無明長夜
有馬武冶は初日の出を見るため、上人ヶ浜公園の海岸縁にある遊歩道に女房の姿子とふたり肩を並べた。別府国際観光港と隣接する六勝園と呼ばれる海浜公園での初日の出会は年始の恒例行事となっていたが、ふたりは初めて参加した。懇意にしている建設会社の社長横田悦二に誘われたからである。横田はふたりが営む食堂の上得意だった。
広場では氷の彫刻や書き初め、和太鼓の演奏などイベントが盛りだくさんで、ふたりの想像をはるかにこえた観衆が会場にあふれていた。
「たくさん人がでてるな」
武治は、冷たい指先に息を吹きかけながら真剣に書き初めをしている子どもたちを眺めながら言った。
「ほんま、ぎょうさんでてるな」
答える姿子の声が白く煙っている。
赤く染まり始めた水平線が夜明け間近を感じさせた。海岸線に沿って集まってきた若い人たちは携帯電話を空に向かって突き上げ、写真撮影の準備に入っていた。年配の人たちは、もうすでに合掌のポーズである。その海の向こうから汽笛が響く。
午前六時二十分。薄闇の中をまるで黒船のような大阪南港発の別府直行便が入港してきた。姿子がとなりの老夫婦を見習って同じように手をあわせている。
「おまえも気が早いな。まだ日の出まで時間があるやろ」
武治は姿子の神妙な姿が可笑しかった。
「おひさまとちがう、うちはあの船をおがんでるのや」
姿子は、大きく左へ旋回し着岸態勢を整えつつある船体を指さした。
「ほ~なんでや」
「よう考えてみてみい、あんたもうちもあの船でここへ流れてきたんやろ。この大船がうちたちの縁を結んでくれたようなもんや」
「そういえば、そうやな。三途の川の渡し舟か。おたがいあれに乗らなんだら、たしかに今はないのぉ。わしは渡し賃の六文もってなかったけど」
「うちもいっしょや。あの船とこの町には礼をいわんとバチがあたる。ここは温かくてええとこや。流れ者のうちたちをやさしゅうつつんでくれて」
「温いのはあたりまえや。温泉が出るんやさかい」
「冗談いうてるんやないで!」
突っ込む姿子の頬が丸くふくれている。
「怒らんでもわかってるわい」
武治は声をあげて笑った。
打ち寄せる波しぶき。刺すような海風の冷たさが身体の芯まで伝わりはじめていたが、地元の人たちがつくってくれた炊き出しの雑煮と熱いゆで卵のおかげでなんとか凌げそうである。寒いからといってもちろんその場を立ち去る人はいない。
姿子はキョロキョロとあたりを見渡し、先に来ているはずの横田をさがした。しかし、恰幅のいい横田の姿は見当たらなかった。
今日も明日も明後日も、人は生きていかねばならぬ。日の出がなければ人の生は始まらないのである。棚ボタを願う神頼みより、それは切実なことである。武治は今なお、のうのうと生きている自分がうしろめたかった。
武治は十年前、ある事件を契機に妻子と別れ、実母を故郷に残し、何もかも棄ててこの地に逃れてきた。以来、過去いっさいを封印し、日雇い労働者としてめまぐるしく転職と転居を繰りかえした。この地へ流れ着いて二年後、あろうことか大震災が故郷を襲った。武治は帰郷しなかった。家族の消息は不明。避難所で暮らす友人の姿をテレビのニュースで見ては、焼酎を飲みながらひとり薄暗いアパートで泣いた。慙愧に苛まれ、死を弄びながら暮らしているうち、今日の日の出で十年が過ぎようとしていた。三年前に厄年を迎えたが、残滓のような歳月は武治の身に災いをもたらすこともなかった。武治には日の出を眺め平穏に生きている資格などどこにもなかった。
武治が姿子と知り合ったのは勤め先の料理店である。武治は調理見習い。姿子は仲居をしていた。姿子は武治より五つ上で今年五十になる。姿子と武治はともに関西出身で、武治は震災前、姿子は震災後にこの地に移り住んだ。下町育ちの姿子は楽観的で仲間の面倒見がよく店でも人気者だった。できるだけ人とは関係をもたぬよう寡黙に仕事をしていた武治になぜか姿子はやさしくしてくれた。
「たけちゃん、あんたなぁ、うちが貧乏してた頃、世話になったとなりの大きな家の僕によう似とるんや」
それが、姿子が武治を好く理由らしい。
二人が出会った頃、姿子は離婚したばかりで、高校を卒業して就職していた長男哲弥とその同棲相手宙子の三人で暮らしていた。姿子は借金の返済と家族の生活費を稼ぐためだといって仕事を三つも掛け持ちしていた。毎日の睡眠時間はよくて三・四時間。ちいさな身体のどこにそれだけの体力があるのかと、武治は姿子が働く姿を見て、女の本当の強さとやさしさを知った。しかし美談の実態は、暴力団組員である前夫からの逃避だった。
「たけちゃん、あんたはなんでここに流れてきたんや?」
出会って間なしの頃、姿子は一度だけ武治の過去にふれた。
「いろいろあってな。今はちょっと」
武治の寂しそうな表情を見て、「話しとうなかったら別に話さんでええよ」と姿子は武治の過去をほじくりだそうとはしなかった。
武治と姿子がつきあいはじめてまもなく哲弥が宙子と結婚、孫の美唯が生まれた。この結婚が、姿子をふたたび騒動の渦の中に巻き込むこととなった。哲弥から結婚の報告を受けた前夫が、姿子の居場所をつきとめ職場に暴れこんだのである。レストランのレジスターを床にたたきつけて壊し、厨房の洋食器を店内に投げつけ窓ガラスまで突き破ってしまったのである。すでに離婚は成立し他人であるはずなのだが、そんな法規が通用する人物ではなかった。前夫が警察に取り押さえられ留置されている間に、姿子は息子夫婦に事情を話し、大分の借家を整理して別府に住んでいた武治のアパートに身を寄せた。哲弥たちは別に部屋を借りることにして所帯をわけた。
「ありがとう、たけちゃん。この恩は一生忘れへん」
姿子は武治のアパートの玄関先に土下座をして礼を言った。
前夫の事件前後を含め、武治は姿子と内縁ですでに六年も同棲していた。武治がこれほど長く同じ女性と暮らすのは生来はじめてのことだった。最初の子どもを事故で失った初婚生活は一年足らず。二度目は三年目で自分から家を棄てた。武治は自分が変わったとはどう考えても思えなかった。まわりにいる誰にも荷を背負わせようとしない姿子の生き方が、武治の傲慢な性格を包容しているのに違いなかった。
武治は今ある虚構の生活の終焉がまっとうに閉じられるはずはなく、空涙を流し悔い改めもしていない罪人に安息の地などないことは百も承知であった。姿子には申し訳ないと思いながらも、自分の最期は奈落の底であることを願っていた。もちろん武治には姿子を地獄へ道づれにするつもりは毛頭なかった。
店を始めたのはちょうど三年前、武治が厄年を迎えた年だった。その頃、姿子には前夫から背負いこんだ借金がまだ三百万あまり残っていた。住所不定の武治には当面督促される借金はなかったものの、蓄えなど一文もなかった。であるからして二人には店などする気は毛頭なかった。武治は料理店を辞め、日雇いの建設作業員をしていた。姿子は夕方七時から十一時までふたりが知り合った料理店で仲居をし、深夜零時から午前九時までファミリーレストランに出ていた。わずかながらでも姿子がかかえている借金を返済し、夕食は姿子の出勤前に安い焼鳥屋やおでん屋で済ますというまるで浮草のような暮らしを続けていた。実際のところはそれで結構楽しかった。
別段これといって不自由はなかったのだが、駅前で食堂をしていたアパートの階下に住む岩元という七十年輩の主人が、一昨年奥さんを亡くしたので、「娘夫婦が住む東京へ引っ越ししたい、ついては店を譲るからやってみないか」と姿子に懇願するものだから、気ままな浮草くらしがにわかにあわただしくなった。
「おじちゃん、ありがたい話やけど、とっても無理やわ。うちたちお金もあらへんし、おじちゃんも知ってのとおり借金もぎょうさんあるさかい」
姿子に迷いはなく、あっさり断った。
「まあそういわんと。居ぬきで明日から営業できるけん。全部残しとくから二百万でどうやろか? 常連客も二百人近くおるし、しなちゃんが着物でも着て店に出たら客も増えると思うけどな。返済は月々五万円、東京の娘の口座に振り込んでくれたらええ」
岩元は十七年前に店を出した時の投資金をどうしても回収したかったのだろう。以前はとなり町で寿司屋を三件、いずれも高級でかなり繁盛していたらしい。結果、女に入れあげてバブルの頃に数千万円もするマンションを買い与え、資金繰りの行き詰まりからどうにもならなくなり、家族をつれてこの町に夜逃げしてきた。返済にあてず蓄えていた金を今の店の資金にして小料理屋を開店させた。物腰のやさしい女将の客あしらいの良さと主人の鮨のうまさが評判となり、店は再び大繁盛。十七年を難なく乗りきった。しかし女将が膵臓がんで入退院を繰りかえすようになってからはやる気を失い、店も開けたり閉めたりが続き、自然に客が離れていった。それがなんと、女将が亡くなると途端に元気になり、今度は店で知り合った留学生と台湾に旅行すると言いだした。武治は老人の奇妙な行動に首をひねった。
「おじちゃんなぁ、おばちゃんが死んで家を整理してたらお金がでてきたんや。家の押し入れに三百万と向かいの銀行に一千万ちかくあったみたいやで。こっちで店はじめてからおばちゃんが一切お金を預かってたから、しっかりため込んでたみたいや。銀行名義が全部おばちゃんになっていたんで自分名義にするのに住所こっちへ移したりして大騒動してるわ。十七年で千三百万円。うちにはでけへん芸当や」
異様に金に執着する岩元を毛嫌いする武治を見て、姿子は「まあええやんか。もしお金がでけるんやったら、うちらでやってみても」とケラケラ笑いながら言った。ときどき、金が回らないので武治に内緒で岩元に融通してもらっていた姿子は、執拗に媚びていいよってくる岩元に折れて、店を引き受けることにした。
今から考えると築三十年近く、一度も手を入れていない壁も床もシミだらけの薄汚い七坪ほどの店である。備え付けの換気扇やエアコン、冷蔵庫もいつまで使えるか定かでない。しかも店は借り物だから敷金や支度金だけでも最初に五十万円近くかかるのである。どこから考えても無謀であるし、正気の沙汰とはいえない。それでも無知が幸いしたのか、災いしたのか、多少の条件をつけたものの、ふたりで店が持てるという甘い言葉にのせられて店を譲り受けることにした。居ぬきの金額は百万。三万円を三年で返済する。強欲な岩元はしぶしぶ納得した。問題の支度金は、武治が勤める建設会社で融通してもらった。勤務態度も実直で、総務知識が豊富だった武治を気に入っていた社長は、日雇いのどこの人間かわからない男に五十万をポンと出してくれた。
前夫に知られるので住所を移すことに不安があった姿子も度胸をきめた。飲食業の許可や店もすべて姿子の名義で契約した。住所不定の武治にはまるで出る幕はなかった。汚い壁にはペンキを塗り、のれんと看板だけを取り替え、誰に案内状を送ることもなくひっそりと店を開けた。手元に残った釣り銭はわずか三千円。綱渡りのようなスタートだった。
「心配ないわいな。これ以上、落ちるとこあらへん。あんたが一年で会社の借金を返してくれたら、次の年からふたりででける。それまではうちがひとりで頑張るさかい。もしアカンかったら、そん時はまた一から出直せばええ」
武治はあっけらかんとしている姿子がずいぶんと頼もしかった。当初の予定通り武治は一年間、給料天引きで借金を完済した。
常連で岩元と同年代の年金暮らしの老人二ノ宮が、オープンの日にお祝いにやってきて、事情を聞いて凄い剣幕で二人を叱り飛ばした。
「お前たちはどこまでお人よしなんや。こんな店を百万も出して買う馬鹿があるか!」
それから満足げにカウンターに座っている岩元に向かって、「あんたもあんたや。あんまりやないか。こんな店、こん子らに売りつけてどげえするんや。客なんかついとらせんじゃろが。ホゲばっかりいいよってからに。こん子ら素人や、三か月ももちゃせんのは目に見えとるじゃろ。借金かかえて首をくくれちゅうんか。これでお前とはもう二度と会うことはない。取っとけ!」
そういって選別を岩元の前に叩きつけて帰っていった。岩元は黙って何も言わなかった。後からわかったことだが、賃貸料も据え置きにするようにしてあるというのは真っ赤な嘘で、姿子たちの支払い分から一万円も上乗せし、岩元はそれを条件に十七年前の敷金を大家から引き抜いていた。東京へ行ってしまったあとで、あれやこれやと岩元の嘘がばれたが、どうしようもなかった。武治は自分と同じような運命をたどっていながら、なおも老後のわが身を富裕の中に置くために、家の所帯道具まで自分たちに売りつけようとした岩元の生き方が信じられなかった。
屋号は武治が熟考を重ね『姿名子』にした。姿子は自分の名を使うのをためらったが、これといって他に良い屋号が浮かばなかったので渋々同意した。自宅のアパートから二分。JRの駅から三分。交通の便は申し分なく、店舗としての立地条件は悪くはなかった。
開店当初はとなり町に住む姿子の旧友たちがずいぶんとお祝いに駈けつけてくれたので思ったより売り上げは良かった。この調子なら、と思いはじめた頃、客足がバタリと止まった。不景気でリストラや倒産が新聞の一面を占領しているご時世である。そんなに甘くはなかった。一人、二人という日がひと月余り続いた。武治が勤めをしていたので給与を家賃や借金返済に充てて凌いでいるうち、常連客がつきはじめ、気がつけば八人足らずで満席になるカウンターが一晩で三回転もするほど盛況になった。当初は関西人を色眼鏡で見ていた地元の人たちが、黙々と働く健気な姿子を受け入れてくれるようになっていた。
「お客さんはありがたいなぁ。足向けて寝られんな、ほんまに」
姿子の口癖だった。
特にこれといった趣味のなかった武治は、学生時代から小説や詩をよく書いていた。前半生を棄ててからは、一編の小説をこの世に発表できたならいつ死んでもいいと思っていた。奇しくも一人になってその小説を書くという夢が叶い、十年間がむしゃらに書き続けて、昨年末、倦怠期の夫婦を描いた作品がちょっとした文学賞の最終候補作に選ばれた。姿子をはじめこの地で知り合った友人たちがずいぶんと祝福してくれた。武治はありがたいと思った。しかし武治は、人からいかに祝福を受けようと、ひとり生きのびて安穏とくらしている自分が後ろめたいことに変わりはなかった。
武治の過去いっさいを聞こうとせず、ともに暮らすことを厭わない姿子だったが、それでも誰にも話せぬ息苦しさを感じていたのだろう。時折、酔うと姿子の口から胸中を察そうとしない武治を責める言葉が出た。
「あんた、これからどないするつもりや。このままちゅうわけにもいかんやろ。籍を入れてくれとはいわんけど、あんたに、もしものことがあったらなぁ……こっちへあんたも住所を移しておかんとややこしいことになる」
「わかってる。俺もけじめをつける」
昨年末、武治はひとりで大阪行きのフェリーに乗った。父の墓参りと現住所、本籍地の変更、それに最終候補となった作家の作品舞台となった名刹へお参りし、とんぼ帰りで別府へ戻った。
移転手続きが完了してまもなく武治のもとに国民健康保険証が送られてきた。彼は十年余りすべてを凍結し、税金も払っていなかったのである。そんな輩に保険証を安易に発行する役所を杜撰だと糾弾する正義の人もいるだろうが、武治は素直にその寛大な行政に感謝した。心の底からありがたいと思った。
待てど、暮らせど、文学賞受賞の通知は届かなかった。結局、受賞という朗報はもたらされることはなかった。安直な浮世をテーマとし、受け狙いと思しき軽い文体、意図的に多用した時事ネタなど、批評を待たずして落選理由は明白だった。自らもわかって試みた作風である。武治に後悔は微塵もなかった。
「作品に重層性がない? なんやらむずかしいこと書いてるみたいやけど、ようするにあんたの小説は軽いということかいなぁ?」
姿子は武治の作品評がでている雑誌を読みながら言った。
「むずかしいこといわんでも、この世がどうしようもなくむずかしいことくらい百も承知や。何重にも包装されたオブラートを千切れんように一枚一枚はがしていくようなチマチマした文章と、その挙句、なんにもあらへん陽炎みたいな余韻をほめあう村意識の、どこが、どれほど高尚やいうねん!」
武治は姿子の手から雑誌を取り上げるとその場に叩きつけた。
「七百ちかく応募があったんやろ。その中で選ばれて、読んでもらえただけでもええやんか。それだけでも立派なことやで」
姿子になだめられるまでもなく武治には落胆などなかった。再度挑戦する資格を得た喜びに酔っていた……。