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第四章:慈しむ想い

第四章:慈しむ想い

      *

 シャワーのボタンを入れ、彼はまず全身に熱い湯を浴びた。

 髪が湯を吸い、濡れていく。浴室に湯煙が立った。

「ハぁ……」

 肺から空気を出し、遠野・和時は動きを止めた。

 彼は思考だけを動かしている。悩みを考え、推察し、予測を立てる。が、

 ……駄目だ。俺のいいようにしか考えられない。予測ができない。

 彼は久方ぶりに動揺という実感を得ていた。白いタイルが敷き詰められた壁を睨み付ける。滴り落ちる水音を耳にしながら、遠野は、

「……若い親父、知らない女、小さい母さん。そして、赤ん坊」

 少なくとも海瀬は同一人物だろう。他の三人が彼を惑わせていた。

 現在の海瀬の見た目と比べた場合、おそらくは彼が二十前半の時の写真だが、

 ……あれが母さんじゃなく、赤ん坊が俺でないのなら、まだこじつけはできる。

 遠野は両親の交友関係はおろか、親族の顔すら知らない。故にその関係を否定できない。あの車椅子に乗った白髪の女性がエリスの親族の一人で、あの幼女もエリスの親戚だとすれば話は容易にまとまる。

「だが。その写真をわざわざ家族写真の裏に挟むだろうか?」

 親しかったのなら、エリス当人も写っていていいだろう。あの人の事だ。写れるのなら勇んで入ろうとする筈だ。それに、

 ……あの女、白髪で老けているようにも見えたが相当若かった。おそらく親父とも年齢は近い。髪の色だけで考えれば母さんの親族なんだろうが、

「幼女はともかく、女の方は瞳の色が黒だった。呪術に近い魔術家系だった母さんの家なら、瞳の色くらいおかしくても納得はできる。でも、それだとあの赤ん坊は誰の子だ?」

 普通に考えれば、あれは自分だ。わずかに覗けた肌は黄色系で、髪色も黒かった。東洋の血が混ざっているのは間違いない。

 ……親父の見た目を踏まえても別に問題はない。あの二人は、母さんの、ここは姉妹と考えて、二人にせがまれて一緒に写真を撮った。遠い異国にいる二人が寂しくて母さんが写真立ての中に入れていた。結論はそれでいい筈だ!

 遠野は奥歯を噛んだ。落ち着こうと深く息を吸い、肺から呼気を出した。

「あの幼女が母さんだなんて、悪い冗談にもほどがある。――今の見た目ならあれでもおかしくないかも知れないが、俺の知ってる母さんは最初から成人した女性だった」

 頭の中で嫌な想像が渦巻く。胸糞悪い感情が彼を苛立たせていた。

 だが必死にそれらを掻き消す理屈を出して、遠野は安堵しようとしている。

 そんな事はあり得ない、と。

 自分たち家族は何か言えない闇を抱えているのではないかという不安を捨てる。

 記憶の外へと追いやろうする。だから、

「俺の親は、あの二人だ!」

 そう自分に言い聞かせた。が、ややあってから、彼は、

「いや、悩むくらいなら確かめた方がマシだな。一先ず、明日にでも鬼村教諭あたりに聞きに行ってみるか」

 今のところ遠野の知人で、両親の昔を知っているのは彼しかいない。

 遠野でも、両親に直接聞くほどの勇気はもてなかった。

      *

      *

 遠野家の二階。

 二階は全部で三つの部屋があり、内二つが書庫で、残り一つが遠野の私室となっている。

 遠野の部屋に灯りはない。が、人の気配はあった。

 波坂だ。

 彼女は彼のベッドの上で、彼の枕に顔を埋めている。遠野が新しく敷いたシーツに自分の肢体を押し付け、替え忘れていた枕に身体は縛り付けられていた。

 波坂はクンカクンカしていた。すりすりも。

 ……だ、駄目ですわ! 脳では分かっていても身体が勝手に―――、ああ快なり!!

 身体中が彼と彼の家の匂いに染まっていくのが心地良い。ついでに自分の匂いをこのベッドに残してやろうと、波坂は彼のベッドを満喫している。

 と、不意にベッド脇の棚に置いておいた携帯端末が鳴った。

 身を起こして、荒れる息を抑えつつ、

「……はぁ、はぁ、――――も、もしもし。何でしょうか?」

 通話ボタンを押し、耳に当てた波坂は着信相手の声を聞いた。それなりに年季のいった男性の、しかし甘えた口調で、

「伊沙紀たあん、パパでてゅよー。今日は家に帰らないって本当でちゅかあ? 久しぶりに帰ってきたのにパパ寂しいでちゅー」

 父だった。

「と、父様! 貴方今どこにいますの!? 周りには誰もいませんわよね!? そんな変態な喋り方、家族以外になさらないで下さいな!!」

 すると電話の向こうにいる男は、駄々をこね始めた。

「ええぇ! 伊沙紀たんと話す時はパパのチョー至福タイムなんでちゅよ? 他連合とか閣僚どもとかと会合してるときなんかしょっちゅう自分が抑えられなくなりそうなんでちゅう」

「現に今抑えられてませんわよ!!」

 叫んでみたが、電話の主は意に介さず、

「で、伊沙紀たあん? パパは家にいるけど伊沙紀たんはどこにいるのかなー? よし、パパが当てたあげよう。――一、だあい好きな彼の家。二、だあい好きな彼の自室。三、だあい好きな彼のベッドの上で匂い嗅いでムフフな時間を過ごしてた。

 さあドレでしょう?」

「な、何故全部知ってますの!?」

「伊沙紀たんの息遣いから読みまちた、テヘ」

「五十過ぎた男が〝テヘ〟とか言わないで下さいっ!!」

「ええェ、伊沙紀たんひどいィ」

「もう! ウチの親も親ですわねえ……!」

 思わず電話を握る手に力が入る。この際、父の異様な洞察力は考えないでおこう。

 だが、次に聞こえた父の声は、撫で声から平時の、真面目なものに変わっていた。

「さて、こちらの欲求の満たされたところで。――伊沙紀。話をしても構わないか?」

 唐突だったが、その真剣な声に感化され、波坂は居住まいを正した。

「え、ええ。大丈夫ですわ父様」

 うむ、と父は頷き、用件を伝えて来た。それは、

「今日の晩、正確にはこちらの時間で午後十一時にインドの本拠地から全世界に対して何らかの宣告をすると、インド連合が直々に政府に連絡をしてきた」

「それは、確かな事ですの?」

 確かめるように波坂は聞き返した。父は肯定する。

「確かな事だ。少なくとも見ておく価値はあるだろう。伊沙紀も知っている通り、最近におけるインドの動きはどこか違和感を覚える。万が一にも備え、心構えだけは持っておけ」

「当り前ですわ」

「ふ、それでこそ私の娘だ。教育を伊澄に任せたかいがある。丁度いいくらいに夢見がちで変態的で、なおかつツンツンした性格。正に理想の娘だ」

「母様に何てことを求めてますの……」

 知りたくなかった波坂家の事情だが、もはや諦めるしかないと割り切って、彼女は、

「それで父様、インドはどのようにして全世界に宣言しますの?」

「それについては何の情報もない。が、おそらくはテレビ局の衛星放送を何かしら方法でジャックするのだろう。念のため各局にテロ防衛のための部隊を裏で配置している。伊沙紀はテレビの前でそれを見ておくように」

 それと、と父は言葉を繋げた。少し緩んだ口調で、

「その想い人の子と一緒に肩を並べてみるといい。うん、女の風呂上り直後は最強だからな。伊沙紀も風呂上りのようだし、近寄って相手を誘惑してやるくらいがいいぞ」

 そう言い残して、父は電話を切った。波坂は通話の切れた端末を見下ろして、

「何故ワタクシが風呂上りだって事が分かったんですの……?」

 まあいいですわ、父様ですもの……。

 そんな諦め方でいいのか分からなかったが、余計な詮索をするものでもないと思って波坂は深く考えるのを止めた。知らない方がいい気がした。

 端末の液晶に映し出される時刻は、丁度午後十時三十分。

 波坂は細く短い息を吐いてから、立ち上がった。

 ……それよりも和時さんにこの事を報せないといけませんわね。

 確か風呂に入っている筈だ。どう声を掛けたらいいのか見当も着かないが、まず、

「服装を整えない事には始まりませんわね。下着にTシャツ一枚は流石に無謀ですもの」

とりあえず下は隠しませんと。

      *

      *

 浴場がある。

 広さは丁度十帖ほど。

 壁は味のある板張りで、檜風呂がその独特の雰囲気を出していた。

 浴場には二つの影がある。一つは湯船に浸かる小さな人影、もう一つは湯船に入らず床で腹ばいの恰好をする獣の影だった。

 檜風呂の中で顔を火照らすのは蒼衣・空で、巨獣の方は、

『申し訳ございません空お嬢様。今晩、インドの出方によれば早急に対策を取らねばならない可能性もありますゆえ、私めも勝手ながらご一緒にさせて頂きます』

 黒狼に獣化した櫛真だった。

「もー何回も聞いたから大丈夫だよ麻亜奈さん」

 空は耳にタコだと言いたげに返事する。が、ふと疑問に思ったのか、

「でも、それってお風呂なの? 床に寝てるようにしか見えないよ?」

 獣化している櫛真は熱の籠もった床にタオルを敷き、その上に腹ばいで寝ている。

『問題ありません。元々精霊である私めに肉体の洗浄は大した意味もありません。加えて北生まれゆえ熱湯に入るのも好まないので。――そうですね。強いて言うなれば、これは砂風呂やサウナの考えと似たようなものです』

「?」

 檜風呂の縁にもたれる空は小首を傾げた。少女は確認するように、尋ねる。

「つまり、わたしみたいに麻亜奈さんも長風呂が苦手なの?」

『いえ、どちらかと言えば私めの場合は苦手云々よりも相性の問題かと。身体を温めれば結果的に肉体活動が活発になりますので、生命力の強い狼にはこのくらいの温めが丁度いいという事なのです、空お嬢様』

「ふーん、そうなんだあ」

 櫛真の解説に、こくりこくりと頷く空だった。が、ややってから、

『――嘘です』

「えェっ!?」

 空は素っ頓狂な声を挙げた。

『私めの入浴時間は少々長いのに加えて冷え性も併発しております。故に現在は直に温まろうとしているだけです』

「さ、最悪だよ! 麻亜奈さんヒドイ!!」

 文句を垂れる空だが、黒狼は意に介さず。おもむろに立ち上がって、

『では、そろそろ上がりましょう空お嬢様。空お嬢様のお髪で戯れる時間がなくなってしまいます』

「普通に手入れするって言ったら!? ――あ、待って麻亜奈さん」

 湯船から上がって、空も脱衣所へと続いた。

 こけないよう気を付けつつ、いつの間にかヒト型に戻っていた櫛真の許へと急ぐ。

 さて、とヒト型の櫛真は呟き、そして、

「龍也様の次を取るのはインド。世界の貿易と財力の中心である大神話連合は、一体どのような手で、この世界という盤面を弄ぶ気でいるのでしょうか?」

 傍に来た空、その濡れた身体をタオルで丁寧に拭きつつ、彼女は心の中で思った。

 ……あの方が約束して下さった平和な世界を、あの方はいつ見せて下さるのでしょう。

 そして。

 彼を騙してきた自分は、そこに、いていいのだろうか、と。

      *

      *

 午後十時四十三分。

 遠野家。その浴室で、遠野は全裸で動けなくなっていた。

 何故ならば、

「な、ナニをしてますの遠野・和時! 前、前を隠しなさいな!」

「……ぉまえが邪眼、ってるからむり、んだよっ。ぃいかげ、学べ!」

 舌状のみで叫ぶ遠野を見て気付いたのか、波坂は黄金色の瞳を元に戻した。

「わ、分かってますわよそのくらい!」

 赤面してそっぽを向く波坂は要件を捲し立てる。

「早く出て来なさいな。父の話によればあと十分ほどでインドが世界の通信網をハッキングするようですわ」

「!? ――そうか。分かった。なら今すぐ出る。お前はリビングで待っててくれ」

 分かりましたわ、と波坂は脱衣所を出ていった。彼女は廊下で、

「……うぅ、嫌われてない事を祈るしかありませんわ。恥ずかしいですし、でも見てないからいいですわよね……」

 やはり勝手に入って要件を伝えるのは無謀だった。まさか出る寸前だったとは。

 リビングに戻った波坂は、次にどんな顔で彼と話せばいいのか考え込む。が、ふと窓の外の変化に気付いた。それは、

「あら、雨が……」

      *

      *

 ぽつ、ぽつ、と暮石に滴が落ち始め、そのうち雨脚は強くなっていった。

 雨粒たちが地面を打ち据える音が彼の耳に入る。

 海瀬は墓苑の外で、しかし野晒しに立っていた。

 髪が濡れ、頭皮が濡れ、服が濡れていく。が、彼は構う事なくそこに立っていた。

「……カイセ」

 傍のエリスが、こっちに来ないかと声を掛けた。彼女は指先から死霊の塊を出して、急ごしらえの傘にしていた。

「その死霊たちはエリスのために働いて消えたがっている」

 エリスはそれ以上雨に濡れる事に対して何も言わなかった。が、彼女は、確かめるように問いかけた。

「でも、カイセ。――リュウオウにホントに告げ口しなくてよかったの? インドの計画、今教えておけばこれからのためになる筈だよ」

「別に問題はないだろう。あの程度の事なら。自分たちで考えてどうにかできる。その時になって、協力してくれと言われば、協力する。手を貸すだけだ、――エリス」

 ふーん、とエリスは鼻を鳴らして納得してみせた。

「いいよ私は。カイセがいいって言うならそれで」

 そうは言った彼女だが、少しすると彼女は墓苑の方に目を向けた。自分たちが先までいた墓石の方向へ視線を飛ばす。そして、エリスは何気ない口調で呟いた。

「あの子なら、――ユイなら、こんな時どうするのかなあ」

 海瀬は無言のまま、雨に打たれていた。

      *

      *

「おい波坂、それはどういう事だ。何故隣に座る」

「いいじゃありませんの。ソファなんですし」

 二人の声が漏れるのは遠野家のリビング。

 二台あるテレビを目の前に持つ三人掛けのソファに、波坂と遠野はぴったりと身を寄せ合って座っていた。十一時まではもう二、三分ほどだ。

 風呂上りの遠野はTシャツにハーフパンツ。波坂もスパッツにスカート、遠野から借りたTシャツ一枚という軽装。何も知らないヒトが見れば、もは風呂上りでやいちゃついているカップルにしか見えない恰好だった。

「ご不快なら離れますわよ?」

 少し不安げな口調で問う波坂だが、遠野には何故かそれが嫌味に聞こえたらしく、

「分かった。もう好きにしろ」

 嫌々ながらに承諾した。十一時までもう間もなくだ。

 二台のテレビはすでに映像が写っている。一方は衛星放送、もう一方は国内放送だ。

 隣の波坂を無視して、遠野はすでにテレビに意識を集中させていた。それを波坂は尻目で視界に収めた。

 風呂上りの彼の身体はまだ薄らと汗を掻いており、つーっと首筋を汗が伝っていた。

 ……艶めかしいですわね。

 と思う波坂だったが、次に彼女は鼻にこそばゆい微香を感じた。そう、

 ……あ、ちょっとシャンプーの香りが――――。

 思わず顔を赤らめる波坂。しかし遠野が、彼女の異変にすぐ気が付いて、

「どうしたんだお前? 顔が赤いぞ」

「え、あ、いえ、―――――!」

 テレビから顔を移し、こちらの顔をじっと見詰めてくる彼。なまじ距離が近いため、少しこちらが顔を出せば接吻でもできそうだ。

 そんな事を考えているうちに顔がどんどん熱くっているのが分かった。

 この家に来てからもう何度目の嬉し恥ずかしい出来事かも分からなくなってきた。

「別に何でもありませんわよ。……夏だから少し暑いんですわ!」

「なら離れろよ」

「は、はい……」

 至極ごもっともですわ。

 いそいそと波坂は、彼との間を空けた。

 ……まぁ、この方がまだワタクシも楽だからいいですわ。

 今日はもう腐るほど嬉しかった。朝に真理を聞いた誰かのような気分だ。

 が、そう思っているうちに、いつの間にか十一時を迎えた。

 テレビの映像が突然切り替わった。暗転したのだ。

 それは二つの内の一つ。衛星放送ではない、国内放送局の映像が黒面に切り替わった。

 まずその事に驚く二人だったが、ややあってから、黒の画面は一つ映像を映し出し始めた。

 映るのはヒト一人。机の前にゆったりと座る、白い布を全身に纏う老女だった。

 老女は穏やかな表情と、穏やかな声で、己を話した。それも流暢な日本語で、

『――全世界の諸君。私は印度及び東南アジア経済協力圏、連合議会議長兼インド神話体系局局長を務める、アウヴィダと申します――――』

 インドのトップが、そこにいた。

 ……とうとう始まりましたわね。

 一体何を告げるのだ。そう思う横、波坂は遠野の顔を一瞬覗いた。

 彼は静かに、その老婆を殺気に満ちた瞳で見詰めていた。

 老女の笑みは柔和に、しかし全世界の者どもをはっきりと捉えていた。


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