パート1: 目覚めは森の中
意識が浮上する。
深い、深い水の底から引き上げられるような感覚。全身を包む倦怠感と、頭の芯に残る鈍い痛み。
(……俺は、どうなったんだ……?)
途切れ途切れの映像が脳裏をよぎる。ライトの眩しさ。衝撃音。アスファルトの匂い。誰かの悲鳴。そして、急速に遠のいていく意識……。そうだ、俺は――大神龍星は、あの夜、死んだはずだ。総合格闘技の世界で頂点を目指していた俺が、呆気なく、路上のストリートファイトで……。
(……チッ、情けねえ最期だ……)
自嘲が漏れる。だが、待て。死んだはずの俺が、なぜ思考している? この感覚はなんだ?
瞼が重い。ゆっくりと押し開けると、最初に飛び込んできたのは、鬱蒼と茂る木々の緑だった。見たこともない種類の植物が、天を覆うように枝葉を伸ばしている。柔らかな木漏れ日が、苔むした地面をまだらに照らしていた。
「……どこだ、ここ……?」
掠れた声が出た。だが、その声に愕然とする。
高い。まるで鈴を転がすような、可憐なソプラノ。俺の声じゃない。
混乱したまま、ゆっくりと身体を起こす。視界の端で、さらりと銀色の何かが揺れた。長い、絹糸のような髪。俺の髪は、短く刈り込んだ黒だったはずだ。
恐る恐る自分の手を見る。白く、華奢な指。格闘技で鍛え上げ、タコと傷にまみれたゴツい俺の手とは似ても似つかない。まるで、人形のような手だ。
なんだ、これは。どうなっている。
立ち上がろうとして、よろめいた。身体が軽い。異常に軽い。だが、同時に力が入らないような、頼りない感覚もある。まるで、自分の身体ではないみたいだ――いや、実際に、違うのだ。
近くに、雨水が溜まったのだろうか、小さな水たまりがあった。震える足でそこに近づき、水面を覗き込む。
「――ッ!?」
息を呑んだ。
水面に映っていたのは、見知らぬ少女の顔だった。
流れるような銀髪。大きな碧眼。透き通るように白い肌。整いすぎた、まるで作り物のような美貌。年は…十五、六といったところか。
これが、俺…? 大神龍星…?
冗談じゃない。俺は男だ。二十八年間、男として生きてきた。それが、なぜこんな…可憐な、か弱い少女の姿になっている?
(落ち着け…落ち着け、俺…大神龍星…!)
混乱で爆発しそうな頭を必死で抑えつける。格闘家としての本能が、理性を取り戻せと叫んでいた。試合前の極度の緊張状態に比べれば、まだマシだ。パニックは死を招く。どんな状況でも、まず現状を分析し、最善手を探す。それが染み付いた思考だった。
(状況を整理しろ。俺は死んだはずだ。だが、生きている。見知らぬ森の中だ。そして、見知らぬ少女の身体に入っている。……理由は不明。目的も不明。現状、分かるのはそれだけだ)
一つ、深呼吸をする。少女の肺は小さく、深く息を吸うのも勝手が違う。
立ち上がり、改めて自分の身体を確認する。軽くステップを踏み、シャドーのように拳を突き出してみる。
(…軽い。だが、芯がない。パワーが足りない。しかし…妙なバネがあるな。それに、柔軟性が異常に高い)
前世の感覚とのズレが大きい。だが、絶望的なほど動けないわけではない。むしろ、ポテンシャルは感じる。問題は、この身体をどう使いこなすかだ。
(とにかく、情報が必要だ。ここがどこなのか。食料は? 水は? 危険な生物はいるのか? 人里は近いのか?)
やるべきことは山積みだ。感傷に浸っている暇はない。
俺は、いや、「私」は――フローネ、と、なぜか頭に浮かんだ名前を認識しつつ――この見知らぬ世界で、生き延びなければならない。
クソッたれな状況だが、やるしかない。
俺は、再び歩き出した。かつての自分が想像もしなかった、小さな歩幅で。