした彼女だが、不意に思い出したように言を付け足した。

「訓練の話をしたついで申し訳ありませんが、一つお聞きしたい事があります。――遠野僚長の戦闘理論や体術、剣術、及びそれに類する戦闘技術は、我流なのでしょうか?」

「答えた場合、俺にどんなメリットが俺にある」

 遠野に答える気はなかった。戦闘の勝敗は生死に直結する。自分の戦闘の根本を知られるのは、たとえ味方であっても危惧すべきだからだ。

「単に私めの興味、そして訓練中に遠野僚長の動きを推し量り易くなるだけですので無理強いはしません。しかし、同じ中将の位置に立つ者、そして神州の防人となる方の事を知らないのは些か不便ですから、お聞きしました」

 成程、と頷いた遠野は、まず彼女の問いに肯定の意を示した。が、

「我流だろうが、我流とは言い切れない。俺の持つ武術は親父に教えられたものだ。おそらく遠野家に伝わる、遠野家の人間に適した体捌きや理論なんだろう。現に、副会長が俺の動きを我流か否か判断できなかったからな」

「つまり、遠野家はそれだけ自分たちの特性を知り、かつ特性を活かすに足る理論を構築していた、という事ですか?」

 確認に、しかし遠野は首を横に振った。

「逆だ。どれだけ特性を相殺できるか、だと俺は思った」

「どういう意味ですか?」

「昨日聞いた通り、俺の家は〝所有〟という呪いを得るために〝無力〟という代償をも得た。この〝無力〟はどうやら己に関する全ての事に適応されるみたいだ。故に極論を言えば遠野家の人間に達人はいない、そういう事になる。頂点に立てないんだ」

 意味が理解できなかったのか、櫛真は眉根を寄せた。捕捉するように遠野が、

「副会長は俺の学業の成績を知っているか?」

「学年主席でありますので、数値だけならば」

「なら、その中どれか一つでも俺は完璧にこなしたものはあったか?」

「筆記面、実践面において共になし。主席も総合評価がトップだっただけのようですし、他学年と比べた場合は主席ではなくなります」

「それが〝無力〟の根本だ。端的に言えば頂点に近付けても頂点に行く事が叶わない。故に遠野家は、限りなく達人に近い人間であれるよう我流の理論を一から築き上げたんだろう」

「―――――」

 櫛真は沈黙した。

「どうかしたのか?」

 話題がどんどんそれているような気がしたか、遠野は口を噤んだ櫛真に問いかけた。しばらくの無言の後、

「どうして、どうしてそこまでして貴方の家系は血と技を繋ごうとしたのでしょうか」

 櫛真は疑問した。彼の目を真っ直ぐ見据えて、

「遠野夫妻から、遠野家の人間は自らの〝所有〟に生涯を蝕まれ、死んでいった者が多かったと聞き及びました。そうならば、何故遠野家はその不運から逃れようとしなかったのでしょうか?」

 彼女の疑問は至極もっともだと遠野は思った。しかし、遠野の感想はこうだった。

「確かな答えは言えないが、別に俺はこの力が後世に繋げようと思った事なんてない。親父だってそうだろうし、先祖だって乗り気じゃなかっただろう。だが、俺はこの力が自分の一部だと思っている。この力がなければなせなかった事、分からなかった事、そして今の自分ではなくなる。俺はソッチの方が大事に思える。だから、俺は俺のままでいるだけだ」

 先祖もそんなふうに思って、それな上手く使えるよう理論を考えたんだろう。と、彼は付け足した。――彼の答えに、櫛真はくすりと笑った。肩にかかった黒髪がしなだり落ちる。

「そのような考え方をずっととできるという事が、おそらく遠野家という本質、血筋というものなのでしょう。遠野家の生き様は愚直であるといえます」

 彼の答えに満足したのか、櫛真は息をついた。

 そこで会話は終わった。

 遠野は思った。意志を繋ぐか、と。

 窓越しに外を見た。蒼穹の天が広がっている。遠野は、

「……そうか。考えてみれば確かに不思議だな。一度も途切れずに、初めての人間が俺の血の中にいるのか」

      *

      *

 ムンバイの市街は賑わっている。

 狭い道に軒先を並べている市場は、昼前を迎えて一層喧騒に包まれていた。

 が、その喧騒の原因は市場の賑わいだけではなかった。何故ならば、

『雨期だというのに、今日はやけに晴れているな。で、ドルガー、どうして通りに来たんだ? 午後には神州の外交団がこちらに来るのだろう?』

「軽食でも買おうかと思いましてねアッシュ」

『本部には厨房もあるだろうに』

 インドの継承襲名者が二人もいたからだ。湿度の高い時期にスーツを着込んだ青年ドルガーと、丸々と太った犬アッシュナグだ。

 アッシュはウルフ属の英狼エイロウ種で、高い知能を持ったただの犬だ。襲名神は商売の神ガネーシャ。インド神軍の軍師を務めている。

 つまりは、インド神軍の指揮官と参謀が一介のストリートを出歩いているのだ。昨日の晩全世界に対して宣告したばかりで、ムンバイ市内も浮き足立っているというのに。

 それでも二人に声を掛けてくる市民は沢山いる。他愛もない挨拶ばかりだが、二人は気兼ねなく言葉を返していた。その最中に、彼らは会話する。

「ははは、私はこうみえてもファストフード的なものが好きでしてね。前に局の料理長にそういった物を頼んでみたんですが、やけに高級な食材ばかり使われて食べづらかったのです。だから、街中の気取らないファストフードを食べるようにしているんです」

『インドのトップに立つのなら、もう少し自覚を持っておけ。経済大国の軍最高指揮官がしみったれた店ばかり行っていては馬鹿にされる』

 アッシュの嘆息に、ドルガーは苦笑した。

「マーリーにも以前そう怒られました。アウヴィダ様もファストフード好きだと言うと苦そうな顔をしていましたが。――それと、貿易艦隊、帰還が明日に伸びたようです」

『どういう事だ? 不具合か?』

 ドルガーは少し難しい顔をした。腕組みする彼は、

「インドネシア領からの帰投中のようですが、その間にどうやら一悶着あったそうで」

『またか。最近は特に酷いな。テロは』

「そうならばまだいい方です。問題なのは、それが経協圏の者ではなく、違う場所、それも重厚な装備を持っていた事です。報告には、軍艦を持ってきたと」

『ハぁ? 何だソレは。俺は何も聞いていないぞ』

「さっき入ってきた報告です。だから君も知らなくて当然。三分で沈めたとマーリーはしきりに自慢していましたが、補佐の方は言語からおそらくアフリカ系だろうと」

『成程。確かに難しい問題だな。アフリカに軍艦。崩れた国家のものを奪取したのか、しかしそれが新鋭艦ならば、どこかからの横流しと考えられる。早く行動せねばならないようだ』

 そうですね、とドルガーは頷いた。そして、話題を変えます、と前置きを入れて、

「神州の外交団は三時に着くそうです。竜王の事ですから今日中に会談を設けようとする筈ですから、アッシュ、会議場の設定をお願いできますか?」

『元よりこちらの担当だ。言われずともやる』

「頼もしい限りです、私の仲間は」

「自分で選んでおいて頼らないのは愚弄だ」

 失笑するドルガーは、不意に足を止めた。アッシュもそれに倣って止まる。

「さ、ここのマサラ・ドーサは絶品なんですよ。何と言ってもタレがいい。店主、二人分お願いします」

 マサラ・ドーサとは小麦粉の生地を焼き、そこにターメリックやジャガイモなどを入れたものだ。タレが付く事もある。――そして二つ頼んだ事に、アッシュは、

『おい、俺は食わんぞ。というか食えんぞ』

 店主に金を渡したドルガーは失笑。いえいえと、

「これはアウヴィダ様の分です。このまま持って帰ります」

『……揃いも揃って無作法な』

 アッシュは嘆息した。

      *

      *

 出雲平野にその存在感を露わにするのは一つの社だった。

 外垣、水路を挟んだ内垣をもってその社は世界と断絶されている。

 世界と社を繋ぐのは唯一の石橋のみ。三十メートルの長さを持つ平坦な橋をもってでしかその社には入れなかった。

 故に、何者も新東合学園に進入するには橋を通るしかない。

 まだ陽が昇り出して数刻の頃。神話機構の中将二人を乗せたリムジンが、ゆったりとした速度で学園の橋を渡っていった。

 砂利を左右に持ち中央は石を連ねられた参道。二百メートル近く続くその道を、リムジンは我が物顔で進む。

 参道に人影は一つもない。今は授業中だった。が、生き物の気配がないほど周囲を囲む雑木林は静かだった。

 車内にいる遠野は無言に目を細め、耳をそばだてていた。

 と、リムジンが参道の半ばで停車した。櫛真が、

「申し訳ありませんが、ここで下車です。訓練の無人区までは自分の足をお使い頂きたい」

 道がないからな、と遠野は納得してリムジンを降りた。一歩進んで、辺りを見る。

 空港から小一時間の移動。窮屈ではなかったが、外の解放感に彼は思わず吐息した。

「ふ―――」

 背後で車外に出る櫛真の足音と、リムジンが後退し始める音が遠野の耳に届く。

 その時だった。

 囁きに近い櫛真の声が聞こえた。それは、始まりを告げるもの。

「……貴公は英雄たる存在であらんことを」

 直後。遠野は櫛真の気配を見失った。

 反射的に感情が止まる。数瞬で緊張が身体を犯し、瞳孔が開く。腰を落として身構える余裕もなく、彼は次の行動に移らざる負えなくなった。何故ならば、

「……!」

 風を切り裂くような蹴りが、遠野の頭部目掛けて放たれた。

 直撃コースだった。

      *

      *

 空気の、一瞬の違和感が遠野を救った。

 それさえなければおそらく死んでいた。それほどの威力を込めた一撃だった。

 ……っ。

 舌打ちしたい気持ちを抑え込んで、遠野は参道の奥に入った場所にある茂みで息を潜める。

 蹴りは真後ろから、音もなくやってきた。音速で飛んできたのか、他の術でも使ったのか。とにかく身体能力が桁外れなのは確かだ。

 ……ぎりぎりで避けて、無理くり投げたが、姿を確認する前に逃げられた。また来るな。侵入者の警報がないところを見るとどうやらこれが訓練とやらなんだろう。

 櫛真の声が、おそらく訓練の開始を告げる合図だったのだろう。櫛真もそうだが、自分たちが乗ってきたリムジンも気付かぬ間に姿が見えない場所まで後退している。

 ……俺に本気を出させるってのは本当らしいな。――そうなると、蹴りは副会長じゃない。二年にもいない。ここまで実戦の殺気を持ってくるのは三年の生徒だろうか。

 あの力量ならば、夜盗組、もしくは中佐、大佐相当の大物だ。

 全く、と彼は心の中で毒づく。

 ……意地の悪いやり口だ。

 〝訓練は無人区〟ではなく、〝この訓練は無人区まで。そして自分の足で行け〟という事。とどのつまり、

「一キロ先の無人区まで刺客をかわしつつ来い、って事か」

 上等だ。

 さっさと状況を整理した彼は、すぐさま動いた。

 茂みから立ち上がったのだ。

 一秒の間もなく、背後には再び音もなく蹴りの奴が現れた。

 驚異の一発ではあるが、不意打ちでない限り、こちらが恐れる必要はない。遠野は横薙ぎの蹴りを紙一重で避けつつ、足を絡めとって雑木林の奥に投げた。

 そして、

「逃げるが勝ちだ!」

 無人区目掛けて、遠野は猛ダッシュした。


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