一杯のビールの飲み方
目の前のグラスに注がれた冷たいビールを見つめながら、私は一つ息を吐いた。
テーブルには自らの冷たさでその身を濡らせているグラスと、空き瓶が二本。そして吸殻が山をなしている安物の灰皿が一つ。
特に変わった事もない、いつも通りの独りの晩酌。いや、晩酌と呼ぶには酒量に対し食事が少ない。夕食の代わりに酒を飲んでいる、と言うべきだろうか。しかしそんな事はどうでもいい。
私が気にしている事。それは、最後のこの一杯をどう飲むべきか、だ。
今、冷えたままのグラスを一気にあおり、爽快感を味わうべきか。
それとも、冷えを感じながらも、ゆっくりビールそのものを味わいながら飲むべきか。
いや、ゆっくり冷たさを味わい、温くなったら残せばいいではないか――
他人からすれば「何を馬鹿な事を」と笑うような悩みなのかもしれない。だが毎晩、私はこの最後の一杯で逡巡するのだ。そしてその事を恥ずかしいとも思わないし、理解してもらおうとも思わない。
女性が自らに似合う服を探して選ぶ様を、大多数の男がどうでもいいと感じるが如く、プラモデルやラジコンといった遊びに興じる男性を、女性が子供じみていると感じるが如く、感性は男女でもかなり違う。仮に同性で同趣味の仲間であっても、全く同じ感性の人間などいるわけがない。だからこそこれは、私だけが抱える、私だけの答えの無い問いなのだ。
そもそも男とは、酒を飲むとこういう面倒な事を考えたくなる生き物なのではないかと思う事もある。酔った勢いで、という言葉をよく聞くが、本当にそれだけだろうか。むしろ普段、面倒だからと無意識に抑えていて、気にしていない振りをしているからこそ、酒を飲んだ時に今まで興味なさ気だった政治問題を語ったり、仕事観や人生観を語ったりするのではないか。腹を割って話す、という時に酒は大抵付き物だが、それはお互いの面倒な部分と考えを曝け出しあう事なのではないだろうか。
そんな事を思いながら泡立ったグラスを手に取る。まだ皮膚に張り付くような冷たさと、それを和らげるかのような表面の水滴が私の手に伝わってくる。
アイツならこの一杯をどう飲むだろう。アイツがうちの会社に入ってきてから、小さかったうちの会社は急激に大きくなった。そして会社は実力主義、結果主義に移行し、私の居場所はどんどん無くなっていった。合理的な物事の考え方を是とするアイツの事だから、冷たいビールを一気にあおるのだろう。そして飲み干した後、眠りにつくまでの時間を有意義に過ごそうとするのだろう。アイツには無駄というものの価値を理解する事は今後も出来ないだろう。
昔、一緒に暮らしたあの女はどうだ。何をするにもテンポが遅く、私を苛々させたあの女だ。別れてもう何年にもなるし、お互いにいい齢なのだから恨み言を言うつもりは無いが、思い出すのは動きが遅かった事と、それに腹を立てていた事ばかりだ。きっとちびちびと舐めるように時間をかけて酒を飲み続け、最終的に温くなった酒を美味しくなさそうに飲んでいるのだろう。そしてもし私がその場にいれば、先に飲み終わってしまった私に申し訳なさそうな視線と笑顔を向けてくるに違いない。あの女は自分が不快になったその原因と所作で、他人をも不快にしている事に気づく事はないだろう。
では、冷たい間だけゆっくりと味わって飲み、温くなれば残せばどうか。論外だ。飲み潰れてしまったならともかく、最後の一杯で、しかもただの安いビールでそんな事までする価値は無い。いや、あるのかもしれないが、少なくとも私はそこに意味を見出せない。
ならばどう飲めばよいのだろうか。
アイツのように、一気に冷たいビールをあおるべきだろうか。
それともあの女のように、温くなるまで時間をかけてのんびりと飲むべきだろうか。
答えは決まっている。どちらも受け容れ難い。
アイツのように理で全てを割り切るような人間と同じになりたくない。私は無駄というものの価値を知っているし、何よりゆったりとくつろぐ事の重要性も理解しているのだ。
また、あの女のように動きの遅い人間とも同じになりたくはない。人が五歩進む間に一歩か二歩しか進めないようでは、どうやってもまともに生きてはいけない。兎と亀の童話じゃあるまいし、そんなのろまの亀みたいな生き方は御免蒙りたい。
ならば私は、私自身で新たな飲み方をここで見出す必要があるのだ。アイツともあの女とも違う、それでいて私自身が意味があると思える斬新な味わい方を。
瓶から直接飲むのはどうだ。いや、それではまるで学生時代によくやった馬鹿な一気飲みだ。わざわざそんな飲み方をする意味がない。まして一度グラスに注いだ酒を瓶に戻すなんて、意味が無いのを通り越して馬鹿げている。
火にくべてみるか。いや、日本酒ならともかくビールを、しかも冷やしたものに熱を加える価値は無いだろう。それに味がよくなるどころか、アルコールが飛んでしまうだけだ。
何かと混ぜてみるか。いや、カクテルにそんな種類があるとは知ってこそいるが、今この場にあるもので出来るとは思えないし、あったとしても私にはそれを上手く作る腕がない。それに飲んでいる途中でまだ残りがある時ならまだしも、最後でそんな冒険をして失敗したら、後味が悪くなるだけだ。
結局、何一つ良い案は浮かんでこない。一度落ち着くためにも、煙草を取り出して火を点ける。長年慣れ親しんだ味と香りが、口内と無粋な男の部屋の匂いを塗り潰していく。その立ち昇る煙は、何にも縛られる事なく、思うがまま揺らめき、形を成しては崩れ、そして消えていく。同じ煙なのに私の口から吐き出されるそれは、何かを形作る事も、自由に揺らめく事もなく、ただ消えていった。
しばらく自由な煙と囚われた煙を見比べる。そこに介在するのは私でしか有り得ない。つまり、本来の煙の自由を奪い、即消え行く運命に変えてしまっているのは私なのだ。ささやかな征服欲を満たされた私は、煙草をもう満杯になった灰皿に押し付ける。卑小で下劣な私の征服などに屈しないとでも言うが如く、押し潰された煙草は微かにまだ自由な煙を立ち昇らせていた。
その煙を視界の端に映しながら、再びビールの処し方と向き合う。既に泡が崩れ、ガラスに付いた水滴もテーブルに辿り着いてしまっているものが多い。その泡の量が減るほど、テーブルまで落ちてしまう水滴の量が増えるほど、そのビールは冷たさという名の味を失っていくのだ。急いで結論を見つけ出さねばならないのだ。
その時ふと、父親が脳裏に浮かんだ。父がよくこの水滴でテーブルの上に置いた紙や本を濡らし、母に怒られていたのを思い出したのだ。
そう言えば父親とゆっくり飲んだ記憶はない。決して避けていたわけではないが、私は高校を出て上京して以来、忙しさにかまけて帰郷しないままだった。そんな間に旅立った父の記憶は、幼少時のものがほとんどだった。
父であればどんな飲み方をしただろうか。父は酒が好きで毎晩のように飲んではいたが、決して酒に強い方ではなかったのだろう。顔を真っ赤にして贔屓の野球チームを語り、そのまま眠ってしまう事も往々にしてあった。その度にテーブルの上には飲み残しのビールと、一つに繋がった大きな水滴ができていた。私が飲み残しを嫌うのも、ずっとそれを見てきて勿体無いと思っていたからなのかもしれない。きっと父であれば、今の段階でここに転がって鼾をかいているのだろう。その父の姿を懐かしく思い出しながらも、そんなだらしない姿にはなりたくないとも思う。一人でいるのだからそれこそ気にしなくてもいいのだが、これは私自身の問題なのだ。
いっその事、飲まずに捨ててしまおうか。そんな考えさえ頭をかすめた。飲み残しを捨てるのも勿体無いと思っているのに、本末転倒もいいところだ。その選択を選ぶのなら何も悩みはしない。これでは如何に私に発想力がないかという事が証明されているだけだ。
そんなに長時間考え込んでいたのだろうか。いつの間にかグラスの中身は完全に泡が崩れてしまい、テーブルには昔よく目にした大きく繋がった水滴が生まれている。もうこのビールからは冷たさというものは消え失せてしまったことを、それらが私にはっきりと告げていた。
呆然としたまま、目の前のグラスを見つめる。
アイツのように一気にグラスをあおる事も、あの女のようにちびちびと飲み続ける事も、父のようにほどよく飲み残す事も、そしてこれをそのまま捨てるという事も、私は選べなくなってしまった。
たった一杯のビールの飲み方。普通の人が聞いたら、ただそれだけの事だ。しかし私はそこに自分なりの何かを見出そうと必死に考え、そして何も見出せなかった。
アイツは一気に、あの女はゆっくりと、父は好きなように残す事も厭わない。
では、私は何なのだ。
自ら生み出す事も、何かを選ぶ事もできなくなってしまった私に残された道は、温いビールを飲むだけだ。
ただ黙ってグラスを空ける。冷たさを失ったビールの味は、やはり苦く、旨味の少ないものだった。喉に絡みつくような液体が通り過ぎると、グラスに映った私自身の顔を見る。それは認めたくない現実を突きつけてくるような顔だった。そしてその顔から逃れるべく寝転んだ私の視界に映ったのは、既に消えたはずの煙で満たされた、汚い部屋の天井だった。
【了】
お読みいただき、有難うございました。不要とは思いますが、念のために一言。
・未成年者の飲酒、喫煙は禁止されています。
・お酒の一気飲みは危険です。