4、
アルビエン・グロッサム伯爵は上機嫌だった。理由は簡単、楽しみにしていた小説の続編が大当たりで、非常に面白かったからだ。一晩かけて読み終わり、現在二週目に突入。
とはいえ時刻は夕方、もうすぐ日が沈む。
庭園に据え置かれたテーブルセットで読んでいた伯爵は、徐々に暗くなり始めた空を見上げてパタンと本を閉じた。
「やれやれ、残りは夕食の後にするかな」
今頃屋敷の調理場では、優秀な料理人モンドーが美味しい食事を作ってくれている頃だろう。ぐう、と鳴るお腹をさすりながら立ち上がる。
不老不死の伯爵は食事を必要としない。食べなくても死ぬことはない。
だというのに不思議なもので、空腹は感じる。食べることができる。食べなきゃずっと空腹のままかといえばそうではない。非常時には空腹を追いやることすらできるのだ。
だが食べることというのは、人生における楽しみの上位にランクインする行為だ。退屈が嫌いな伯爵は、敢えて空腹を抑えず、食べたいだけ食べる。
「今夜の夕飯はなんだろう」
今日の昼、買い出しと言って出て行ったモンドーは、大量の食材を買って帰って来た。そんな子供体型でよく持ち帰ることができたねと思ったら、見かねた町人が荷馬車を出してくれたらしい。なぜ伯爵家の馬車で行かなかったの? と聞けば、たまたま激安セールをやっていて、衝動買いしてしまったんだと照れたように頬を赤らめて彼は言っていた。
その様子を思い出してクスリと笑い、伯爵は庭を歩く。
いつだって美しい装いを見せる庭は、昼と夜とでは異なる顔を見せる。
だが今のように夕陽が差す時間もまた、風情があるということを知る者は少ない。日暮れ時は短い。
また今度、愛しいディアナを誘って、この時間を共に過ごそうかな。
そんなことを考えていたものだから、気付くのが遅れる。
何者かが伯爵に近付くのを、彼は気付くことが出来なかったのだった。
* * *
その頃、モンドー少年は満足だった。思わず衝動買いした大量の食材を、どう料理してやろうかと腕まくりしてからしばらく、彼が厨房から出ることはなかった。
そして出来上がった料理の味見をして、我ながら最高ではないか! とニンマリする。
「さて、そろそろ伯爵を呼びに……」
伯爵は[伯爵]なのに、色々自分で動く人だ。夕食のための食器を用意したりなんて、伯爵にとっては普通のことだ。むしろモンドーがやってしまったら、自分がやりたかったと拗ねるくらいには。
退屈嫌いな我がご主人は、自分でやることで人生を楽しむんだよなあ。
なんて思いながら、まくっていた袖を戻し、エプロンをはずして庭に向かおうとする。
その時だった。
『うわ!?』
伯爵の叫び声がハッキリ聞こえたのは。
厨房は伯爵がよくいるテーブルセットからは離れている。人間ならば聞き逃すだろうその叫びは、けれど人狼であるモンドーには容易に聞き取れた。
「伯爵!?」
その切羽詰まった叫びに、モンドーは慌てて外へと飛び出した。
ガタンと音を立てて椅子が倒れても、振り返ることはない。
* * *
「……で、どゆことなのこれ」
慌てて庭に出て、目にした状況に拍子抜け、といった表情をするモンドー。
問いかけた先には、困り顔の伯爵。
そして……
「やあヘルシアラ、今日はまた随分と激しいね」
前世も前々世も、そのずっと前も知っている。先日愚痴りに来たばかりの、旧知の仲な吸血鬼ハンターは伯爵にしがみつき、その表情は見えない。
「ええっと、ちょっと放してもらえるかな?」
「ドランケが居なくなったあ!」
会話がかみ合わないとはこのことか。
伯爵の要求をスルーして、伯爵の胸元に顔をうずめたまま、ヘルシアラは叫んだ。
「ドランケが?」
首を傾げる伯爵に、顔を上げることなくヘルシアラは頷いた。
「あいつの同胞……別の吸血鬼がドランケを攫って行ったの! なんだか不穏な気配があって、ドランケも焦った声だしてたし。どうしよう!?」
「どうしようと言われてもなあ……」
ようやく顔を上げたヘルシアラの目には、涙が溜まっている。
「お願い、ドランケを見つけて!」
「分かったから、とりあえず放してくれるかな」
キミ、僕のことが嫌いなんでしょ?
その言葉にハッとなったヘルシアラはガバッと顔を上げる。
「ぎゃあああ! き、気安く触んじゃないわよー!」
叫んでドーンと伯爵を突き飛ばす。見かけによらず強い力に、思わず伯爵はよろけて「理不尽!」と涙を流すのであった。
伯爵を突き飛ばしてヘルシアラが言うには、デイサムの街でドランケとイチャイチャしてたところに邪魔が入ったと。
ドランケがこの場に居れば、「イチャイチャじゃない!」と言っただろうが。
「見たことのない吸血鬼?」
「そう。まあほとんどの吸血鬼を私は知らないんだけどね」
彼女の最初の人生で、初仕事で出会ったのがドランケだった。それを運命と彼女は言う。
アッサリその美貌に撃沈……ドランケに一目惚れするという奇々怪々な行動に出たヘルシアラは、その後ドランケ以外の吸血鬼に興味を示すことはなかった。
何度も生まれ変わり、総じて長い時を生きて来た彼女。当然ドランケ以外の吸血鬼にも会ったことはあるが、その数は極端に少ない。吸血鬼ハンターが、一度の生で出会う数より少ないのではなかろうか。
そんな彼女から、ドランケ以外の吸血鬼情報を仕入れることは難しい。興味なさすぎにも程がある。
だが問題は、そこではない。
「僕の街に、知らない吸血鬼が、ねえ……」
その声音の冷たさに、ヘルシアラはゾクリと背筋が寒くなった。
アルビエン伯爵は、平穏を望む。退屈は嫌いだけれど、自身の生活を邪魔されることをひどく嫌うのだ。
特にこの拠点とするデイサムの街で事件が起こるのを許さない。先日のサルビの一件でも、終わってしまえばつまらないと不機嫌になっていたことを、モンドーは思い出す。
そんな彼が、トラブルメーカーとも言える吸血鬼の来訪を、喜ぶはずもない。
ドランケのように大人しくしていれば問題はない。伯爵の言うことを聞くならなお良し。
だが来て早々に問題を起こすような輩が、伯爵の意にかなうようなタイプであるはずがない。ましてや伯爵の指示に従うなんてこと、まず無いと考えて良いだろう。伯爵にとっては許しがたい存在となる。
どうするのかと伯爵の意向を待つヘルシアラは、直後の言葉に耳を疑った。
「ま、とりあえず被害はドランケだけだから、しばらくは様子見かな」
拍子抜けとはまさにこのこと。冷気ただよう冷たい声で吸血鬼来訪を嫌そうにしながら、出た結論は放置。
ヘルシアラでなくともずっこけるというもの。
「ちょちょちょ、ちょっと待ってよ! え、なに、ドランケ放置?」
「放置」
「嘘でしょお!?」
「僕はそんな嘘言わないよ」
なら別の嘘は言うのか。というツッコミは今は呑み込むヘルシアラ。
「どうして放置なの? ヤバそうな奴らにドランケが捕まったってのに……」
「そりゃドラ男だから」
いや、それ理由になってる?
言いたいことは山ほどある。だが強く言えない。だってヘルシアラは知っているから。伯爵はなかなかに面倒な性格なのだと。時に天邪鬼。
「問題起きてからじゃ遅いわよ?」
「起きたらその時考えるさ」
「ドランケが殺されちゃってもいいの!?」
吸血鬼は伯爵と違って死ぬ。不老ではあるが不死ではないのだ。
焦る様子のヘルシアラに、けれど伯爵がしたのは肩をすくめることだけ。
「そんなことより、これから夕食なんだ。一緒に食べて行くかい? モンドーが気合い入れて作った料理だからきっと……」
「ざけんなー!」
本気でドランケを心配していない伯爵に、キレました。ついにヘルシアラがキレたのである。
恋する乙女は強い。優しいようで実は怖い伯爵相手でも、引くわけにはいかないのだ!
ヘルシアラはガッと伯爵の胸倉を掴んだ。
「あんたにとってはどうでもいい存在でも、ドランケはあたしにとって大事な人なのよ! 放置とか死んでいいとか間違っても言うな!」
「えええ……」
その勢いに、思わずたじろぐ伯爵。
直後、少女の瞳からボロッと大粒の涙がこぼれて、伯爵もモンドーもギョッとした。
この少女がこういう泣き方をするなんて滅多とないのだから。悔し涙はしょっちゅうだけれど。
さすがの伯爵も焦る。
「へ、ヘルシアラ、とにかく今日はご飯でも食べて、また明日……」
「明日じゃ遅いの!」
ズビズビ鼻を鳴らし、俯く少女。
日はすっかり暮れて、庭のランプがポッと灯る。
「遅いのよ。だってあいつ……あの吸血鬼。ドランケを裁くとか言ってたんだもの」
「裁く?」
「なんか……たしか、同胞に裁かれるべきだとか言ってたから……」
「同胞」
瞬間、ピクリと伯爵の体が震えた。
泣きながらも頭の片隅が冷静なヘルシアラは、その反応にここが押し時、とばかりに胸倉を掴む手に力を込める。
「もしかしたら、他にも吸血鬼が来るかもしんないってことでしょ? いいの!? もしかしたら、そいつらがこの街や領土内でたくさんの犠牲者を出すかもしれないんだから!」
さあどう出る!?
そんな勢いで、すっかり涙が止まった目をギッと向けてくる少女に、伯爵は一瞬言葉を詰まらせ。
ややあって、「仕方ないなあ……」と深々とため息交じりに言った。
「助けてくれる?」
その問いに、肩をすくめる。
「しょうがないから、手伝おう。でも……文句は言わないでおくれよ?」
そう言って夜空を見上げる伯爵。
その視線の先には、上り始めた丸い月が見えていた。