3
朝、エディスは柔らかな陽射しを感じて起き上がる。横にはすやすやと眠る娘がいて、昨夜の出来事が夢のように思えた。けれども眠る前まであった体の重さが綺麗さっぱり消えていることに気がついて愕然とする。ああ、やはり昨夜の出来事は夢ではなかったのだ。
リンを起こさぬように静かにベッドから抜け出し、部屋を出る。多分こちらがキッチンだろうという直感で進み、ゆっくりと歩く。そこにはエディスが思っていた通りの人物がいた。
「やあエディス、この器では初めましてだね」
「……罰様」
「なんでそんな顔してるの。貴女はきちんとやるべきことをやったし、今でも信仰は受け取ってる。今回の件は母上から頼まれたことでもあるし」
立っていたのは、少女とも女とも言えぬ絶妙な可憐さと色気を併せ持った人。カラスのように光の加減で色を変える黒髪、朝焼けの大地を思い出すような紅い瞳。本来ならこんな場所に降りてくるはずのない方だとエディスは知っている。
「さあ、ネムとリンが起きてくる前に――どこまで話すか決めておこうか」
有無を言わさない圧のある声に、エディスは頷くしかなかった。
◆
おはようございます、ネムです。起きたら凄まじい魔力の圧を感じます。起きたくないですが起きないと確実に怒られます。これ絶対罰様がいらっしゃいます。おひとりだけです。赦様がいらっしゃいません。勘弁してください。
と、心の中でいくら助けを求めようと助けは来ない。諦めて起き上がり、身支度を済ませる。体の隅々まで自分を広げてしっかりぴったりと合わせる。よし、行くか。
扉を開ければ丁度リンも部屋から出てきたところでお互いの目が合う。
「おはようございます、リン。昨夜はちゃんと眠れましたか。」
「うん。寝れないかなって思ってたけど、ベッドがふかふかですぐ寝ちゃった」
勝った。特に勝負をしていたわけではないが勝った。ふかふかにしていた甲斐があるというものだ。
二、三他愛のないことを話しながら居間の方に向かう。丁度エディスと罰様が朝食をテーブルに並べているところだった。
……………いやちょっと待ってほしい。エディスが元気に動いているのはあとで聞くとして、罰様は何をしていらっしゃる?何故平然とお皿を並べてるんだ?
「あ、おはよ。朝食ならできてるよ。って言っても作ったのはエディスだけど」
そういう問題ではない。リンの方を見れば目をまん丸くしてふたりを見ていた。驚いているが、視線が罰様ではなくエディスの方に向かっている。……そこまで悪かったのか。
「それよりも先になぜ罰様が降りてきているかの説明が先ではないのですか。リンもこんなに驚いています。」
「通信妨害されそうになってね、直に来た方が楽だし来ちゃった♡」
来ちゃったではありません。そう叫びたかったがグッと堪える。だが今ここにいる罰様は本神だろうが本体ではない。通信妨害も嘘くさいが本当のことだろう。
私と罰様を他所にリンはエディスに駆け寄る。エディスは持っていたお皿を一度置くとリンに向き直り、優しい笑みで彼女の目を見つめた。
「そ、それよりお母さん!寝てなくて大丈夫なの!?」
「ええ。……もう大丈夫。ごめんね、苦労をかけて」
確かに昨日まであった隈はなくなり、顔色も明るくなっている。おかしい、一晩ぐっすり眠ったとてすぐに改善する様な症状ではなかったはず。横目でちらりと罰様の方を確認すると、黙ってろと言わんばかりに微笑まれる。絶対何かしたに違いない。
神様は現世に降りてくる際、権能以外の力を制限される。不便ではあるが逆を言えば権能の範囲なら好き放題できる……と、赦様が教えてくれたことがある。恐らくそれを使ったのだろう。
「ほら、朝食を頂きましょう?」
「……うん」
リンは少し納得が行ってなさそうな顔をしている。まあ無理もないか。昨日まで良く寝込んでいた相手がいきなりもう大丈夫というのは、少し不気味だ。良くない薬を飲んだのかと疑ってしまいそうになる。
「ネムも早く食べな。冷めちゃうよ」
「……はい。」
いろんな言いたいことを飲み込んで席に着く。
……出された朝食は、とても美味しいはずなのに味がしなかった。
「さて、じゃあ説明の時間だね」
はいこれ、と紙の束が配られる。表紙に書いてあったのは、リンとやたら顔のいい男たちと――[蜜月は吸血鬼と踊る]という表題。
「審査対象から読み取るのに苦労したよー。それが審査対象が持つ[前世の記憶]ってやつ」
「な、なんで私が真ん中にいて祈ってるんでしょうか……?」
「それは君が、審査対象の前世の記憶の中の乙女ゲーム……疑似的に恋愛を楽しむ遊戯盤の主人公だからだね」
「疑似的な恋愛……」
「ま、嫌だろうけど聞いてね」
罰様の話はこうだ。
舞台は中世ヨーロッパ風の世界。主人公はリン・ブラウンという名前の少女で、母親を助けるために日々働いている少女。そんな少女がある日悪い大人たちに騙され、必死の思いで逃げ出しているところをとある吸血鬼の貴族、ルーファスに助けられるところから物語は始まる。
真面目で少し硬いところはあるが主人公を常に助けてくれる侯爵嫡男ルーファス・アジェマン。
ルーファスの幼馴染兼騎士、軽薄だがどこか影を感じる子爵家三男アラン・ブラマー。
気難しいが実は可愛くて小さいものに弱いギャップ系宰相子息ハロルド・フェルプス。
子犬を思わせる笑顔で人を追い詰めるのに容赦のない伯爵家次男ジュリアン・ノーサム。
面倒見がよく、彼らの兄貴分で努力を重ねているがそれを見せない公爵家嫡男ウォルター・ドライブラ。
……顔がひたすらキラキラしている。じっと見ていると目がちかちかしてきた。リンの方をこっそりと確認すると眉を顰めながらも資料を見ている。
「……この人たちが、あの時私を助けてくれる予定だったんですか?」
「そう。……それで、この子が審査対象」
指差した先には綺麗な顔の女性。煌びやかな衣装に身を包み自信に満ち溢れた顔。先日も顔を確認してきたが、こちらの絵の方が少しばかり優しそうだ。
「名前はソフィア・ドライブラ。ウォルター・ドライブラの妹で、リンの親友になるはずだった愚か者」
「し、親友……こんな綺麗な人とですか……?」
「見かけは綺麗ですが、本物の中身は醜悪です。……リンを助ける前にこっそり聞いていましたが、貴女のことを野垂れ死ねばいいと言っていました。」
そう告げてしまったせいか、彼女の柔らかな蜂蜜色の目が丸くなる。そんな顔をさせるつもりじゃなかったのにと声をかけようとしてぺちんと罰様から手を叩かれる。口を出すなと言いたいのだろう。
「リン、へこんでいる場合じゃないよ。今回の問題はこれ以外にもあるの」
リンは俯いて顔を上げない。エディスはそれを見て痛まし気に目を伏せたが、一つため息をついて口を開いた。
「……ドライブラ家は、闇男神様の神殿に仕える神職の一族です。昔は、交流がありましたが……今では……」
「そうなんだよね、それが一番の問題。光と闇は表裏一体、光り輝けば輝くほど闇は濃くなり、闇が栄えれば栄えるほど光は眩しく見える」
「闇男神の神官の血を継いだものが、信託を受けたからって光女神の巫女の血を継いだものを殺そうとするなんてあってはならない」
罰様の瞳が、いつもの朝焼けのような紅に金色が滲む。だから罰様自ら出向いているのかと納得しかけるが、それでは私を使っている理由が分からない。いつもであれば、容赦なく罰様がこのあたり一帯破壊して終わるはずなのに。
「ネム、破壊しても信仰が減るだけでいいことじゃないの。……それに、今回王家はマトモだし、私も赦も本体は別件対応中で忙しいんだよ」
「お忙しいのであれば、降りてくる方が手間なのでは?」
「通信妨害されたら話は違ってくるの。第一ここは私たちの管理世界、ヨソの知らない無礼者がちょっかいかけてきていい話にはならないんだよ」
「……闇男神様の、信託を、騙ったということですか……?」
エディスの問いに罰様は無言でうなずく。ふたりの間に重い空気が流れるが、やっと顔を上げたリンが、いきなり自分の頬を両側から挟み込むように自分で叩いた。
「どしたの、リン」
「……いいえ! 自分に気合を入れ直してました! せっかくネムに助けてもらったんだから、これから自分で頑張らなきゃなと思いまして!」
助けたのは、そう言われたから。けれどもなんとなく、胸の辺りがポカポカするような気がする。罰様は一度瞬いた後、面白そうな表情に変わる。
「いい度胸だ。じゃあこれからどうするかの対策もやっちゃおうか」
「はい!」
「ネム、あんたも協力するんだよ。はいこれ別資料」
ばさばさと紙の束が目の前に置かれる。ちらりと内容を見て、これはなかなかの長期戦になるな、とため息をついた。
……なぜなら、吸血鬼が支配する国で半分だけ吸血鬼のリンは、非常に嘗められるのだから。