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押さなくても、隣に

作者: JOSE9512
掲載日:2026/02/22

 行きつけの居酒屋の扉を開ける。

 僕が店内を見渡すと、金曜夜のざわめきの向こうから一本だけ、やけに目立つ手がぶんぶん振られていた。

 あれだな。

 他の客より頭ひとつ分高い。座っていても分かる存在感。立っていたら天井に当たりそうな勢いだ。


「千歳、すまん、遅くなった」

 急いでテーブルに向かい、向かいの席に腰を下ろす。


「別にいいよ。兼親が遅れるのはいつものことじゃん」

 にやり、と向かいに座った端正な顔がゆるんだ。


 長田千歳(おさだちとせ):24歳。

 職業:モデル。


 大ぶりなジャケットにローライズジーンズ。ラフなのにとても様になっている。

 店内のサラリーマンもOLも、ちらちら視線を投げているのが丸分かりだ。


 背は高いが威圧感はない。

 姿勢がいいせいか、むしろすっと風が通るような印象を与える。

 化粧は薄い。ショートボブの隙間からのぞく小ぶりなピアスが、さりげなく光っていた。


 千歳に興味を抱いていた人たちは千歳が誰を待っていたのか。

 も気になったのだろう。

 僕に興味津々の視線を送ってきたが、その目は途端に興味をなくしているのが僕にもわかった。


 神宮寺兼親(じんぐうじかねちか)、24歳。

 職業:会社員

 特技も何もない、顔だち含めて平凡な男なのだからしょうがない。



 千歳は僕の幼馴染。

 それ以上の存在と呼ぶには彼女はまぶしくなりすぎた。


 学生時代に頻繁にしていた2人飲みが、

 お互いの仕事の忙しさから間隔が空き、

 千歳の顔を直接よりもテレビや電車の中づり広告で見ることが増えた。


 一気に遠い存在になっちゃったなぁ。

 ・・・ついこないだ

「久しぶりに飲もうよ。」

 そんな電話がかかってくるまでは、そう思っていた。


「生2つ。枝豆と唐揚げ。あと、だし巻き」

 千歳は近くを通ったアルバイトに2本指をすっと立てながらオーダーする。


 手元のグラスは半分ほど減っているが、中身はお茶らしい。

「飲んでても良かったのに」

「今日は大事な日だからね」

「何が?」

「へい、お待ちぃ。ビール2丁ぅ。」

 居酒屋特有の言い回しと口調でアルバイトの男性が僕たちの前にビールを置く。

 泡が揺れ、こぼれそうになるのを抑えながら急かされるように僕たちは乾杯をした。


「で、大事な日って何だ」

 と喉の渇きもあり半ばまで開けたグラスをテーブルに置きながら僕が尋ねると

「焦らない」

 千歳はそう言ってちょうど来た枝豆を勝手に僕の前に寄せる。

「剥く係ね」

「なんで」

「手持ち無沙汰にならないように」

 続けて唐揚げが来る。小ぶりなやつを1つつまんで口に放り込む。熱い。

 千歳も1つ箸でつまみあげると、冷ますように息を吹きかける。

「ねえ。」

「ん。」

「私ら再来月25歳になるでしょ。」

「そうだな。」




「既成事実、作ろっか」

 僕は手にしていた2つ目の唐揚げを落としかけた。

 そこに店員がちょうどだし巻きを置く。

 2人の間に湯気が立ちのぼったがその向こうの千歳の目は一切曇ってなかった。


「鈍感、ニブちん」


 千歳は注文票をつかみ、ついでに僕の手首までつかんで立ち上がる。

「ち、千歳?」

「これまでさんざん待ったんだ。これからは私の好きにさせてもらうよ」

「なにを?」


「まずは既成事実を作ろう」

「物騒な言い回しはやめよう」


「それからご挨拶。

 週末、お義父さんとお義母さんのところ行くよ。」

「うちに?」

「大丈夫。事前に話は一通りつけてある」

「いつの間に!?」

「お義母さん『息子をよろしくお願いします』って言ってた」

「待て待て待て待て」

 情報量が多すぎる。

「それ、僕に一言もないっておかしくない?」

「言ったら逃げるでしょ?」

「逃げるわ!」

 千歳は腕を組み、ふん、と鼻を鳴らす。

「兼親はね、はっきり言わないくせに私がいなくなったら後悔するタイプなんだよ」

「その自信はどこから来るんだ」

「十七年間の観察データ」

 標本がほぼ母集団になっとらんか。


 確かに物心ついた頃から一緒だった。だが、それとこれとは話が違う。

「というわけで」

「どのわけだよ」

「今日から同棲ね」

 ビールが届いた。


 僕はそれを一気に半分飲み干した。


「話が飛びすぎだろ」


「飛ばしてるんだよ。テンポ大事」


「誰目線の演出だ」


 千歳は当然のようにスマホを取り出し、何かを僕に見せる。


 マンションの間取り図。


「2LDK。駅徒歩五分。日当たり良好」


「なにこれ」


「もう契約した」


「は!?」


「兼親の会社からも近いよ」


「僕の了承は!?」


「今もらった」


「もらってない!」


 千歳はビールを一口飲み、真顔で言った。


「兼親さ、私のこと好きでしょ?」


 心臓が跳ねる。


「・・・幼馴染だろ」


「質問に答えて」


 逃げ場がない。


 視線が絡む。


 店内のざわめきが遠くなる。


「・・・嫌いではない」


「はい成立」


「何が!?」


「じゃあ決まり」


「強引すぎる!」


 千歳は楽しそうだ。完全に遊ばれている。


 だが。


 否定しきれない自分がいるのも事実だった。


 モデルとして活躍する彼女を、テレビや雑誌で見るたびに、妙に誇らしくなっていたのは確かだ。


 遠い存在だと思っていた。


 だから、何も言わなかった。


 言えるはずもなかった。


「兼親」


 千歳が少しだけ声を落とす。


「私、待ってたんだよ」


 その一言で、胸が詰まる。


 だが次の瞬間。


「でももう待たない」


 にっこり。


「だから奪いにきた」


「物騒なワード多いな今日!?」


 千歳は会計を済ませると、僕の腕を引っ張った。


「さ、荷物まとめに行くよ」


「今日!?」


「勢い大事」


「僕の人生!」


「共有財産」


「いつから!?」


 店の外に出ると夜風が吹く。


 千歳は空を見上げ、満足げに息を吐いた。


「やっとだ」


「何がやっとだよ」


「スタートライン」


 そう言って僕を見る。


 まっすぐ。


 逃げ道を塞ぐ視線。


「兼親、覚悟決めな」


 こうして僕は、知らぬ間に同棲生活へと放り込まれることになった。


 ・・・翌朝、僕の部屋に巨大なスーツケースを持った千歳が本当に現れるまでは、まだどこかで冗談だと思っていた。




 ◇◇◇




 翌朝七時ちょうど。

 インターホンの連打で目が覚めた。

 ピンポンピンポンピンポンピンポン。

「火事か!?」

 寝ぼけたまま玄関を開けると、そこに立っていたのは――

 巨大スーツケースを二つ、肩にボストンバッグ、さらに観葉植物まで抱えた千歳だった。

「おはよ、旦那様」

「だから誰が旦那だ」

「ほら、開けて。重い」

 強引に中へ入ってくる。

 僕のワンルームは六畳一間。男の一人暮らし仕様。生活感の塊。

 そこへ、モデルが降臨した。

 部屋が急に撮影スタジオの事故現場みたいになる。

「狭っ」

「うるさい」

「兼親、ここでよく生きてこれたね」

「人類なめるな」

 千歳はくるりと室内を一周すると、腕を組んだ。

「うん。引っ越そう」

「決断が早い」

「もう新居あるけど」

「昨日のあれ本気だったのか」

「もちろん」

 千歳は荷物を置くと、いきなりカーテンを開けた。

 朝日が差し込む。

「暗い部屋はダメ。運気落ちる」

「急に風水?」

「モデルはね、縁起担ぐの」

 僕は頭を抱えた。

「千歳、ちょっと待て。整理させてくれ」

「三十秒あげる」

「短い」

「はいスタート」

「いや待て待て」

 千歳は勝手に冷蔵庫を開ける。

「食材ゼロじゃん。栄養どうしてるの」

「千歳、日本にはコンビニという半完成の食品を売「今日から私が作る」」

「なんで確定事項なんだ」

「同棲だから」

「合意してない」

「心は合意してる」

「してない」

「してる」

 言い切られると、なぜか弱い。

 千歳は僕のベッドに座り、ふちをぽんぽんと叩く。

「兼親」

「なんだ」

「嫌?」

 ずるい。

 その聞き方はずるい。

 真っ直ぐ見るな。

 首を少しかしげるな。

 寂しそうな上目遣いをするな。

「・・・嫌ではない」

「はい決まり」

「だからその成立方式やめろ」

 千歳は立ち上がると、急に距離を詰めてきた。

 顔が近い。

 シャンプーの匂いがする。

「私ね」

「・・・」

「ずっと隣にいるつもりだった」

 胸の奥がじわっと熱くなる。

 だが次の瞬間。

「だから既成事実」

「だからその決め方は物騒」

 バシッと僕の背中を叩く。

「よし! 引っ越し作業!」

「今日仕事だぞ!?」

「有給取った」

「僕は!?」

「今から電話しな」

「いや無理!」

 その横で千歳は鼻歌まじりに僕の服を仕分けしている。

「これは捨てる」

「待てそれまだ着る」

「穴あいてる」

「味だ」

「そんな味はいらない。」

 段ボールが増えていく。

 生活が圧縮されていく。

 午後には引っ越し業者まで現れた。

「予約済み」

「どこまで先回りしてるんだ」

「十七年分の観察データ」

 怖い。

 でも、どこか嬉しい自分がいるのも事実だった。

 新居は本当に駅近で、広くて、日当たりがよかった。

 2LDK。

「ここが私たちの城」

「いつの間に共有財産に」

 リビングに立った千歳は満足げに両手を広げる。

「兼親」

「なんだ」

「改めて。よろしく」

 不意打ちみたいに柔らかい声だった。

 僕は少しだけ息を吐く。

「・・・よろしく」

 その瞬間。

 千歳がにやりと笑う。

「よし。ルール決めよ」

「もう?」

「家事分担」

「はい」

「料理私。洗濯兼親」

「なぜ」

「私忙しい」

「モデル様」

「掃除半々」

「妥当」

「あと」

「まだあるのか」

「週一デート」

「義務?」

「義務」

「強制力が強い」

「恋人だからね」

「・・・え?」

 今、さらっと何か言わなかったか。

「私たち、付き合ってるんでしょ?」

「え、いつから」

「昨日」

「どの瞬間!?」

「嫌いじゃないって言ったとこ」

「それだけ!?」

「十分」

 千歳はソファに座り、足を組む。

「兼親はさ、ちゃんと言葉にしないと進まないタイプ」

「だからって強制進行はどうなんだ」

「押さないと動かない」

 図星だ。

 悔しいが図星だ。

 僕は天井を見上げる。

 人生が急加速している。

 だが、不思議と恐怖はなかった。

 むしろ。

 心のどこかが、静かに落ち着いている。

「兼親」

「なんだよ」

「逃げないよね?」

 今度は、冗談の色がなかった。

 僕は少しだけ笑う。

「逃げるなら昨日か今朝の時点で逃げてる」

 千歳はゆっくりと笑った。

「よし」

「何がよしだ」

「既成事実第二段階」

「まだあるの!?」

 千歳はスマホを取り出す。

「友達に報告する」

「やめろ!」

「SNS」

「やめろって!」

 こうして僕の平凡な人生は、モデル彼女に全力で振り回される日々へと突入した。

 けれど。

 騒がしくて、強引で、強制的で。

 でもちゃんと、隣に立ってくれる。

 そんな彼女となら。

 悪くない。

 たぶん、きっと。

 いや絶対、振り回されるけど。

 それでも。

 ――まあ、いいか。

 長田千歳は、僕の幼馴染で。

 そして今日から、僕の恋人らしい。

 らしい、じゃなくて。

 たぶん、本当に。


 ◇

 その翌日の日曜日・・・

 実家の最寄り駅に降りた瞬間、僕は帰りたいと思った。

「顔が死んでるよ、兼親」

 隣を歩く千歳はやけに機嫌がいい。

 今日はシンプルな白ブラウスにネイビーのスカート。

 落ち着いた装いなのに、やっぱり目立つ。改札を出るたび視線が刺さる。


「なんでそんな平然としてるんだ」

「だってもう挨拶済ませてるし」

「僕抜きでな」

「細かい」

「細かくない」

 実家は駅から徒歩十分。

 見慣れた門が見えてくる。

 逃げ場ゼロ。

「ほら、背筋伸ばして」

「どっちが挨拶する側だよ」

 インターホンを押す前に、玄関が開いた。

「いらっしゃい、千歳さん!」

「お邪魔します、お義母さん」

「ちょっと待て」

 母は満面の笑みで千歳の手を握る。

 僕の存在は空気だ。

「兼親、遅い」

「僕の家なんだけど」

 奥から父が現れる。

「おお、来たか」

「ただいま」

「千歳さん、本当に息子でいいのか?」

「ちょっと父さん!?」

 千歳はにこやかにうなずく。

「はい。だいぶ鈍いですが、そこも含めて」

「フォローになってない!」

 リビングに通される。

 テーブルには豪華な料理が並んでいた。

「千歳さん、兼親のどこが良かったの?」

 母がいきなり核心を突く。

「ちょっと段階!」

「顔」

「即答!?」

「あと優しいところ」

「それは嬉しいけど」

「あと押せば動くところ」

「家電みたいに言うな」

 父がうんうんとうなずく。

「昔からなあ。兼親は受け身だ」

「やめて」

「好きな子に告白もできなかったもんな」

「やめろ」

 千歳がこちらを見る。

「へえ?」

「過去の話!」

 母が楽しそうに続ける。

「中学のとき千歳さんの話ばっかりしてたのよ」

「母さん!!」

 千歳がゆっくり顔を向ける。

「へえ?」

「違う! 普通に幼馴染として!」

「好きだったんだ」

「言ってない!」

 父が肩を叩く。

「観念しろ」

「家族が敵!」

 千歳は楽しそうに微笑む。

「安心しました」

「何が」

「ちゃんと昔から私だったんだなって」

 言葉に詰まる。

 母がさらに爆弾を投げる。

「兼親ね、小さい頃から千歳さんが転ぶと真っ先に走っていってたのよ」

「ストップ!」

「ヒーロー気取りで」

「やめろぉ!」

 千歳がくすっと笑う。

「ヒーローなんだ」

「違うから」

「でも今も助けてくれるよね?」

 急に真顔。

 まっすぐな目。

 僕はため息をつく。

「・・・できる範囲で」

「それで十分」

 父が咳払いする。

「千歳さん」

「はい」

「息子は頼りないが、根は真面目だ」

「知ってます」

「尻に敷いてくれ」

「父さん!?」

 母も頷く。

「うちの子、強く言われないと動かないの」

「家庭内評価ひどい」

 千歳がゆっくり立ち上がる。

「お任せください」

「やる気満々!?」

 そして僕の隣に座り直し、腕を絡めてくる。

「兼親」

「なんだ」

「ちゃんと守るから」

「どっちが?」

「私が」

「そこは僕じゃないのか」

「じゃあ二人で」

 両親が顔を見合わせる。

「もう大丈夫だな」

「ええ」

 何がどう大丈夫なんだ。

 僕は完全にいじられ要員だった。

 食後。

 帰り際。

 母がこっそり僕に言う。

「逃したら一生後悔するわよ」

「・・・分かってる」

 外に出ると夕暮れだった。

 千歳が隣で伸びをする。

「楽しかった」

「僕は寿命縮んだ」

「でも嬉しかったでしょ?」

「・・・まあ」

 千歳が横目で見る。

「兼親」

「ん?」

「好き?」

「ここで聞くな」

「はいかいいえ」

「・・・好き」

 一瞬、時間が止まる。

 千歳は静かに笑った。

「やっと言った」

「言わせただろ」

「うん」

 腕をぎゅっと絡めてくる。

「これで完全成立」

「また成立」

「既成事実最終段階」

「段階多いな」

 駅へ向かう道。

 空は茜色。

「兼親」

「なんだ」

「逃げないよね?」

「逃げない」

「よし」

 千歳は満足そうにうなずいた。

 強引で、押しが強くて、僕の人生を勝手に加速させる幼馴染。

 でも。

 その隣は、不思議と居心地がいい。

 たぶんこれからも僕は振り回される。

 でもまあ。

 悪くない。

 いや、かなり悪くない。

 長田千歳。

 僕の幼馴染で、恋人で、たぶん将来の――

「兼親?」

「なんでもない」

 言うのは、もう少し先でいい。

 たぶん。

 いや、きっと。

 両親挨拶から一ヶ月。

 僕の生活は、完全に様変わりしていた。

「兼親、洗濯物!」

「今やる!」

「今って五分以内!」

「厳しい!」

 2LDKのリビングに響く声。

 千歳はキッチンでエプロン姿。モデルとは思えないほど手際がいい。

 フライパンの音が小気味よく弾む。

 同棲は、思っていたよりもずっと現実的だった。


 朝は早い。夜は意外と静かだ。

 千歳は仕事の日は帰りが遅いが、帰宅すると必ず「ただいま」と僕の顔を見る。

 それが、妙に安心する。

「兼親」

「ん?」

「塩どこ?」

「右の棚の二段目」

「正解」

 こんなやりとりが増えた。

 強引に始まった同棲生活は、いつの間にか日常になっていた。

 だが。

 ある夜。

 珍しく千歳の帰りが遅かった。

 二十三時。

 連絡はあったが、胸の奥がざわつく。

 テレビをつけても内容が入らない。

 時計を見る。

 また見る。

 ドアの開く音。

「ただいま」

 振り向くと、千歳が立っていた。

 少し疲れた顔。

「おかえり」

 自然に立ち上がっていた。

「遅かったな」

「撮影押してさ」

 靴を脱ぐ千歳の足元が少しふらつく。

「大丈夫か?」

「平気」

 平気な顔をしているが、分かる。

 無理をしている。

 僕は迷わず言った。

「座れ」

「え?」

「ご飯、温める」

 千歳が目を瞬く。

「兼親が?」

「やればできる」

「押せば動く?」

「今日は自発的」

 ソファに座らせ、レンジを操作する。

 たいした料理じゃない。でも、温かい。

 湯気が立つ皿を前に置く。

「ほら」

 千歳は少しだけ目を細めた。

「ありがと」

 その一言が、妙に嬉しい。

 僕は向かいに座る。

「なあ」

「ん?」

「無理してないか」

 千歳が箸を止める。

「してるよ」

「即答」

「仕事だもん」

「でも」

 言葉を探す。

 うまく出てこない。

「でも?」

「・・・倒れたら困る」

「誰が?」

「僕が」

 沈黙。

 千歳がじっと見る。

 いつもの強気な目じゃない。

 柔らかい。

「兼親」

「なんだ」

「ちゃんと彼氏してる」

「してるだろ」

「うん」

 箸を置く。

「正直ね」

「うん」

「ちょっとだけ不安だった」

「何が」

「強引に連れてきちゃったから」

 初めて聞く弱音だった。

「後悔してないかなって」

 僕は息を吸う。

「後悔する暇ない」

「え?」

「毎日忙しい」

「それ私のせい」

「でも」

 視線を合わせる。

「楽しい」

 千歳が目を見開く。

「本気?」

「本気」

「押してないのに?」

「今回は自発的」

 ふっと笑う。

 千歳がゆっくり立ち上がり、僕の隣に座る。

 距離が近い。

「兼親」

「ん」

「好き?」

「またそれ」

「確認」

 僕は観念した。

「好き」

 今度は、迷わず。

 千歳が笑う。

「よし」

「何がよしだ」

「これで安心」

 肩に頭が乗る。

 静かだ。

 テレビの音も止めた。

「なあ、千歳」

「ん?」

「結婚とかさ」

「急だね」

「そのうち、でいいけど」

 千歳が顔を上げる。

「そのうち?」

「逃げない」

 しっかり言う。

 今度は、逃げない。

 千歳はじっと見て、それから小さく笑った。

「うん」

「うん?」

「待つよ」

「押さないのか」

「大事なとこは待つ」

 意外だった。

「強引ヒロインは?」

「押すのはスタートだけ」

 そう言って、指を絡めてくる。

「ゴールは一緒に」

 胸の奥がじわりと温かくなる。

 僕は軽く息を吐く。

「ずるいな」

「なにが」

「全部持ってく」

「兼親が遅いから」

 その通りだ。

 でも、今は違う。

「千歳」

「ん?」

「ありがとう」

 驚いた顔。

「何急に」

「連れてきてくれて」

 千歳がゆっくり笑う。

「どういたしまして」

 その笑顔は、雑誌やテレビで見るものよりずっと近い。

 僕だけが知っている距離。

 窓の外に夜景が広がる。

 2LDKの部屋。

 騒がしく始まった同棲。

 強引に作られた既成事実。

 でも今は、ちゃんと自分の意思でここにいる。

「兼親」

「ん」

「幸せ?」

 少しだけ考える。

 そして答える。

「かなり」

 千歳は満足そうに目を閉じる。

「よし」

「またよしか」

「最終確定」

「段階好きだな」

「好き」

「何が」

「兼親が」

 心臓が跳ねる。

 ずるい。

 本当にずるい。

 でも。

 もう逃げない。

 押されなくても、動ける。

 たぶん。

 いや、きっと。

 長田千歳。

 強引で、眩しくて、僕の人生を勝手に塗り替えた幼馴染。

 でも今は。

 僕の恋人で。

 これからも隣にいる人だ。

 ソファに並んで座り、静かな夜を共有する。

 強引に始まった物語は、いつの間にか自然に続いている。

 そしてこれからも。

 押されたり、押したりしながら。

 二人で、前に進んでいく。

 ――たぶん、いや、確実に。

 既成事実は、今日も更新中だ。




 ◇千歳視点◇


 神宮寺兼親は、昔から変わらない。

 変わらないくせに、変わるのが遅い。

 そこが好きで、そこがもどかしい。

 幼稚園のころ、私が転んだとき一番に駆け寄ってきたのは兼親だった。

 泣いていた私より、なぜかあいつのほうが焦っていた。

 あのときから決めていた。

 この人は、私の隣にいる。

 本人が気づくかどうかは別として。

 モデルになって、背が伸びて、世界が広がった。

 撮影現場にはきらきらした人がいっぱいいる。スマートで、言葉も上手で、迷いがない人たち。

 でも。

 仕事終わりに会いたくなるのは、いつも兼親だった。

 あいつはきらきらしていない。

 むしろ地味。

 押さないと動かないし、気持ちも言わない。

 だから私が押した。

 押して押して、逃げ道をなくした。

 あの日、居酒屋で「既成事実を作ろう」って言ったとき、正直ちょっと怖かった。

 嫌だって言われたらどうしようって。

 でも、兼親は嫌とは言わなかった。

 言えなかった、が正解かもしれないけど。

 同棲が始まってからも、私はずっと観察している。

 洗濯物を干すとき、私の服をちょっと丁寧に扱うところ。

 帰りが遅いと、さりげなく起きて待ってるところ。

 心配してるくせに、言葉にするのが遅いところ。

 不器用。

 でも、ちゃんと優しい。

 この前、「楽しい」って言ったとき。

 あれは反則だった。

 私が連れてきたのに、あんな顔するなんて。

 ずるいのはどっちだろう。

 強引ヒロインなんて言ってるけど、本当は少しだけ不安だった。

 私ばっかり走って、兼親は置いてきぼりじゃないかって。

 でも違った。

 あいつは遅いだけ。

 ちゃんと歩いて、ちゃんと隣に来る。

「逃げない」

 あの一言で、全部報われた。

 押さなくても動くようになった。

 少しずつ。

 ゆっくり。

 それが、なんだか嬉しい。

 今もソファの隣で、テレビを見ながら無意識に私の指を握っている。

 自覚なし。

 本当に鈍い。

 でも、そんな兼親だからいい。

 私はたぶん、これからも押す。

 でもゴールは一緒に決める。

 だってこれは、私だけの物語じゃない。

 二人の物語だから。

 神宮寺兼親。

 私の幼馴染で、恋人で、未来の隣の人。

 逃げたら追いかける。

 でも今は、追わなくてもいい。

 ちゃんとここにいるから。

 強引に始めた既成事実は、もう必要ない。

 だって今は。

 ちゃんと、両想いなんだから。




 ◇ エピローグ(千歳視点) ◇



 神宮寺千歳。

 いまだに少しだけ、くすぐったい。

 書類に名前を書いた日も、指輪をはめてもらった日も、わりと冷静だったはずなのに。

 朝、隣で寝ている顔を見ると、じわっと実感がくる。

 ああ、結婚したんだなって。


「……兼親」


 小さく呼んでも、起きない。

 昔から寝起きは弱い。

 指でほっぺをつつく。

 むにっとする。


「ん……千歳……?」

「おはよう、旦那さん」

 その言葉に、兼親のまぶたがゆっくり開く。

 まだ慣れていない顔。

「その呼び方、やめろ」

「なんで」

「くすぐったい」

「私も」

 でもやめない。

 ベッドの中で、ぼんやりしたまま視線が絡む。

 結婚前と何が違うのかと聞かれたら、きっと大きな違いはない。

 一緒に住んで、同じごはんを食べて、同じ時間に眠る。

 でも。

 “帰る場所”の輪郭が、少しだけ濃くなった。

 撮影が長引いた日、ふとスマホを見る。

 《何時になっても起きてる》

 短いメッセージ。

 それだけで頬がゆるむ。

 家に帰ると、リビングの灯りがついている。

 ソファでうたた寝している兼親。

「おかえり」

 寝ぼけ声。

「ただいま」

 ジャケットを脱ぎながら近づくと、自然に手が伸びてくる。

 腰に回される腕。

「遅い」

「仕事」

「知ってる」

 それでも、少しだけ拗ねた声。

 昔は私が追いかけていた。

 今は、たまに向こうが追ってくる。

 進歩。

 ソファに並んで座ると、当たり前みたいに肩が触れる。

「千歳」

「ん?」

「今日、疲れてるだろ」

 そう言って、頭を軽く撫でる。

 ああもう。

 こういうところ。

 私は目を閉じる。

「うん、ちょっと」

「風呂、先入れ」

「ありがとう」

 強引に始めた恋。

 押して押して、隣に立たせた人。

 でも今は違う。

 ちゃんと並んで歩いてる。

 たまにぶつかって、たまに笑って。

 指輪がきらりと光る。

 それを見た兼親が、小さく笑う。

「似合ってる」

「今さら?」

「何回でも言う」

 不意打ち。

「……好きだよ」

 ぽつりと落とすと、兼親が少しだけ照れる。

「知ってる」

「言わせといてそれ?」

「俺もだから」

 さらっと返す。

 ずるい。

 でも幸せ。

 私は肩に頭を乗せる。

 鼓動が近い。

 安心する音。

 強引ヒロインは、もう必要ない。

 だって今は。

 押さなくても、ちゃんと隣にいる。

 神宮寺兼親。

 私の夫で、相変わらず少し鈍くて、でも誰より優しい人。

「ねえ」

「ん?」

「この先も、ちゃんと隣にいてね」

「当たり前だろ」

 即答。

 それだけで十分。

 私はそっと笑う。

 既成事実から始まった恋は、今日も更新中。

 今度は、夫婦として。

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