優等生の痛み
いくらメッセージを送っても、既読がつかなかった。LINE電話をかけてみても、着信音が鳴り続けるだけでいっこうにつながる気配がなかった。
――ブロックされたのかもしれない。
部屋のなかは真っ暗だった。蛍光灯のように発光するスマホの白い画面には、数日前にやり取りしたまま終わっていた真希とのLINEのトーク画面が映っている。
『美樹、あたしもう眠いんだよ。話したいのはわかるけど、できれば明日にしてくれない?』
『なにその言い方』
『は?』
『なんか、その言い方いやだ』
『何が言いたいの?』
『わかんないけど、すごく腹が立つ。もういいよ。明日学校なんでしょ。さっさと寝れば?』
何気なく打ったその最後のメッセージに既読がついた後、真希からの返信は途絶えた。
てっきり、怒って寝てしまったのかなと思ったけれど、次の日もその次の日も、真希からメッセージが送られてくることはなく、とうとう今日思い切って謝りのメールを入れてみたら、まったく既読がつかなかった。
なんで、こんな些細なことで、ブロックするの? なんで、そんな簡単に人とのつながりを切れるの?
ずっと画面を見ながら考えているうちに、カーテンにほの白い明かりが差しはじめた。鳥の声も聞こえる。
もういいや。寝てしまおう。
朝の訪れを前にしながら、わたしはもう一度布団をかぶって横になった。そしてそのまま、眠りについた。
目が覚めた頃には、部屋のなかは明るい日差しでいっぱいになっていた。
ため息をつきながらベットから起き上がり、カーテンを開ける。
平凡な住宅地の風景。そして、わずかに雲を残しながらも、もう少しで百点満点をつけてあげられるくらいの青空がわたしを迎える。春の日差しは健康的で暖かかった。
枕の横にあったスマホを取り上げる。『ごめん、変な怒り方して』『バイト始めたって言ってたし、疲れてたんだよね』『わたしもしつこくなっちゃって。話し相手になってくれるの、真希しかいないから』
昨日ほとんど連呼するように打った言葉に、やはり既読はついていない。
普段授業中であってもLINEを返してくれた真希が、丸一日経っても返信をよこさないなんてことがあるはずがなかった。やはり、わたしはブロックされたんだ。やっとその実感が湧いてきて、なにか取り返しのつかないことをしてしまったような気持ちになった。
これで二度目だ。人から拒絶されるのは。
しんとした気配が心に広がり、自分の中からたくさんの大切なものが持ち去られたような気分になった。
部屋の中を見回す。
ハンガーにかかったままの制服。ほとんど使うことのなかった新品同様の通学カバン。その他勉強机に揃えられた高校の教科書類。もはやわたしとは無縁となった持ち物が部屋中にあった。
“真希”も、この持ち物たちと同じようにすでにわたしとは無縁のものになってしまったのだろうか。
そう思うと、今までの真希との思い出が、まるで走馬灯のようにわたしの心の中に流れ出した。
「アルトの声が弱いです。ソプラノが強いので、そこへ届くようにもっと頑張ってください。あと、男子パート。全然、声出てないです。もっと真面目にやってください」
わたしを見るみんなの顔が睨んでいるように見える。うるさいとか、仕切るなとか、そんなくらいならいいけれど、それ以上にもっと言葉には表せないような感情を抱いている人間も、いるような気がする。
どうして? わたし、頑張ってるのに。正しいこと、してるはずなのに。
「それと、ソプラノはちょっと声が強すぎるので、すこし抑えるようにしてください」
その言葉に、何人かの顔がさっき以上に険しくなるのを感じた。
「合唱はみなさんの声がひとつになって、初めて成功するものです。みなさんの心がバラバラでは、まとまるものもまとまりません。合唱コンクールももうすぐです。もっと今まで以上に意識して、練習をしてください」
そのとき、ちょうど授業終了のチャイムが鳴った。
「それでは、これで合唱コンクールの練習……じゃなかった。音楽の授業を終わります。礼」
みんなより一つ高い指揮台の上で、頭を下げた。
ぞろぞろと音楽室を出ていくクラスメイト。その後ろを追いかけるように歩いていると、
「美樹さん、よく頑張ってるわね」
と音楽の担当である宍戸先生から声をかけられた。
「いえ、わたしの指揮が下手くそで……」
「そんなことないわ。美樹さんの指揮はとても上手よ。みんなへのアドバイスも的確だし、さすが自分から指揮者を買ってでただけのことがあるわ。この調子で頑張ってね」
「……ありがとうございます」
「じゃあ、コンクールまで頑張ってね」
「はい!」
宍戸先生の励ましの言葉を背に受け、わたしはすでに無人になっていた音楽室を出た。
教室へ向かう途中、次の授業が数学だったことに気づいた。
わたしは数学の教科係だった。係の人間は授業前に職員室へ行って、事前に先生に準備物がないか聞いておかなければならない。
教室へ向かっていた足を、一階の職員室へ向けなおす。階段をおりて、職員室の加藤先生の机へ向かった。
「先生、なにか準備物はありますか?」
「おっ、なんだ美樹だけか。他の奴らは……」
「さっき移動教室だったので、たぶん忘れてるんだと……」
「ったく、ほんとに……。それはそうと、今回のテストはよく頑張ったな」
さっきから気付いてはいたが、机の端には答案用紙が束になっておいてあった。もう採点は済んでいるらしい。きっと、これから配るのだろう。
「見てる人はちゃんと見てるからな。これからも頑張れよ」
「はい、ありがとうございます」
返却するクラス分のワークブックを抱え、職員室を出る。少し重いけど、それ以上にテストの結果が楽しみで、それほど苦に感じなかった。
教室に入ると、最前列の席の人に、その列にいる人分のワークブックを渡していく。
「あ、美樹ごめーん。そういえば当番だったね」
杉山さんと佐藤さんはそれだけ言って、また雑談をはじめる。気付いたんなら手伝ってよ、と内心で思ったけれど、別に一人でもできることなのでそのまま続ける。
そしてワークブックを配り終った頃に、
「おうし、みんな席に着け。授業はじめるぞ」
ちょうど加藤先生が入ってきて、授業開始のチャイムも鳴る。
「この前のテストの答案を配るぞ。ちなみにクラスの最高点は百点」
えーっ! すげえ、という声が上がる。わたしはひそかに口元をほころばせた。
次々と名前が呼ばれていく。
そのうち自分の名前が呼ばれる。
「美樹、頑張ったな。おめでとう」
返却された答案用紙の端っこに百点と書かれているのを見て、思わず口元がゆるむ。やはり思った通りだ。今回は自信があった。
「じゃあ、いちおう間違いがないか、自己採点してくれるか? 点数が下がる採点ミスはだったら報告はしなくていいから」
百点の答案を前にして、それは何となく気の下がる言葉だったけれど、しょうがないので模範解答を見ながら自己採点をはじめた。
そして不吉な予感が的中してしまったのか、わたしは一問だけ、先生の採点ミスを見つけてしまった。
この場合、報告はしなくていいということだったけれど、なんだかこのまま偽りの百点をとっても素直に喜べない。しょうがなく、わたしは先生座る教卓へむかう。
「ここの方程式が――」
「あ、ほんとだな。でも、いいのか? せっかく……」
「いいんです」
「ごめんな。美樹は偉いな」
百点から九十八点になった答案用紙を抱えながら、とぼとぼと席につく。斜線がひかれた百の字を見ると、憂鬱な気分になってくる。
「点数違いあったの? どこどこ」
そのとき、隣の席の藤堂真希がわたしの答案を覗いてきた。
「は? 百点!? それをわざわざ下げてもらいにいったの? ……優等生だねぇ」
その発言に、少しむっとする思いを感じたので、
「“優等生”でごめんね」
と返してやる。
「うわ、でたナルシスト発言」
隣の席の藤堂真希は、たまにこうしてわたしに絡んでくることがある。たいして仲が良いわけでもないのに、どうしてなのかよく分からないけれど、まあ、こうして軽口を叩きあう程度なら付き合ってあげたりもしている。
「うそっ、百点って美樹だったの!?」
「すごっ、見せて見せて!」
わたしたちの会話が聞こえていたのか、いつの間にかクラス中に知られてしまっていた。
「すご、やっぱ美樹頭いいわ」
「さすが委員長!」
いやだなぁと思ったけれど、やっぱり少し鼻が高くなる。
「こらこら、美樹もすごいけど、お前らもっと頑張らないとダメだぞ!」
先生の仲裁でこの騒ぎは幕を閉じ、通常通りの授業へと移行していった。
※
「では来月のボランティア活動は地域貢献のためゴミ拾いをするということで、放課後このメンバーで分担をして地区を回っていきましょう」
それではまた来週、という生徒会長のかけ声で、九人の生徒会メンバーたちはいっせいに席を立った。
黒板の前でチョークを握っていたわたしは、活動ノートに内容を素早く書き写してから、黒板の文字を綺麗に消していく。そうしている間に、教室には自分一人しかいなくなっていた。
明かりを消し、教室の隅に置いていた鞄を背負って、そのまま教室を出る。
廊下を歩いていると、ランニングをしている女子テニス部の生徒たちが列になって前からやってきた。そのなかには、菜月たちもいる。
「ばいばい、美樹」と少しでも声がかかるのではと期待していたわたしが馬鹿だったように、彼女らはわたしの横を素通りしていく。
三年生が抜けて開放的な空気に充ちているのか、どこか明る気な空気をまといながら、バタバタという足音は校舎のどこかへと消えていった。
やっぱり続けていればよかったかな、そうすれば何かが違ったかな、と思いつつも、もう過ぎたことではある。
それに女子テニス部にいたときから、わたしは部内で浮きつつあったのだから。
教科書の詰まった重たい鞄を背負って昇降口を目指して歩く。過去には目をむけない。
生徒会に所属している生徒は、特別に部活動が免除されている。
わたしも女子テニス部をやめてからは、部活動はしていない。帰ったら机の上に参考書を広げて、勉強に取り組む毎日だ。
灰色の日常、という言葉が頭に浮かぶ。
中学生になったら、もっときらきらした生活を送れるものだと思っていた。
でも、学校にいても楽しいと感じない。むしろわたしと正反対の生活を送っている人たちが、あんなに笑顔で嬉しそうで、学校って馬鹿ほど楽しく感じる場所なのかなって、失礼な考えさえ浮かぶこともある。
「あれ、美樹?」
ちょうど下駄箱で靴を履き替えているとき。聞き覚えのある声に呼びかけられ、振り返ると、藤堂真希がこちらを見ていた。
「部活は? 女テニじゃなかった?」
「……生徒会入ったから辞めたんだ」
「ふーん」
「……真希は部活やってないの?」
「あたし科学部だから、すぐ終わるの。ねえ、暇なら一緒に帰んない?」
意外な申し出に、少々面食らうような思いだったが、
「うん」
断るわけにもいかなかった。
十月も終わりに近づくなか、冷える指先をポケットに入れて、わたしたちは無言で校門沿いの道を歩きはじめた。
「ところでさぁ」
真希はふと思いついたというような調子で、
「科学の課題明日提出じゃん。ちょっと写させてくんない?」
それが目的だったか……と呆れる思いになる。
「自分でやりなよ。わたしは自分の力でやったんだから」
「そんな硬いこと言わないでよー。これあげるからさ」
真希はそう言って、カバンからアルミ箔に包まれたなにかを取り出した。
「なにそれ」
「べっこう飴。食べる?」
「……」
なんて低レベルな実験をしているんだろうと、ため息をつきたくなる。ただの砂糖水じゃん、それ。
「あ、馬鹿にした顔してる。嫌味だねほんと」
「もうちょっと高度な実験しないの?」
「みんなやる気ないから。公認帰宅部みたいなもんよ。生徒会もそんなもんでしょ」
「違っ……」
と言いかけて、あながちその表現も的外れではないような気がした。
“生徒会”といっても、生徒主導の組織でなく、教師が言ったことをそのまま行動に移しているようなもの。みんなもそれは承知で、ただ内申点欲しさに所属しているだけだ。
べっこう飴をつくることと大差はないのかもしれない。
「はぁ……」
どんより曇った空模様を見上げながら、わたしは何をしているんだろう、といった気持ちにさせられる。
「なにため息ついてんの?」
藤堂真希と一緒に歩くというのは、それだけちぐはぐな気分にさせられるものだった。
※
その日はいつもより早く学校へむかっていた。
そろそろ合唱コンクールも大詰めになってきたため、今日から朝の自主練をしようという話になっていた。わたしは指揮者なので、他の人よりも早く着いていなければならない。
人気のない昇降口を入り、靴を履き替えて自分のクラスへと急ぐ。
そして教室の前まできて扉を開けようとしたとき、
「朝から合唱憂鬱だなぁ」
という女子の声が聞こえた。
「いや、合唱はいいんだけど、なんかね」
「わかる、美樹でしょ」
扉にかけられた手が止まり、耳は自然とその会話の続きを求める。
「なんか“わたし頑張ってます”みたいな。ああいう態度がイヤ」
金縛りにあったように体が動かなかった。視界の端が白んできて、心拍数が急激に早くなる。
「だよね。真面目なんだけど、ちょっと鬱陶しい」
肩が震えてくる。顔が歪んでくるのを、必死に抑えようとした。
「もともと友達いないもんね、あの子」
「菜月たちのグループにいなかった?」
「なんかハブられたみたいよ。だから女テニやめたんだって」
「まあ、なんかかわいそうではあるけどね」
足が自然と動き出していた。とりあえずここにいてはダメだ。わたしは背負っていた鞄を扉の前におろし、トイレに入っていった。
ガチャと個室の鍵をかける。
逃げ場のない洞窟に逃げ込んだような気がした。
心に空気がない。しんとしてしまっている。
みんながわたしをどう思っているのか、なんとなくわかっていた。でも、それを言葉にされると、どうすればいいのかわからなくなる。
窓から射し込む強い朝日が、個室にいるわたしに深い影を落とした。扉を背に、その場にしゃがみ込んでしまう。
脱力してしまったまま、しばらく抜け殻のようになっていた。
「おはよう!」という明るい声が廊下から響いてくる。バタバタという足音も聞こえる。
『ひーかりの声がーいま空高く聞こえるー』
ほかの合唱コンクールの自主練をしている声が聞こえてきた。
行かなきゃ。わたしは指揮者だ。休むわけにはいかない。
立ち上がろうと足に力を入れるが、どうしても立ち上がれなかった。体がそうしようとしても、心が拒否しているように、体が動いてくれない。
「あれ、美樹は?」
「まだ来てないの?」
廊下からそんな声が聞こえた。まずい。ほんとに行かないと。
鍵に手をかける。外へ出なきゃ。
でも、いつまで経ってもわたしは扉の外に出られなかった。
わたし、なにしてるんだろう。こんなこと生まれてはじめてだ。もう、誰とも顔を合わせたくない。……このまま消えてしまいたい。
やがて外が静かになったのを感じると、わたしはやっと扉の錠を外して、廊下へと出ていった。けれど教室へは行かず、そのまま階段をおりて生徒昇降口へむかった。
どの下駄箱をみても外靴だけが入っている。わたしは上履きを脱ぎ、外靴に履き替える。わたしの下駄箱だけが上履きにかわる。
そしてそのまま外へ出た。
なぜか家に帰る気にはならなかった。安全ではない気がした。
しばらく歩いていると、授業開始のチャイムが聞こえてきた。
はじめて学校をサボってしまった。落伍者、という言葉が頭に浮かぶ。
日常のレールから外れて歩くって、こんな感覚だったんだ。
そんな経験なんて一生しないものだと思ってた。
平日の朝はどこを歩いても人気がなく、わたしは適当な公園をみつけてブランコに腰を下ろした。
土を蹴って、ゆらゆらと揺らす。
小さな反復が、やがて大きな前後運動になっていく。
なにやってるんだろう。
そう思い、ブランコを漕ぐのをやめる。
「美樹?」
ぎょっとして顔をあげる。こうしていることが誰かにバレたんだ。怯えが体を震えさせるなか、おそるおそる顔をあげた。
「どうしたの、こんなところで」
そこにいるはずのない藤堂真希の姿を見て、言葉を失ってしまう。
「どうしたのって、そっちこそどうしたの」
「遅刻しちゃったんだよ。でもラッキーだった。合唱の朝練めんどーだし」
そう言って彼女はわたしの隣のブランコに腰をおろしてきた。
「優等生もサボったりするんだね、意外」
「……」
なんで彼女はわたしに話しかけてくれるんだろう。いつも。
わたしは彼女に親切にしているわけではない。むしろ成績を鼻にかけて嫌味なことを言って、面白くない思いをさせているはず。
わたしのどこがいいの?
「ねえ」
「ん?」
――あたしといてたのしい?
そう言おうとして、すんでのところでやめた。
「……なんでもない」
「そっかい」
二人分のブランコが揺れる。ギイギイ、ギコギコ。
もうすぐ一時間目が終わってしまうだろうか。
「真希、学校いきなよ」
「いきなりなんでよ」
「わたしのせいで遅れちゃうの悪いから」
「えー。そんなこと言っても、今から学校行きたくないなぁ」
「……」
「一緒にサボろ」
※
「せんせーわたしインフルかも。熱が四十度あるんですー」
全然苦しそうじゃない声でそう言ってのける真希をみていると、案外度胸が据わっているというか、逆に感心してしまうような気がする。わたしはこんなに平然と、他人に嘘はつけない。
「はい、つぎ美樹の番」
「う、うん」
上手に嘘をつかないと。人生ではじめての仮病だ。
鞄からスマホを取り出し、学校名を入力して、そこに出てきた電話番号をタップする。プルルル、というコール音は二回ほどで途切れ、
『はい、教頭の橋本です』
すぐに受話器越しに教頭先生の声が聞こえた。
「あの、一年三組の久川美樹です……」
『ああ、久川さん。丸山先生が心配してたよ。ちょっと待ってね』
「あ……」
変わらなくていいのに……。どんなことを言われるんだろうと、思わずビクビクしてしまう。
『おお、美樹! よかった、大丈夫か?』
安堵したような丸山先生の声が聞こえて、怒ってるわけじゃないんだと、とりあえず安心する。
「すみません、電話遅れてしまって。あの、熱が出てて、測ったら三十九度三分なんです。なので、今日はお休みしたいのですが」
『そうか。そうだったのか。いやあ、真希はともかく、美樹まで連絡がないからほんとに心配したぞ。とりあえず、よかった。よかった』
「ご心配おかけしました」
『いや、いいんだ。美樹はいつも頑張ってるからな。くれぐれも安静にするんだぞ。いいな?』
通話を終え、大きなため息をひとつ吐く。なんだろう、この大きな泥を塗ったような気持ち。取り返しのつかないことをしてしまったような気がする。
「とりあえず、これで心配いらないでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
「美樹、どっか行きたいとこある?」
「……とりあえず学校から離れたい。ここにいたら誰に見られるかわからないし」
「ここ近所だしね。移動するか」
わたしたちは公園を出て、川沿いの堤防へでた。
サイクリングロードになっているそこは、川と並行してどこまでも一本道が続いている。
「いけるとこまで行ってみよっか」
「うん」
真希と並んで歩きだす。
前方からジョギングをしているらしい、サングラスをかけた男の人が走ってくる。制服姿のわたしたちをみても、特に気にかけてもいないように自分の走りにひたむきだった。
そういえば女子テニス部に入りたての頃、菜月たちと一緒にここを走っていたのを思い出す。
新一年生はコートを使わせてもらえなくて、ずっとランニングをしてなきゃいけなかった。筋肉痛になるぅ、走るためにテニス部に入ったわけじゃないのにぃ、とか愚痴を言いながら毎日走り続けていたけれど、菜月たちはバレなきゃいいよと、途中からこっそり堤防をおりて河川敷で休んでいた。
最初はわたしもそこに参加していたけれど、菜月たちがポケットからスマホを取り出して画面に目を落とすようになると、わたしはなんだかそこに混ざれなくて、「あたし、ちょっと走ってくるね」と言って、一人でサイクリングロードを走っていた。
そんな様子を菜月たちに冷たい目で見られていたことは、間違いないだろう。
どうしていつもそうなんだろう。
言われたことに素直に従っているだけなのに、なぜかいつも空回りしてしまう。
学校って矛盾することばっかりだ。
教師のいう事をよく聞くようにと言っておいて、“反抗期”なんて言葉が存在する。
大人の言うことに素直に従っていると、白けた顔で見られる。
“頑張りなさい”というから一生懸命やってるのに、鬱陶しいと言われる。
点数の間違いを申告しただけで“優等生”と言われる。
だって、間違ってるのにそれをそのままにしとくのっていやでしょ?
渡るのは青信号と言われたのに、赤信号でもみんな平気で渡っていく。
わたしはそんな世界についていけないよ。
「あ、橋だ。わたる?」
小さい頃から、橋を渡ることが苦手だった。
下が水だからというのではなく、ここでないどこか違う世界へ足を踏み出すような、そんなおそろしさを感じるのだ。対岸に渡ってしまったら、方向音痴のわたしはそっちの町で迷ってしまって、自分の住んでいる町に戻ってこれないような気がする。
「道、わかる?」
「いちおう」
「じゃあ、任せる」
見下ろすと、広くなだらかな川の流れがみえる。川沿いのぽつんとした風景とともに、葦かススキかどちらかわからないけれど、小麦色の植物に舗装されるようにしてどこかへ続いてゆく。
飛び降りたらちゃんと受け止めてくれそうな川だな、と思う。満更嘘でもない。
「ここって毎年一人は飛び降りがあるんだって」
わたしの心を読んだように、真希が突然そう言った。
「でもさ、砂とか泥とか大量の微生物とかがお腹いっぱいに溜まって死ぬのって、いやだよね」
「……」
橋を渡り切ると、いっきに風景が“町”へと変わる。
振り返って対岸にある自分たちの街をみると、いちおう高層ビルは建っているし、それなりに発展しているのだなと思う。けれど一度川を渡れば、丘や雑木林ばかりになる。
「三十八度線を越えたね」
「真希、それブラックじゃない?」
「ごめん」
わたしたちは未知の世界へ足を踏み入れてゆく。
雑木林に挟まれたなだらかな、けれどもどこまでも続く坂道を進んでゆく。進んでも進んでも先に道がある。
ときおり車庫付きのそれなりに立派な民家や、なぜこんなところにあるのかわからない車屋さんなどがありつつも、基本的には雑木林と畑とそのへんに放置された小型トラックがあるだけの田舎道だった。
うらぶれたバス停。誰が貼っているのかわからない選挙や聖書の一句が書かれたポスター。そんなものを越えながら、わたしと真希は歩き続けていった。
やがて、右側になにか校舎のような建物が見えてきた。
そこだけ土地が高くなっていた。周りはフェンスで覆われ、なんとなくなかの様子が見えないようなつくりになっている。
「ここ、学校?」
なんとなく気になり、真希にきいてみる。
「そうだけど、普通の学校じゃないよ」
「え?」
真希がしめす指先のむこう、○○支援学校と書かれた字が見えた。
ほんとうだ。そのまま歩いていれば見過ごしてしまうような場所に、ひっそりと施設名が表記されている。
「よくわかったね。あんな目立たないところにあるのに」
「弟がここに通ってるから」
……初耳だった。真希の弟さんは、健康ではないんだ。
「弟ほんとアタマ悪いからさ、たまにぶん殴りたくなるんだけど」
「え……」
「だってかけ算できないんだよ? 漢字も読めないし」
「……」
「足も悪いから、自分で歩けないしね」
「……真希もいろいろあるんだね」
「あたしも早く家出たいよ。高校いったらバイトして、お金貯めて、東京いく」
いつも適当な真希の、はじめて目標らしいものを聞いた。
わたしは、真希が急に大人に見えたような気がした。
※
「ここから先は、あたしも知らない」
学校を越えると、真希はきっぱりとそう宣言した。
「まあでも、たぶん一本道だと思うよ」
「じゃあ、もう少しだけ、歩いてみる」
わたしたちは歩き続けた。
足の裏が痛くて、豆ができてそうだったけど。
もう少し、もう少しだけ歩けば、なにかが見つかるんじゃないか。そんな望みだか願望だかにすがりつくようにして、ただ目の前の道を歩き続ける。
僕の前に道はない。
僕の後ろに道はできる。
どこかで読んだ本の言葉を思い出す。
わたしはずっと敷かれた道を歩いてきたのだろうか?
だからいまは、こんなに不安なんだろうか?
道なき道を歩いている。
どこに辿り着くあてもなく、ただひたすらに。
坂が途端に急になりはじめた。
わたしも真希も、軽く息切れを起こしながら、それでも黙って足を動かし続けた。
やがて道は平坦になり、右手に公園が見えた。
道はまだ続いている。
「どうする?」
「ちょっと、休憩」
真希は公園のベンチにどかっと腰を落ち着けた。わたしも、その隣に座る。
ずいぶん高いところまできたらしく、街を遥か彼方に見下ろすような光景が目の前に広がっていた。
「すご」
「景色いいね」
「でもこれ帰るの遠くない? あたしたちの住んでる場所あそこだよ」
「下り坂だから、帰りは楽だよ。たぶん」
「結局あたしら、ここに何しにきたんだろう」
「……」
「明日も、ここにくる?」
「さすがにもういいかな」
「でも、丸山に三十九度あるって言っちゃったしなぁ」
たしかに、丸山先生に熱があると報告してしまっている。
「しばらくズル休み続けるかぁ」
「だめだよ。真希はいきなよ」
「なんで。美樹はどうすんのさ」
「わたしは……」
そこで言葉が止まってしまう。
わたしは、またあの学校に戻らなければならないんだろうか。
みんなに疎まれながら、指揮者をしなければいけないのか。
嫌われるとわかってて、一生懸命でいなければいけないのだろうか。
「……でも、あたしは指揮者だから、やっぱり休むわけにはいかないよ」
「合唱なんて、頑張る必要ないよ」
「え?」
「あんなの誰も喜んでやってないんだからさ。美樹が休んでも、音楽の宍戸が代わりに指揮やってくれるって」
「そんな無責任なこと……」
「いいじゃん。コンクールが終わった後に、また登校すればいいよ」
「……」
「ね」
そのひらがな一文字が、わたしを頷かせてしまった。
※
「なんで生徒会をやめるなんて……久川、急にどうしたんだ」
生徒会担当の松原先生は唖然とした表情を隠さない。普段は柔和な笑みを浮かべる顔に深い皺をきざみ、わたしを見る目には厳しいものがあった。
「お前は進んで書記に立候補したんだからな。それ相応の理由がなければ、認めないぞ」
語調まで険しくなる松原先生の様相に、わたしは気圧されてしまって……、
「……なんだか、最近体調が優れなくて」
それだけを言うのが精いっぱいだった。
「あのな、生徒会っていうのは、簡単にやめられる部活動とは責任の重さが違うんだ。お前がやめたあと、次の書記は誰になる? また選挙で選べばいいなんて簡単なものじゃないんだぞ」
「……はい」
「だいたいお前、合唱コンクールの指揮も途中でほっぽりだしたんだってな。丸山先生がため息ついて私に相談してきたよ」
「……」
「熱があるなんていって、一週間も休むなんて……。学生のうちはそれで通るかもしれないけど、もっと大きくなったらそんなんじゃ生きてけないんだよ」
ずっとこらえていたけれど、目頭が熱くなるのを抑えきれず、思わず袖で目をおさえてしまう。たまった感情が涙となって、次から次へと零れていく。
「はっきりいって、きみには失望したよ」
そう言い捨てて、松原先生はどこかへ消えていった。
あんなに激しいところのある先生とは思わなかった。生徒会活動の際には、いつも柔らかい笑みを浮かべて、わたしたちを見守ってくれていたのに……。
わたしがすべて悪い。それはわかっているのに、なんだか人間不信に陥りそうな気分だった。
しばらくの間、わたしはそこで立ち尽くしていた。廊下を歩く生徒たちの視線を感じても、涙を隠す余裕もなかった。今まで積み上げてきたいろいろなものが、一気に音を立てて崩れてしまったような気がしたから。
そしてひとしきり泣いたあと、わたしはまた歩き出した。
もう一人の先生とも話をつけなければならない。
理科実験室の前に立つ。扉を軽くノックすると、「はーいー」という気の抜けた返事がかえってきたので、「一の三の久川です」と声をかけてなかに入っていく。
科学部担当の金子先生は、教卓の上でなにやら午後の授業の準備をしているようだった。
「ああ、久川さんね。藤堂さんから聞いてるよ。科学部に入部したいんだって?」
「はい」
「じゃあ入部届を出してもらわなきゃね」
「あ、もう書いてきました」
そう言ってポケットから四つ折りにしていた入部届を取り出す。真希にもらったものだけれど、渡されたときにはすでにくしゃくしゃになっていたので、まあしょうがない。
「おお、準備がいいね。いいことだ。じゃあ、もう早速、今日の放課後からくるかい?」
「え? いいんですか」
「ほんとは受理するまで正式な部員にはなれないけれど、まあ手続きはすぐ終わることだし、それまでは仮の部員としていつでも参加していいから」
「ありがとうございます。じゃあ、今日の放課後、早速伺います」
「そんなかしこまった言い方しなくていいよ。これからよろしくね、久川さん」
今まで頼りなさそうな先生だと思っていたけれど、松原先生の後だと、とても優しい人のように感じた。
「美樹ー、だしてきた?」
教室に戻ると、真希が顔をあげてわたしに声をかけてくる。
「うん、今日の放課後からきていいって」
「それはよかった。生徒会のほうも、無事やめれた?」
そう言われ、松原先生の険しい表情を思い出す。無事ではないけれど、まあ、とりあえず話は通ったということでいいんだろうか。
「たぶんね」
「よし! 全部順調だな。ところでさあ、次の社会の授業の課題、まだやってないんだけど、写させてくれない?」
「いいよ。はい」
そう言って自分のノートを真希のほうへ手渡す。
「ありがとー、助かったわ」
そう言って真希はせっせとノートを写しはじめる。
そんなやり取りを、クラスメイトたちが「何があった?」というような様子で窺っているのを感じる。
当然だろう。それまでは誰に頼まれても、自分でやりなよの一点張りだったわたしが、今はあっさりと真希にノートを貸してあげているのだから。
それまで無遅刻無欠席だった学校も、あの日を境に一週間のバツがついた。指揮者を担当していた合唱コンクールも欠席をして、いまやクラスで一番不真面目だと言われる藤堂真希と仲良くしているのだから。
残念ながらもう、わたしは優等生じゃない。真希と学校を休んだあのときから、わたしはそれまでの久川美樹を捨てて、別の存在に生まれ変わった。それが良い変化か悪い変化かはわからないけれど。
以前ならこうして真希から課題を写させてと言われても断っていた。どうして自分の力でやろうとしないのだろうと怒りさえしていた。ノートを写させることが本当の友情なの? と同じことをしているクラスメイトに疑問をさえぶつけていたかもしれない。
でも、そんなこともう、どうでもいい。
あのとき、一緒に学校を休んでくれた真希のことを、いまは失いたくないのだから。
※
一年が終わってクラス替えがあると、真希とは別のクラスになってしまった。
真希はクラスが変わると、そこで新しい友達をつくったようだったが、わたしはそんなに器用じゃなかった。
なんだか人のことが信じられなくなってしまって、声をかけてくれる人たちがいても、自然と距離をおいてしまうのだ。たとえ笑顔をむけてくれても、それが本物なのか、偽りのものなのかと、いつも疑いの目をむけてしまう。
人は簡単に裏切る。見限る。悪口も言う。
いくら真面目にやっても、みんな表面上のつき合いばかりを優先して、誰も本当の価値を認めてくれようとしない。
その頃から、わたしはトップを目指すという気持ちも失ってしまって、必要最低限の成績さえ取っていればいいと、学力に対する熱意も失った。
学年で一桁だった成績は、三十番台まで落ちた。
授業が終わると、真希の科学部へとむかい、そこで余暇を過ごした。
馬鹿にしていたべっこう飴、カエルの解剖、糸電話づくり。そんなことをしながら、西日の差し込む教室に座って、ぼんやりと過ごしていた。
『あーあー美樹さん、いまなにしてます?』
「……そんな大声で喋ったら糸電話無くても聞こえるよ」
真希が笑っている。その顔さえわたしにむけてくれれば、それでいい。
高校受験が近づいても、わたしはなんだか上の空だった。この先、なにを頑張ればいいのかわからない。頑張って、いい高校に入って、それからも頑張って、いい大学に入って、頑張って、いい会社に入る、そこにゴールはない。
――高校いったらバイトして、お金貯めて、東京いく。
いつか真希が言っていたことを思い出す。一見破天荒なそのセリフが、ずっと現実味を帯びて感じるのはわたしが子どもだからだろうか。
僕の前に道はない。
僕の後ろに道はできる。
高村光太郎の詩が重なる。わたしは真希の歩いた後にできた道を、ぼんやりと見つめることしかできない。そんな気がする。
高校受験。わたしは県内でそこそこに進学校になんとか入ることができた。真希は一期入試で受けた公立学校が落ち、その後は私立の高校に進んだ。
※
「それなに?」
「アイコス」
「電子タバコってやつ?」
「違うけど、まあそんな感じ」
「美味しいの?」
「バイト終わりのいっぷくが旨い。吸う?」
そういって差し出されたそれを、わたしは恐る恐るみつめる。
「吸ってみなよ」
「……でも、これどうやって吸うの?」
「吸いながらくわえてみ」
すーっと息を吸い込みながら煙草を口に含むと、胸のなかに煙がおりていくのを感じた。
「どう?」
「自分を汚してるような気分」
「まあ、わからんでもない」
真希は吸い殻を指でつまみ、携帯用の灰皿(皿ではないけど)にそれをいれた。目の前に川があるのだから、投げ捨ててしまってもいいのに、それをわざわざ持ち帰るところは律儀で好きだ。
「ねむい」
「バイト疲れる?」
「週六でやってるからさすがにね」
「頑張ってるんだね」
「でもバ先に年上の男がいて、けっこう喋れるから苦じゃないよ」
中学まではショートだった真希は、いまは背中までのびる黒髪を風にたなびかせている。色のついた唇。それに香水をつけられる女の子になったんだ。なんだか真希がどんどん遠ざかっていくような気がする。
「真希、雰囲気変わったよね」
「そう? どんな風に?」
「ちょっと大人っぽくなった」
「髪も変えたしね。美樹も変えなよ。あたしいってる美容院紹介してあげるからさ」
「わたしはいいよ、これで」
おかっぱ頭が風にさらされる。わたしは真希みたいにはなれない。
「昔はうしろでひとつに結んでさ。きりっとしてて、なんか美樹らしかったじゃん。あれにまた戻しなよ」
「……ううん、いいよ」
あの頃のわたしに戻ることも、もうできない。
「まあ、また話したいことがあったら電話しなよ。時間があるときは付き合ってあげるからさ」
「うん」
「あたしも授業中に隙みてLINE送るからさ」
「……」
冗談なのか、本気にしていいのかわからず、黙ってしまう。真希のことだから、そのまま受け取ってもいいんだろうけれど。
「じゃあまた今度ね、美樹。バイト行かないと」
「うん。頑張ってね、真希」
真希が帰ってからも、わたしはしばらく河川敷にしゃがんで川の流れをながめていた。一歩踏み出せば靴が濡れるその距離感が、なぜだか心地よかった。
――でもさ、砂とか泥とか大量の微生物とかがお腹いっぱいに溜まって死ぬのって、いやだよね。
真希の言葉が、わたしをその場につなぎとめる。
※
授業終了のチャイムが鳴る。
ガタガタと席を立つ音がし、それぞれが机を囲んでグループをつくっていく。いつものことだ、と思いながらわたしはお弁当の包みをひらき、おかずを口にする。固くなった白いご飯。昨日の夕飯の残りのおかず。朝、これだけは自分でつくってきた玉子焼き。
それらを黙々と口運んでいく。だれもわたしに話しかけたりはしない。いつものことだ。
わたしはご飯を食べ終え、席を立つ。教室から出ようとグループとグループの間を抜けようとしたとき、体が椅子にぶつかってしまい、「ごめん」と声をかけるが、ぶつかった席の当人はまるでわたしに気付いておらず、楽しそうに友達と話し込んでいる。
何か違和感を覚え、試しに「ねえ」と少し大きい声で呼びかけてみる。でも、まるでわたしの声が届いていないかのように、彼はやはり背中をむけたままおしゃべりを続けている。
嘘……わたし透明人間になったの? それとも……。
絶望感がひしひしと心を支配していくなか、ふっと意識が遠のいていく――。
担任の先生が、通知表を返している。今学期の成績の結果が出たんだ。
わたしの番がきて、先生から白い表を受け取る。そして開いてみると、この前の定期テストの結果が載っていた。
総合順位をみると七十二位。はじめて平均以下の成績を取ってしまい、目の前が真っ暗になっていくような感覚に陥る。言葉も出せないまま、通知表にしめされた冷酷な数字をじっとみつめる。こんなのおかしい。きっと先生がほかの人と入力するデータを間違えたんだ。そう思い、直談判しにいこうと思った瞬間、また意識が遠のいていく――。
理科実験室。まわりにはわたしのほかに、何人かの生徒たち。これから自由研究のテーマを決めるけど、なにがいい? と同じ学年の生徒が口をひらき、そこへほかの生徒たちがさまざまな意見を口にする。わたしはそこへ混ざっていけず、ずっと彼らの話し合いを傍観している。やはりわたしはそこでも、いないものとして扱われている。
西日が差し込む実験室。生徒たちの顔に深い影がかかる。活発な意見の交換だけがわたしの耳に入ってきて、自分の椅子はどんどん彼らのテーブルから離れていってしまう……。
そうだ。どうして実験室なのに、真希はいないんだろう。この学校には、真希がいない。じゃあ、真希のいる学校に行かなきゃ。そう思い、実験室の扉をあけて外へ出ていこうと足を踏み出した瞬間、閃光がほとばしってわたしの視界を真っ白にしてしまう――。
目が覚める。部屋の天井。十二時を知らせるチャイムが近くの小学校からきこえてきた。
背中がびっしょりと濡れていた。わたしはスマホに手をのばして、真希からのLINEがはいってないか確認する。
新しいメッセージははいっていなかった。
それはそうだ。いまは平日の昼間、こないだの言葉を過信し過ぎている。いくら真希でも、そんな余裕があるわけない。
そう思った直後、ピロンと通知音が鳴った。急いで画面をみると、『おきてるー?』という真希からのメッセージだった。
慌てて『いま起きたところ』と返信をすると、『美樹もお気楽だね、いま昼の十二時だよ』とすぐに返事が返ってくる。
『わたしニートだから』昔だったら絶対に口にしなかった、そんな卑屈な言葉を調子にのって打ってしまう。
少し後悔していると『働け。あたしとバイトしろ』と軽口を叩いてくれる。
たぶん、高校の仲間とお弁当を食べているんだろう。片手で箸をもちながらスマホをみている真希の姿が目に浮かぶ。そろそろ、迷惑になるかなと思い、『ありがとね、真希』と打ってスマホを机におく。暗転していた画面に『気にすんなよー』と文字が表示され、そこでやりとりは終わった。
まだ、わたしには真希がいる。
そう思うと、少しだけ大丈夫な気がしてくる。
わたしはもう一度布団をかぶり、目をつむった。
※
目が覚めると、夕方の六時だった。
部屋のなかは真っ暗で、ずいぶん長く寝てしまったなと思いながら、習慣づいたようにスマホに手をのばす。真希からのメッセージはない。
それもそのはず、真希は学校が終わるといつもコンビニのバイトをしていて、この時間はいつもメッセージがこない。今頃はレジの前に立って、お客さんを前に頭を下げているのかもしれない。
そういえば、わたしは真希のバイトしている姿をみたことが一度もなかった。あの真希が、どんな風に接客をしているのか、ちょっとみてみたい気持ちになる。
そう思うと、その気持ちをおさえきれず、わたしは部屋着を脱いで外出するときの服に着替えた。カモフラージュに帽子をかぶり、これで準備は万端だ。
部屋を出て、階段をおりていく。一階は電気がついておらず、居間には『今日は遅くなります』とだけ書かれた母親のメモがあるだけだった。会社の残業があるのだろう。
一瞬、気持ちが暗くなる。こんな娘をもつ母親の気持ちって、どんなだろう。高校を中退してしまって、いつも部屋からでないで寝てばかりいて……。母にとってわたしはどれほどの重みがあるのか。こんなんでもいてほしいと思われているのか。
すっかり日が落ちた夜の闇をながめつつ、気持ちが沈む。こんな娘でごめん、と胸のなかでつぶやき、わたしは家の前につけている自転車にまたがり、ペダルをこぎはじめた。
電柱、電柱。夜の闇の広がる道を走る。ペダルと連動したライトがブゥンと音をたてて目の前を逆三角に照らす。真希のいるコンビニへむけて、黙々とペダルをこいでゆく。
駅前東口の手前に、そのコンビニはあった。ちょうど電車がきた時刻なのか、学生の出入りが思いのほか多く、わたしは目深に帽子をかぶり直し店内にはいっていく。
さりげなくレジのほうに視線をやると、青白の縞模様の制服を着た真希が、目はどこか違うほうへむけながらも、「いらっしゃいませー」と思ったよりも真面目な声で挨拶するのがみえた。
わたしは笑い声をこらえつつ、適当にお菓子をカゴにいれてレジにもっていった。真希はバーコードを読み取るのに集中していて、わたしに気付かないようだった。「六百四十円」になります。わたしはお金をはらい、レジ袋の持ち手を丁寧によってこちらにむけてくれている真希に、帽子を脱いでみせた。
「美樹!? もーあんた何しにきたのよ! なんか変だと思ったんだよ挙動不審でさあ」
驚き呆れる真希をみて、わたしも笑いをこらえきれなかった。
「これからもちょくちょくくるね」
というわたしに対し、
「千円以上は買っていきなよー」
と返してくれる真希の言葉がうれしかった。
それからというもの、まるでわたしは味をしめたかのように真希のコンビニに通った。
二回目にいったときは棚の商品の補充をしていて、わたしが無言で彼女のそばに立っているのに気付いたときは「ねえ〜、あんた人の仕事の邪魔してたのしい?」とやはり呆れたような顔をこちらにむけてきた。「お疲れ様」と声をかけると、「さっさと帰れ。しっし」と返事がかえってきたので、店を出ようとすると「もう少しで帰れるから、一緒に帰ろ」と言ってくれたので、しばらく買いもしない商品の棚をじっとみていた。
「あんたも一緒にバイトしない?」
並んで自転車をひいて帰る途中、真希はそう声をかけてくれた。いつもの軽口ではなかったので、真面目に言っているのだとわかった。
「お金貯めてさ。あたしが高校卒業したら、一緒に東京いこうよ。ルームシェアしてさ、そうすれば家賃も半分だし、時間があえばいつでも遊べるじゃん」
わたしはしばらく黙っていたが、
「……うん、考えてみる」
結局そんな言葉しか返せなかった。
「あんたもいま暇でしょ? だからうちの店きてるんでしょ? それなら一緒にバイトしてさ。金貯めたほうがいろいろ得じゃん」
「……」
図星だった。わたしは暇だから、ずっと家のなかにいると真希のことばかり考えてしまって、だから迷惑かなと思ってもあなたのところにいってしまう。
食欲とおなじで、ずっと家のなかでひとりでいると、なんだか無性に人に会いたくなってくる。たぶん、そういう本能が人に備わっているんだろう。でも、矛盾しているようだけど、今まで人から否定されてきたぶん、人のことがこわくもある。
外に出て働くなんで、ちょっと考えられない。
「まあ、気が向いたらでいいけどさ」
わたしが頷きを返さないので、真希はそう言い終えてスマホを取りだし、視線をそちらにむけてしまう。こういうとき、わたしは視線のやり場に困り、うつむくように地面をみつめてしまう。
その後もわたしは、心のなかが乾いていくような感覚を覚えると、真希のいるコンビニに顔をだした。最初はなんだかんだ快くむかえてくれた彼女も、次第にその態度は平坦になっていった。
わたしは日中にもスマホを手にとって、真希にLINEを送るようになった。授業中でも彼女は返してくれたが、そのうち「ごめん授業中だから」という返信とともに、それからいっさい昼間にメッセージはこなくなった。
家のベットにいると、無意識のうちにスマホに手をのばしてしまう。そしてその度に、こんなことしてるから嫌われるんだと思い、またスマホを机におく。時間がたてば、また前のようにメッセージを送ってきてくれるだろうか。またいつものように、わたしに軽口を叩いてくれるだろうか。
真希にばかり頼っていてはダメだと、ネットで動画などをみて気を紛らわせようとしても、気づけばLINEをひらいてなにかメッセージがないかと確認してしまう。そしてその度に、なにもはいってないのがわかり、どうしようもない渇きを覚える。
夜ならば、大丈夫だろう。迷惑もかからないだろう。そう思い、メッセージのやり取りが途絶えてしばらくした日の深夜、いつも彼女が当たり前のように起きてる時間を見計らって、
「おそよー。起きてる?」
と、わざと明るい調子のあいさつを送った。
それが、寝ている虎の尾を踏んでしまったように、真希の不機嫌を誘ってしまったのだった。
『藤堂真希さんへ
突然のお手紙、ごめんなさい。また迷惑に感じるかもしれないけど、これだけはどうしても伝えておきたくて、ペンを取らせてもらいました。
まだ卒業して一年も経ってないけど、中学のとき、わたしが公園でブランコをこいでたのを覚えてますか? 今だから告白するけど、わたしあのとき学校を抜けだしてきてたんだ。合唱コンクール、あれの指揮者がいやになっちゃって、どうしようもなくなってあそこにいたんです。そんなとき、あなたが声をかけてくれた。そして、一緒に学校をサボってくれましたね。それも一週間も。わたしはそれが、とてもうれしかったんです。今まで友達らしい友達もいなかったわたしに、はじめてできた親友(わたしはそう思っています)でした。
こないだは、ごめんなさい。わたし寂しくて、高校やめてからいつも家にいるから、スマホを持つといつも真希のことを考えてしまって……。わたしに話しかけてくれるのはあなただけだったから、あなたなら大丈夫だと、すこし甘えてしまっていたところがありました。学校が終わったあとにバイトして、クタクタだったよね。ごめんなさい。バイト先にも、考えなしに行っちゃって、ごめんなさい。働いてるところに顔を出すって、すごい無神経な行動だったなと今になって反省しています。
わたし、あなたを失いたくない。お返事待ってます。
久川美樹より』
真希の家のポストに手紙を投函してから、一週間が経った。
まだ、真希からは返事がない。
一生、こないのかもしれない。
ここまでくれば、もう答えはわかっていた。真希にはもう、わたしはいらないんだ。
わかっていても、どうにか都合よく考えようとする自分がいて、ちゃんと顔をあわせないから許してくれないんじゃないか、真希のいる高校まで行って、ちゃんと謝ってくれば許してくれるんじゃないかと思いたい自分を抑えきれなくて、わたしはその日自転車をこいで真希の通う高校へむかった。
小綺麗な校舎と普通の学校の二倍はあるグラウンド。その横を通り過ぎて、近くの住宅の塀の陰から顔を出す。校門からは少しずつ下校する生徒がでてきて、そのなかに真希が混ざっていないだろうかと目を皿のようにして探す。
こんなことをしている自分が馬鹿みたいだった。会ってどうするのか、ほかの生徒たちがみているなかで頭をさげて謝罪するのか。それでは真希も迷惑だろう。じゃあちょっと時間ある? ときいてみて、反応がよければどこかファミレスにでもはいって飲み物でも飲みながら(もちろんわたしの奢りで)、機をみて謝罪の言葉を口にするか。そもそも、視界にはいっても見えないふりをされたり、目があっても無視してどこかへいってしまった場合はどうすればいいのだろう。その可能性のほうが、ずっと大きいはずだ。
いろいろなことを頭で考えながら、心臓は今にも飛び出しそうにどきどきしていた。そして二十分ほど過ぎた頃、ようやく真希の姿が目にはいった。
わたしの知らない友達と一緒に、いつもみせてくれた呆れ顔を浮かべながら校舎を出ていったその顔は、わたしのことなどとうに忘れたように、いつも通りの真希だった。
予想していた通りだ。きっぱり諦められてよかったじゃないか。そう自分を慰めながら、わたしは力なく自転車をひいて帰途についた。その横を何人もの高校生が通っていく。
真実の、誠意を込めた言葉なんて、やっぱりなんの意味もなかった。
気付くと、橋の下をじっと見下ろしていた。
西日に照らされた川は、金色に輝きながらどこか遠くへと流れていく。
今年はまだ、身投げした人はいないのだろうか。
わたしが、第一号になる?
『真希、これから身投げするね』
戯れにそんなLINEを送ってみる。当然返事はない。
せめてわたしも、死ぬ前に真希をブロックしてやろう。そう思い、丸に斜線のひかれたボタンを押しかけたが、真希と同じことをするのは癪で、代わりにスマホを川のなかに投げ捨てた。
ポチャンと音もすることなく、スマホは川の流れに消えていく。
わたしの前に道はない。わたしの前に道はない。
そんなことをつぶやきながら、わたしはまた歩きだした。