1章――①
蓮翠が足を踏み入れた部屋には、のっしりと重苦しい空気が満ちていた。
時刻は昼を過ぎたあたりだが、部屋の扉から見て右にある西向きの窓は小さく、外から取り入れる光は乏しい。窓の外にある格子には蔦が這い、それも光を遮る一因になっている。
窓の反対側には脚の短い寝台が置かれ、寝具一式は薄っぺらく寝心地は悪そうだ。寝台と窓の間には衣類が点々と散らばっている。この部屋の主は片付けが苦手だったのだろう。衣類の隙間から覗く板張りの床は所々が腐っていた。天井も同様の有様で、雨漏りを物語る黒い染みがほぼ全面に広がっている。その一部が涙を流す人の顔に見えて、蓮翠は危うく悲鳴を上げそうになった。
――しっかりしなきゃ。
気合いを入れ直すべく両頬を軽く叩いて、新緑に似た色合いの大きな瞳で扉の正面を見据える。
壁際には箪笥が置いてあった。衣類を収納するためのものだろうが、その役目を果たせていなかったのは床に散らばるものを見れば分かる。天板には木彫りの馬らしき像が載っているが、目を凝らせば馬の頭には枝分かれした一対の角が生え、風になびく長くたくましい髭も確認できた。民の間で広く信仰されている〝尊象教〟の神の一つ、麒麟を象っているのは間違いない。
麒麟像の脇には左右対称に燭台と花瓶が並んでいた。燭台のろうそくは使いかけのまま放置され、花瓶の花はすっかり枯れて葉と花弁を天板に散らしている。像の手前にある平たい器には食べ物か水を備えていたようだが、今はなぜか楕円形の黒っぽい石がころんと一つ乗せられているだけだ。像の奥には四角い鏡もあるが、表面が薄汚れているようで、蓮翠の狐色の癖毛はかすかにしか映っていない。
そんな箪笥の前に、座り込んでいる人影がある。
扉に背中を向けているため顔は分からない。ぶつぶつとなにかを唱える声は低く、肩の広さも相まって男性なのは察せられた。歳は三十代前後か。纏っている袍は部屋の空気に染められたような黒で、背中の半ばまで伸ばされた髪も同じくらい黒いが白髪も混じっていた。手は顔の前で固く組まれ、目線は床に落ちている。麒麟像に祈りを捧げているのだろう。
男の周囲には、黒っぽい靄が煙のように漂っていた。
「どうだい、やっぱりいるかい」
背後から心配そうな嗄れ声に訊ねられて、蓮翠の肩がびくりと跳ねた。
勢いよく振り向けば、皺の多い老人が二人、怪訝そうに眉を寄せて立っている。ここの家主とその妻だ。「そんなに驚かなくても」と妻の方にため息まで漏らされ、申し訳ないやら恥ずかしいやらで顔が熱くなった。
「す、すみません」蓮翠は謝りながら何度も頭を下げて深呼吸をし、気分を落ち着かせてからようやく家主の問いにうなずく。「いらっしゃいます。あそこの箪笥の前に」
声には出さなかったものの、家主も妻も「やっぱり」と言わんばかりに目を合わせて顔を強張らせた。あれは誰かと蓮翠が聞くより先に、家主が「ここは倅が使ってたんだがね」と部屋から視線を逸らす。
「二ヶ月くらい前だったかに東の方の酒肆で騒ぎがあったんだ。酔っ払い同士の喧嘩だったんだが、常連だった倅はそれに居合わせちまってね」
酔客二人による口論はやがて周囲を巻きこんで殴る蹴るの暴行に発展し、最終的に死者一人、負傷者複数の被害を出す惨事となった。その死者というのが家主の息子である。騒動の最中で頭を強く殴られたかぶつけたかして倒れ、そのまま目覚めることなく帰らぬ人となった。
夫妻にとって彼は四十路目前にようやく授かった一人息子で、大切な子どもを亡くした悲しみは深かった。ひょいと息子が帰ってきそうな気がして部屋を片付けることも出来ず、一日に何度も扉を開けて中を覗いては涙を拭った。
「妙だと思ったのは一週間前の夕方だよ」
夫妻はその日も変わらず息子の部屋を覗いた。本当にあの子はいなくなってしまったんだ、と家主が改めて実感する隣で、妻が「ちょっと、あそこ」と震える指で前方を――箪笥を示す。
そこには麒麟像に向かって祈りを捧げる息子の背中があった。しかし何度名前を呼んでも無反応で、たまらず夫妻は部屋に入って息子に触れようとしたものの、手はすり抜けるばかり。次第に息子の姿は見えなくなってしまったが「幽鬼になって戻ってきたのだ」と理解するのに時間はかからなかったという。
「初めは嬉しかったんだよ。ちゃんと視えたのは最初の一回きりで、そのあとはたまに、しかも一瞬しか出てこなくなったけど、どういう形であれまたあの子に会えたんだから良かった」
でも、と妻はそこで言葉を区切り、一瞬だけ息子の部屋を見やって体を震わせた。
「幽鬼になったってことは、神さまに『生まれ変わるな』ってあの世を追い出されたってことじゃないか。このまま放っておいたら祟るかもしれないって考えたら怖くてねえ」
人々の魂は死後、天上にある麒麟の宮殿に入り、そこで暮らす神々のために仕えたあとに働きを認められた者から順に生まれ変わるとされている。宮殿に入ることが許されるのは清らかな魂の持ち主だけで、そうでない者は門前払いを食らい、哀れな幽鬼となって地上を彷徨うのである。
ただふらつくだけなら害はないが、幽鬼の多くはやがて人に憑りついて体を乗っ取り、生前に果たせなかった未練を果たそうとする。憑りつかれた人間は著しく体調が悪くなり、最悪の場合は死に至る。夫妻は幽鬼の息子がいずれ自分たちに憑りつき、命を奪ってしまうのではと恐ろしくなったらしい。実際、ここ数日は悪い予想ばかりが巡ってろくに睡眠もとれず、それが原因の体調不良に見舞われているそうだ。
「それであたしのところに話が来たんですね」
蓮翠は再び箪笥へ目を向けた。息子は相変わらずぶつぶつと唱え続けている。尊象教の祈りの言葉かもしれない。夫妻の目にはっきり映ったのは初めの一度きりだったと言っていたが、目に視えないだけで幽鬼はずっとここにいたはずだ。
「ちゃんとした祈祷師に頼むべきってのは分かってるさ。けどいざ紹介されたところで話を聞いたらとんでもない額を言われてね」
夫妻は女性向けに簪や櫛などを売って生活している。提示された額を気前よく支払えるだけの稼ぎは無く、いったん考えると断って帰ってきたが、幽鬼が恐ろしいことに変わりはない。
そこで耳にしたのが、格安で幽鬼を祓う娘がいるという情報だった。正規の祈祷師が一度の依頼で金貨三枚も要求するのに対して、娘は銅貨三枚――金貨一枚と銅貨千枚が同価格である――で引き受けてくれる。その額であれば夫妻にも支払える。これは頼まない手はない、と藁にも縋る思いでその娘――蓮翠に相談を持ちこんだ。
「ちゃんとした祈祷師ではない」と遠回しに言われた気がしたけれど、事実なので否定出来ずに蓮翠は苦笑いするしかなかった。祈祷師として商売をするには専門の学校に通い、様々な試験を経て合格しなければならないが、蓮翠はその道を通っていない。ほとんど独学で、いわば〝違法祈祷師〟なのだ。
それでも頼られたからにはやらないわけにはいかない。蓮翠は足元にある竹で編んだ籠の中から硯と墨を取り出し、夫妻に少し水を貰って手際よく磨り筆を浸す。それを右手に持ち、最後に白く細長い紙を左手で摘まみ上げてから箪笥の前にいる幽鬼に歩み寄った。
一歩ずつ近づくたびに、幽鬼の周りに漂う黒い靄がこちらを警戒するように濃くなる。ひっ、と蓮翠の喉が情けなく痙攣した。
次の瞬間、けたたましい音を立てて背後の扉が閉まった。ただでさえ薄暗かった部屋はさらに暗くなり、「大丈夫かい」「どうしたんだ」と夫妻が扉を叩く音が部屋にやかましく響く。
筆を持つ手が震える。とにかく少しでも明るい場所へ、とほのかな明かりを頼りに窓際を目指すべく足を踏みだそうとして、蓮翠は硬直した。
黒い靄の中心で箪笥に祈りを捧げていたはずの幽鬼と目が合ったのだ。体は正面を向いたままなのに、首だけが捻れて正反対になっている。暴行を受けて死んだ姿のままらしく、瞼は紫に腫れ上がって目を押し潰し、切れた口の端からは血が流れていた。
ゆら、と男が立ち上がり、蓮翠はいよいよ堪えられずに悲鳴を上げた。
「お疲れさま、蓮翠」
夫妻から報酬を受け取って外へ出ると、傍らから労いの言葉がかけられた。蓮翠がよろよろと視線を上げれば、若い男がただでさえ細い目をさらに細めて微笑んでいた。濃紺の長袍に包まれた体は縦に細長く、高い鼻梁と薄く色づいた唇、幞頭から覗く黒髪の艶は目を惹くのだろう。近くを通り過ぎる娘たちがひそひそと声を交わしているが、本人はそれを素知らぬ顔で受け流している。
「無事に終わったみたいだね。大きな物音がしたけど大丈夫だった? 怪我はしてないかな。幽鬼に襲われたりは? 報酬もちゃんと受け取った?」
「心配してくれてありがとう。全部大丈夫」蓮翠は腕に抱えていた竹の籠を軽く傾けて中身を見せた。「朱祐こそお疲れさま。ずっと立ってて疲れたでしょ」
「僕はここで幽鬼が逃げ出していかないか、蓮翠の邪魔をする奴がいないか見張っていただけだ。なにもしてないに等しいよ」
夫妻の肆の前でずっと喋っていたのでは邪魔になる。仕事も最後の仕上げが済んでいない。蓮翠は朱祐と呼んだ男と並び、居候先でもある朱祐の自宅へ急いだ。
朱祐の実家は代々旅館〝清杏店〟を営んでいる。旅館では客に向けて食事も提供しており、厨房では深夜以外の時間、基本的に火が燃えている。二人は裏口から旅館の敷地に入り、せせこましい裏庭に残った朱祐にいったん竹の籠を預けて、蓮翠は厨房から火種を貰ってきた。
火が消えないうちに裏庭へ走れば、朱祐が黒く変色した細長い紙を摘まんで待ち構えていた。蓮翠はそっと火種から紙へ火を移し、それは白い煙を上げながら瞬く間に紙を呑みこんで灰にしてしまう。
ようやく肩の力が抜けて、蓮翠はぐったりとうずくまった。朱祐が煙の名残を手で仰いでかき消すのを眺めながら「ちゃんとあの世に迎えたかな」と疲労が滲む声で呟く。
「大丈夫だよ。だって蓮翠が祈祷したんだから」
「思いっきり悲鳴上げちゃったけどね……」
「やっぱり?」
聞こえてたんだ、と頬を赤くして聞けば、あれだけ大きな声ならね、と返される。
男が立ち上がったことに動揺して、蓮翠は悲鳴を上げながら尻もちをついてしまった。それでも「依頼は果たさなければ」と使命感に突き動かされ、床に散らばる衣類をかきわけて露わになった床に紙を置き、わずかな明かりを頼りにそこへ筆を走らせる。
蓮翠が書きこんだのは、亡き母の故郷に伝わっていたという魔除けの神の名と、幽鬼が未練を手放してあの世へ旅立てるよう祈る言葉だ。その紙を急いで男の顔に押しつけるように掲げて間もなく、男も、部屋に漂っていた黒い靄も消えた。一方で蓮翠の手にある紙は神の名も祈りの言葉も見えないほどどす黒く染まっている。
幽鬼の未練を紙が吸収したのだろうと蓮翠は考えているが、詳しくは分からない。祓う手順として正しいかすら。けれどいつもこれで幽鬼は消え、二度と現れない。紙はそのまま保管しておくのも気味が悪く、いつも帰宅してから燃やしてしまう。
土を浅く掘り返して灰を混ぜ、元の通りに戻す。蓮翠はぺたぺたと地面を叩いて「とにかくちゃんと終わってよかった」と安堵の吐息をこぼした。
「失敗したらどうしよう、上手くいかなかったらどうしようっていつも心配なの。だったら引き受けなきゃいいだけの話なんだけどね」
「確かに。本音を言えば、僕も祈祷師の仕事なんて危ないからやめてほしい。今回は無事でも、次の依頼では蓮翠が憑りつかれてしまうかもしれない。そもそも正規の祈祷師じゃないから、いつ捕まって罰を受けたっておかしくないんだよ」
「そうだけど、でも」
「分かってるよ。困ってる人を放っておけないんだよね」
蓮翠のそういうところが僕は好きだよ、と淡い微笑みを向けられて、蓮翠は気まずく目を背けた。
――困ってる人を放っておけない……のはもちろんだけど。
本当の目的を教えればきっと、朱祐は怒るに決まっている。
蓮翠は青く晴れ渡った空を仰いだ。麒麟の宮殿に入れるのが清らかな魂だけなのなら、自分はそれに該当しない。遠い将来に自分も幽鬼になってしまう可能性を考えて、蓮翠は小さく唇を噛んだ。




