1章――③
蓮翠が赤香に来たのは十一年前――五歳になってすぐの夏だった。
それまでは遥か北にある山間の村に、両親と姉、蓮翠の四人で暮らしていた。当時の記憶はほとんどない。娯楽の少ない村で、子どもたちにとっての遊びと言えば山に入って木の実を取るか、両親の手伝いと称して畑を手伝うかで、蓮翠がかすかに覚えているのもそのあたりだ。
村を出たのは父の死がきっかけだ。冬の時期に病が流行し、父はそれに罹って闘病の末に命を落とした。葬儀を終えて数日も経たないうちに、蓮翠たちは村を飛び出した。
原因は蓮翠の瞳である。
巴瑛帝国に古くから伝わる神話には、緑色の目をした怪物が登場する。書物によって外見の描写は多種多様だが、目が緑色という点は共通している。怪物は天変地異を自在に引き起こす力を持っており、己の快楽の赴くままに帝国のあちこちで災いを引き起こした。
最終的に怪物は勇ましい皇帝の手によって首を狩られたが、その瞬間にとてつもない量の血が噴き出した。それを浴びた皇帝の臣下は怪物と同じ目の色になってしまい、行動までもおかしくなってしまった。体と頭を乗っ取られたのである。臣下はそのままいずこかへ消え、今もどこかに潜んで手下を増やしながら帝国に様々な災いをもたらしているという。
帝国に暮らす民なら誰でも知っている話だ。緑色の目は災いをもたらす怪物の目――蓮翠の瞳の色は、怪物と同じ緑色だった。
蓮翠が生まれた時、両親はもちろん近所の人々も怖がったそうだ。こんな娘は殺してしまうべきだ、いや殺すとかえって怪物の怒りを買ってしまうのでは、目を抉ってしまうのはどうだ、と議論が重ねられたものの、どれも実行されることは無かった。父が「怪物の目なんて迷信だ。災いなんてなにも起きないとこの子がきっと証明してくれる」と村人たちをどうにか説き伏せたらしい。
しかし病の流行で父のほかにも何人か死に、村人たちは「怪物の目をした娘がいるせいだ」と口々に噂した。完治せずに臥せったままの村人も少なくなく、あの娘を殺せば村は元通りになるとまことしやかに囁かれた。
母は「もうここでは暮らせない」と判断したのだろう。誰もが寝静まった真夜中に、蓮翠と姉の手を引いて、着の身着のまま同然で村から逃げ出した。蓮翠は五つ年上の姉の顔を見上げた記憶があるが、月明かりに照らされた頬は涙に濡れていた。
村を飛び出しても、帝国内に頼れる身内はいない。母は遠い異国の出身で、父はそんな母との結婚を決意した際に親族から勘当を言い渡されていたのである。行く当てもないまま、三人は「とにかく村から遠い場所へ」とひたすら南下した。
山を越えて河を渡る日々の中で、姉とはいつの間にかはぐれてしまった。「水が無くなったから汲んでくる」と言い残したまま戻らなかったのだ。あとで聞いた話によれば、蓮翠たちが通ってきた山には人を攫って売り飛ばすのを生業とする賊が潜んでいたそうだ。姉はその魔の手に掛かってしまったのだろう。
「そんな壮絶な過去があったのかよぉ」
おいおいと涙を流して、若い男が机に突っ伏す。蓮翠はその背中を「落ち着いてください」と擦ってやろうとしたのだが、男の向かい側に座っていた朱祐に「放っておいていいよ」と肩を竦められた。
「真照が涙もろいのは昔からなんだ。いちいち構っている方が面倒くさい」
「面倒くさいなんて言うなよぉ、幼馴染に向かってひどいじゃんかぁ」
「幼馴染だからこそだよ。まったく。とりあえずそのみっともない顔をどうにかしなよ」
ほら、と朱祐から手巾を差し出されて、若い男もとい真照が顔を上げる。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔はみっともないながらも愛嬌があった。蓮翠は思わず笑みをこぼしてしまいそうになり、胸に抱えていた丸い盆でそっと口元を隠した。
真照は手巾で涙を拭い、盛大に鼻をかんでから朱祐に返そうとする。しかし朱祐は思いきり眉を寄せて「いいよもう。そのままお前にやる」とうんざりした口調で断っていた。
「そうか? それならそれで嬉しいけど、悪い気もするな」
「そう思うならなにか飲み食いして金を落としていけ。そうだ、この前良い酒を仕入れたんだ。度数も値段もうちで一番高いやつ。蓮翠、こいつにそれを出してやって」
「いやいや待て待て! 一番安いのでいい! あとついでに適当に摘まめるもの!」
「分かりました。すぐにお持ちするので待っててください」
蓮翠がにこりと微笑みかければ、真照がほっとしたように肩から力を抜く。
朱祐と真照は物心つく前からの仲だと聞く。幼馴染ならではの気の置けないやり取りが、蓮翠はたまに羨ましく感じられた。
――そんなこと考えてる場合じゃなかった。
ふるふると頭を振り、蓮翠は厨房に戻った。
清杏店の一階にある厨房では、女たち数人が休みなく手を動かしている。昼の一番忙しい時間帯は過ぎており、現在は夜に向けての仕込みを進めているのである。蓮翠は厨房を取り仕切る年配の職人に軽食と酒の注文が入った旨を伝えに行ったが、その間、彼女は一切目を合わせてくれなかった。声まで無視されなかったらしいのは首がかすかに上下する動きで察したが、なんとも言えない寂しさが胸に渦巻く。
――慣れなきゃって分かってるけど、難しいなあ。
注文したものが用意されるまで、邪魔にならない場所で待たなければならない。蓮翠はそっと厨房のすみに移動して可能な限り体を縮め、蒸気が漂う天井を見上げた。
姉とはぐれたあとも、蓮翠は母に連れられて移動を続けた。疲労が限界を超え、もうこれ以上は移動できない、と諦めた頃にたどり着いたのが赤香だったそうだ。
それまで住んでいた村とはなにもかもが違う土地だった。人の多さ、家屋の造り、食文化。当然ながら知り合いなど一人もおらず、長旅でみすぼらしくなった二人の外見に奇異の目を向けられることもあった。それでもここで生きていくしかない、と母は決心してどうにか働き口を見つけようと奮闘したが、どこの肆でも門前払いされた。
そんな中でたった一軒、母と蓮翠を拾ってくれたのが清杏店だった。店主である朱祐の父は「身元の怪しい奴らを雇うつもりはない」「うちに泊まりに来る客を相手に盗みでも働いたらどうする」と猛反対したのだが、朱祐の母・礼珠が力強く説得してくれたおかげで、二人は店に身を置けることになった。
『困ってる人を放っておくなんて、そんなことしたら麒麟さまに怒られちまうよ。うちの旦那がなに言ってきても聞き流しゃいい。ちょうど人手も足りなくて困ってたところだしね』
巴瑛帝国は一年ほど前まで、南にある隣国と領土をめぐる小競り合いをくり返していた。赤香の近くでも何度か争いが起こり、男たちが兵として取られるばかりか、進軍してきた隣国の兵による乱暴狼藉によって死者も出た。結果、清杏店だけでなく赤香のあちこちで人手不足が発生したらしい。
蓮翠と母は礼珠の厚意により、ほとんど使われていなかった物置を改装した部屋に居候させてもらえることになった。母が昼間に厨房で働いている間、蓮翠の相手は四つ年上の朱祐と、朱祐の二人の兄がしてくれた。彼らの優しい気質は礼珠譲りで、日々の遊びの中で蓮翠に読み書きを教えてくれた。
穏やかな生活を手に入れたと思ったのも束の間で、半年ほど過ぎた頃に母が体調を崩した。気丈に振る舞ってはいたが、慣れない土地に来てからずっと体も心も無理をしていたのだろう。介抱の甲斐なく、母はあっけなく逝ってしまった。
このままではここに置いてもらえないかもしれない。子どもながらに蓮翠はそれを恐れ、母の代わりに働くと宣言して以来、ずっと清杏店に厨房手伝いとして身を置いている。
ただ、蓮翠を取り巻く状況は厳しい。
「あ、あの」
蓮翠とほとんど年の変わらない、厨房の中で最も若手の少女がおずおずと近づいてくる。手にした盆には筍と葱を細かく刻んだ餡が詰まった乳白色の饅頭と、陶器の酒器と小さな杯が乗せられていた。
蓮翠がそれを受け取って礼を言うなり、少女は逃げるように背を向けて小走りで去っていく。なるべく目を合わせないよう、顔はずっと伏せられていた。
かつて暮らしていた村ほどではないようだが、緑色の目をした怪物への恐れは赤香にも残っている。蓮翠と話せば災いが降りかかるとでも思っているのか、厨房だけでなく、清杏店に勤める従業員は可能な限り蓮翠と関わろうとしない。
以前は礼珠がそれとなく蓮翠と従業員が良い関係を築けるよう気を回してくれたのだが、その礼珠も、二年前に亡くなっている。
礼珠だけではない。朱祐の二人の兄もだ。
上の兄は隣国との戦に赴き、物言わぬ骸となって帰ってきた。下の兄は旅に出た宿泊先でひどい火事に遭い、帰ってきた骨が果たして本人のものか知るすべはない。
息子二人を立て続けに亡くし、溌溂としていた礼珠は少しずつやつれていった。料理に使えそうな草を摘みに行ってくる、と出かけた先の山で、足を滑らせて転落死してしまった。
怪物と同じ目をした娘がいるせいだ、と従業員たちが噂して、朱祐の父もそれを信じ、蓮翠を追い出そうとした。お前が来てからうちの店はめちゃくちゃだ、息子と妻を返せと殴られそうにもなった。
それを庇ってくれたのが、他でもない朱祐である。
「お待たせしました。お酒とお饅頭です」
蓮翠は朱祐たちが待つ机に戻り、真照の前に品物を置く。真照の目の周りは号泣を物語るように赤く腫れぼったいが、待っている間にひとまず涙は止まったようだ。嬉しそうに頬を綻ばせるとすぐ盃に酒を注ぎ、美味そうに一息で煽っていた。
「昼間から呑む酒ってのは美味いよなー。朱祐も、ほら、どうだ。一口」
「遠慮する。僕が酒に弱いの知ってるだろ」
「弱いからこそ潰れるまでの様子を眺めるのが面白いんじゃねえか」
「よっぽど一番高い酒を流し込まれたいんだね? お望みどおりにしてあげようか」
「口が滑りましたごめんなさい。わー、饅頭も美味そうだ」
真照は朱祐から目を逸らし、明らかに棒読みしながら饅頭を手に取ってかぶりつく。蓮翠と朱祐は目を合わせ、そろって肩を竦めた。
「蓮翠、ちょっと」朱祐が蓮翠を小さく手招きし、自身の耳を小さく叩く。耳を貸せ、ということだ。「厨房は大丈夫だった? いじめられてない?」
「そんなことされてないよ。大丈夫」
「……君はいつもそう言うけど」
「本当に大丈夫だってば。心配し過ぎ」
清杏店はもともと朱祐の上の兄が継ぐ予定だったが、彼も下の兄も故人の今、後継ぎは朱祐である。朱祐が礼珠同様に蓮翠を気にかけているのを従業員たちは把握しており、蓮翠をいじめようものなら将来の雇い主に悪い心証を与えてしまうと考えているようで、小声の悪口こそあれど、殴る蹴るといったあからさまな暴行や、身の回りの品を意図的に汚したり隠したりなど陰湿ないじめは今のところ受けていない。
――ありがたいことではあるけど、でも、朱祐の権力を盾にして身を守っているようで、落ち着かない。
もし朱祐の身にもなにかあれば、最悪の場合、蓮翠は今度こそ清杏店を追い出されるだろう。厨房手伝いとしての給金はほんのわずかで、ほとんど使うことなく貯めてあると言っても、行く当てもなく彷徨う生活を続ければ三年もせずに行き倒れること間違いなしだ。
――だから今のうちに、出来るだけ貯金を増やさないと。
朱祐に頼らず、怪物を同じ目を持つ自分一人でも生きていけるだけのすべも身につける必要がある。
そのために蓮翠は、違法だと分かりながら祈祷師の仕事を受けているのだ。
困っている人のためという表向きの皮を被って、本当はただ自分のために――怪物の目を持つ自分がこれから先も生きていくために。
「それで、真照さん。相談があって朱祐のところに来たんですよね」
蓮翠は空いていた椅子を朱祐の横に置き、腰を下ろしながら問いかけた。真照は残り一口になっていた饅頭を飲みこみ、酒で喉を潤してから「おう、そうそう」と机に肘をつく。前屈みになった拍子に、彼の首元できらりとなにかが輝いた。首飾りだろうか。
「朱祐にっていうか、正確には蓮翠ちゃんにね」
ということは、と蓮翠と朱祐の潜めた声が重なる。真照はにやりと口の端を歪めてうなずいた。
「お前らってさ、赤香の東の方って行ったことある?」
「東……あたしはまったく。朱祐は?」
「通りかかったことはあるけど、行ったことは無いな。というか、わざわざ行くような場所でもないだろ、あんなところ」
朱祐の言い様に、蓮翠はきょとんと首を傾げた。
「東の方はいわゆる貧民街なんだよ。住む場所も働く場所もない、食べるものにも困った人たちが最終的にたどり着く区域だ。治安も悪いし、窃盗も暴行も日常茶飯事だって聞く」
「貧民街……」
そんな場所があったとは知らなかった。街中でもたまに貧しい生活をしているとひと目で分かる者を見かけるが、彼らは貧民街から少しでも恵みを求めて来ているのかもしれない。
「その貧民街がどうしたんだ」
真照に話の続きを促すように、朱祐は腕を組んで机に寄りかかる。
「貧民街の手前に、小さな川が流れてるだろ。俺、仕事の都合であのあたりはよく通るんだけどさ、出るらしいんだよ。なにが出ると思う?」
「もったいぶるな。さっさと言って」
机の下で朱祐に脚でも蹴られたのだろう。「いてっ」と真照は唇を尖らせて、わざとらしく咳払いをしてから口の横に手を添え、より一層声を潜めた。
「幽鬼だよ。どこからどう見ても殺されたって分かる、女の幽鬼がさ」




