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第九章:合理と私益

第九章:合理と私益

      *

 X字状の滑走路が伸びるムンバイの空港。

 それはムンバイの中央にそびえる巨大な施設。

 チャーター便でインドの地に降り立った神州外交団は、待機していたインド神話体系局の下官に案内されて、まず海に出た。海上路を渡ってムンバイの南方にある局まで行くのだ。

 一時間以上かけて、インド門を目の前に持つ港に一行は着いた。

 すでに、体系局である旧タージマハルホテルがそびえ立っているのが分かる距離だ。

 快晴の下、下官に連れられて、神州一行は体系局の中へと入った。

 彼らを待っていたのは、一匹の犬だった。

 肥えた犬だ。丸々と太った愛嬌の欠片もないデブさ。

 神州の外交団の面子は訝りやジト目を向ける者ばかりだが、デブ犬がその豚足じみた足でてくてくと近付いてきた。そして、

『ようこそ、神州の外交官。多忙の中来てくれた事を感謝する。今回の会談における神州インド両機関の実行員、ガナデヴァダ神軍参謀を務めるラーナーヤナン・アッシュナグだ』

「ほお、犬が出迎えとは中々に面白い。エイロウ種か」

 そうだ、とアッシュは答えた。ウルフ属の英狼種。人語を介する以外はただの犬だ。

 初めて見た種族に、外交団の面子は失礼と思いつつも興味津々で見つめている。

 と、エントランスホールの向こうから、ヒトが現れた。外交団の一人、波坂もその小柄の少年に気が付いた。

 あからさまに神州神話機構の正装を身に付ける外交団を気にも留めず、黒の長髪を流す少年はスタスタとどこかへ歩いていく。が、数秒後、

 ……あら、動きが止まりましたわ。

 黒髪の少年は不意に動きを止めた。何かに気付いたように辺りを見回して、それを捜す。

 ややあってから、少年の視線は外交団へと向けられた。

「……え?」

 目が合った。途端、

「……うお!」

 少年が突然駆け出した。彼を見ていた波坂だけがそれに気付いており、まだ皆は気付いていない様子。もしかすれば、何かの策謀があるのかも知れない。妙な危機感を感じた波坂は、

「あ、あの少年が―――」

 と、言おうとするがその前に、少年の絶叫に遮られた。その叫びは、

「巨乳じゃああぁあ!!」

 魂の叫びだった。

 波坂の眼前、少年が勢いよく跳んだ。

 こちらに飛んでくる。危険を感じた彼女は、思わずしゃがみ込んでそれを回避した。

 ……しまった。後ろには和時さんのお母様が。

 これでは自分の評価が下がってしまう。と、どうにか状況を打破しようと顔を上に向けるものの、少年はすぐさま目標をエリスに変え、その胸元に飛び込もうとしていた。

 が、エリスは何事もなかったように笑顔で少年をいなした。

 杖を突く海瀬の横、大理石の床に少年は落ちる。和服に似た衣装の裾が広がっている。

「あ、あの遠野・和時の母上? 避けて大丈夫でしたの?」

 エリスは無言で楽しそうな笑みを浮かべているだけだ。こ、怖い。

「巨乳!」

 不意を突き、伏せた状態から少年が真後ろに跳んだ。狙いはエリスの巨乳のようだ。

 だがよけられる。だが負けじと、少年は叫びと共にまた跳んだ。

 幾度も繰り返す内に、少年は息を切らし始め、跳ぶのを諦めた。

「お、お主、何故その素晴らしき乳を明け渡さぬ。余を誰と思っておる」

「変態」

 エリスの屈託のない笑みに、少年は悔しそうに地団駄を踏んだ。

「インドの厄災たるヴリトラぞ! 変態とは失敬な。余は崇高な巨乳愛好家アナンタ・カーリヤだ!」

 エリスに食ってかかろうとする少年アナンタだが、ふと不意に、エリスの背後にいる波坂の事を思い出した。アナンタはその童顔に不敵な笑みを浮かべ、口元から涎を垂らした。

「ふふふ。そういえばお主もおったな巨乳一号」

 どうやら最初の突撃はやはり波坂が狙いだったようだ。どうでもいいが。

「お主の乳は良いぞ。たわわに実ったその乳房、揺れればさぞ美味いだろうのお。じゅるりじゅるりじゃのお。おほほほ」

 ヤバイですわ。これはやばいですわ。

 女性の本能がこれは危険だと悟っていた。これはもはや恥も外聞もない。

「―――っ!」

 波坂はアナンタから逃げた。

「おほほほほほー!」

 アナンタは巨乳を追いかけた。

 二人はホールの中を走り回った。小さな茶番に外交団とアッシュは呆れ気味だが、蒼衣は大して気にもせず、アッシュに言葉をかけた。

「早速で悪いが、あまり時間がない。こちらとしては今晩にでも話を持ちたい」

「ああ。こちらもそうだろうと踏んで用意をしている。だが、まずは長旅の疲れを癒してくれたまえ。客室をそれぞれ用意している。――それと、あれは外交問題にしないで頂きたい」

「無論だ。カードにもならん」

 二人の会話の最中、横から空が入ってきた。空は笑みで、

「久しぶり犬さん」

『はぁ……。もう変えろとは言わないが俺の名前はラーナーヤナン・アッシュナグだ。――竜王、貴公の妹は一体なんなのだ?』

「ハハ、見ていて飽きぬであろう」

 アッシュは首をもたげ、軽く落胆する仕草を見せた。そして、

『隣の家の芝は青いというが、この場合は青く見えんな』

 すると、アッシュのぼやきに同じく背の低いジョニーが反応した。ヌルヌルと動くジョニーは、隣にいた朝臣に、

『我が肉体の朋友、朝臣君。隣の芝は青いとはどういう意味なのかね?』

「私に聞かれても知らないわよ。日本語は苦手なの」

『ふむ。ならば宿禰君はどうかね?』

「にょ。どれどれ」

 ジョニーの問いかけに、宿禰は〝本〟を出して応じた。ややあってから、

「――隣の芝は青いは、ええと、自分の芝のアレより、他人の芝のアレの方が濃くて逞しく見える。ほんとは同じなのに他人のブツの方がよく見えるって諺だねん」

『成程。東洋の神秘だな』

「本当にその意味であったるのかしら?」

 眇を向けた朝臣。宿禰はそっぽを向いて口笛を吹き始めた。

『では下官の者が部屋まで案内する。会談については九時頃と見ておいてくれればいい』

「結構だろう。こちらも色々と準備がある」

 アッシュの声に、神州一行は了解の意を示した。

      *

      *

 ふぅ、と朝臣はベッドに倒れ込んだ。

 インド体系局にある来賓用客室。

 その個屋で、朝臣はやっとの思いで気を抜ける瞬間を感受していた。

 暖かい白色の壁にダブルベッド、テーブル二脚にソファ。窓も随分と広く、アラビア海を一望できる。豪華な内装だ。

 そんな場所では大して落ち着けもできないが、独りになれたからどうでもいい。

 ベッドに倒れたせいで整えた髪がたわむが気にしない。また後で直せばいい。今は疲れているから休みたい。朝臣は細く長い吐息をついた。

「疲れた。――ここって前はホテルだったのよね……」

 タージマハルホテル。セレブや政治家も愛用したホテルというのだから凄い。

 近代西洋の香りを色濃く持つ造り。ホテル時代と構造自体は変わっていないらしく、数フロアを改造しているに過ぎない。だから、こうやって客人用にホテルの施設をそのまま流用しているのだろう。

 ……まぁ見た感じの推測だけど。でも、ほんと国って凄いわよね。出雲もそうだけど、都市一つを強引に改造していくなんて。

 出雲は十年前の変革から数ヶ月で、すでに接収改造計画が出ていた。学園も元は軍事拠点として考えられていたが、継承者達が子供ばかりだと分かってすぐ教育施設の色を取り込んだ。その結果、出雲平野の半分が国の管理下に置かれる事になり、〝新日本・大八島諸島国〟と神州は国の自称を自ら変えた。

 このムンバイもそうだ。インドの大都市ムンバイ。昔は英国領としての名残でボンベイと呼ばれていたが、今は元々の名に戻り、インドを含めた東南アジアというヒンドゥー文化の統帥となっている。

「……名前、かぁ」

 自分はロシアの生まれだ。何年か前までは実際に住んでいた。

 ロシア。――厳密に言えば旧ロシア連邦・現スラブ機構。七年前に東シベリアと半分の国民が棄民され、朝臣の家族も二年ほど無法地帯で過ごしていた。独立自治を民衆で築いていたので、怖がるのは食料とテロだけだったが、大人達が毎晩怒号を交わして話し合っているのを聞くのは居た堪れなかった。子供の自分が邪魔である事は、初めから分かっていた。

 放棄されてから二年目の夏、北海道の上にある樺太が神州に帰属する事になった。その際、神州は樺太近辺に住む数百万人を樺太住民として受け入れると言い、運良く朝臣の家族はその住民に選ばれた。

 自分達はもう大丈夫なんだ。大きな組織に守られるという安心感がこれほど大切だと知ったのは、後にも先にもあの時だけだった。が、

「私の名前は、本当の名前じゃない」

 帰化する時、ロシア姓は神州には合わないから発音に近い姓に変えた。仕方ない事、些末と思えばそれだけだが、今まで使ってきた名前が急に変わると思うと、少し嫌だった。

 神州に来て文化や慣習の違いにも驚いたし、言葉を覚えるのも大変だった。新東合の分校である北海道分校ではまだ故郷の言葉を使う人もいたが、学園に転属してからは家族への便りでしか故郷の言葉は使わなくなった。

 たまに、どうしてこんなに大変なんだろうと思う時があって、とても憂鬱になる。本当に、

「何もかも変わって嫌だわ」

 世界が変わって、社会が変わって、自分すらも変わって。

 もう、変わるのは嫌だ。ずっと、変わらなければいいのに。

 朝臣は自分の髪を見る。淡い緑色、変革の日に変わった。元は綺麗なブロンドだった。この髪色も今は気に入っているが、やはり憂鬱になると自分は昔の方が良かったように思えてしまう。こんな弱さがあるのを自覚しているから、いつも気張って無理をして、本当は違うのに勘違いされてしまう。

 ……私は、弱いのに。

 どうして、どうして誰も気付いてくれないのかしら。

 朝臣はうつ伏せになって毛布に顔を埋めた。そして、

「……ん」

 喉から小さな嗚咽が漏れる。静かな部屋に、少女の啜り泣く音だけが沈んでいく。もっと強さが欲しい。そう思ってならない。

 しばらくの間、少女はベッドの上で泣いていた。

 ふと不意に部屋の扉がノックされた。急いだ雰囲気のない、ゆったりとした叩き方。

「――はい」

 目尻に溜まった涙を手で拭い、朝臣は小走りで扉に寄った。そして、

「誰?」

「俺だよーん」

 宿禰だった。無視しようかしら。

「おーい、ヘルさーん?」

「――そうだけど、どうしたの?」

 うん、と扉の向こうにいる宿禰は要件を告げた。

「あと三十分したら皆で会議するって。場所は、ええと」

「誰かの部屋?」

「あ、そーそー。波さんの部屋。夕食前に認識確認するらしいよお」

「分かったわ。用はそれだけ?」

 問いかけに、逡巡するような間が返ってきた。何かしらと朝臣は訝るが、ややあってから、

「ヘルさん。晩飯に一緒に食べる?」

 予想外の言葉に、朝臣は軽く目を見開けた。

 どうして。と、彼女は問うた。すると彼は、

「うーん、何となく。朝に晩酌するかって言われたけど断ったし、可愛いヘルさんと食事くらいは俺の度量でできるから。どうかなあ、って」

 至極馬鹿な理論に、朝臣は嘆息すると共に失笑した。

「イヤね。インドに来てまで何でアナタと夕食を食べないといけないのよ」

「なら、皆で食う?」

「ええ、そうね。それならいいわ」

 よっしゃあ、と扉の向こうから宿禰が歓喜する声が聞こえた。それにまた朝臣は笑む。

「で、会議は三十分後でいいのよね?」

「ん? ああ、さっき聞いたからそうだよ」

 宿禰の言葉に、ぴくり、と朝臣の眉が動いた。少女は確かめるように、

「さっき、って、いつかしら」

「案内されてる時」

「それ、あたしもいた筈だけどどうして聞いてないのかしら」

「ああ、波さんにこそって言われたから。あんまり勘繰られたくないから貴方はヘルさんに伝えてって」

「三十分後にすると?」

 うん、と宿禰は頷いた。朝臣は恐る恐る部屋の時計を見た。部屋に入ってから、すでに二十分以上が経過している。そこから案内される時間を甘味した場合。

「……貴方ってヒトは」

「にょ?」

 宿禰はまだこの事態に気づいていない様子だった。

「もう三十分経つのよ!? ちょと待ってなさい。すぐ準備するから!」

「別に口約束だからいんじゃ」

「竜王の会長もいたら私たち殺されるわ!」

「別にいいじゃん」

「よくないわよ!!」

 さっきまでの笑みはいつの間にか引っ込んで、朝臣は慌てて化粧台の所に走った。

      *

      *

 新東合学園。

 午後三時を過ぎた頃、学生はまだ授業中の筈だが、三分の一ほどが更地に変わった無人区には、五人の生徒が午後のお茶を楽しんでいた。

 遠野たちだ。

 遠野を始め、櫛真、菅原、纒向、草薙がいる。

 朝から先程まで、彼らは遠野の訓練に付き合っていた。そして、その訓練ついでに、彼らは無人区の改修工事のために建物を片端から壊し回った。

 綺麗に更地となった場所にテーブルをおいて、紅茶や番茶をすする五人。遠野は軽い頭痛を堪えながらも息を吐いた。

「なんや、もう弱音吐くんか?」

「みちみちいぢわる、かずかずいのー、使ってるのにずっと」

「どうせ休憩を終えたらまだやるんだろう? なら維持する必要がある。だが、低出力とはいえキツイ」

「っか、なせけねえ」

 草薙の言葉に、遠野は鋭い視線を返す。が、すぐ止めた。

 静かに紅茶を楽しんでいた櫛真がコーサーをテーブルに置いたからだ。彼女は、

「歓談に申し訳ありませんが、そろそろ確認をしておきたいと思います」

「かくにん、かくにんはあおあお?」

 そうです、と櫛真は首肯した。

「今回龍也様が印度へいち早く駆け付ける事を決めたのには訳があります。そして、その理由は我々側近の地位にある者たちが共有すべき事。故に、事前に龍也様の了承を頂いて、この場で話させて頂きます」

 そう言うと、櫛真は傍で待機させていた実働部の隊員を呼んだ。隊員は小脇にスケッチブックを抱えており、それを櫛真に手渡す。櫛真はスケッチブックを開いてこちらに見せた。

「言葉だけではつまらないと思いましたので、空いた時間で作った図画をもって説明します」

 彼女以外の四人はそれを見て唖然とした。

 小学生みたいな画力だった。クレオンで殴り書きしたような絵に皆開いた口が塞がらない。決して口には出さない。が、菅原だけは耐えられないように口元をヒクつかせていた。

「龍也様は争いを減らそうとしています。そのために全世界と条約を結び、結果的にがんじがらめにするという計画を、あの方はお持ちになっております」

 絵は黒髪の男が一人大の字で立っている構図だ。小学生なら〝お父さん大好き〟とでも言って、父の日に渡すのだろう。想像する度に遠野も我慢が堪えられなくなりそうだ。

 櫛真は言葉を繋いで、絵を一枚捲った。先程の絵に、逆三角形の緑が出てきた。

「龍也様はその観点から、以前よりインドが己の次に動くだろうと予見しておりました。故に遠野夫妻を派遣し、自分の計画が完遂できた後の準備を整えてきました。今回早く動けたのも波坂総理と策謀を巡らせていたからです」

「そんならなんか、会長はもうどうやってインドを言いくるめるか決めとるんか?」

「その説明を、これからします。この考えを強要する気はありませんが、龍也様の方針である事を通達します。といっても、命令権はこちらにありますが」

 成程、と菅原は得心したふうな声を挙げた。頭の後ろで手を組み、

「ほんま偉いやっちゃのお会長は、現実主義者の鏡やわ」

 すると、遠野が口を開いた。目を細めた櫛真を制止するように、

「違うな。書記は、会長が何故クーデターを起こしたか、知っているな?」

「ん、まあそれなりにな」

「それならもう分かっているんだろう?」

 遠野の言葉に、菅原は薄笑いを返すだけだった。が、

「さなさなわかんない、わかんないよー」

「中佐、端的に言えば会長は理想主義者だ。だから、己の理想を果たすためにどこまでも現実論で行動する。それが理想主義の極致だ。会長を知る上でもヒトを知る上でも、相手の思想を把握するのは重要な事だ」

 つまり、と彼は言葉を続けた。櫛真に視線を移して、

「その会長がインドに目を着けたという事は、そこには現実的に価値があり、理想のために利用できる。そうなんだろう?」

「概ねその通りです。まだ完全にインドを捩じ伏せる切り札はありませんが、龍也様は神州に覇権を握らせるため、その前段階としてインドを欲しております。――その理由は、神州という最悪の立地から逃れるために地政学的に最も利用できる場所を確保したいから」

 そして、

「インドという金の入った箱を我が物としたいからです」

「けったいな話やのお。平和したい奴の考えとは思えんわ」

「だが考えは妥当だ。神州が覇権を取るにはまだ数十年以上のスパンが必要だ。だが、それを実現するにも基盤や関係性を利用する他ない。神州は研究、インドは経済、中東は資源、聖書は技術。どれも捨て難いが、いち早く世界を掌握できるのは経済だ。だからこそインドも行動を開始した。経済の波はどこまでも続いていくからな」

「っけ、――度量の小さい話だな」

「おかねがあったらなんでもできるからなら、ほかのヒトたちもおんなじだよね。ね?」

 はい、と櫛真が肯定する。

「各襲名組織も同様の考えはもっているでしょう。しかし、アプローチの準備をまだ取っていなかった、もしくは時期尚早を見たか。少なくとも初動を即決した龍也様が、最初の交渉権を掴んでいます」

「会長の手腕でどこまで腹黒商人のインドを組み伏せられるか不明瞭だが、インドのアウヴィダも自領域の地方支援は常に行っている。目指している世界は違ったとしても、分かり合える点はあるだろう」

 遠野の言葉に応じるように櫛真はスケッチブックを更に一枚捲った。中央に先程から登場している男、青髪の女の子、他は棒人間みたいな線が数体書かれている。

「交渉の要点はインド側の宣言撤回と修正、そして神州への優先的〝魔力併用理論〟の供与。遠野僚長の言う通りインド側の魂胆が未だ不明ですが、龍也様と空お嬢様、そして外交団の者たちならば良い結果を上げてくれるでしょう」

 最後の一枚と思われる絵を、櫛真は出した。

 地球と思しき球体の上に蒼衣と思しき絵が立っていた。

「インドを汲みした後、龍也様は世界を徐々にその輪の中に取り込んでいくでしょう。そのためにも、貴殿らにも尽力していただきたい。宜しいでしょうか?」

 遠野を含めた四人はそれぞれ肯定の意を示した。が、遠野は内心で、

 ……どう見ても世界平和を叶えた絵には見えんな。

 覇王を讃える絵にしか見えなかった。

      *

      *

 インド神話体系局の一室。

 波坂に用意された客室は、白と黒を基調した現代的な部屋だった。

 神州の外交団が一同に会したそこで、海瀬は静かに座っていた。横にはエリスが空を抱いて座っている。

 向かいには蒼衣、左には波坂、田中、エリス、自分と続いている。

「す、すみませんでした! 朝臣、宿禰、両名遅れました。お詫び申し上げます!」

 部屋の扉を勢いよく開けて朝臣が入ってきた。手には首根っこを掴んだ宿禰がある。

 蒼衣の前に立って、朝臣は頭を深く下げた。

「申し訳ありませんでした!」

「別に構わん。さっさと座るがいい」

 蒼衣の言葉に朝臣は有無を言わず従った。

 海瀬は左に来た宿禰を見る。目を回していた。おそらく朝臣に引っ張られてきた間に気絶したのだろう。朝臣も、蒼衣の恐怖に怯えていたのか目元が赤くなっている。

「ふん。では、そろそろ確認作業を行おうか。――空」

 蒼衣の言葉に促され、エリスの膝にいる空は手に持っていた紙を掲げた。そして、

「ん。――インドとの交渉における重要点。一、交渉時にわきまえておく事。インドの代表者たちの経歴、インドの貿易手法から考えたインドの方針」

「何故蒼衣・空にやらせましたの?」

「もう少し面白くなると思ったのだがな。まあよい。――交渉は相手を知らなければ意味がない。インドの代表者たち、ざっと九名といったところか。スライム、説明しろ」

『分かり申した竜王様。我が肉体が記憶した全てをここでぶちまけましょう!』

 何故あのスライムは一人称を〝我が肉体〟としているのだろうか。

 ジョニーは資料を持てないため、事前に暗記した事を喋り始めた。

『トップに立つのはアンジュ・アールス・ガンジィ。通称アウヴィダ。全世界に対して宣告を行ったあの老女殿だな。家系は魔術師であるが若い頃から旅商人として生き、地方村を転々としていたようだ。

 次にスハルト・ラシング。通称ドルガー・シークリー。魔人族の二十歳で、神軍ガナデヴァダの最高指揮官、軍神スカンダを襲名する青年だ。彼もアウヴィダ殿と共に商人をしていたようだ」

代表のリーダー格二人を述べた後、スライムは次の人物を紹介した。

「次に代表格なのは、マーリー・カウ・クリシナ。カーリー(黒ススの)・マーリーと呼ばれるサラマンダー系で、襲名神は火神アグニと至高美カーリーだ。貿易艦隊〝聖典リグ・ヴェーダ〟とアーディティア二等神軍の団長を務めている。

 アナーヒア・バン・ハンサー。魚人族、最高の女神であるサラスバティーを襲名している」

最後にジョニーはまとめて紹介した。

「おそらく交渉役に出る可能性があるのはこの四人だろう。他はオロチであるアナンタ・カーリア。英狼のラーナーヤナン。ミノタウロスのホール・サイ・ナブラカル。淫魔のパティとプラだ」

「付け加えるのなら、貿易艦隊の方は明日帰還するそうですわよ」

「交渉に出てくるのは三人に絞られたな」

 波坂の情報に蒼衣はそう反応した。そして、

「貿易は艦隊で一回多量の交渉を主としている。東南アジアへの支援も、各組織からの反発を支援中止の話で鎮めているようだしな。使えるもの、使い方を知っているものは何でもするというのが奴らのやり方だ」

 故に、と蒼衣は告げた。

「インドとの交渉で最も留意すべき事柄は、相手に勝る事だ」

「わざわざ物量で勝負にいきますの? 戦時交渉みたいですわよ」

 確かに、周りの皆も頷く。

「あくまで張り合いになった場合の話だ。そうなった時、そうなると思っておけばいい。空、次だ」

「ん、分かった。――二、相手が求めているもの」

 やはりそう来るか、と海瀬は思った。

 インドが世界に戦争を起こそうとしているのが分かる。だが、インドが何を求めているかは未だ不明だ。単に戦争による金銭の利潤を求めているのか、違うのか。

 おそらく蒼衣も十分に予想ができていないのだろう。

「難しい問題ですわね。何を求めているか、これはもはや邪推の域でしかないですわ」

「そうなの、伊沙紀ちゃん?」

 問いかけに、波坂は首肯した。

「ええ、ワタクシたちの目的がインドの宣言を撤回させ、あわよくば利益を独占しようとしているのは少し考えれば分かりますけど、インドが何を結果に求めているかは分かっていませんわ。相手を知らなければ何もできない。正にその通りですわ」

「でもインドの行いを単に見えれば、戦争による貿易利益を求めているようにも見えるわよ」

「それだけならばいい。小物だ。すぐにでも潰れよう」

 蒼衣の言葉に朝臣は沈黙した。痛い発言だ。完全に蒼衣の圧力に呑まれてしまった。波坂やジョニーもこればかりは助け舟が出せなかった。が、

「つまんなかったんじゃないのかな」

「でもアウヴィダさんはいっつもニコニコしてて楽しそうだったけど?」

「ならもっと面白くなりたかったんだよお」

 エリスと空の能天気な会話が端では続いている。

「ですが、インドが利潤を得られるのなら得るというスタンスでいる事は確かですの。東南アジアの発展にかなりの予算を割いている訳ですし、軍拡や軍の養成にも力を注いでいますから余裕はあまりありませんわ」

「国の舵取りを謝れば、一瞬で転覆するようなやり口だからな」

「次に考えるとすれば、やはりあの宣言からですわね。しきりに平和である事を願う文言を付けていましたから、少なくともその流れになる事をしなければならなくなりますの」

「世界が転覆しない程度に資本主義を極限まで行こうという考えやも知れぬ。――足付きは朝よりずっと黙っているが、何かあるか」

「竜王が質問するとは随分と珍しい。しかし悪いが、あまり意見を言っても意味のあるものになるとは思えない。いざとなった時の戦闘要員だからな」

 謙虚に返事をしたが、波坂が社交辞令的に言葉を作ってきた。

「そんな事ありませんわ。遠野・和時のお父上。貴方にしか分からない事も多々あります。何でもよろしいですから、ご意見を賜りませんこと?」

 難しい話だ、と海瀬は思った。

 国家運営など知らないし、経済や外交に明るい訳でもない。答えられる事は限られる。が、分かっている事が一つだけあった。それは、

「言える事は一つだけ。――アウヴィダは魔術師だ。旧代を知る魔術師なら、当然あるモノを持っている。それさえ把握できれば、おのずとアウヴィダの理想が分かる」

 蒼衣の目が冷たく、細くなった。逆に波坂は期待の眼差しだ。

 二人の視線に応じるように、海瀬は告げた。それは、魔術師が己に課す法であり、夢想する遠い世界を指す大魔術でもある言葉。そう。

「――〝魔法まほう〟だ」

 海瀬の発言に、隣に座るエリスが一瞬だけ動きを止めた。

      *

      *

 夕日の射し始めた頃。

 学園の無人区には、剣戟の快音が鳴り響いている。

 訓練を終えた筈の遠野と草薙。手合いがてらの、両者の一騎打ちだった。

 遠野が異能で造った打剣を振り、草薙が神力で保護された肉体で受け止める。

 草薙が拳を振り回し、遠野が眼力と勘を駆使してかわしていく。

 その連続が、一騎打ちの全てだった。

 拮抗している。

 と、遠野が動いた。新しい動きを入れたのだ。

 加えるのは高低差。巨躯なる草薙の足元を剣で薙ぎ、足そのもので防がれたところを遠野がすかさず空いていた手に新たに長剣を持って、鬼の頭部に振りかざす。意識を足元に向けて上半身を手薄にする戦法だ。

 一メートル弱の長剣が草薙を襲う。が、一瞬の判断で草薙は頭を逸らした。その結果、剣は赤鬼の鎖骨付近に数センチ傷を与えた。

「……っ」

 遠野は舌打ち一つ。両手の剣を捨てて、大きくバックステップを取った。

 しかし、間合いから離れた直後。土を踏んだ遠野は構わず、再度鬼目掛けて走った。

 速い。

 疾駆の途中に土に触れ、土を固めて剣とする。

 草薙も動いた。前へ。――応戦する構えだ。

 ……引かないヒトだ。

 不退転に感嘆しながらも遠野は突貫する。

 一メートルの間で両者は壮絶な密度で剣戟の応酬を開始した。

 超接近戦だ。

 遠野が剣を巧みに操って流線を描き、草薙は避けもせずに直線的な攻撃を繰り出した。

 濃密な時間。遠野は息をするのも忘れて自分の身体を縦横無尽、整然と動かす。だがふと、鬼の首元に焦点があった。先程攻撃が当たった場所にはすでに切り傷はなく、代わりにミミズ腫れのようなものが出来ていた。

 ……硬い上に回復量まで桁違い。オニ属は一体どこまで強ければ気が済むんだ。

 否、草薙だからこそこうなのだろう。

 彼は強い。正式ではオニ属だが、その途方もない肉体の強さから世界で唯一人〝鬼神種〟に指定された。種としてではなく、強さがもうそこまで達しているのだ。

 ……鬼。――担任の鬼村も鬼だったな。

 そして、遠野の知る、両親を知る唯一のヒトだ。

 遠野・海瀬とエリス。遠野は二人の経歴を一切知らない。知っているのは二人が魔術師で、過去色々とやらかしていたという曖昧な事だけだ。

 振り下ろされた拳を紙一重でよけ、剣を突き上げる。

 ……親父、母さん。

 両親の事を思うと、昨日の夜に見つけた写真が脳裏を掠める。

 若い父と母に似た小さな少女、そして知らない女性。

 一体何なのだ。ただの写真に、どうして自分はここまで動揺するのだ。あれは、

 ……俺には関係のない事だ!

 と、感情の揺れに彼の剣が乱れた。

 草薙はそこを見逃すはずもなく、すぐさま攻撃を放った。直線、直線の正拳突き。容易い回避が遅れる。彼は歯を食いしばって無理やり上体を反らした。

 腹部と胸部の上をぎりぎりで鬼の豪腕が進んでいく。ブレザーの合わせが吹き飛んだが無視して遠野は、ブリッジに近い大勢から身を捻って膝蹴りを見舞った。

 鬼の突き腕、二の腕の部分に彼の膝が入り、腕をかち上げた。

 隙間ができる。

 遠野が反転するに十二分な隙間が、だ。

 身を翻した遠野は、追撃を許す前に間合いから離脱。ロンダートの要領で身体を入れ替え、草薙に相対する状態で彼は制動した。その距離七メートル。

「っけ、――もうちっと集中してやれ青二才。戦闘中にナニぼーっとしてやがる」

 草薙の言葉に、遠野は返す言葉もなかった。

 ……修練が足りてないな、全く。訓練にもならない。

 仕方ない、と遠野は諦めた。聞いて話すとも思えないが、今後の憂いを晴らすためにも聞こう。自分の両親の過去に、何があったのかを。

「すまない草薙准将。考えはまとまったからこれからはもっとマシな戦闘にする。付き合ってくれるか?」

 赤鬼の口元が歪んだ。おお、と重低音の応じが返ってくる。

 鬼と人が再び構えを取る。が、少し離れた場所から、

「ねむーい、よー。つかれたー、よー。かえりたいよー、さなさなー」

「二人ともいい加減にしてくれへんか? 部長はんも夜から訓練するんやからはよ休めや」

 少将と中佐の文句が入ってきた。

 折角盛り上がっていたのに、と二人は思うが、草薙が興が冷めたと言って構えを解いたので遠野もそれに続いた。吐息と共に構えを崩す遠野は、遠くに沈む夕日を眺めつつ思った。

 家の事は分かった。だが、家族知らなければ意味はない、と。


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