第五章:始まりの孤高
第五章:始まりの孤高
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薄暗い洋室に、くつくつという笑声が奏でられた。
時分は夏の夜、十一時と一分。外は雨が降っていた。
深い紅を基調とした書斎。
そこには神州の竜王と、その妹と侍女がいた。
己の椅子に腰掛ける蒼衣は、顎肘を突いてこう漏らした。
「何をジャックするかと思えば、全世界の放送基地を裏で買収しておったか。正に金を司る、唯一商売という概念を神に仕立て上げた文明だ」
彼らは、書斎に特別に設置したテレビを見ている。
映るのは老婆だ。己がインドの頂点に立つ者だと高説し、世界を相手にしてなお動揺や焦りを一切覗かせていない老婆。計り知れぬヒトだった。
白い服を纏う老婆は笑みを絶やさず、しかし淡々と言葉を紡いでいった。それは、
『事前に申しあげておきますが、これは嘘偽りのない宣言。国家として、襲名組織として、そして我々の意思表示で御座います。――何卒、ご自身の感情と知性を慮り、目指すべきモノを示して下さいませ』
すると、彼の傍で待機していた侍女が一歩近寄ってから口を開いた。櫛真は小声で、
「龍也様。念話で機構指揮所及び研究部から連絡がありました。録音録画、映像越しの魔力変化など諸々を記録し始めたそうです」
「分かった。それと奴らに告げておけ。インドの言にわずかでも研究価値のあるものがあれば即刻シミュレートしろとな」
「了承しました」
頷いた櫛真は身を引き、そして目蓋をそっと閉じた。
目を瞑る櫛真。一目では分かりづらいが、よく見れば口を小さく動かしている。念話をしているのだろう。蒼衣はそれを確かめてから、再び画面に向き直った。老婆が長い前置きを終えて本題に入ろうとしていた。
『――さて、今宵、我々がこのような催しを起こしたのには明確な理由が御座います。それは世界の存続と発展のため。我々は、今この世界の経済基盤を支える中心にあり、我々の助力があれば大抵の国が成長、繁栄を獲得できる。それはお分かり頂けるでしょう』
心の内が見えぬ表情に声色。ぬらりくらりと全てをいなすような老婆の独特の空気に、蒼衣は一種の興味を抱いた。しかしそれは、
……嫌悪。この女を表舞台に立たせる訳にはいかぬ。
直感にも近い忌避だった。
蒼衣は尻目に、櫛真のいる方とは逆の左を見る。空がいる。無防備に立つ少女は、特に集中するような素振りもなくテレビの画面を眺めているだけだった。
蒼衣にとって空の感情の機微は一つの指標だった。少女が怯えていなければ、目の前にいる人間は少なくとも悪意に満ちた者ではない。
今、空にそのような気配は感じられない。少女の表情を気に留めつつ、蒼衣は映像と音声に再度意識を傾けた。
『この度、我々はあるモノを完成、正確に言えばある手法を発見致しました。――それは魔力を用いて、物理的駆動の補助を行う事に御座います』
老婆の台詞に、蒼衣は軽く目を見開いた。矮躯の少女は小首を傾げる。
「えっと、どういう意味なの?」
「車のエンジンを燃料と魔力の二つの作用で動かす事と推察できます。神州にはない技術理論です。本当に存在するならば、の話ですが」
櫛真の的確な注釈に、蒼衣も頷いた。
……実物がなければ一方的交渉は成り立たん。衰退を辿る世界に〝助力〟をチラつかせたのだ。見せるのであろう?
竜王としてではなく、蒼衣個人の好奇心がその理論を求めていた。
彼の要求に応えるように、老婆は笑みを濃くした。告げる。
『疑わしい御方にはこれをご覧になって頂きたい』
不意に映像が切り替わった。まず見えたのは黒一面だった。国内放送とはいえ、基地間でのタイムラグがあるようだった。が、ややあってから、映像が再び流れ始めた。
それは、どこかの実験施設の映像。白い実験室を硝子越しに撮っていた。
室内には小型機用のジェットエンジンが一基固定されており、丁度点火がなされようとしている場面だった。
点火された。
豪速を生むジェット気流が室内を駆け巡る。新型エンジンの作動実験なら成功と言えた。
が、点火の直前にエンジン内部で仄かに魔力の気が発生したのを蒼衣は見逃さなかった。そして、
「成程。確かに魔力が使われているようだな」
「え、あ、――ほんとだ!」
蒼衣の言葉と同時。それに気付いたのは櫛真ではなく、空だった。
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「これに気付くとしたら空みたいな種族が最初だろうな」
遠野家のリビングに声が聞こえた。紡いだのは遠野だ。
「どういう事ですの? 普通の燃焼実験のようにしか見えませんわよ」
彼の隣でソファに腰掛ける水色の髪を垂らした少女。波坂はそう疑問したが、彼はすぐ答えを出してきた。
「よく見ろ。バーナーから魔力残滓が出てる。飛竜種の飛行方法に似た状態になってるだろ」
彼の台詞で気が付いたのか、波坂も数秒遅れで声を挙げた。
「ですが、どうやってこんな事が? 物質と霊体の共同駆動は生命体にしかないんじゃありませんの?」
「だからこその〝我々の助力〟なんだろう」
努めて平静だったが、遠野の声にはどこか怒気にも似たものが含まれていた。
「これを得られれば、どんな場所においてもその利益は倍増どころじゃない!」
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椅子に座る蒼衣は空に言った。
「世界が倍増すると言っても過言ではあるまい」
「どうして? 魔力を使っても減るものは減るよ?」
「そうだ。だが、その減る量はどうなる?」
聞き返しに、空はしばし考えるふうに腕組みする。が、口を開けそうには見えなかった。それを確認してから、櫛真が説明ついでに答えを述べた。
「おそらく、これは大きな燃費の向上と性能の飛躍があると思われます。生命体の心臓と同様です。心臓の筋力と自給は桁外れで、それを可能とするのが魔力炉という霊体機関。上位存在である魔力、その霊体としての心臓部が同時に同箇所で動いているからこそ、心臓という駆動機関はその活動を生涯続ける事が可能です。あのエンジンもエンジンの霊体に干渉して魔力駆動をさせたのでしょう。だから魔力残滓が生まれている」
つまり、と蒼衣がその言葉を繋いだ。
「あのエンジンは同規模では比較にならぬ力量を秘め、燃料の消費は半分以下。――あの技術があれば、そしてそれに汎用性があるならば、資源の総量が倍増したと捉える事が可能だ」
「な、成程。凄いんだね」
苦笑いで理解を示した空だった。が、しばらくして、テレビに映る実験映像が元の老婆のものへと戻った。
老婆の笑みは先にもまして柔らかで、しかし悪魔の笑みのようにも見えた。
『併用の実験、理論構築はすでに幾度もの成功と練磨を重ねています。消費量の差額は、五分と五分。対象物によれば更に高くなるでしょう。――この技術、あの先導者である神州にさえありませんでしょう』
明確な説明に、蒼衣は内心で叫んだ。口元を歪めて
……正しく倍増だな!
「たが、タダでくれるなどという事はないのだろう?」
彼の物言いに、老婆は正しく応えた。まるで全世界の声が聞こえているかのように、
『――我々はこの世界の現状に嘆いております。枯渇に苦しみ、空虚に喘ぎ、隣人を救えぬという葛藤。それらの手助けになればと思い、この理論を世に送り出しましょう』
老婆は告げた。
『世界の無法地帯は世界全土のおよそ四割。救おうという者には、我々は助力を惜しまない所存に御座います』
蒼衣は目を見開き、次に表情を消した。
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リビングに、怒声が鳴った。それは男の、
「この世界を潰す気かっ、こいつは!!」
「落ち着きなさいな遠野・和時! 明言に確証するなど――――」
激昂する遠野を諌めようとする波坂だが、彼は立ち上がって、
「波坂。交渉ってのはな解釈なんだぞ! 解釈の仕方によっては意味が大きく変わる。コイツはあろう事が偽善で、それも世界に向けてやりやがった!」
「――――」
波坂も返す言葉がなかった。
確かにそうだ。この老女、アウヴィダと名乗った彼女の物言いをいいように解釈すれば、
「世界の連中に〝救い〟という大義名分で無法地帯を奪い合え、その手伝いは自分たちがやると言っているんだぞ!」
遠野は明らかに動揺していた。先程までの平静を取り繕う気もなく、ただ画面の中にいる老女に吠えていた。それを波坂は無言で見るしかない。
「インドが動くだと!? 違うな。インドが動かそうとしているんだ――――」
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「この世界を、――世界そのものを動かす気なのか。この老いぼれは」
蒼衣の口調は冷ややかではあったが、怒気は含まれていなかった。
しかし、その言葉に応じる者はいなかった。空も、櫛真も、今の彼に一歩踏み込む気を起こさなかった。起こせなかったのだ。が、蒼衣は、櫛真に、
「クク、麻亜奈よ。お前はどう思う。オレの真似事ではないが、この老婆は公にして告げおったぞ」
「私めが持つ言は御座いません。ただ―――」
「ただ、何だ?」
問いかけに、侍女は即答した。穏やかな声で、はいと頷き、
「龍也様が私めに言葉をお求めになって下さった事を、今は嬉しく思えます」
「……そうか」
蒼衣の応じもまた、棘のないものだった。が、ややあってから、
「わ、わたしは?」
空が恐る恐る声を挙げた。蒼衣は少女の顔すら見ずに、
「お前の顔を見れば想像は大体着く」
「聞く気すらなかったよ!」
空はまた呑気にも駄々をこね始めたが、二人は無視。
そして、蒼衣は独り言葉を作った。老女へ向けて、
「世界を騒乱へと導く。だがその真意は何だ、インドの長よ? 貴様はあえて性悪の行いを取ったのか、それとも悪そのものなのか」
彼は焦燥もなく、椅子に座っている。
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雨脚は弱まる事なく降っていた。
人通りのない路地をゆっくりと進む男女が二人。白髪混じりの男と、灰白色の豊かな髪を持つ妙齢の美女が一人。
遠野夫妻だった。
二人は時折言葉を交わしている。が、ふとエリスが、彼に尋ねた。死霊の傘を差しつつ、
「ねぇねぇカイセ。カズトキはいい子さんかな?」
「どう思う」
彼の聞き返しに、エリスは嬉々として答えた。
「イイ子さんだよ。だってお友達がたくさんいるもん。でも、やっぱりカイセ。エリスたちの子だね。昔の君にそっくりだよ?」
「そうか……」
海瀬の声に感情は見えない。しかし、エリスはあくまで嬉々としていた。
「うんうん。あの子たちを見てると昔そっくり。――面白いのばっかが集まるんだから違いないよ」
「……エリス」
唐突に、海瀬は彼女の名前を呼んだ。彼は間を開けてから、
「お前は遠野・エリス、……いや、エリスのままで良かったのか?」
「―――――」
少女はすぐ言葉を返さなかった。だが、ただ一言だけ、
「それは君が決める事だよ」
彼女は諭すように彼に言葉を返した。
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インドの頂点に立つ女。アウヴィダの声は高らかに響いた。
『さあ全世界の諸君。世界を救うために、この世界の安寧のために我々と協力しましょう。共に歩む権利は、この世界、我々の声を聞いた全員にありますがゆえに――――』
老女の言葉は終わり、映像も元のテレビ放送に切り替えられた。
遠野家のリビングに言葉はなく、しかしテレビから流れる緊急放送のニュースの音だけが絶え間なく聞こえていた。放送局はわざと受信していたというのに、ジャックされたとご高説高らかに告げて、今の一連の映像についてアナウンサーが適当な事を喋っている。
遠野はソファから立ち上がったまま、動かず、テレビを凝視している。と、
「――遠野・和時」
波坂は彼の名を呼んだ。返事はすぐ返ってこない。
……この方がこれほどまでに激昂したところなど始めて見ましたわ。一体どういう事なんですの? それほどまでに癇に障るようなものとは思えませんでしたけど……。
確かにインドの発言は過激極まりないものだった。しかし、それだけで彼が取り乱すような器でない事は、波坂も承知している。ならば何故。彼女がそう疑問した時だった。
「波坂、お前はどう思う」
彼が言葉を作った。単調な、意味を計りかねる問いかけだったが、波坂は率直に答えた。
「この世界を震撼させるに十分なものだったとは思いますけど、政治屋の親を持つワタクシとしては荒削りな口上とも思えましたわ。真意の不明があるとはいえ、悪的な解釈の余地がある言葉をあえて発信するとは」
「そうじゃない」
遠野は首を振って否定した。そして、
「――お前は、争いになる事をどう思う。あの発言一つで世界が争いを始めるかも知れないんだぞ」
成程、そういう事ですの、と彼女は吐息混じりにそう思った。だから、
「それでもワタクシは今の言葉を変える気はありませんわ。ただ、そうですわね。一言だけ付け加えるのなら、ワタクシはこう言いますの。
どんなに悪であろうと悪の真似であろうと、真はある。追求は続けるべきですわ、と」
彼女の言葉に、遠野は動いた。こちらに目をやった。
少し鋭い視線。怒気は感じられないが、一瞬恐ろしいと思えた。波坂は苦笑して、更に告げた。なるべく落ち着いた、棘のない言葉で、
「そんなに怒らないで下さいな。蒼衣・空が見たら怖がってしまいますわよ?」
その台詞で踏ん切りがついたのか、しかし数秒をおいてから彼は吐息した。そして、
「そうか。すまない。少し気張り過ぎていたのかも知れない。――ありがとう。少し自分が取り戻せた」
すると遠野は足を動かして、廊下へと続く扉へと歩いていった。途中。
「着替えるぞ波坂。お前の服は洗面所にある。乾燥機にかけてあるから一通り渇いてる筈だ。これから学園に行くぞ」
そう言い残して、遠野は部屋を出ていった。
波坂は彼を見送ってから、軽く嘆息した。もぅ、と愚痴を言いたげな口調で、
「取り乱してますの。また誰かが傷付くのを嫌がってる感じがしますわね。それに、――ワタクシは洗うだけでいいと言いましたのに」
変なモノを洗濯機に入れてなかったかを思い出しつつ、彼女は赤い顔で洗面所に向かった。
「せっかくのお泊りが……。まぁ、ワタクシにはお似合いの待遇ですわね」
彼女は微笑し、濃紺の少女の事を思った。
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軽く姿勢を崩した蒼衣は、部屋にいる二人に告げた。
「さて、そろそろ行くとしよう」
「え? どこに? 学校?」
ああそうだ、と空の反応に蒼衣は答えた。そして、
「麻亜奈。人員の召集と研究部に映像の真偽を確かめるよう打診しておけ」
「承りました。――空お嬢様。お召し替えを致しますのでご自分のお部屋でお待ちになって頂けますか?」
「ん……」
と頷いた空は部屋を出ようとその小さな足で歩き始めた。が、内心では、
……うぅ、なんだか今日は皆からの扱いが雑だよぉ……。
背後からは二人のやり取りが聞こえた。
「麻亜奈。和時にはあの二人を連れてくるよう連絡しておけ」
「では、私めの方も本件に適任たる人材を幾人が選抜しておきます。よろしいですか?」
問題ない、と蒼衣が反応する。が、彼はふと不意に、部屋を丁度出ようとする空を呼び止めた。
「――空」
「何、お兄ちゃん」
「今の老婆。お前にはどう見えた」
一瞬、兄の問いかけの意味が分からなかった。少し唸ってみたものの、ここは素直になった方がいいと思い、空は思った事をそのまま口に出した。
「いい人じゃないの? 世界がよくなって欲しいて言ってたし、あの人ずっと誰かの事嬉しそうに見てたし」
答え方が悪かったか、蒼衣は失笑した。が、
「そうか、分かった。もう行って構わんぞ」
「? ――ん。じゃあ行くね」
空は書斎を一人後にした。
そして、空のいなくなった書斎では、椅子から立ち上がった蒼衣が、侍女に、
「麻亜奈」
「はい」
「渡航する準備を整えておけ。インドの、代表者の奴らも表面上だけでもよい。時間のある限り調べ上げろ。手が足りなければ足付きの情報を取れ」
「了承しました。では、私めは空お嬢様のご準備の手伝いを終え次第出発致します」
頭を下げ、扉の前で再度会釈した櫛真は、足早に書斎を出た。
ややあってから、蒼衣はゆったりとした歩調で窓辺に立った。
暗い外。雨粒が地を打ち鳴らし、内なる穢れを祓うかのように絶え間なく続いている。
彼はそれに耳を傾けた。身の内に染みる音だ。
頭の中は早急に対策を打つ事を考えようと焦っているが、不思議と心のざわつきは小さなものだった。
「今は傍に奴がいる事が分かっている。荷を勝手に背負っていく者も現れた。見える世界はこれほど良い方に向かっておるように思えるが、見えぬ世界はどうやらまだ焦っているようだ」
窓から蒼衣は暗い天に浮かぶ曇天を見仰いだ。
「アウヴィダ。本名アンジュ・アールス・ガンジィ。神役の無継承者でありながら二重襲名を果たしたヒト種。襲名神は、――悪導者ブッタ、そして世界維持の神ヴィシュヌ。
悟った老いぼれは、この世界で何を目指すのだろうな」
彼の黒い瞳は、遥か遠くの世界を望んでいた。