パート1: 貴族令嬢、兎と対峙す
俺が手刀で気絶させた疾風兎が、ぴくり、と耳を動かした。やがて、もぞもぞと身じろぎし、ゆっくりと意識を取り戻す。
状況を把握したのか、兎は警戒するように周囲を見回し、そして目の前に立つ小さな少女――リリアーナを認識した。
「さあ、やれ。リリアーナ」
俺は少し離れた場所から、冷静に声をかける。セレスも、固唾を呑んで成り行きを見守っていた。
リリアーナは、びくりと肩を震わせたが、すぐに唇をきつく結び、震える手でナイフを構え直した。その瞳には恐怖の色が濃いが、同時に、逃げないという強い意志も感じられた。
疾風兎は、目の前の少女が自分を気絶させた相手(俺)ではないと判断したのか、あるいはただ本能的に、弱いと見なしたのか、威嚇するように前足を地面に打ち付けた。そして、次の瞬間、弾かれたようにリリアーナに向かって飛びかかってきた。
「きゃっ!?」
思わず短い悲鳴を上げるリリアーナ。だが、完全に硬直してはいない。俺が教えた通り、半身になって攻撃を受け流そうと――したが、疾風兎の動きは彼女の反応速度を上回っていた。
ザッ! と鈍い音を立てて、疾風兎の爪がリリアーナの腕を掠めた。幸い、旅装が厚手だったため、浅い傷で済んだようだ。
「落ち着け! 相手の動きをよく見ろ!」
俺が檄を飛ばす。パニックになれば、そこで終わりだ。
リリアーナは痛みに顔を歪めながらも、必死で体勢を立て直し、再びナイフを構える。今度は、ただ怯えるだけでなく、疾風兎の動きを懸命に目で追っていた。
疾風兎は、一度攻撃が成功したことで勢いづいたのか、再びトリッキーな動きでリリアーナを翻弄し、飛びかかってくる。
(…目で追うだけじゃダメだ。気配で読め…!)
俺は内心で歯噛みするが、今は口出しを我慢する。リリアーナ自身が気づき、乗り越えなければ意味がない。
リリアーナは必死に回避を続ける。転びそうになりながらも、なんとか致命的な攻撃は避けている。その姿は痛々しいが、瞳の光は消えていない。
そして、数度の攻防の後、チャンスが訪れた。
疾風兎が大きく跳躍し、リリアーナの顔面を狙って爪を繰り出してきた瞬間。リリアーナは、恐怖を振り払うように、叫びながら手に持っていた石ころを兎の顔面に投げつけた。
ゴツッ! という小さな音。
石は疾風兎の鼻先に当たり、さすがの兎も怯んだように一瞬動きを止めた。
「今だ!」
俺の声と同時だった。リリアーナは、その一瞬の隙を見逃さず、ナイフを逆手に持ち替え、兎の懐に飛び込むと、教わった通り、兎の目を目掛けて――寸止めで突きつけるような動きを見せた。
疾風兎は、目の前に突きつけられたナイフの切っ先に、本能的な恐怖を感じたのだろう。けたたましい鳴き声を上げると、脱兎のごとく茂みの中へと逃げ去っていった。
後に残されたのは、息を切らし、腕に浅い傷を負いながらも、呆然と立ち尽くすリリアーナだった。
俺はゆっくりと彼女に近づいた。
「…まあ、ぎりぎり及第点、だな」
ぶっきらぼうに言う。
「よくやった。初めてにしては上出来だ」
その言葉に、リリアーナは堰を切ったように涙を流し始めた。それは恐怖からではなく、安堵と、達成感と、そして悔しさがない混ぜになった涙のようだった。
「ふ、フローネ様…! わ、私…!」
「泣くな。次に進むぞ」
俺はそう言って、再び気絶させた方の疾風兎を担ぎ上げた。
貴族令嬢の初陣は、不格好ながらも、確かな一歩を刻んだようだ。




