序章:夢見る波の鱗
一話目から相当期間が開きましたね。
各話数はおそらくこのくらいのペースになると思いますのでご容赦ください。一話のあとがきで告知した通り今回はインド編です。上中下で考えて構成したので全三十章は確実に超えますね(汗)
よければ最後までお付き合いください。
序章:夢見るは波の鱗
*
薄暗い空間がある。
そこは広い部屋だ。
カーテンの隙間から射す紅い光が、唯一の光源として薄らと室内を照らし、落ち着いた色合いの調度品も仄かに赤みを帯びて夕刻の黄昏を築いている。
そこはどこにでもあるような、普通の家庭の、普通の一室の、普通の夕暮れに思えた。
リビングだった。
リビングには、ソファに座る二人の男女と赤子がいる。
黒髪の男は赤ん坊を腕の中に抱いており、その向かいのソファから少女が赤子を静かに眺めている。少女の髪色は、灰色に近い銀髪だった。
室内は静寂に包まれている。ほのぼのとした光景にも見えるが、どこか鬱屈とした重い空気も感じられた。沈黙したまま、誰も喋ろうとしない。
だが、それはあくまで雰囲気だけ。赤子は男の腕の中ですやすやと寝入り、その寝息だけが唯一の音なって聞こえている。
しばらくすると、ふと銀髪の少女が言葉を作った。赤ん坊に目をやったまま、男に、
「……よく、寝てるね」
「――そうだね」
少女の台詞に、男は軽く口を緩めて見せた。
だが、少女はすぐ彼の不自然さに気が付いていた。
目が笑っていなかったのだ。眉尻も下がって、どこか悲痛に満ちた、苦しそうな瞳。少女はそれに気付いていながら、彼に何かを言おうとはしなかった。
「――――」
再び無言の間が広がった。
が、不意に、彼が何か告げようとしているのを少女は感覚的に悟った。口や表情には出ていないが、少女には解った。だから、銀の髪を流す少女は、自分から静かに問うてみた。
「それで、どうするつもりなの?」
問いかけに、しかし彼はすぐには答えなかった。男は少女から顔を背けたまま、赤ん坊に目を落とすだけ。その反応に少女も声が出ず、結局諦めたように顔を俯けた。
ややあってから、彼が小さな吐息をついた。そして、
「頼みがあると言えば、君はどうしてくれる」
「? いいよ、叶えてあげるから」
再び自分の腕の中で眠る子に視線を落としてから、彼は少女に告げた。
それは、
「後悔しても、着いてきてくれるかい?」
その妙なニュアンスの台詞に、一瞬少女は驚いたように目を軽く見開ける。
が、その数秒後。ん、と少女は微笑み、そして頷いた。
「大丈夫。約束したもんね」
哀しい顔をする二人の間で、赤ん坊だけがその無垢な幸せに抱かれていた。
*
*
全天に晴れ渡って広がる蒼の空。
どこまでも続く蒼穹の下には、それよりも更に濃く、たおやかな海が在った。
広い海だ。
白い砂浜に寄せる波は心を穏やかにする音色を奏で、海は鱗のように太陽の光を爛々と反射させる。それらはただただ美しく、まるで今創られたかのように純粋な存在だった。
「――綺麗ね」
砂浜に声が埋もれた。
声を発したのは若い女性だった。澄ました顔をしていたが、どこかやつれており、長い髪も殆どが白に染まっていた。足が悪いのか、車椅子に乗っている。
女は、細い腕の中に赤ん坊を抱いていた。
赤ん坊は静かに抱かれ、何の苦もないこのひと時に身を委ねる彼女も、砂浜をここまで車椅子で押してきてくれた男に微笑んだ。
男も小さく笑みを返して、二人は海の方に再度顔を向けた。
綺麗だ。男も心からそう思った。だが、
「……楽しいわ」
日に日に弱っていく彼女を見るのは辛かった。
今の彼女には幼い子を抱く事さえままならず、今日ほど体調が良いのも珍しかった。また来られるか分からないと思うと、男の胸は悲嘆に傷む。ハンドルを握る手に力にも力が入り、とぐろを巻くように渦巻く感情を抑えるので精一杯だった。
「楽しくないの? ずっとムスッとして」
彼女は男の心内を知ってか知らずか、弱々しい声で尋ねた。彼は一瞬口を噤むが、
「――そういう訳じゃない。でも、これっきりになるかも知れないと考えると……」
「別に来られる時に来たらいいじゃないの。気にする必要もないわ」
「――――――」
男はそれきり黙り込んでしまった。
彼のその反応に、女は困ったように細く息をつく。自分の腕には重すぎる赤子に一度苦い笑みを溢し、顔を上げて、眼前に広がる海をこの視界に収める。
波打ち際に寄せる波が白い。煌めく海と空を見詰めながら、か細い息をする彼女は、彼にこう告げた。
「……アンタなら出来ると思ったから……。我が儘を言ったのはアタシよ」
だから気楽にやりなさい、と女は男を励ました。
その言葉に、男は静かに首肯した。それに満足した彼女は、もう一度吐息を吐くと、
「――綺麗ね。大好きよ」
と言って、ゆっくりと目蓋を閉じた。
砂浜には、波打つ音だけが響いている。