1章――④
朱祐は生まれも育ちも赤香だが、貧民街に足を運んだことは一度もない。朱祐だけでなく、東以外で生まれ育った子どもであればたいてい親から「東のあたりは近づいちゃいけない」と口酸っぱく聞かされるものである。
自分も両親からそう教えられてきたな、と朱祐は懐かしさに目を細めた。
「一度だけ興味本位で近寄ろうとしたことはあるんだ。当時仲が良かった友だち何人かと、度胸試しみたいな感じで」
「そういえばそんな話あったな」貧民街に向かう道を歩きながら、朱祐の左隣で真照が何度もうなずく。「十歳になる前だっけか? 馬鹿なことしたみたいだなって揶揄われてんの聞いた気がする」
「そんなことしてたの?」
朱祐の右隣で、蓮翠が意外そうに目を瞬いた。友人たちと度胸試しに挑んだのは蓮翠が清杏店に来た直後で、あの頃はまだ互いに警戒していて彼女とろくに話せていなかった。知らなくても無理はない。
赤香に流れる小川は貧民街のあたりが下流で、毎日様々なものが流れつく。時には目もくらむような宝が打ちあがっていると噂があり、朱祐たちは一人ずつ交代で小川に行き、宝とやらを持ち帰ってくることにしたのだ。成功すれば一人前、失敗すればいくじなしの称号が与えられる。
結果はどうだったのか、蓮翠が期待の眼差しを向けてくる。朱祐は指先で頬を掻いて首をゆるく振った。
「成功しなかったけどね。僕だけじゃなくて、みんなが。東に近づくにつれてだんだん治安が悪くなっていって、小川にたどり着く前に怖くなってやめちゃったんだ」
身なりの良い子どもが一人で歩くには危険な場所だった。襲って身ぐるみをはげないか相談する声が背後から聞こえてきた時には、これまでに感じたことのない恐怖を覚えて泣きそうになったものだ。
当然、親にもこっぴどく叱られた。心の広さで知られる母が激怒した顔は、後にも先にもあの日にしか見たことがない。「あの子たちともう遊んではダメ」と制限された友人もいて、今はもう度胸試し仲間たちとは疎遠になってしまっている。あらゆる意味で苦い思い出である。
「だから、そんな場所に蓮翠を連れていくのは心配だし嫌なんだよ」
朱祐は足を止め、蓮翠と目を合わせるように少しだけ顔を俯けた。くるりと丸い瞳の翠が鮮やかで美しく、朝日に照らされて輝く新緑の若葉を思わせる。瞳を縁取るまつ毛は影が落ちるほど長く、彼女の知らないところで厨房勤めの女たちが羨ましがっているのを朱祐は知っている。
父は蓮翠の目を〝化け物の証〟として忌み嫌っているが、信じられない。朱祐にとっては蓮翠のあどけなさと美しさを最も象徴する一部である。
「……朱祐?」
黙りこんだ朱祐を不審に感じてか、蓮翠の形のいい細い眉が不安そうに傾く。はっと我に返り、朱祐は「なんでもない」とわざとらしい咳払いをしてから続けた。
「あのあたりの住人たちは常に金目の物を探してるんだ。裕福な人を見かけたら服でもなんでも奪って、それを売って生活の足しにしようと考えてる。僕は蓮翠にそんな視線を向けてほしくない。祈祷は僕がそれっぽくやっておくから、蓮翠は帰った方が」
「そういうわけにいかないよ」
蓮翠が祈祷の道具一式を入れた竹の籠を胸に抱き、力強い声音で朱祐の説得を遮った。
「心配してくれるのは嬉しいよ。でもあたしのところに来た依頼だから、あたしがちゃんとやらなきゃ。それに朱祐、祈祷をそれっぽくやっておくって、そんなこと出来ないでしょ」
「……それは、まあ」
痛いところを突かれて、朱祐はぐっと言葉に詰まった。
朱祐には幽鬼を視る才があるが、はっきり捉えられるわけではない。幽鬼がいる箇所だけ黒い靄がかかったようにぼんやり歪んで視える程度のもので、蓮翠のような祈祷の力も備わっていない。
反論できずにいると、朱祐の左肩に大きな掌がとんっと乗った。
「心配するなって。蓮翠ちゃん一人で行くわけじゃないんだし、なにかあってもお前が守ってやれるだろ?」
「当たり前だろ」
励ますように肩を叩かれるのが照れくさく、朱祐は仏頂面で真照の手を払おうとした。
しかし真照はあっさり躱し、むしろ面白がるように肩を組んでくる。先ほど飲んでいた酒の香りが鼻先を掠め、不快感に唇を思いきり曲げてしまった。
「言っておくけど俺のことは守ってもらわなくて大丈夫だからな。俺にはこれがあるし」
「言われなくてもお前なんて最初から放っておくつもりだよ。……これ?」
朱祐が怪訝に眉を寄せれば、真照は「おう」と気安い笑顔で自身の首元を指さし、そこに下がっていた黒い紐を摘まみ上げる。紐の先には適当に砕いたように歪な形をした灰色の小石が繋がっていた。
「あっ、それ気になってたんです」蓮翠が朱祐の脇からひょいと顔を覗かせ、真照が見せびらかすなにかを控えめに指さした。「首飾りですか? 前まで付けてませんでしたよね」
「取引先で貰ったんだ。手持ちの金が無かったから、その代わりにってさ」
真照は薬を作って売り歩く商売をしている。相手は金持ちから庶民まで幅広く、金を用意出来ないほど貧しい相手からは物々交換のごとく品を譲ってもらうこともある。首飾りもそんな物々交換で手に入れたというのだ。
お人好しを大いに発揮した商売にため息をつきそうになることもあるが、その性分が嫌いになれないから、朱祐は彼との交友を続けているのである。
「実はただの首飾りじゃないんだなあ。悪いモノから自分を守ってくれるお守りなんだ」
誇らしげに胸を張り、真照は朱祐と蓮翠の目の前で小石をふらふらと振った。小石は道端に転がっていそうな見た目で、これといってありがたさは感じられない。朱祐が「悪いモノって、例えば?」と問えば、真照は薄く黄ばんだ歯を見せて「分からない!」とにっかり笑った。
「はあ?」
「譲ってくれた奴がしてくれた説明をそのまま言っただけで、俺も詳しいことは知らない! 病気とか悪運とか、多分そういうのから守ってくれるってことだって解釈してるけど。実際、これを貰ってから風邪も引いてないし怪我もしてない」
「……ちなみに、お守りを貰ってから何日くらい経ったの」
「一週間くらいかな」
「そんな短期間で効果が出るとは思えないんだけど」
真照との付き合いは十五年を超えるが、その間に彼が病で臥せっているところなど見たことがない。怪我だって、骨折のような大きなものは経験がないはずだ。そんな奴に「お守りを貰ってから風邪も引いてない、怪我もしていない」と言われたところで、なんの説得力もない。
朱祐の言わんとしていることを察したのか、真照はごまかすように、笑顔はそのままに無言でお守りをもとのように下げる。かと思えば朱祐の肩に回したままだった腕を勢いよく引き寄せ、わざとらしく目を丸くして前方を指さした。
「着いたぞ。幽鬼が出るあたりだ」
一行はいつの間にか賑わいから遠く離れ、貧民街の入り口とも呼べる場所に到着していた。
貧民街と、貧民街以外の場所は川で明確に区切られている。以前は往来が出来るように橋もあったらしいが、朱祐が生まれるより前に起きた嵐と洪水で流されてからというもの再建はされていない。それでもこちら側に来ようとする住人は多いと見え、土手の一部がくり返し踏まれて抉れていた。
ここ数日は雨が降っていないせいか、水深は浅く、川底の小石が日光に晒されている場所もある。上流で捨てられたものが流れ着いたのだろう、着古した衣類や腐った食べ物なども見受けられ、それを拾う子どもたちの体は栄養が足りていないのがひと目で分かるほど細かった。
ぷん、と漂う臭気に、朱祐は反射的に袖で鼻と口を覆う。ひと吸いするだけで肺が黒く汚れるような、酸っぱさと苦さと腐臭を一緒くたにしたようなにおいだ。蓮翠も異様な臭さを感じているだろうに、鼻をつまむことなくしきりに周囲を見回している。
「蓮翠、これ使って。ここの空気はあまり吸わないほうが良い」
朱祐が真新しい手巾を差し出すと、蓮翠は「ありがとう」とか弱い力で受け取りはしたが、鼻は覆わなかった。
「幽鬼って、あそこにいる人ですよね」
蓮翠が土手の一角を見つめつつ真照に訊ねる。そこには葉一つない細い樹が寂しく佇んでいた。恐らく根はすでに枯れ、いつ折れてもおかしくない状態だろう。
その傍らに、黒く澱んだ影が漂っていた。縦に細長いそれは絶えず揺らめいているが、風に押されてどこかへ流れていく気配はない。
「真照さんには幽鬼って視えないんですよね?」
「おう、視えない。蓮翠ちゃんが言った『あそこにいる人』も俺にはさっぱり」
「朱祐は? 朱祐にはどう視えてる?」
「黒い靄がずっと一ヵ所に留まって、そこだけ景色が歪んでる。蓮翠にはもっとはっきり視えてるのかな」
聞いてから「しまった」と後悔が湧いた。蓮翠が悲しそうに眉を下げ、幽鬼の方を見つめて心の痛みをこらえるように竹の籠を強く抱きしめる。
「……若い女の人。顔が腫れちゃってるから、はっきりした年代は分かりにくい。全身傷だらけで……」
「蓮翠、そこまででいい」蓮翠が幽鬼の外見をより詳しく説明してくれようとしていたが、青ざめつつある彼女の横顔を見て朱祐は慌てて遮った。「言わせちゃって本当にごめん。僕が悪かった。なるべくあっちを見なくて済むように僕が前に立っておくよ」
「ううん、大丈夫。今のうちに慣れておかないといけないし」
幽鬼を確実に祓うには間近まで迫る必要がある。距離があるうちに慣れておきたい蓮翠の主張も分かるぶん、朱祐はそれを優先せざるを得なかった。
――僕に蓮翠と同じ能力があれば、蓮翠が辛いものを視なくて済むのに。
悔しさと歯がゆさに拳を握りしめて、朱祐は八つ当たりだと自覚しながら真照を睨むように見た。
「お前に幽鬼の話をしたのは、貧民街にいる客なの?」
「いや、ここから少し先に行ったところにあるあばら家のじいさん。奥さん亡くして独り身になってから体調崩すことが多くなったみたいでさあ、定期的に薬を買ってくれる顧客なんだよ。あ、ちなみにこのお守り譲ってくれたのもそのじいさんね」
「じいさんのことはどうでもいい。そのじいさんが幽鬼を視て、お前に話したのか」
おう、と真照がうなずいて細い樹に目を向けるが、その視界に幽鬼は映っていないだろう。
「前まで幽鬼なんて視えなかったんだけど、最近になって突然視えるようになったんだと。で、散歩でこのあたりふらふらしてたら女の幽鬼を見かけて、飛び上がるほど驚いたらしい。すっ転んで怪我をしたから、俺のところに塗り薬を頼みに来たわけ」
顧客の老人は幽鬼がいかに恐ろしかったかを語り、そんな恐ろしいものが視えるようになったということは死期が近いのかもしれない、と背を丸めていたそうだ。真照はそんな老人を哀れに感じ、力になってやりたくて蓮翠に祈祷を依頼しに来たわけだ。
朱祐は真照の肩をつつき、その耳元で声を潜めた。
「どう考えても殺されたって分かる見た目っていうのは?」
蓮翠に語らせるのは避けたが、気にはなる。真照も朱祐に倣ってひそひそと答えてくれた。
「幽鬼が出るようになる前に、ちょうどあの樹のあたりで死体が上がったんだ。死んだのは貧民街で暮らす若い女で、旦那と二人暮らしだったらしい。この旦那ってのが酒癖と女癖の悪い博打好きだったらしくてなあ、浮気を問い詰められて刃物だのなんだのを持ち出した喧嘩の末に、な」
女の死体は夫によって川に捨てられた。そのまま流されてしまうのを期待したのだろうが、この水深ではあっという間に石などの障害物に引っかかる。死体はすぐに発見され、夫も捕らえられたという。
幽鬼が出現したのは、死体が見つかった直後からだそうだ。真照の顧客の老人以外にも目撃者が複数人おり、昼も夜も関係なく現れるそれに怯えているらしい。今のところ幽鬼は夫への恨み言や未練をぶつぶつ唱え続けているだけのようだが、放置すれば誰かに憑りついて周囲に危害を及ぼす可能性がある。そうなる前に祓ってやらなくては、幽鬼にとっても生者にとっても良い結果にはならない。
蓮翠が竹の籠を地面に置き、持参していた硯に水滴を落とし、墨を磨って筆を浸す。次いで細長い紙を摘まんで地面に直接置くと、彼女の母の故郷に伝わっていたという魔除けの神の名と、幽鬼への祈りの言葉を手早く記す。その手つきは恐怖と緊張で細かく震えていた。
「じゃ、じゃあ、行ってくる」
紙に皺が寄らないよう気にしつつ両手で摘まんで、蓮翠は一歩ずつ幽鬼に近づいていく。その足取りはぎこちない。
――何回付き添っていても心配だな。
蓮翠は祈祷師の仕事を始めてすぐの頃、幽鬼に憑りつかれた経験がある。異変を察した朱祐が近くに落ちていた紙を蓮翠に押しつけたことで完全に乗っ取られることはなかったが、あの経験によって蓮翠は幽鬼に対して恐怖を覚えるようになってしまった。
普通なら二度と祈祷師の仕事など辞めてしまいそうだが、蓮翠はそうしなかった。「生きている人でも幽鬼でも、困っている人を放っておけない」と決意に満ちた眼差しで言われれば、朱祐もその意思を尊重して強く反対は出来なかった。
蓮翠のように祓う力がない以上、朱祐に出来ることといえば逃げ出した幽鬼を追いかけることと、万が一蓮翠が憑りつかれそうになったら身代わりになること、仕事を終えて疲れ切る彼女を支えることくらいである。
もっと自分に出来ることがあれば、と朱祐が唇を噛む前で、蓮翠が幽鬼のそばに立つ。その顔色は血の気が引いて青白く、恨み言から逃れたそうに何度も顔を振っている。
――耳を塞ぎたくても出来ないんだ。紙を持ってるから。
気づいてすぐに朱祐は蓮翠に駆け寄った。どれだけ近づいても朱祐には幽鬼がただの黒い影に見えるが、蓮翠の目には生者と変わらないほど鮮明に映っているはずだ。まともに立っていられるのが不思議なほど全身が震え、朱祐が助けに来たことも分かっていない。
「落ち着いて、大丈夫」
驚かせてしまわないよう柔らかく声をかけ、後ろからそっと蓮翠の耳を両手で塞ぐ。蓮翠はようやく朱祐に気づいたようで、びくりと肩を跳ねさせてから恐る恐る振り向いた。
「僕がこうしておくから、蓮翠は幽鬼の未練を紙に吸い取ってあげて。どう? 幽鬼の声、ちょっとは聞こえにくくなってるかな」
「……うん。なんでだろ、朱祐の声はちゃんと聞き取れるのに、女の人の声は聞こえなくなった」
「なら良かった」蓮翠の表情がほんの少し明るくなったことに安堵したが、まだ終わりではない。「それじゃあ、今のうちに」
蓮翠は朱祐に小さくうなずくと前に向き直り、手にしていた紙を幽鬼にそっと押しつけた。その瞬間、紙に記された文字がほのかに輝き、二人の前に佇んでいた黒い影がするするとそこへ吸い込まれていく。
輝きが収まると同時に、黒い影も消えていた。蓮翠の手の中にある紙は、いつものようにどす黒く染まっている。
無事に終わったのだ。心なしか周囲の空気が澄み、呼吸がしやすくなったような気もする。蓮翠の肩からは明らかに力が抜け、朱祐は彼女がそのまま崩れ落ちてしまわないよう、さり気なく背中を支えた。
「お疲れさま、蓮翠」
「朱祐こそ。ありがとう、耳を塞いでくれて本当に助かった。憎い、悔しいってずっと話しかけられて、このまま憑りつかれるかもって考えたら怖くて、体が動かせなくなってたの。朱祐が助けてくれたおかげでちゃんと未練を吸い取ってあげられた」
「僕にはこれくらいしか出来ないから。少しでも蓮翠の助けになれたなら嬉しいよ」
「おーい! 終わったか?」
見物を決め込んでいた真照に呼びかけられ、朱祐は蓮翠を支えたまま、軽く手を挙げて返事の代わりにした。
帰って紙を燃やそうか、と朱祐が蓮翠に微笑みかければ、彼女も穏やか笑みでうなずいたあと、きりりと眉尻を上げた。
「でもその前に、真照さんから報酬を貰わないと」
「確かに。一番大事なことを忘れてたね。せっかくだからいつもの二倍くらい請求してみたら?」
「そんなことしないよ。他のお客さんと同じよう、に……?」
蓮翠の語尾が不自然にしぼむ。どうやら真照の方を振り向いて、なにかを見つけたらしい。
どうしたのだろうと朱祐も振り返って、眉間に皺を寄せた。
真照の後ろに見慣れない二人組が立っていたのだ。やけに存在感のある岩のような男と、その隣で柳のごとくしなやかな佇まいで控える青年。朱祐たちの怪訝な表情で真照も違和感を覚えたのか、背後を見て「うおっ」と飛びのいていた。
岩のような男はその反応をおかしそうに笑ったあと、にやりと唇を歪めて一歩踏み出して口を開く。
「さっき神力を使ったのは、お前ら二人だよな?」
聞き慣れない言葉に、朱祐は蓮翠と何度も目を合わせるしかなかった。




