◆第4話 花の闇(前)-1
この世界にくる前の自分を思い出そうとすることがある。
今の世界に来てまだ半年と経っていない。しかし、以前にいた世界の記憶は希薄になっていた。時が経つとともにそれは加速しているように感じる。まるで長い夢を見ていたかのようにぼんやりとした記憶になっているのだ。
それゆえに私は日記を付けている。最初はこちらの世界の情報を残すつもりで始めた。しかし、今はそれよりも過去の記憶をとどめる意味合いの方が強くなっている。
私は大学を卒業後、就職した会社で営業職をしていた。決して楽な仕事ではなかったが、社内の実績はそれなりによく、順調だったと記憶している。学生時代の友人との交友関係も続いていた。両親も健在だった。彼女は多分いなかったと思う……。
人間関係は思い出せるが、具体的な人の名前や顔の記憶が最近やや曖昧になってきている。
異世界にやってきた、という状況を理解した時、普通なら元の世界に帰る方法を必死に模索するのではないだろうか?
しかし、私には何故かその願望がわいてこなかった。今でもそれは変わらない。両親や友人がいて、勤めていた会社があって……、慣れ親しんでいるところに何故戻りたいと思わないのか。自分自身で理解ができなかった。
ただ、以前の記憶を徐々に忘れていくことに漠然とした恐怖を感じていた。自分が自分で無くなるような気持ちだ。
元の世界に戻れるのか? もう戻れないとしても全て忘れてしまうのは嫌だった。特に、この世界に来る寸前の記憶は全くないに等しかった。なにがあってこちらにやってきたのか。それがわかれば戻る方法の手がかりにもなりそうなものだが……。
いくら考えても答えは出ない。思考の迷路を彷徨っている。酒場の仕事も自分の仕事もどちらもないとき、このような考えに浸ってしまう。
結局なにひとつ実りのないまま、今この瞬間、この世界で生きることを大事しよう、と頭を切り替えてこの迷路とはさよならしていた。
元の世界に戻りたいか、そうでないかは別として、この世界で知り合った人たちや仕事を私は気に入っている。
気晴らしに外に出ようと決めた。私はまだまだこちらの「世界」を知らない。奇跡的に言語が通じているためこうしてやってきているが、もっともっと知りたいことがたくさんある。時間があるときはなるべく外へ出て、街や人を眺め、この「世界」を知るようにしている。
もっとも「魔法」の概念や「まもの」と呼ばれる人を襲う怪物がいる、といった明らかに異質な部分を除いては、街や人の営みは、私が元いた世界と大差はなかった。私がこうして暮らせているのもそのおかげである。
「ラナさん、外へ出てきますが、なにか買い物などはありませんか?」
酒場のカウンター奥で本を読んでいるラナさんに声をかけた。どうやら彼女も一息ついているところみたいだ。
「いいえ、大丈夫ですよ。いつもありがとうございます。気を付けて行ってきてください」
目にかかった前髪をかきわけながらラナさんはそう答えた。
「そうですか……。では行って参ります。開店前には必ず戻ります」




