2章――④
叫び声は女のそれだった。戯れで発されたのとは明らかに違う響きに、通りを往く人々の歩みがまばらに止まる。
その隙間を縫うように極彩色の布が駆け抜ける。身に纏っているのは蓮翠とさほど年が変わらなそうな少女だ。派手な化粧と髪飾り、装飾品から察するに妓女らしい。しかし頬を伝う涙によって化粧はどろどろに落ち、髻は激しく乱れて原形を留めていない。
「誰かっ……誰か助けて!」
妓女は後ろを振り返り、喉を枯らして叫ぶ。
多くの者は恐らく「勤め先の妓楼から逃げてきたんだな」と考えたのか、すぐに興味を失くして視線を逸らす。関わり合いになるまいと避ける者もいて、自然と道がひらけた。
おかげで分かった。彼女がなにから逃げているのか。
「朱祐、あれ!」
蓮翠は朱祐の腕を強く叩き、妓女が走ってきた方向を指さした。
山の縁に沈む西日を背負い、男がこちらに向かって走ってくる。男は全身に黒い靄をまとい、妓女から剥ぎ取ったものか、手には布の切れ端を掴んでいた。
「あの女の子、あそこにいる幽鬼に追いかけられてるんじゃないかな」
「幽鬼?」朱祐はひょいと眉を跳ね上げ、じっと男を見つめる。「……違うよ蓮翠。あれは幽鬼じゃない」
「え? でもあの靄は」
「あの男、生きてる人間だ」
男は獣の咆哮に似た叫び声をあげ、なにごとか訴えながら妓女を追う。どうやらただ事ではないと察した人々も逃げ始め、蓮翠がその流れに浚われそうになるのを、朱祐が道の端まで蓮翠の腕を引いて誘導してくれた。
落ち着く間もなく、蓮翠は朱祐と目を合わせてうなずき、男の姿を追った。ゼラムたちも後ろからついてくる。
「朱祐には幽鬼が黒い影に視えるんでしょう? でもあの男の人はそうじゃないってこと?」
「あいつの足元をよく見て、蓮翠。影がある。でも普通、幽鬼に影なんてないはずだ」
朱祐の指摘に、言われてみればそうかも、と蓮翠ははっとした。今まで注視したことはないが、確かに幽鬼は幻のようなもので実体がなく、必然的に影もない。
「それに僕の目でもしっかり顔や身なりが分かる。あれは生きてる人間だよ」
「シュウの言う通りだな」ゼラムが速度を上げ、朱祐の横に並びながら同意する。「ただどういうわけか、あいつからは幽鬼――というか、これから出てるにおいと同じものを感じる」
これ、とゼラムは先ほど受け取ったばかりの首飾りを蓮翠たちに見せてくる。灰色の石からはいまだに黒い靄がにじみ、空気中を漂うとそのまま男の靄と混ざり合った。
ぎゃあっと潰れたような悲鳴が聞こえた。逃げていた妓女が布を踏んで転倒し、足を挫いたのか、恐怖に顔をひきつらせたまま立ち上がらない。男は唾液混じりに下卑た笑いをこぼし、そのたびに全身から黒い靄が噴き上がる。歩みは妓女の反応を楽しむようにゆっくり一歩ずつだ。
――このままじゃ危ない。
「朱祐、これ持ってて!」
「は? え、ちょっと蓮翠!」
蓮翠は抱えていた竹の籠を朱祐に渡し、倒れた妓女に駆け寄った。妓女は助けが現れたことに一瞬だけほっとした表情を見せたものの、それが非力そうな女子と分かるなり再び涙をこぼす。
「大丈夫ですか、立てますか!」
蓮翠は妓女と男の間に滑りこみ、めいっぱい両腕を広げて立ちふさがった。男は予期せぬ闖入者に立ち止まり、壊れたおもちゃめいたぎこちない動きで首を傾げていた。
しかしすぐに蓮翠は敵にならないと判断したらしく、むしろ獲物が増えたと喜ぶように笑みを深めて近づいてくる。
――神力を使う上で大事なのは想像力。頭の中でよーく思い浮かべる……。
蓮翠は両手を広げて男の前に突き出し、ぎゅっと目を閉じた。
――血液と一緒に全身を巡ってる神力を、手のひらに集中させる。
ゼラムに言われたことを思い出しながら、自分たちと男を遮ってくれるなにかの出現を想像する。理想的なのは壁だ。分厚ければ男が怯むに違いない。むしろ見た目は薄くても頑丈な方が油断を誘えるか。
炎に手をかざした時のように、じわりとした温かさを手のひらに感じる。自身に宿る神力がここに集まっていると感じられる温もりだ。
――見た目のわりに頑丈で、あたしたちを守ってくれる壁!
頭の中であやふやだった想像が明確になると同時に、限界まで目を開く。
蓮翠の手は淡い光を帯び、ぱちっ、とささやかな音を立てて微細な火花も散った。
明らかに中庭の掃除中に試した時とは感触が違う。蓮翠は歯を食いしばり、神力が手のひらから放出されて壁が形成されるのをより強く想像した。
だが。
ろうそくに灯した火が風に煽られたように、蓮翠の手の光は揺らめいて消えた。
目の前に壁はない。蓮翠と男を遮るものはなにも出てこなかった。
「なんで……」
腕を突き出したまま愕然として、蓮翠はもう一度目を閉じた。
足りなかったのは想像力か、あるいは神力か。この際壁でなくてもいい。とにかく自分と妓女を守れるものを、と必死に考えてみたが、なにも出てこないどころか、手が光ることすらなくなった。
「蓮翠ッ!」
朱祐の鋭い声に目を開ければ、男はもう口臭を感じられるほどの距離に迫っていた。男は武器らしい武器を持っていないが、ゆらりと上げた腕は拳を作っている。殴りかかるつもりか。蓮翠は咄嗟に身をひるがえし、全身で妓女を覆って男から庇おうとした。
覚悟した痛みは訪れず、ぎゃりっと砂を奥歯で噛んだような音が響く。なにごとかと振り返れば、男が悔し気に呻いて拳を擦っていた。
蓮翠たちと男の間には、透明度の高い光の壁が出現していた。大きさは蓮翠を縦に二人分並べたほどで、見た目は凍てついた冬に水面に張る氷に似ている。壁は端からぼろぼろと崩れ、白い光の粒子となって消えていく。
ひょっとして先ほど作ろうとした壁が時間差で現れたのか。戸惑っていると再び朱祐に「蓮翠!」と呼ばれた。朱祐は左手に竹の籠をしっかり抱え、右手をこちらに突き出して細い目を瞠っている。その手のひらは壁と同じ白い光を放っていた。その隣ではギヴィルが感心したように小さく手を叩いている。
――今の壁は、朱祐が?
男は壁を殴った痛みに唸っている。この隙に妓女を道の端へ誘導できないかと思ったが、彼女自身の怪我と衣服の重みが影響してうまく支えられない。蓮翠の眼差しで救援を察したのか、すぐに朱祐が手伝ってくれてなんとか避難させられた。
ごく簡易的な応急処置が出来るというギヴィルに妓女を任せ、蓮翠は緊張で詰まっていた息を吐きながら朱祐を見上げた。
「ごめん、ありがとう。さっきの壁は朱祐が?」
「分からない。蓮翠を守らないとって思ったらいつの間にか出てた。……言いたいことは色々あるけど、全部あとで。あいつをなんとかしない限り追いかけられそうだし」
男の視線はこちらに向いている。このまま逃げても同じことのくり返しになるどころか、面白がって集まり始めた通行人たちにも危害が及ぶだろう。
「でもなんとかって、どうやって……」疲労と緊張で頭が回らない。蓮翠は魔術師二人に助言を求めようとして、ふと気づいた。「あれ、ゼラムさんは?」
「ゼラムくんでしたら、ほら、あそこに」
ギヴィルが指さした男の背後には、好戦的な笑みを浮かべるゼラムがいた。
ゼラムは男の肩を指先で軽く叩き、意識を自分へ向けさせる。
「あんた、もしかしてこれと同じモノ持ってたりしねえか?」
ゼラムが男に見せたのは例の首飾りだ。男は唸るだけでなにも答えず、拳を振り上げて殴りかかろうとする。
顔に当たりそうなそれをあっさり避けると、ゼラムがやれやれと言いたげに肩を竦めた。
「敵対の意思表示って見なすぞ。いいんだな」
出来る限り加減はしてやる、と。
ゼラムが忠告した直後、男の体が羽毛のごとくふわっと宙に浮いた。かと思えば轟音を立てて地面に沈む。
蓮翠と朱祐――というよりゼラムとギヴィル以外のほぼ全員が、呆気にとられた。
男を中心にして地面が円形に深く凹み、黒い靄をかき消すほどにもうもうと土煙が舞っている。ゼラムは仰向けに倒れていた男を肩に担いで足早に蓮翠たちのもとに戻ってきた。
「よし、宿に帰るぞ。そこの姉ちゃんの怪我も治さねえとな。ギヴィル、あそこの地面だけ戻しておいてくれ」
「それはまあ、構いませんが」
言うが早いか、ギヴィルが人差し指を立てて軽く振るう。途端、抉れていたはずの地面は一瞬で騒動の痕跡を消すように元に戻った。蓮翠と朱祐がぎょっとする隙さえない早業である。
「いつも言っていますよね。一人で後処理出来ないことをしでかすものではないと。ゼラムくんはもう少し人目と力加減を気にするべきです」
「やりすぎた自覚はある。反省してるから許してくれ。そうだ、嬢ちゃんとシュウは怪我してねえか?」
「僕は別に、これといって」
「あ、あたしも無傷です。ていうか、あの……」
ゼラムはなにをやったのだ。男はぴくりとも動かないが死んでしまったのか。
蓮翠がなにを聞きたがっているか察したのか、ゼラムは男を抱え直してにっかり笑う。
「あとでちゃんと説明するさ。今はここから離れるのが先決だな」
騒動の一部始終を目撃していた者たちがすでにひそひそと噂を流し始めている。このままでは数分もしないうちに蓮翠一行は野次馬たちに取り囲まれるのが明らかだった。
蓮翠たちは来た時のように天馬の背に乗り、慌ただしく現場を後にした。
清杏店で蓮翠に与えられた部屋は、かつて物置として使われていたという。
裏庭に面して日当たりが悪く、夏は湿気に、冬は寒さに苦しめられる場所ではあるが、旅館の使用人や宿泊客の視界に入りにくい。おまけに大人数人が車座になれるだけの余裕があるため、妓女と黒い靄の男をひっそり運び込むにはちょうど良かった。
初めこそ朱祐が「蓮翠の部屋にずかずか入るなんて」と反対したのだが、逃げ出してきた風体の妓女を連れ歩くのは少々目立ちすぎるうえ、仮にゼラムたちが宿泊している部屋や朱祐の私室に彼女を連れ込んだと朱祐の父が知れば、そちらの方が厄介な問題になりかねない。
結果、妓女を治療しつつ事情を聞くのは蓮翠の部屋で、とまとまった。
幸い彼女の怪我は軽傷で、ギヴィルの神力を使っての治療により、ものの十分程度で完治した。得体の知れない能力で傷が治ったことに妓女は驚いていたが、それでも「助けてもらった礼だから」とおおまかな事情を話してくれた。
男は妓女が働く妓楼の常連客で、顔なじみだという。普段の男は大人しく、乱暴な性格ではないらしいが、ここ数日は妙に様子がおかしく心配していたと妓女は語る。
「奥さんに逃げられちまったんだってさ。よそで別の若い男とデキてたんだと。旦那は奥さんと浮気男が憎かったけど、だからって奥さんを取り返しに行けるほど豪胆でもない。いっそのこと奥さんへの未練を失くせたらって悩んでたら、知り合いにイイものを紹介してもらったって」
「そのイイものってのは、コレか?」
ゼラムが首飾りを見せると、妓女はこっくりうなずく。
「怒りとか悲しみを吸い取ってくれるお守りなんだって、旦那は言ってたね。チンセーセキ……だかなんだか忘れたけど、そんな名前だよ。朱聖殿にいくらか寄進したら貰えたんだってさ。旦那は『これで妻を恨めしく思うこともない』って安心してたけど、何日かしてまた塞ぎこむようになって。今日なんか顔を合わせるなり襲いかかってきて驚いたよ。どうにか逃げ出したけど、捕まったら死ぬって怖かったんだから」
妓女は恐怖に体を震わせて帰っていった。夜道の一人歩きは危険と判断したゼラムの計らいで、妓楼までは天馬に送り届けられた。
さて次は、と四人の視線が部屋の隅に横たえられた男に注がれる。
男は固く目を閉じたまま動かない。蓮翠は恐る恐るゼラムに問いかけた。
「あの男の人、死んでませんよね」
「問題ない。胸がちゃんと動いてるだろ?」
そう言われても、部屋の明かりは燭台に灯した古いろうそく一本で薄暗くよく見えない。蓮翠は男の鼻に手をかざしてそよ風に似た呼吸を感じ取り、ほっと胸を撫で下ろした。
「この人が倒れたところすごく凹んでましたけど、なにやったんですか」
「明らかに正気を失ってたんで、とりあえず気絶させたかったんだ。それでこう、神力で強化した指でここを軽めにちょんっと」
ゼラムはおもむろに朱祐の額を指先でつついたあと、目と鼻の先に左手を広げ、その中心を右手の中指で弾く。仕草自体は軽く単純だったが、ばちんっ、と音が明らかにただ弾いたそれではない。衝撃によって生み出された風で、朱祐が目を白黒させながら後ろにふらついていた。
「上手いこと意識だけ飛ばせればよかったんだが、正直、加減と角度を間違えた。指を強化しすぎてこいつが地面にめりこんだ。黒い靄が緩衝材になってなけりゃ、最悪、俺は今ごろ人殺しだったかも知れん」
口調はどこか自嘲的で、強く握られた拳がぎしぎしと軋んでいる。力の使い方を間違えたことを本気で反省し、悔いているのだろう。朱祐はいきなり目の前で力を発動されたことへ文句を言ってやりたそうだったが、ゼラムの様子に寸前で憤りを引っこめたらしい。つつかれた額を擦りながら気まずそうに視線をそらしていた。
「まあ、誰も死んでないだけいいんじゃない。二度と同じ過ちをしないって心掛けるのが大事だと思うよ、僕は」
「……そうか。そうだな。ありがとうシュウ」
「その呼び方ふざけるなって前に……ああもう、いいや。好きに呼べば。で? そこの男はどうするの」
「ひとまず今日はあのまま寝かせておく。無理に起こして暴れられても困るだろ。自然に目を覚まして落ち着いてればよし、また妙な動きをすれば拘束して、そのあとは嬢ちゃんの力を借りることになる」
「あたしの……?」
「俺の予想が正しけりゃ、この面子で黒い靄をどうにか出来るのは嬢ちゃんだけだからな」
頼んだぞ、と訴えるようなゼラムの眼差しに、蓮翠は膝の上に置いていた手を丸め、ごくりと唾を飲んだ。




