1章――⑤
男はずんずんとこちらに近づいてくる。朱祐は蓮翠を背中で庇い、男を睨みつけた。
異国から来たというのは装いで分かる。上背は朱祐よりありそうで、顔の輪郭も体の幅も全体的に四角く厳つい。歳は分かりにくいが、二十代前半だろう。短く刈られた伽羅色の髪には艶がほとんど無く、水の底のような瑠璃色の瞳は好奇心にぎらついていた。
腕を伸ばせば触れられそうな距離にまで男が迫ったところで、蓮翠が「えっ」と小さく驚きの声を上げた。朱祐もほとんど同時に目を瞠る。
男の顔には痛々しい傷が横切っていた。右耳は力任せに引きちぎられたように上部が欠けている。他にも細々とした傷が肌のいたるところに見受けられた。
「……なにかご用ですか」
どう見ても普通の人間ではない。朱祐が警戒心をあらわにして訊ねれば、男は見定めるような眼差しで二人を順に見下ろす。
「道を歩いてたら神力の気配を感じてな。朱聖寺で感じたのと似てたからちょっと確認したくなっただけだ」
問いには答えてくれたが、分かるようで分からない。朱聖寺を訪れていたということはただの観光客なのか。
――いや待てよ。
「朱聖寺って今は参拝を断ってるんじゃ……」朱祐が引っかかりを覚えて呟けば、同意するように蓮翠が無言でこくこくとうなずく。「やっぱりそうだよね。朱雀さまの調子が不安定だからって」
「それを確かめるべく、我々は朱聖寺にお邪魔してきたところです。ゼラムくんが門を殴り飛ばしてしまったので、そのお詫びと称して」
やれやれと言わんばかりにため息をつきながら、青年が男の横に並ぶ。肌は血が通っているのか心配になるほど白く、反対に唇は薔薇の花弁のように赤く艶めいている。川の流れのごとく落ち着いた低い声と、喋るたびに上下する喉仏で男と分かるが、青竹色の瞳は蓮翠ほどではないが大きく、まつ毛も瞬きに合わせて音が鳴りそうなほど長い。顔の輪郭に沿って整えられた焦げ茶色の髪と体の線の細さも相まって、一見しただけでは性別も年齢も不詳である。
「ゼラムくんが大変失礼いたしました。すぐに退散いたしますので」
青年は申し訳なさそうに頭を下げ、男の服を掴んで立ち去ろうとする。しかし男は青年に引きずられそうになるのも構わず、ぐいっと朱祐たちに顔を近づけてきた。まるで水面に首を伸ばして周囲をうかがう亀である。
「あそこにいる男に神力を使った気配は無かった。ってことはさっき感じた二つの神力はお前ら二人のものってことだろ。そこの樹のそばでなにかやってたよな。あれはなんだったんだ? 教えてくれ!」
「見ず知らずの奴に教えるわけないだろ」
朱祐は男の勢いに押されそうになりながら、蓮翠の手を優しく労わるように握った。
「帰ろう、蓮翠。こんな不審者と話す必要なんてない」
「えっ、でも」
「早く帰って紙を燃やさなきゃいけないんだから、どのみち相手をする時間はないでしょ」
朱祐が歩き出せば、手を繋がれている蓮翠も戸惑いつつ続く。真照から報酬を貰うには男と青年の横を通らなければならないが、余計に絡まれそうな予感しかしない。
「真照! 今回の報酬は明日にでもうちに持ってこい! いいな!」
「お……おう!」
返事を確認してから、朱祐は小走りで男たちから遠ざかるように道を進んだ。男の声はなおも後ろから投げかけられ、小川のほとりで流れ着いた品々を物色する子どもたちからの「なにがあったんだろう」と窺う視線も痛さを増す。
つけられている可能性を踏まえて、念のため清杏店に戻るまでは意図的に大回りをし、都度背後の確認もする。やっと清杏店に戻った頃にはすっかり日が暮れてしまっていた。
裏庭に入ってようやく朱祐がひと息つくと、「朱祐」と蓮翠から控えめに手を引かれた。
「あの、手……ちょっと痛い、かも」
「え? 大丈夫?」朱祐は慌ててその場に屈み、握ったままだった蓮翠の手をくまなく検める。「戻る途中でどこかぶつけちゃったかな。それともあの変な男になにか……」
「そうじゃなくて、えっと」
蓮翠は言いにくそうに目を伏せていたが、意を決したのか、朱祐の手からするりと逃れるように自身の手を引いた。その指先がぎこちなく丸められる。
――あっ。
朱祐は己の失態に気づいて頭を抱えた。
不審者から早く逃れることに意識を向けすぎて、蓮翠の手を思いのほか強く握っていたらしい。暗くて分かりにくいが、朱祐に掴まれていた箇所が赤くなっているかもしれない。
「ごめん蓮翠。痛いのに気づいてあげられなかった」
「気にしないで、大丈夫。確かにあの男の人ちょっと変だったし、急いで逃げなきゃって思った朱祐の気持ちも分かるから。それにほら、怪我とかしたわけじゃないから。ねっ!」
こちらが気負わないように、蓮翠は朗らかに微笑んで手をひらひらと振る。その心遣いがありがたく、同時に申し訳ない。
蓮翠はそのまま朱祐に竹の籠を預け、厨房から火種を持ってくる。いつもより戻りが遅かったのは、厨房の職人たちに小言を言われていたのかもしれない。蓮翠を怪物扱いしてなるべく手伝いをさせないくせに、不在であれば「給金泥棒」と陰で文句をつける。そんな場所に身を置かせているのは誰だと悔しさが胸の奥で渦巻いた。
――どうにかしてやりたくても、まだ僕はただの後継ぎだ。父さんが主人な以上、出来ることは限られてしまう。
どす黒くなった紙を燃やす。己の不甲斐なさを押し付けるように灰を地面に埋めながら、朱祐は唸った。
「あの男、ひょっとしたら蓮翠と僕を探してしばらく赤香をうろつくかも知れない。目を付けられたら面倒くさいから、しばらく外を出歩かないほうがいいと思うんだ。祈祷の依頼って、真照が持ってきたもの以外に受けてるものはある?」
「無いよ。だから依頼で外に出ることはないと思うけど、厨房のお手伝いで買い出しに出かけることはあるかも」
「じゃあそれは――」他の奴に任せればいい、と言おうとして、そんなことをすれば蓮翠の立場がより悪くなるかもしれないと思い至る。「――その時は、僕が付きそうよ」
「ありがとう。一人だったらあの人の勢いに負けちゃうと思うから、正直、朱祐がいてくれるとすごく心強い」
これでよし、と蓮翠が土を軽く叩いて立ち上がる。その視線は空に向けられていた。
深く濃い藍色の空では月と星々が輝いている。あの輝きは麒麟の宮殿に勤める魂たちが地上を覗き見ている証とも言われている。蓮翠の眼差しは、その一つに樹の傍らにいた幽鬼が加われることを祈るように柔らかな慈愛に満ちていた。
清杏店は三階建てで、中庭と裏庭、食堂も備えるそれなりに大きな旅館だ。食堂は宿泊客以外でも利用可能で、日の出とともに開店するため、朝早くから地元民たちが腹を満たせる場所にもなっている。
貧民街で蓮翠が祈祷を行った翌日、朱祐は清杏店の一階の片隅にある自室でいつもより早く起床した。何者かに部屋の扉を叩かれる音で目を覚ましたのである。
寝台から上半身だけを起こした状態で、「朝からなに」と少々不機嫌な声音で問いかける。扉を叩いたのは下働きをしている男で、「食堂に妙な客がいるんです」と困惑気味に答えた。旅館でなにかしら問題や異変が起きた際、まず対応するのが朱祐の役目だった。
「妙な客っていうのは、具体的にどういう風な」
「よその国から来た人だと思うんです。席に着くなり『癖っ毛で緑色の目をした背の低い嬢ちゃんと、目が細くて背の高い男がここにいるだろ。呼んできてほしい』と……」
「……ちなみにその客の見た目は」
「二人いるんですけど、一人は男で、顔に大きな傷がありました。もう一人は男だか女だか分かりませんが、若さまと同じくらい細かったです」
これ以上ない特徴を伝えられて、朱祐はつい舌打ちをしてしまった。やはりつけられていたらしい。
手早く身支度を整え、すぐに食堂へ顔を出す。客の入りは普段と大差なく、腹が減る香りが立ちこめて客同士の会話も賑わっていた。
目当ての客はすぐに見つかった。出入り口のすぐそばにある机を挟むように、昨日見かけた二人組が腰を下ろしている。傍らでは蓮翠が盆から机に料理を移していた。
「おっ、ようやく来たな!」
顔に傷がある男がこちらに気づいて手を振ってくる。男の仕草で蓮翠も朱祐が現れたことを知ったのか、目を合わせるなりほっと頬を緩ませていた。
朱祐は早足で近寄り、蓮翠と二人組の机との間に体を滑りこませる。机には鶏肉と葉野菜を炒めて香辛料で味付けしたもの、卵と刻んだ野菜がたっぷり入った粥、甘い餡を詰めて桃の形に似せた饅頭が二人分置かれ、男は盛大に腹の虫を鳴らしつつ無邪気に目を輝かせていた。
「香りで分かる。絶対に全部美味い。特にこの鶏肉のやつ、ちょっと辛そうな色と香りがいい感じだ。頼んで正解だったな」
「僕たちをつけてきたわけ?」
料理への褒め言葉をすべて無視して、朱祐は男を鋭く睨みつける。男は不器用な手つきで箸を持ち、鶏肉を口に運びながら「いや」と疑惑を否定した。
「神力を辿ってきた。気配は覚えたからな、つける必要なんてない」
「意味が分からない。怪しい奴の相手をする時間は僕らに無いんだ。蓮翠、行こう」
「ま、待って朱祐」
朱祐は蓮翠の手を掴んで歩き出そうとしたが、とうの蓮翠がそれを拒むようにその場に踏ん張って動かない。
「朱祐が来るまでお二人と少し話したんだけど、悪い人たちじゃないみたいだよ。皇帝陛下に頼まれて、西の方にある遠い国から来たんだって」
「皇帝陛下に?」
皇帝とは巴瑛帝国を治めるあの皇帝か。にわかには信じられず朱祐は眉を寄せて、いやいやと首を横に振った。皇帝の遣いは年に一、二度ほど赤香に訪れるが、その際は遣いであることを示す龍の旗をいくつも掲げ、常に何十人もの集団で行動している。
しかし男たちは昨日も今日もたった二人で、龍の旗と思しきものも所持していない。これを皇帝の遣いと信じる方が難しい。口ではなんとでも言えるのだ。
「疑われも仕方ねえが、事実だからなあ」
男は箸で粥を食べようと奮闘していたが、見かねた蓮翠が「これを使うんです」と匙を差し出す。ありがとう、と素直に礼を言うあたりは好感が持てた。
「ゼラムくんは嘘を言いませんよ。わたしが保証します」
青年が饅頭を半分に分けつつ、朱祐の顔を見ながら淡々と言う。真っすぐな眼差しにふざけている様子はない。
「……身内に言われても、なんの保証にもならない気がするけど」
「ではこうしましょう。ゼラムくんが嘘をついた時には、わたしが『いま嘘をつきました』と教えます。これでどうですか」
「どうですかもなにも」
毒気と力の抜ける問答だ。朱祐が長々とため息をつけば、蓮翠にちょいちょいと袖を引かれた。
「ちょっと変わった感じだけど、悪い人たちじゃなさそうでしょ。それにあたしもイラ? とかいうのがなにか気になるし、ちょっとだけでも話、聞いてみない?」
「……蓮翠が言うなら」
仮によからぬことを考えているのだとしても、食堂には他にも客がいる以上、大それたことはしないだろう。朱祐は壁際に積んである椅子を二つ、机のそばに置いて蓮翠とそれぞれ腰かけた。
「やっとまともに話せそうだな」粥をすっかり平らげて、男が口の端に残っていた食べかすを指で拭ってから朱祐と蓮翠を順に見る。「俺はゼラムという。ゼラム・エアスト。皇帝の命を受けた魔術師としてここに来た。で、そっちが」
「ゼラムくんの補佐を務めております、ギヴィルと申します。以後お見知りおきを」
朱祐と蓮翠も名乗り終えると、ゼラムが朱祐に向かって右手を差し出してくる。いきなりなんだと訝しんでいると、ギヴィルから「握手です。敵意が無いことを示す我々の文化です」と教えられた。
おずおずと握ったゼラムの手はごつごつと固く、ざらついていた。見かけだけでなく質感まで岩に似ている。岩と違うのは血が通っている温かみがあることか。ゼラムは朱祐の手を軽く握ったあと、蓮翠にも同じように手を差し出す。彼女も朱祐に近い感想を抱いたようで、握ったあとに「おぉ……」と控えめに驚いていた。
「魔術師って仰ってましたけど、それってなんですか。祈祷師とは違うんですか?」
蓮翠が少し前屈みになりながらゼラムに訊ねる。
「神力を自在に操れる奴はみんな魔術師だ。俺も、ギヴィルも」
「答えになってませんよ」これでも食べて黙ってろ、とでも言わんばかりに、ギヴィルは饅頭の半分をゼラムに押しつける。「そもそもお二人は神力がなにかをご存知ないとお見受けしますが」
「知りません。初めて聞きました。朱祐は?」
「僕もだ。超能力みたいなものなの?」
「簡単に言えばそうですね。ただ、その力を持つ者は限られます」
ギヴィルによると、彼らの国の神話では人間は神によって泥から作られたのち、肉体を得る過程で神が持つ超常的な力――神力の一端を宿したという。世代を経るごとに力は失われていったが、一部の人間は変わらず宿したままでいた。それが魔術師だそうだ。
「超能力みたいなものって、神力はどんなことが出来るんですか」
「なんでも出来ますよ。鳥のように空を飛んだり、晴天なのに雨を降らせたり、治らない怪我や病を癒したり、ほかにも色々。しかしなんでも出来るわけではありません」
「なにそれ、矛盾してない?」
ははっと朱祐が笑っても、ギヴィルは生真面目な表情を崩さない。
「人によって得手不得手がある、という意味です。例えば先ほど述べた空を飛んだり雨を降らせたりと言った芸当は、わたしもゼラムくんも出来ません。傷の治癒も、わたしは時間をかければどうにかなりますが、ゼラムくんは全くです」
「そこだけ聞くと『じゃあなにが出来るんだ』って感じなんだけど、あるんだね? 君たちにも得意分野が」
「そういうことです。そして恐らく、お二人にも」
ギヴィルの手が朱祐と蓮翠を示す。えっ、と二人は戸惑いがちに目を合わせた。
「神力は血筋によって特徴があります。それを色や香りで感じ取れる人がいるのですが、けっして多くはありません」
「俺はそんな多くはない人間の一人ってわけだな」
饅頭を食べ終えたゼラムが再び口を開く。いつの間にか二つ目の饅頭も消えていた。ギヴィルの説明中に丸々一つ食べたらしい。
「昨日言っただろ。道を歩いてたら神力の気配を感じたって。俺の場合、においで感じ取ることが出来る。それを辿って行ったらお前たち二人を見つけたわけだ」
あそこでなにをしていたんだ、と問われて、蓮翠が「ちょっとごめんなさい」と席を立つ。戻ってきた彼女は、祈祷の際に持っていく道具一式を入れた竹の籠を抱えていた。
「あたし、普段はここで厨房のお手伝いをしてるんですけど、依頼がある時だけ幽鬼を祓う祈祷師をしてるんです」
まあ違法なんですけど、と蓮翠はしっかり小声で付け加える。
「昨日は依頼があったので、そのお仕事をしてたんです。この紙に魔除けの神さまの名前とお祈りの言葉を書いて、幽鬼の未練を吸い取ってあの世に旅立つお手伝いをしてるというか」
「なるほどなぁ。どんな風にだ」
ゼラムに乞われて、蓮翠がいつものように紙に文字を記す。最後に朱祐を幽鬼に見立てて「こんな感じです」と紙を掲げたところで、ゼラムが深くうなずいた。
「間違いない。嬢ちゃんは確実に神力を持ってる――つまり魔術師の血を引いてるぞ」




