刻の雫
武治と姿子は宙子にもたせるお土産と店でつくった幕の内弁当を手さげ袋につめ込み、エスカレーターで二階の乗船ロビーに向かった。眼前には故郷へ帰る総トン数9千800トン、全長150メートルの大型フェリーが停泊していた。船を覆いつくすように描かれたオレンジ色のひまわり模様が西日をうけてまぶしい。出航時間にはまだ少し早く、年配のカップルが一組とひとり旅風の物憂げな若い女性が待合の窓からフェリーをながめていた。宙子と孫ふたりは最前列のベンチに腰をおろしていた。
「おまたせ、おまたせ。これを持って帰りや。船の食堂は高いからな。この弁当を食べるんやで」
武治は宙子の横の空いている席に弁当の入っている紙袋を置いた。姿子は孫たちの傍には行かずに後方から姿をながめていた。
「ばあちゃん!」
姿子の姿を見つけた美唯がおぼつかない足取りで立ち上がると、ふり返って姿子の前に手をひろげた。
「だめよ、美唯! ばあちゃんにバイバイしなさい」
寛之を抱いた宙子がきつく言った。叱るような声に驚いた美唯は歩をとめ、丸く澄んだ瞳からぽろぽろと涙をこぼした。
「ここでお別れや。船まで見送るのはつらいさかい」
胸を突きあげる哀しみを必死にこらえて姿子は孫娘たちに別れを告げた。
「お義母さん、長い間ありがとうございました。今日までほんとうに楽しかった」
姿子は黙ってうなずいていた。
「宙ちゃん、痩せたな……苦労をかけさせただけで、なにもええことなかったなぁ」
「そんなことあらへん。お義母さんと一緒に暮らせてよかった。あの尼崎で震災にあったとき、お義母さんがそばにいてなかったら、うちら生きてはおれんかった。そやのに、お義母さんだけ残して大阪に帰るやなんて……かんにんしてください」
「ええんや。これでええんや。おたがい元気に暮らしていたらきっとまた逢える日がくる」
武治はただ黙してふたりの会話に聞き入っていた。血を分けた孫たちとの別れである。故もなくわが子を棄てた武治にはかける言葉がなかった。
「あんた、帰ろか。この子ら見てたら、つろうてかなわん」
「ばあちゃん、どこ行くん!」
美唯は泣き叫び姿子を目で追った。子を抱いて頭をさげる宙子と孫娘に未練を残さず、姿子は素早く背を向けた。
「むこうへ行ってもがんばるんやで!」
武治の言葉が広い待合ロビーにむなしく響いていた。
外に出ると耳を切るような風が吹き荒れていた。いつもはおだやかに立ちのぼる鉄輪の湯けむりが、激しい風に千切れている。歩道までの小さな階段をおりる姿子の着物の裾がひるがえった。
「おまえ、寂しゅうないんか?」
肩を落とす姿子の背に向かって武治が言った。
「うちは平気や」
「ほんまかい」
「あんたもひつこいなぁ。あんたに強がり言うてもしゃあない」
「そらそうやけど。それでもな」
「哀しいのも、涙がこぼれる今だけや」
「そんなもんかの」
「そうや。そんなもんや。うちらがあっちで震災に会うて避難所に暮らしてたとき、よしもとの芸人はんがボランティアで来てくれてな」
「へ~おもろかったか?」」
「いや、『どこで生きても人の一生は別れの連続。万事塞翁が馬。めげずにがんばりましょう』いうて励ましてくれた」
「ええ文句やな」
「どんなに哀しゅうても、つらくても、じっとこらえてたら、きっとまたええときがくるんや。うちはあんたと一緒におれたらそれだけでええ」
「わしでほんまにええんか?」
「いまさらなにをいうねん。商売はちいと厳しくなってきたけど、ふたり死に物狂いで頑張ったら、きっと、どうにかなる」
「そんとおりや。わしもここを死に場所ときめた。もうどこへも行かん」
本心だった。残りのわずかな人生を姿子と人生をもう一度やりなおしたい。生きていたい。武治は心の底からそう思っていた。
「そうか。おおきに。あんた、ひとつだけ聞いてええか?」
「なんやね、あらたまって」
「ほんとうのこと話してくれるか」
「いまさら、おまえに隠すようなことはない」
「ほんなら聞くけど、なんで前の奥さんと別れたんや?」
「末期ガンで危篤になってた親父の病院代をしぶった嫁が、三つの息子の正月用の服やいうて、ブランド物のスーツを五万円出して買うてきたんや。どうしても許せんかった。気がついたら手をあげてた」
「あんたみたいなやさしい男がなぁ……」
そうつぶやいた姿子の小脇にはさんでいるハンドバッグの中でケイタイが鳴った。
「やれやれ、誰やろろか?『はい。そうです。毎度おおきに。エッ! なんやのそれ、そんなアホなこと、へえ、へえ、わかりました。わざわざ、おおきに、すんまへん』どないしょう、えらいこっちゃ」
ケイタイを持つ姿子の手がふるえていた。
「どないしたんや」
「齋藤さんからや。横田さん、あかんかったらしいで」
「あかんいうて、おまえ、ほんまにあかんかったんかい?」
「明日の晩が通夜らしい」
「やってられんな。いったいどないなってんねや……」
絶句した武治を見つめ、深いためいきをついた姿子がしばらくして口を開いた。
「あんた、今晩、店休んで、どこかよその温泉でも行かへんか?」
「そやな。店する気分やないの」
「鉄輪どないや?」
「地獄か、わしにぴったりやなぁ」
地獄という言葉があまりに言いえて妙なので武治は腕を組んで笑った。
「なにがおかしいねん。へんな人やな。あんたが地獄へ行くか、それともこれから心入れかえて極楽へ行けるか、うちが占うてあげるわ」
「どないするんや?」
「このうちが履いてる下駄や。表がでたら極楽。ひっくりかえって裏がでたら地獄や。ええか、心して見ときなや」
姿子は真剣だった。
「ようし、わかった」
武治もきびしいまなざしを姿子にむけた。
「ほな、やってみい!」
武治が手をふって号令をかけた。
姿子が右足を浮かせて下駄を蹴りあげた。足袋からはなれた赤い鼻緒の下駄は、風に乗って意外と高く宙を舞った。やがて舗道に落ちて二度、三度でんぐりかえった下駄は、側面を地につけて斜めに立っていた。
「ひょっとして明日は、くもりやないか」
「アホ、天気予想してるんとちゃうで。これはなぁ、地獄へ行くか、極楽行くか、裁判受けるとこや」
姿子が言った。
「え~またまた裁判所から呼び出しかいな。ということは、わし、もうちょっと生きててもええんかい」
武治は車道に降りて姿子の下駄をひろった。
「あたりまえや。そんなに死にたかったら、なにかひとつでも世の中のためになることをしてからにしいや。ええか、生きてこしらえた罪は死んでつぐなうことはでけへんのや。生きてこの世でええことするんがつぐないや。ようおぼえとき!」
けんけん(片足立ち)をした姿子が、いつものようにカラカラと笑っていた。 《了》