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真如の月  作者: 小山彰
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一蓮托生

 店をあけて二週目になり、バッタリと客足がとまった。去年暮れから始めた宅配弁当は相変わらず順調だった。しかし夕方からの売り上げは激減。常連客が減ったわけではない。来店回数が減ったり、一度に使う金額が半減したり理由は世の中に聞けばおのずと知れた。不景気を恨む愚痴は合言葉になっていた。

 めずらしく雪が降り続けていた。いたるところから温泉が湧き出るこの町でも二月には雪が降ることがある。しかし、連日降り続けるのは何年ぶりのことか。年末までの暖かさが嘘のように年が替わってから途端に寒くなっていた。

「あんた、こんなに雪が降ってるのに弁護士の先生とこへ出かけるんかいな?」

 割烹着を着た姿子が、コタツに入って新聞を読んでいた武治を見つけて言った。

「ああ、行くで。九時の約束やからな」

 武治は新聞をたたむと振り返って姿子を見た。

「大丈夫や。なんも心配いらへん」

「いつもより温くしときや。風邪ひいたらあかんで。身体こわして店を休まれたらそれこそたいへんや」

 姿子が心配そうに言った。

「なんやね。そんな心配かいな」

「あたりまえやないか」

 姿子は台所にもどると、洗い終わった三升釜に五合枡で六杯、手際良く米を入れた。

「ほな、先に店へ行っとくで。用意ができたら朝ごはん食べにおいでや」

「今日、店休んで本当にええんか?」

 宅配弁当は武治がバイクで配達していた。

「弁当は宙子が手伝いにくるよって大丈夫や。そんなことより先生によう相談して、あんじょう教えてもらいよ」

「まあ、なるようにしかならへんけどな」

「あほ! あんたも人生を棄てたんや。その分はまけてもらわんと割があわんやろ。しっかりしいや」

 姿子にいつもの元気が戻り、武治は安堵した。


 大分行きの下り電車が雪のため大幅に遅れ、乗り合わせた車両は満杯。慣れない雪に戸惑っている乗客たちが眉間にしわを寄せながら腕時計をにらみつけていた。武治は走りだした車窓から、白く染まった鶴見山が見えなくなるほど吹き荒れる激しい雪を目で追っていた。ひゅうひゅうと赤子が泣くような風雪が武治の耳にまとわりついていた。

 電車は定刻に遅れること五分。走行中にこれといってトラブルもなく大分駅に到着した。駅前広場の大友宗麟がいつもより怒ったような表情で武治をにらみつけていた。武治はタウンページから切り取った地図を頼りに法律事務所をめざした。雪は依然、降り続けていた。傘をさしている人もあれば、カバンを頭の上にかざして小走りに駆けていく人もいた。駅前通りから城址公園にぬけて十五分足らず、武治は迷うことなく弁護士の名前がズラリと並んだ法曹ビルを見つけた。エレベーターで六階まで上がり、降りた通路のつきあたりが予約をしていた法律事務所だった。ノックをして重い扉を引いた。エアコンの息苦しいような熱風が吹き出してきた。ふたりの女子職員が仕事の手をとめて武治を見上げた。

「予約をしていた有馬ですが」

 武治は空気が滞留したようなよどんだ空気に気おくれして声が小さくなった。

「こちらにお名前と住所をお願いします。ご相談の内容は書かなくてけっこうです」

 手前に座っていたよく肥えた年配の職員が立ちあがり、場に不釣り合いの笑顔で言った。うしろの席で書類を選別しているやせ細った神経質そうな若い職員の銀ぶち眼鏡が、動くたびに蛍光灯の光を反射させている。武治は、予約の時に対応した人物はこの女性に違いないと思った。あの時感じた怜悧という感覚よりどちらかといえば病的な冷たさを感じた。

「しばらくお待ちください」

 武治が書き終えた相談メモをもって年増の職員は奥の部屋に消えた。ゆれる大きな尻がやっぱり不釣り合いだった。ほんの数秒で引き返してくると、「こちらへどうぞ」とささやくように手まねきした。

 武治は通された一番奥の部屋で立ち尽くしていた。弁護士が来るまでの時間がやけに長く感じられた。法律関係の書簡が書棚や机の上に積み上げられている。武治の部屋にあるほこりにまみれた小説本とは輝きが違った。背表紙の金文字が眼に焼きつくようにやたらと威圧的である。癒し系のグッズなどはどこをさがしてもなく、音楽も流れていない書棚に囲まれた閉所は、まぎれもなく武治を犯罪者にさせていた。

「おまたせしました。まあ、どうぞ」

 中肉中背の分厚い黒メガネをかけた五十前後の男が、眼鏡と同じ色をしたセーター姿で現れた。そして立ち尽くしている武治に席をすすめた。瞳が異様に大きく見えるのは眼鏡のせいだろうか。

「どういうご相談でしょうか?」

 硬い表情と瞬時に瞳をしぼった鋭い視線。弁護士は相談メモと武治の顔を交互に見つめながら言った。

「実を言いますと、十年前にワケあって家を出まして」

「十年前、家を出た?」

 弁護士は首をひねり、瞳を見開いた。

「どうぞ、いいから、話をつづけてください」

「関西から昨年末、こちらへ住所を移したところ、以前借りていた金融業者から請求がきまして、個人名で来ていたので、そのままにしておいたのですが、先日、裁判所から督促状が届きました。これをどう処理したものかと、それで相談に」

 武治はできるだけ簡潔に要約して話そうと電車の中であれこれ考えていたのだが、思っていたことがうまく口から出ず、言葉が幼稚に乱れた。

「ちょっと拝見させてもらえますか」

 武治は封書の束と裁判所からの督促状をテーブルの上に置いた。弁護士は十枚近くにおよぶ書類に素早く目を通すと、「あなたが借りたものにちがいありませんか」と裁判所の当事者目録を見ながら低い声で訊いた。

「はい」

「記憶にあるのですね」

「ええ。まちがいありません」

「どうして返さないの」

 弁護士は堅い口調になった。当然の問いかけに武治は窮した。

「法外な利息が上乗せされているけど、うん、たいした額じゃないねぇ。いや。これはちょっとあるなぁ。平成五年か……」

 弁護士はウンウンと何度もうなずいた。

「あなた今、なにしてるの」

「こちらで知り合った女性と食堂をしています。その女性と暮らしています」

 そう答えると、武治はテーブルの上の書類に目を落とした。

「一緒に経営しているわけ」

「準備金は用立てましたが、私の名前では営業できませんので、その女性名義で店をはじめました」

「収入はあるの」

「手伝いのようなものです」

「あるの、ないの、どっち?」

 弁護士の表情がふたたび厳しくなった。

「ありません。店を始めて三年になりますが、収入はいっさいありません。もちろん食べるのには困りませんが」

「あっそうなの。これね、平成五年だからおそらく時効でしょう。この督促を受けるまでに、一度でもお金を払ったことがありますか」

「ありません」

「それからこの支払のことで裁判になったことは」

「ありません」

 弁護士は居ずまいを正して武治に向き合った。

「いいですか。本来は五年で時効。裁判になったりしていたら時効が猶予されることがあるのだけど、それもないということだったら、おそらく時効だね」

「時効……ですか?」

 武治はとぼけたふりをしている自分がみじめでしようがなかった。

「そう。消滅時効というんだ。この書類にこう書きなさい」

 弁護士は鉛筆で異議申立書に、『本件は消滅時効にかかっている。時効は援用する』と書いた。

「これを裁判所に出せばいいんですか?」

 武治は顔をあげて弁護士をしっかりと見つめながら言った。

「出さないとこれが執行されるだけ。これから他の業者からも同じような督促が来るかもしれないけど、電話して『弁護士に相談したら時効だから払う必要はないと言われた。払う意志はない』といいなさい。そうしたら、むこうが少しずつでいいから払って欲しいと言いだすだろうけど、その時は、きっぱりと払う意志がないことを先方に伝えなさい。これでよろしいかな?」

「わかりました。ありがとうございます」

 相談時間十分足らず。弁護士は武治の礼など聞きもせず部屋を飛び出していった。武治は受付で弁護士費用を払うと事務所を出た。

 雪は依然振り続けていた。真っ白な雪のじゅうたんを踏みつけると、履き崩している革靴の隙間から水がしみ込んできた。武治は車道を避け、城址公園の中を通り抜けることにした。誰ひとり公園を散策する人はいない。築山は雪化粧につつまれていた。小池に架かった眼鏡橋から武治は水面を見た。灰色をした野鯉が一匹、群れる錦鯉から離れたところで微動だせずに潜んでいた。武治は眼下のその鯉を見つめたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。何もしていないのに気が重く疲労感が武治を陰鬱にさせた。姿子がいったとおりの筋書き。安堵してもよさそうな状況であるにもかかわらず、哀しくてしようがなかった。まぶたに積もった雪が涙にとけて武治の頬を流れ落ちていた。

  

 店に帰ると料理を詰め終えた弁当箱がカウンターをぎっしり埋めつくしていた。どうやら追加注文があったようだ。

「じいちゃん、どこ行っちょった」

 武治の姿を見て孫の美唯が驚いたように瞳を白黒させた。

「じいちゃんなぁ、ちょっとお出かけしてた」

 武治はそういうと美唯を抱きあげた。

「どこにお出かけしちょった」

 子どもは納得するまで首を縦に振らない。まさか借金の裁判をするから弁護士のところへ相談に行っていたとはいえない。武治は弁護士の問いよりきびしい孫の追及を受けてふたたび返答に窮した。

「じいちゃんは、お隣の町までお仕事に行ってたんよ」

 黒のニットシャツの上から赤いエプロンをかけた哲弥の嫁の宙子が、いそがしく箸を動かしながら助け舟を出してくれた。宙子は姿子とは似ても似つかず長身でモデルのように痩せこけていた。この身体でよく子どもを二人も産めたものだと誰もが感心していた。見た目は感情を押し殺したような冷たさを感じさせたが、その実、うちに秘めたやさしさは義母の姿子にも劣らなかった。未だ戸籍上は赤の他人である武治に対しても知り合った頃からこれといって姿子との仲を嫌う様子もなかった。

「宙ちゃん、ひさしぶりやな」

 武治は美唯を抱いたまま声をかけた。

「こちらこそ御無沙汰してます。年始も挨拶に来もしないですみません」

「お母さんが悪かったさかいしゃあないわ。それより哲弥君は、元気にしてるか?」

「家にいてます」

「家? 横田さんところの仕事はどないやねん。うまくいってるか」

「それが……」

 宙子の顔が曇った。

「あんた、いらんこといわんでええさかい、早く着替えて手伝いしてか」

 姿子の声が大きかったのでベビーカーで寝ていた下の子の寛之が泣きだした。

「わかった。すまん。すまん」

 武治は家に飛んで帰った。

 昼の弁当の配達が終わると、姿子は宙子と話があるというので近くの喫茶店まで二人で出かけて行った。武治が美唯と寛之を家に連れて帰った。食事をしてふたたび眠りについた寛之はそのままベッドに寝かせ、美唯は家にあったアンパンマンのビデオを見せて黙らせた。子育てを知らない武治も、近頃は不思議に子どもたちと同じ空間にいることが苦痛ではなくなっていた。

 夕方六時過ぎ、齋藤が係長の衣川をつれて来店した。ふたりとも肩を落とし沈痛な面持ちだった。

「支店長さん、どないしはったん? えらい暗い顔して」

 姿子がふたりに暖かいおしぼりを出した。

「どうせ知れることやから話すけど、今、警察の帰りなんや」

 齋藤はおしぼりで顔をぬぐうと「ビールおくれ」といって大きなためいきをついた。

「なにかあったんですか?」

 武治はビールとお通し一品をカウンターに並べ、二人の横に立った。

「横田が失踪してなぁ。もう一週間になる」

「まあ! なんでやの」

「そら一大事やな」

 姿子と武治は顔を見合わせた。

「横田さん、あんなにがんばってたのに……」

 姿子の声が震えていた。

「去年の暮れに元請けが倒産して、どうにもならなんだみたいや。逃げるような男やないからあの馬鹿、もしかして……。腹わって相談してくれたら俺の首かけても助けてやるつもりやったのに」

 先日、横田が少しばかり気落ちしてみえた原因はこのことだったのだろう。

「この件は支店長の責任じゃありませんよ。間違いがあったとしてもあくまで個人の過失でしょ」

 太い眉毛を寄せて衣川が気落ちする齋藤を弁護した。

「衣川さんのいうとおりやおまへんか。支店長さんには関係ないことでっしゃろ」

 姿子も衣川に同調した。

「あんたらに親友を失うかもしれん俺の気持ちがわかるか?」

 誰も黙するしかなかった。

「人にはそれぞれ理由わけがあるということです。齋藤さん、あんまり自分を責めたらあきまへん」

 武治は自分に言い聞かせるように言った。

「わかってる、わかってるけどな」

 ジョッキーを傾ける齋藤の表情はきびしかった。横田と齋藤は三十年来の友である。がっくりと肩を落とす齋藤の頬を涙が流れ落ちたような気がした。

 しばらくして五・六人の団体客がなだれ込んでくると、齋藤は席を立って武治に言った。

「どうせ、わかることやけど、このことは、ここの常連さんには話さんでな」

「わかっとります。気を落とさんと頑張ってください」

 過去のある武治は、人ごとのように齋藤を励ます自分を嫌悪した。信頼を受けていた人たちを裏切り、今を生きている自分が、友情の狭間で打ちひしがれ悲しみにくれる純情な人たちを前になにをいう資格があるというのか。

 齋藤が帰った後、降り続ける雪にもかかわらず客は途切れることはなかった。店はずいぶんと賑わい、昼夜あわせると年が明けて一番の売り上げを記録していた。閉店時間も延長して客が切れたのは十二時を過ぎていた。

「先生、どない言うてた?」

 後片付けが済んで、カウンターに夜食をならべながら姿子が聞いた。日中はゆっくりふたりで話すことはない。いつもきまって店が終わってからふたりで食事をし、あれこれとその日の出来事について語り合った。今日は長い一日だった。

「どないもあらへん。おまえのいうとおりや。時効やから異議申立書にそう書いて裁判所に出すように言われた。簡単なものやった。十分で終わった」

「そうか。ほな心配ないな。あんたもくよくよせんと気持ち切りかえてやらんとあかんで。いつもいうけど、うちら失うものは何もあらへんのや。借金取りが押しかけようが、裁判所が差し押さえにこようが、命まで取られやせんわ。うちはなぁ、となりの家のラーメンの残り汁をすすって生きてきた女や。あんたや横田さんみたいに中途半端に贅沢してきた人間は見栄をはりよってつまらん」

 武治には返す言葉がなかった。

「それより、宙ちゃんは何の相談やったんや」

 武治は話頭を転じた。

「哲弥と別れるていうてきたんや」 

「なんや、それ」

「哲弥のアホ、せっかく横田さんとこへ行くようになったんやけど、仕事にいかんと、前のおっさんとつき合いしてるらしいんや。まあ、今は、横田さんも大変やから哲弥どころやないけどなぁ。いずれにしても、このままやったら子どもも幼稚園にはやれんし、尼崎の実家に世話になるらしい。前にも何度か相談されてたんや。むこうにおった時も別れるいうて家を飛び出したこともあってな。もうええんや。哲弥も自業自得や。このまま続けて頑張れなんてあの子には言えんわ」

 姿子は吹っ切れたような表情をして言った。

「おまえ、ほんとにそれでええんか。美唯や寛之と一生会えんことになるんやで」

「うちはあんたがおる。それにアホでも息子がまだ生きとる」

「そやけど、おまえ……」

「決心したんや。もういわんとって」

「わかった。わかった」

「それにしても今年になってええことひとつもあらへんな。どないなってんねやろ」

「次から次と、おまえも苦労するな?」

「でもな、うちは負けへんで。なんぼつろうても逃げたりはせん。世の中はなるようにしかならへんけど命まではとられへん。いまはじっと我慢せなあかん時や。心配あらへん。汚れた泥の中で育つから蓮の花はきれいに咲くんや。人間も一緒。この先、どっちが先に逝って生まれ変わっても、うちとあんたはお浄土の蓮の花の上でもういっぺん見合いするんや」

「一蓮托生か……」

「あの子ら、明日の船で大阪にたつらしいんや。あんたも一緒に見送ってくれるか」

「なに水臭いこというとんや。あたりまえやろ。おまえひとり、つらい目に会わせるわけいにはいかん。明日はぎょうさん土産を持たせよやないか」

「おおきに。ほな食事しよ。早くすませて温泉に入ろ」

 店を閉めて外に出ると、雪は降りやんでいた。鶴見山から吹きおろす風は冷たく、道路は白く凍てついていた。

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