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第三章:幸いは何処

第三章:幸いは何処

      *

 午後四時十分。

「入院していたと聞き及んでいたが、そのようにご健在でなによりだ」

 室内に声が紡がれた。

 長方形の部屋。長机と椅子が規則正しく四角形に並べられた会議室。

 言葉を放ったのは、白と黒の髪が混ざった男。

 名を遠野・海瀬かいせ。彼は新東合学園生徒会長である蒼衣に手を差し出すと、簡略に挨拶を述べていた。

「ああ。貴様もまだ生きているようで助かる。もうしばらくは働いてもらわなければならないからな」

「気ままに善処する」

 おざなりに会話を済ませると、会議室にいた面々は各々の席に着いていった。

 上座に蒼衣が座り、傍に立つ形で櫛真。以降は遠野と菅原を筆頭に役持ちや関係者が腰を掛けて中央を囲んでいる。ものの、殆どが生徒である。

 と、立ったままの櫛真が頃合いを見て口を開いた。

「さて、まずは先刻起きた侵入者の件について私奴が簡単に説明致します。――そちら、神州神話機構所属、研究局部長特別補佐の遠野・海瀬氏と遠野・エリス氏は、本日午後三時三十三分に学園の南西、市街地演習区画に不正侵入。具体的な方法と目的は省きますが、要は本校で少し遊んでみたかったとの事です」

 すると、室内から軽い溜め息が漏れた。

 皆の感想を一身に受け取った遠野は横の、実の両親に対して嘆息混じりに、

「親父、母さんの暴走を止めてくれって何度言ったら分かるんだ。神州の重要拠点に奇襲するなんて馬鹿にもほどがある。――それと、印度に行ってたのは観光目的じゃなかったのか?」

「ええ、だってぇ」

 灰白色の髪と薄い碧眼を持つ遠野の母、エリスは悪びれるふうもなく笑顔だった。

「だってもクソもない。この際、二人が職業職場経歴を俺に嘘ついてた事はなしとして、せめて節度ある行動を心がけてくれよな!」

「そんなぁ、カズトキ冷たいよー。ねぇカイセからも何とか言ってよお」

「和時。――嘘はついていない。言わず、濁していただけだ」

 分かってる、と遠野は返す。が、再三目の注意を彼は告げた。

「だからこうやって追求してないんだ。俺が言いたいのは自分の勝手で周りに迷惑を掛けるなって事だ。母さんはもうちょっと素直になってくれると助かる」

「エリスさんはカズトキには欲望的に連日連夜素直に忠実に接してるけど?」

 もういい。そう呟いて、遠野は両親を咎めるのを諦めた。

 あの遠野を屈服させたとして、周囲から小さく感嘆の声が漏れていた。

「捕捉しますが、遠野夫妻の侵入は、侵入時点で明確に夫妻であると機構は認識できておりました。しかし、これは防衛演習に最適と龍也様は考えられ、少々指揮系統に混乱を起こさせて状況をより緊迫的になされました。故に、今回の混乱の一端はこちら側にもあり、一方的に遠野夫妻を責め立てるに至らないと機構は判断しております」

「つまり両者痛み分けで、不問っちゅうこってええんか?」

 菅原の問いかけに、櫛真は首肯した。そして、

「では、次に移行します。今回、遠野夫妻がこちらにいる理由です。夫妻は以前よりインドはムンバイ、経協圏の本拠地周辺を探っており、先日その任が解かれたので報告を直にしに参って来た訳です」

「厳密に言えばインドの思惑。世界の経済として躍進を続けるインドの、今後の指針を知りたかったのでな。補佐ではあるがオリジナルの有利性は大きい。それ故の任務だ」

 蒼衣の言葉に、皆は納得し頷いた。が、

「あれ、そう言えばわたし、この前印度に行かされたけどあれはどうなの?」

ふと気付いたように空が声を挙げた。蒼衣からは、エリスの巨乳が邪魔になって少女の姿が見えないものの、問いかけには答えた。

「空を外交官として向かわせたのは、一種の陽動だ。お前のような間抜けを使いに出してくるくらいの組織ならば、こちらの計略に気付かれる恐れなどあるいまい、とな」

「そ、そうだったの? わたし騙されてたの?」

 一体どちらに騙されたのか。頭を抱えて唸り出した空を尻目に、遠野の父、海瀬が淡々とした口調で述べた。

「話が進まないようなので、手っ取り早く報告をしたい。構わないかい?」

 ああ、と蒼衣は簡素に応じた。

      *

      *

 波坂はいたたまれない感情で一杯だった。

 目の前に遠野の両親がいる事に、緊張と期待と不安が折り重なって目眩がしそうなほどであった。

 波坂が座るのは菅原の横。視界には右から遠野、海瀬、エリス、空と入る。

 ……ワタクシが気にしているせいでしょうか。やけに和時さんのお母様からの視線を感じますわ。何でしょう。さっきの戦闘で気に障るところでもありましたの?

 しばらくもじもじしていると、海瀬が立ち上がり、インドでの調査の結果を報告し始めた。彼はまず、インド経協圏を構成する連合議会と神話局、特別監査機構の成り立ちを説明する。

「既知の事柄とは思うが、前置きとして説明する。変革後のインドはすぐさま魔術師を集めた特別機関を作った。それが神話局の前身。神州における出雲研究所の立ち位置だ。魔の知識は現在においても高価値だ。当時の神話局の発言は印度に強制的な命令をしているに等しく、局長の発案した経済協力圏の思想も今の印度を支える一因となっている」

「インド神話体系局はワイらの神話機構やな。戦闘員も結構揃ってるって聞いとるしあなどれんなぁ。まあ、連合議会の方は一緒くたになった国同士がまとまるために必要なものさかい、別に神話局が作ったもんとは言い難いとこやな」

 そうだ、と海瀬は生徒会書記の菅原の言葉を肯定する。

「だが、連合議会の議長は神話局の局長だ。つまり、もはやインドは独裁政治にも近い状態にあるという事。独裁者は歴史上幾人もいるが、全てが悪ではなく、国の発展に従事した者の方が多い。インドの場合もそのようだが、本拠地のあるムンバイでは神州や世界にとってあまり喜ばしくない噂が流れていた」

 それは、と彼は言葉を繋ぐ。

「――インドが何かの準備を進めている、という噂だ。信憑性は五分五分だったが、ここ最近政府の金は兵站に対して多く流れる傾向がある。軍備を進めているとも言えるが、単に貿易艦隊の護送能力を高めたいだけにも思える」

 捕捉をするように、エリスがいきなり出てきた。

「私の死霊魔術で死人から聞いたけど、魔術的な戦闘方法も最近教わってるみたいだよー」

「それはつまり、インドが軍事的に何かを画策している。そういう事か?」

 蒼衣の問いかけに、海瀬は頷いた。が、

「もう一つ懸案がある。インドに対して、最近テロ行為が多発している。主にアフリカ大陸の部族集団のようだが、彼らの使う武器が異様に近代化しているそうだ」

「どういう事だ親父。ただのテロリストなんだろ」

「なら聞き返すが、一部族が旧式とはいえ戦闘艦を持っていておかしいと思わないのか?」

「――――」

 遠野自身もその異常に口を閉ざした。すると、空が、

「え、軍艦って神州も持ってるじゃん。どうしておかしいの?」

「蒼衣・空。部族とは村一つのような規模なのですよ。それが何故軍艦を持ってますの。奪取して一時運用するのならまだしも、弾薬や燃料はすぐ尽きる。ましてや幾度も攻めてくるのなら何隻も予備があるという事ですのよ?」

「あぁ、成程」

 蒼衣は息をつくと、

「空の無知は仕方ないとして、異常は事実だろう。どのようなルートで入手しているのか調べたいが距離がある。近々印度に潜入調査団を送るのが最善だろう。念のため生徒会、特務隊幹部はここ一週間召集の可能性を考え、警戒を怠るな」

 蒼衣の命令に遠野夫妻以外の皆が頷いた。そして、ややあってから海瀬が、

「インドで得た情報は大方このようなものだ。他多数あるが、ここで話すほどの事でもないと判断している。後日報告書にしよう」

「遠野夫妻、ご解説ありがとう御座います。いつもの口座に手当てを出しております」

「あ!」

 ふとエリスが大声を出した。

 何事だと周囲の目線が彼女に注がれるが、エリスはそれらを無視して、二つ隣にいる遠野にひょいと顔を向けた。じっと見詰めた後、彼女は、

「カイセ。カズトキを見て! この子力覚醒させてるよ!」

 海瀬に嬉々として告げた。それを受けた海瀬も、遠野を見て、

「確かに。特異の力が目覚めてるみたいだな。他に違うモノを感じるが、これは」

「神力だ。この前スサノオを襲名した」

 遠野の簡素な回答に、しかしエリスは大興奮。飛び上がって、彼に抱き付いた。

「凄いよカズトキぃ! 一人で力発動させるなんて。エライエライ! 頭なでなでしてあげるよっ! ほおら、いーこいーこ」

「ま、待って下さいな!」

 波坂は、無想でやり過ごそうとする遠野と、抱き付き暴れるエリスを止めた。

 遠野一家三人を見据えて、彼女は口を開いた。立ち上がって、

「力を目覚めさせたとは、どういう事ですの? まさかご存知でしたの?」

 遠野の力は三つある。異能〝有者ゆうしゃ〟と零落した〝狂者きょうしゃ〟。そして神力の〝大地功だいちこう〟だ。

 神力は別として、二人の口ぶりからすると彼の異能の事を知っていたとしか思えない。あれほど凄まじい力を、何故隠していたのだ。隠さず、彼にそれを教えていれば、彼は、

 ……十年も苦しまずに済んだ筈ですわ! 

 エリスを睨む。常に愉しみを得ていると言いたげな笑みに、苛立ちを覚える。

「うん。知ってたよ。どんなモノなのかもね」

「ならばどうして、彼にそれを――――」

「待て波坂!」

 遠野の制止、波坂は反射的に止まった。

「波坂、俺は知っていたぞ。自分に力がある事を。信じていなかったが。――親父、あれはこういう事だったんだろ?」

 海瀬は首肯した。なら、と遠野が問うた。

「この力は、どうやって俺に植えた?」

 彼の言い方に、波坂は眉をひそめた。

 ……力を和時さんに植えた? どういう事ですの? ワタクシたちの力は変革によって得たモノ。植えるとは一体……。

 彼女の疑問を晴らすように、エリスが問いかけに答えた。隠す素振りもなく、

「植えた訳でもないけど、カズトキの力はカミとかいう子からの贈り物なんかじゃないよ。同じものをカイセも持ってる。作用は違うけど」

「どういう事だ貴様ら。詳しく話せ」

 蒼衣が遠野三人を睨んだ。遠野に以前から興味を持っていた彼としては、非常に関心の強い発言だったのだろう。が、それはここにいる全員の関心でもあった。

      *

      *

 周囲の視線を一気に集めるエリスと海瀬。するとエリスは、海瀬に顔を向けて、

「どうする? 言う?」

「別に隠す事でもない。和時が知りたいのなら、教えるのが当然だろう。知らなければ使えない部分もある」

 そ、とエリスは呆気なく同意した。そして、海瀬が、

「和時、お前の持ってる力は、厳密に言えば異能ではない。特異だ」

「特異……、呪術や呪いの類か?」

 そうだ、と海瀬は肯定し、言葉を続けた。

「遠野家は遠い過去に禁忌を犯し、代々特異を、つまり呪いを受け継いできた。契約した精霊と交わり、本来一代限りの力を次代に残した。血が絶えるまでこの呪いは受け継がれる」

 核心を突いた言葉を、エリスが補足した。彼女の口調は大した事を言っていないように、

「そ。だからカズトキは貰ったでも植え付けたでもなく、私たちと同じ元からそういう側の人間だったって事だよ。分かったカズトキ?」

 遠野の視線はまだ海瀬を見詰めている。彼は、

「親父。この力、もしかして神役か?」

「何故そう思う?」

 海瀬の質問に、彼は即答した。

「代々とは言ったが俺に精霊の血の陰りはどこにもない。それほどまでに昔の事なら、能力ばかりが受け継がれる事はあり得ない。可能性があるとすれば、高位精霊との契り。高位精霊の多くも神役に似た独特の自然との関係性を構築している。だから、神力が任意の相手に受け継ぎが可能なのかと、そう疑問した結果の質問だ」

「成程。そんな考え方もあるのか。悪いが、分からないと答えるしかない。しかしこの呪いが神力なら、和時がそれを得ているのはおかしい」

「どうしてですの?」

 すると、波坂の疑問に蒼衣が答えた。

「貴様の子が貴様の神力を持つならば、貴様の神力はどこにいった? 子をなせば子には親の因子が多少受け継がれるがそれも機微。神役はそれほど小さくはない」

「あ……」

 納得したふうに波坂は口を閉じた。

 神力は一代ごとに宿主を変える。そもそも定着する場所が魂の中だ。魂は漁網のように入る事は出来ても抜け出す事難しい。それこそ、死んで魂が露出しなければ継承は無理なのだ。

「なら、親父はどんな事が出来るんだ? 母さんが言ってたように作用が違うんだろ?」

「それはエリスちゃんが答えちゃおっかなー。――えっとねえ、カズトキの力は全ての異能を〝所有〟する事で、カイセは創る力を〝所有〟してるんだァ」

「つまり遠野の力は、特異〝所有〟という事か。成程。幅が利きそうな呪いだな」

 蒼衣の言を、しかし海瀬が否定した。

「そうでもない。遠野家は〝所有〟と共に代償として〝無力〟も得ている。故に自己を存分に使え切れないジレンマに陥り、本来の力は出し切れないようになっている」

「え、和時君全然異能とか使えてるよ? ――あ、だから神力があるのか」

 空の気付きに、遠野も追従した。

「みたいだな。俺の神力は自己制御。薄れた力よりも、原点に近い神力の方が上回ってるから俺の〝有者〟が発動できる。つまり〝狂者〟が本当の俺が使うべき力なんだろう」

「うんうん。カズトキの力は厄介だったから使わないでほしいなぁ、って思ったんだ。カイセは私や他の子たちの協力で魔術とか初歩まで修得できたけど、カズトキの場合〝無力〟が魔力炉とか脈炉の方も完全に塞いでたから何もしてあげられなかったんだよね。変革で少しはよくなると思って黙ってたんだけど」

 エリスがそう言った瞬間、卓を叩いて屹立した者がいた。

 蒼衣だ。

 彼はエリスに殺気だった鋭い視線を送ると、

「知っていたのか、人類がどうなるかを―――」

「知っていたとしてどうなるの? カイセと私たちがいたとしても何か変わった? 私たちはもう役目がないと思ったから、世界に預けたんだよ」

「―――――」

 蒼衣の殺気は収まらない。憤怒の感情に感化されて、彼の周りに神力〝月光柱〟の光子が漂い始めている。

 一瞬で緊張した空気に陥る室内。皆が無言となるが、エリスと海瀬だけは平静だった。

「もう面倒事を自分から引き受けるのは終わったから、エリスさんたちの勝手にするんだよ。それに最初に言ったよね、君に」

 私たちの好きにする。君のためじゃないって、とエリスは告げた。しかし蒼衣は、

「世界を一度救ったなどどうでもよい。我々が、貴様らの息子がいるのは、今だという事を知れ! たわけが!」

 彼の激昂に、海瀬とエリスは反応しなかった。そして、蒼衣がこれほど感情を露わにした事に波坂らは動揺し、言葉を忘れた。

      *

      *

 どこまでも続く大海。

 太陽の下に輝く蒼い海は美しく、穏やかであった。

 場所は、印度のムンバイ。

 大海原に面するのは港、その中心部には二十階建ての建物があった。

 クラシックの流れを汲むパレス棟と、比較的モダンな空気を持つタワー棟。その建物は西洋の香りを色濃く出すホテルを改修し、別途の目的にした施設だった。

 インド神話局の総本部だった。

 ムンバイ市街の傍ではあるものの、経済協力圏の中枢として要塞化しつつあり、貿易港としての整備は世界随一と誇れるものとなっている。

 神話局本部、その最上階のフロア。海側を全面ガラス張りにされた展望室に、一人の老女がいた。

 白い布を全身で纏い、ただひっそりと眼下に広がる湾岸を眺める老女。

 そこへ、スーツを着込んだ青年が一人やってきた。浅黒い肌をした彼に、老女は、

「スカンダ。来てくれましたか」

 しわがれた、しかし落ち着きある声に、青年は言葉を返した。

「その名で呼ぶのは止めて下さいと何度も申し上げた筈ですが連合議長」

 重ねて、

「閣下。ご命令通り、手筈は全て整えました。今日にでも我が連合は動けますが、いかがしましょうか?」

「ドルガー。いいえ、この場合はスハルトと呼びましょう。貴方は、生まれて何年になるのですか?」

「今年で二十になりますが……」

「私は六十六歳です。若いですね」

「何を仰いますか。アウヴィダ様もまだ――――」

 そうです、と老女は青年の言葉を肯定した。彼女はシワの寄った顔に苦笑を浮かべて、

「私も貴方も、そして我々も、人々を動かすにはまだまだ若過ぎる。若過ぎるゆえに、あやまつのでしょう」

 ドルガー、と老女は呼ぶ。そして、

「私は、欲に塗れた女でしょう?」

 老女の意図が測れず、幾つもの名で呼ばれた青年は押し黙ってしまう。が、しばらくして、

「――それでも、アウヴィダ様のご意志は世界に響く筈です。貴女様の心内はいかなるものか私には判断できかねますが、私は、アウヴィダ様の理想が間違っていたとは思いません」

 深々と頭を下げた青年は、踵を返し展望室を後にした。

 一人残ったアウヴィダという老女は、再びムンバイの海を望んだ。しかし、

「ここに縛られて約九年。私は、何のために生きてきたのでしょうね……?」

 老いた女の声は、誰にも届かず沈んでいった。

      *

      *

 夜の住宅街。

 街灯はまばらだが、家々の明かりがあるおかげで暗いという印象はない。

 歩道を歩く二つの足音。二つの声があった。それは、少年と少女の、

「それなりの付き合いですけど、会長はあれほど感情的だったのは初めて知りましたわ」

「そう見えるか。会長は感情と打算で生きてると俺は思ってたが」

「そ、そうですの? ――まぁ、副会長のために色々とやってきたらしいですし、そういう捉え方もありますわよね」

 ああ、そうだな、と彼は頷いた。

 夜道を歩くのは遠野と波坂。二人は、午前中の約束を果たすため遠野宅に向かって歩いていた。駅から自宅まで徒歩でおよそ十五分。

 波坂にとってこれ以上のない緊張の度合いに達しつつあった。

 ……これなら以前副会長に殺されかけた時の方がマシでしたわ。死にそうですわ。

 話題に一区切りが着き、無言になりかけたのに気付き、波坂はすぐさま新しい話題を用意した。それは、

「それにしても会長の次はインドですのね。もしも紛争的な意味合いが強ければ、対処は困難になりますわ」

「インドが貿易大国だからか?」

「ええ。この十年で世界の交流は凍結寸前。関わり合いが貿易くらいしかない状態がずっと続いてますの。無理もありませんわ。国内が危ういというのに他国に関わってる暇などありませんもの。――ですが、比較的世界と関係を持ってきたのが神州とインド」

 波坂は言う。

「神州は変革や異属、神力の研究などを公表し世界の先導者となりましたが、対してインドは貿易による物流の維持、つまりは世界を支える存在ですわ。両者がぶつかった場合、普通の感性の持ち主なら間違いなくインドを助けますわ」

「インドを助けなければ自分たちは即倒れてしまう。神州を助けても得る物は少なし、か」

 ええ、と波坂は言い、なおかつ、

「インドの貿易手腕は合理的で強引、しかしブレのない方針に基づいて行われているように見えますわ。それはどの連合から見ても同様でしょう。だから、具体的な意志の見えない神州よりも、見えているインドの方が幾ばくも安心ができますし、そもそも資源が買えますわ」

 すると、遠野が腕組みをして、こちらの言動を咀嚼し始めた。しばらくして、

「お前は凄いな。意見がはっきりして分かり易い。俺も知識だけならある程度持っているが、それを解し、自分で練って活用していくのはまだまだだ。たとえ頭の中で考え付いても、それを躊躇いなく口にできる自信は今のところない」

「そ、そんな事ありませんわ。ワタクシも貴方の発言で気付かされる事の方が多いですもの。ワタクシは得意分野だから分かっているだけで、何でも理解している訳ではありませんのよ」

 戸惑う波坂に、遠野は追い打ちとも思える言葉攻めを掛けてくる。

「だが、俺より上回っている分野が一つでもある事は素直に敬服に値する。それだけでも、俺は自分が未熟者だと傲慢にならずに済む戒めになる。今までお前の補佐としてやってきたが、今度は俺が上官として、波坂を驚かせるようになりたい」

 今はそう思っている、と彼は言った。

 ……あの、和時さんそれってもう殆ど告白と受け取って構いませんの? ――構いませんのよねッ!?

 今が夜道で助かった。顔が真っ赤になっているのがばれずに済む。それに、

「……貴方には逢った時から敬服しっぱなしですわ」

 彼には聞こえないように、波坂は小声で呟いた。

 駅から歩き始めてすでに十分は経過している。そろそろこの至福の時も終わりだ。

 普段は気張って嘲笑めいた笑みしか見せないが、今は素直に口元を緩めて、彼女は言葉を作った。

「――一つ聞きますけれど。遠野・和時、貴方は人を好いた事がありまして?」

「嫌う理由がなければ、基本好意的に見ているだろうな」

「そうですわね。ワタクシも好きな人がいますわ。蒼衣・空や岩戸・スズメ、クラスの皆も良いヒトばかり。誰もがそうであって欲しいですけど、世界には反吐が出るような下衆がいるのも否定しようのない事ですわ。でも、」

 でも、

「この世界が今も保っているのは、そんな良いヒトが下衆よりも沢山いてくれるからだと、ワタクシは思っていますの。だから、貴方も、その一人になって下さいます?」

「――ああ、別に構わないが?」

 彼の首肯に、波坂は微笑んだ。

 ……ええ、貴方なら出来ると信じていますわ。こんな蛆に塗れたワタクシを受け入れて下さったんですもの。安心して、ワタクシは貴方に着いていけますわ。

 彼女は自分が一番になれる気などさらさらなかった。結果は目に見えている。今はこの一瞬のような幸福に身を委ね、仄かな希望に期待してみるだけで満足だった。

 スサノオは、母である死んだイザナミの許へと参った。父に見放され、姉に高天原を追い出されてなお、スサノオは母のいる黄泉へ繋がる葦原の国へと自ら降りていった。

逢ったのかは知らない。でも、スサノオはずっと葦原の国に居続けた。妻を持ち、子を持っても場所を変えようとはしなかった。

 空想かも知れない。だが、それは夫を失った母を慰める息子のように、いつでも傍に駆け付けられる場所にいようとしたのではないのだろうか。波坂は、そう思えてならなかった。否、そう思いたかった。

 ……たとえ傍にいてくれなくとも構いませんわ。ただ、何かあれば心配してくれる。それだけでワタクシは満足ですの。――だから、和時さん。貴方は貴方が満足できる結果を選んで下さいな。

 心の中でそう思うだけに留めて、波坂は口を開く。いつもの自分に戻れと念じながら、

「そろそろ貴方の自宅に着きますけど、ご両親はもうご帰宅なさってるんですわよね?」

「その筈なんだが、面倒な事にならなければいい」

「ふふ、貴方のご両親は奇抜ですものね」

 本来の目的が果たせるかどうか不安だが、今は彼に料理を振る舞う事に専念したい。

 ……和時さんのお母様がお作りになっていたら元も子もありませんけど。まぁ母の味が知れますし、それはそれでアリですわね。

 明かりの点いた遠野の自宅が見えてきた。

 見えてきましたわね、と言いそうになるが、よくよく考えてみれば一応自分はここに来たのは初めてという設定だった。以前ストーカーしていた際に自宅まで尾行していたのは隠さなければ。

「時間的にはそろそろですけど、どれが貴方の家ですの?」

「あそこだ。お前の家に比べれば狭いが、綺麗にはしてあるぞ」

 指差す彼の台詞に、波坂は、

「そういえば、あの時ワタクシ酔い潰れてしまって貴方を見送りできませんでしたわ。すっかり謝るのを忘れておりましたの。申し訳ありませんわ」

「謝られるような事じゃないから安心しろ」

 そうは言っても恥ずかしい。惚れた相手に酔い潰れたところを見られるなんて羞恥心がいくらあっても足りない。次の日の朝、自分がどれほど悶絶したか彼は知らないだろう。

 再び顔が赤くなるのを自覚した波坂は、必死に平静を装いつつ、遠野宅の玄関に立った。

 遠野が玄関のドアノブを掴む。そしてノブを捻って、ドアを開ける。

 直後。パンパン、とクラッカーが鳴り響き、

「イエーイ! カズトキがとうとう女を連れ込んできたよカイセ! お相手はなんとあの水色のオマセちゃんだよ!? 今日は赤飯かな!?」

「いやエリス。それならばここは段階を踏むためにまずはベッドだろう。赤飯はその後だ。最近の若者は、順番を逆にしていると聞いた事がある」

「ワオ! カズトキはオットナぁー!! 十月十日が待ちきれないよォー!」

 はしゃぎまくる両親に対して、玄関先で拳を握った遠野は吠えた。

「二人は学習能力が無いのか!? 親父も変な注釈をするな!!」

 騒ぐエリスを止める遠野。海瀬はそれを傍から傍観していた。

 が、玄関で呆然としていた波坂は海瀬と目が合ってしまった。取りあえず会釈をし、エリスと遠野を避けて近付いた。表情に乏しい彼は、しかし柔らかい口調で、

「いらっしゃい。上がってくれ。――君なら安心して和時を任せられそうだ」

「あ、いえ、そんな事は。ワタクシはただ、今日は彼にお礼をしたくて無理を言っただけですわ。――そうだ、ご夫妻は、夕餉の方は?」

「済ませた。君たちの分は和時の言う通り用意はしてないから、好きにしていい。これからまた出掛ける。今日は楽にしてくれて構わない」

 端的に言う海瀬だったが、波坂は内心で絶叫した。

 ……ワタクシと和時さんは親公認。既成事実もOK。――こ、これは! いける、いって、いいんですのよね……!?

 一番になれるかも知れない。

      *

      *

 薄明かりに照らされた洋室。

 そこは客間だった。

 食卓テーブルに二人の男が座り、配膳係の侍女一人が立っている。

 一方は少年、もう一方は中年で、侍女も少女と呼べるほどに若い。

 蒼衣と櫛真、そして現首相である波坂・孫紀まごのりだ。

 夕食もほぼ終わりを迎えた頃、首相は商売人のような作り笑顔で蒼衣に言った。

「今日、貴校が悶着している間にインド連合より連絡を頂きましてね。どうやら竜王の危惧は正しかったようですな。具体的な内容はこちらの時分で夜十一時に発表するそうですよ」

「インドか。商売の神を大々的に信奉しておった国柄だ。こと商いに関しては、貴様以上に合理的だろう。――頭がオリジナルの魔術師という事もあって軍事的魔術の活用は神州よりも進んでいる。万が一争いが起こるようならば、奴らを止めるのは骨だな」

「また、無茶をするつもりですかな?」

 表情こそ明るいが、首相の声はどこか冷ややかだった。蒼衣は鼻で笑って、

「不必要に力を振るう趣味ではないわ。まずは外交などでもするしかあるまいて」

 すると、櫛真が蒼衣の前に紅茶を差し出した。そしてそれと同じものを首相に出す。

 紅茶を一服して一息ついた蒼衣は、意外にも、

「ふむ、――だが貴様には再三苦労を掛ける。オレの政治に迷惑を被るのは貴様だからな」

 彼の殊勝な台詞に、首相は一瞬口を噤んだ。が、すぐさま、

「いえいえ、それほどでもありません。仕事ですからね。竜王の政治に振り回されるのは実にやりがいがあって面白いですし、問題はありませんよ。―――ただ」

 ただ、と首相はこれまでの笑みを消して、

「私の娘に危害を加えられた時は、少々思うところがありましたがね?」

と低い声で告げた。が、しかし、蒼衣はそこであえて嗤って、

「ハハハ、貴様がオレに力で勝てると思っておるのか? 政治屋」

「勝てるなどと思った事は一度もありませんよ。ですが、これだけは言いたいのです。竜王、蒼衣・龍也殿―――」

 波坂首相は不気味な薄笑いを浮かべて、言葉を作る。

「――私は親バカですからな」

 何をするか分かりませんよ、と付け加えた。蒼衣は苦笑して、

「ハハ、……親か。オレには解せぬ言葉だな」

 そこで会話は途切れ、後は茶をすするだけになった。

 そいて、首相はその帰り際で、客間を出る前に蒼衣に言った。商人の笑みで、

「親は弱い存在です。変え難いモノを持ったゆえの脆さがある。だが、子どもを守れるのなら親は悪魔にでも悪霊にでもなるくらいの覚悟はあるものです」

 無言が返ってくる。

 蒼衣は振り向かず、背中で首相を見送った。

 首相が消えてから、口元に浮かべた笑みのまま、蒼衣は小声で呟いた。

「親はとうの昔に死んだ。オレには家族という言葉も似合わんさ」

      *

      *

 午後九時三十分。遠野家。

 白い壁に覆われたダイニング。テーブルには空いた皿が幾枚もある。

 テーブルで向かい合って座るのは遠野と波坂。二人だけだった。

 遠野の両親は用事があると言って早々に出掛けている。二人きりの状態で波坂はせっせと夕飯を作り、一緒に食べた。

 そして食べ終わった時。二人の話題は自分たちの親の話になっていた。

「あら、用事が嘘とは本当ですの? 久しぶりに帰ってきたのですから知り合いと会ってるかもしれませんわよ」

「親父は足が悪い。あれで母さんも不必要に外を出歩く人じゃない。少なくとも、家から出て一日中帰ってこないなんて滅多にない。嘘だと思ったのはそういう事だ」

「成程。でも嘘でなければ謝らないといけませんわね?」

 その時はその時だ、という彼の返しに、波坂は失笑した。

 彼女は彼の手元を見る。どうやら全部平らげてくれたようだ。小皿を多くしたかったが、時間がなかったのでやはり品数は少なめになってしまった。

 白米に南蛮漬けのアジ。山芋と豆腐の冷奴。ひじきの煮物。オクラと海藻のサラダ。ニラの卵汁などだ。

 ……仕込む時間と量の問題で全力が出せたとは言い難い出来でしたわ。夏前だから精力増強に効果がある食材を選びましたけど、変に受け取られてない事を願うばかりですの。

 本当はちょっと受け取って欲しい感情もあるが、それだけは絶対に言えない。

「それで、波坂」

「は、はい! 何ですの?」

 裏声になってしまった恥ずかしい死にたい。

「今日は何の用で家に来たんだ? 話があるとは言っていたが」

「あ、それはァそのォ、……親の話でもと思って」

 不意に詰め寄られたせいで波坂は逃げた。が、

「今日、俺の親が学園に奇襲してきたから今の話題に入ったんだぞ」

「………………」

 彼の眇に対して波坂は押し黙った。内心では、

 ……む、無理ですわー! はぐらかすなんてできませんわぁあ!!

 もはや抵抗は無駄か。

 そう諦める事にして、いつものキャラでない事を重々承知で、波坂は意を決し彼に告げた。椅子に座ったまま顔を若干俯けて、

「と、遠野・和時。その、時分を甚だしく弁えずに言わせて頂きますが、――有難う御座いましたわ!」

 彼女は続けて言う。

「ワタクシが瀕死の際、奮闘し、ワタクシのために戦ってくれたと聞き及びましたの。あの事件以来、生徒会の仕事や学園の修復作業の指揮でろくに話せず、お礼を言いそびれて来た事もここで謝罪しますわ。――だから、今日はそのお詫びとお礼をと思って……」

 最後の方は尻すぼみになってしまった。が、彼は苦笑して、言葉を返してくれた。

「ふ、そうか。俺は結局何もお前にしてやれなかったが、そう言ってくれると素直に嬉しい。ありがとう」

「―――――」

 波坂は顔が沸騰する気持ちだった。

 ……何故貴方は毎度毎度ワタクシにお礼を。仇討ちに勇んでくれて、お礼を言いたいのはワタクシの方ですのに……。

 だが、彼の少し柔らかくもぎこちない笑みは、彼女の胸を温かくしてくれた。

 波坂は心底思った。やはり、彼と共にいる事は居心地の良いものですわ、と。

 小さく吐息する彼女は、思った事を口にした。打算も皮肉もなく、ただ感情的に、

「はぁ、――貴方はそのまま、思った通りに動くのが最上だと思いますわ」

「そうか? なりふり構わなくなったらどうするんだ?」

 彼は皮肉だと思っているのか、少しうそぶくような口調だ。が、波坂はあえて、

「その時は、ワタクシが止めて、道を正して差し上げますわ。それだけは、ワタクシにしかできない事だと今は思いますもの」

「母の愛の鞭、ってところか」

「いいえ。貴方の場合、暴れ出したら本当に危険ですから、ワタクシの縛する力で止めるんですの。母ではなく一人の人としてですわ。よくって?」

「そうなったら、そうしてくれるとありがたい」

 彼は椅子から立ち上がり、自分の食器を片付け始めた。

 キッチンへと歩いていく彼の後ろ姿を、波坂は静かに見つめる。微笑み、しかし眉尻を下げた表情で、だ。

 ……ええ。止めて見せますわ。でも再び進ませられるかは、正直自信がありませんの。だから空さんには、彼を押してあげて欲しいですわね。

 彼女のように脆くとも強い子が、彼には相応しいと。そう波坂は思っている。

 ……まぁでも、ワタクシも自ら引き下がるほど軟弱ではありませんわ。

 波坂もテーブルの食器を片付け、流しに立つ遠野の所へ運んでいった。

「助かる。そこの布巾で、テーブルを拭いておいてくれ」

「分かりましたわ」

「それと、波坂」

「何ですの? 遠野・和時」

 ダイニングに行こうとした彼女を引き留めた彼。肩越しに彼を見た波坂に、遠野は、

「メシ、美味かったぞ。今度は俺が作る。また来い」

 波坂は赤面した。

      *

      *

 日暮れ前から曇りだした天は、すでに夜。

 空気は湿り、今にも雨が降り出しそうな様子だった。

 初夏の虫の音が小さく聞こえる。

 がらんとした人気のない場所に、長方形に切りそろえられた石が、規則正しく並んでいる。石にはそれぞれ文字が刻まれていた。不気味な雰囲気が、辺りには漂っている

 そこは墓地だった。

 夜の墓地は不気味だが、空気は逆に澄んでおり、永久に眠るには良い場所だった。

 その墓地にはヒトがいた。二人のヒトだ。

 男と女。男は白髪の混じった頭で杖を持ち、女は白い服に灰白の髪色。

 海瀬とエリスだ。

 二人はある一つの墓の前で、ずっと無言でいる。が、しばらくしてから、唐突にエリスが口を開いた。静かな声で、

「カイセ。後悔、してない?」

 問いかけた。

 しかし、男は何も答えなかった。ただの無言が返ってくるだけだ。

      *

      *

 午後十時。明かりのない和室に音が漏れた。

 遠野家の一室。家に唯一の和室は、彼の両親の部屋だ。

 照明も点けずに、廊下からの光だけで押入れを探るのは、遠野だった。

 ……まったく。帰りの用意がないんなら早めに言えよな。最悪、今晩は俺のベッドで寝てもらうしかないが……。

 押入れは粗雑に物が詰め込まれ、今にも崩壊しそうだ。おかげで満足に探し物もできない。海瀬は足が悪いせいで片付けは難しく、エリスは元からする気のない人だ。

 自分に任せてくれればと遠野は思っているが、二人はこの部屋に入るのをあまり好んでいないようだ。

 ……オリジナルの魔術師は己の領域と工房を死守しようとするらしいから、そう考えれば納得できるが。電気を着けたらばれる仕組みとかどんな嫌がらせだよ。

「くそ。替えのシーツと布団はどこだ!」

 と、突っ込んだ腕の先で見付けた布を力任せに引っ張った途端。押入れの中身のバランスが崩れ、一気に雪崩となって遠野を襲った。

 舌打ちを吐き、奥歯を噛む。遠野はそのまま雪崩に飲み込まれた。

 ……くそ。波坂が風呂から上がる前にどうにかしないとな……。

 ややあってから。ガラクタに飲まれた彼は内心で嘆息しつつ、とりあえずうつ伏せになった上体からゴミを押しのけて起き上った。

 押入れの近くは酷い有様だった。これは片付けるのが骨だ。溜め息をつき、ガラクタをどけて胡坐を掻く。彼は何となく、近くにあった物を手に取った。

 写真立てだった。

 こんなもん押入れにいれるよなと、ぼやく遠野だが、廊下の明かりに写真を照らして見て彼は口元を少し緩めた。

 彼が小学校に入学した時の写真だった。海瀬はともかく、エリスが騒いで手など振ってくるものだから恥ずかしくて堪らなかったのを今でも憶えている。

「よくよく考えれば親以外の親戚は知らないな。昼の話じゃ、遠野の家を親父は捨てたって言ってたが、もしかして二人で駆け落ちでもしたのか? 由緒ある家柄なら母さんみたいな外の人間はご法度だろうし。――実際のところはどうなんだろうな」

 遠野家の事を聞いただけに、昔の事を想像し始めると止まらない。が、そうやって考え込みそうになるのを堪えて、彼は立とうと思い腰を上げた。

「それよりも片付けだ。シーツと布団は見付けれたし、軽く整頓すればまだ容量は空くだろ」

が、その時だった。崩れた時に傷んだか、手に持っていた写真立てが壊れた。

「しま……っ」

 ガラスは割れ、縁も完全に折れてしまっている。

 幸い写真は傷付いてなかったが、これは片付けるのが一層大変になりそうだ。それに、これは両親に白い目で見られるかも知れない。なまじ怒られないからいたたまれない。

 眉をしかめて困り果てる少年。

 写真を手に持ち、思案に暮れる遠野だが、しばらくしてふとある事に気が付いた。

「……? 二枚?」

 最初に見た写真の裏に、もう一枚写真がある事に彼は気が付いた。

 写真に目を落とす。と、彼は、軽く目を見開いた。

「これは……」

 その写真には、海瀬が写っていた。傍には車椅子の上で幼い子どもを胸に抱く女性、それと淡い碧眼を持った銀髪の幼女の姿があった。一見普通の写真だが、

 ……どういう事だ。何で母さんがこんなに小さいんだ。――これ、どう見ても俺が赤ん坊の時のだろ?  母さん、どう見ても子どもじゃないか……!

 自分の記憶にある母は、昔から若くて綺麗で元気で、老いとは無縁っぽい人だった。落ち着きのある父とはお似合いの夫婦だと、彼自身思っていた。だが、この写真は一体どういう事なのだ。

 写真の中の幼女が浮かべる奔放な笑みは、確かに、己の母のそれと同じだった。

      *

      *

 日本時間、午後十時三十分。

 午後七時。インドが、ムンバイ。

 場所はインド神話体系局本部。その特別会議室では、人だかりが出来ていた。

 室内には撮影機器が準備され、せわしなくヒトが出入りしている。

 人々を指揮するのは浅黒い肌にスーツを着込んだ青年。

 ドルガー・シークリーだった。

「あと三十分です。機器の最終チャックと通信回線のリンク、及び世界通信衛星の強制アクセスの用意を最終段階へ移行させて下さい。先方との調整もすでに同調へ入って構いません。処理が追いつかなければ統括室と作業を分担して下さい!」

 現場の指揮を任されている彼は、まず目の前の処理に精を尽くしていた。

 ……ふ、やはり些か疲れが溜まりますね。事務的な指揮は元来苦手なのですが、これもいい機会と思い克服すべきでしょうか。

 ドルガーはそう思いつつ手元の資料に目を落として、確認ミスがないかチャックし始める。

 すると、そこにある音がやってきた。

 床の石タイルをカツカツと軽快に踏んでいく、足音だった。それも二つ、走っているようにも聞こえる。数秒後、会議室に二つの影が現れた。

 ドルガーはおおよその見当を着けつつ、身体ごと入り口の方へ向けた。案の定、そこにいたのは幼い少女たち。

「ドルガー! プラです」

「パティも来たです」

 十代前半くらいの少女が二人。下着にも見えるほど薄い服一枚着て、活きのいい褐色肌を露出させる二人はそれぞれ色素の薄い髪をポニテとツインテで纏めていた。

 この二人、髪型さえ同じなら区別が着かないほど似ている。全く同じだった。

「どうしたのです二人とも? これからインドの一大イベントが始まりますから、私はあまり遊んであげられませんよ? ――それに、今日は貴女方にはいて貰わなくとも構わない筈ですが……」

 ドルガーの台詞に、まずポニテのプラが返事した。

「プラもパティも継承襲名者。医療の神アシュヴィンとしていた方がいいよ、って」

「アウヴィダ様が言ってたです。アウヴィダ様は正しいです。だから、プラもパティもここにいて大丈夫です。――駄目ですか?」

「まあ、迷惑をかけてくれなければ結構ですが、――宣告中は静かにして下さいね?」

 ドルガーの注文に、二人は大きく頷いた。

「うん、プラは分かった」

「パティもです」

 ドルガーは二人に向けていた微笑を、二人が自分から離れたのを見計らって解き、元の凛とした真面目なものに変えた。

 目を伏せたドルガーは、深く息をする。が、上手くできない。肺が震えていた。

 苦笑する。

 ……自分が気後れしていては皆に立つ瀬がありません。

 目蓋を開け、彼は壁に貼られた巨大な世界地図をその視界に入れた。彼は小さな声で漏らす。

「これで、――世界が動き始めるといいのですが。少なくとも、我らがアウヴィダ様に反抗する者くらいはいて欲しいものです」

 開始予定まで、残り二十分。

 そろそろ主賓をお迎えする時間。ドルガーは独り廊下を歩き、アウヴィダのいる部屋へと向かった。

 ――世界は悪に満ちている。


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