◆第10話 黄昏の追憶(前)-1
「待ってください、ブリジットさん!」
私の声は観客席の喧騒にのまれた。ただ、人込みに入ろうとしていたオズは背を向けたまま静止している。そして、数秒おいてこちらを振り返った。
彼の表情はいつもの「オズワルド」の笑顔だった。私の近くに再び戻ってきた彼は、いつもの調子でこう言った。
「――誰かお知り合いでも見かけたんですか? こちらへ呼びかけたように聞こえましたけど?」
私は彼の顔を凝視しながら言葉を返した。
「もう茶番はやめましょう。あなたがパララさんを騙して、今はブレイヴ・ピラーに追われている『ブリジット』だということはわかっています」
私とオズはお互いに顔を見合っている。この時間はとても長く感じられた。
ただ、実際はものの数秒だったのだろう。さっきまで騒がしく感じた周囲の声が今だけは遠く聞こえた。
「幸い席がいくつか空いてますので、座って話しましょうか?」
オズは笑顔のままでそう言って、先に目の前の空席に座った。私はひとつ席を空けて隣りに座ることにした。それからどれくらいだろうか、沈黙が流れた。
「情報屋のあなたならパララさんのことを知っていたり、調べていてもおかしくありません。ですが、私には彼女について『知らない』と言いました」
オズはなにか余裕を匂わせるような表情で私の話を聞いている。闘技場から出ていく人の波はしばらく続くだろう。この中で私たちの会話を気に留めるような人はまずいない。
「ですが、パララさんが火の魔法と合わせて、弱体系の魔法を得意としているのをあなたは知っていました……。問題は、情報屋のあなたが知っていても不思議ではない情報をなぜ私に対して、知らないフリをしたか、です」
「そういうことですか……。なるほど、もう少し続きを聞かせてもらってもいいですか?」
「パララさんについて知っているのに、私の前であえてそれを隠そうとするなんて人はほとんど心当たりがありません。一度も会ったことのない『ブリジット』という男を除いては――」
「私はパララ・サルーンについて知ってはいたが、知らないフリをしてより多くの情報をユタカから聞き出そうとした、という可能性だってあると思いませんか?」
彼の話し方はもはや半分、自分がブリジットだと認めているようなものだ。それでも明確な証拠を突き付けられるまで安易には認めない雰囲気だった。この状況を彼は楽しんでいるようだ。
「そうだとしても、パララさんへの話の引き際が良すぎる。彼女の情報が大きな価値をもつのは、『アレンビーが指名した無名の魔法使い』だからです。今後、彼女の情報が出回ってしまえば価値はなくなっていきます。情報を手にするなら今を逃す手はないはずです」
「ふぅむ……。たしかに『パララ・サルーン』の情報は今が旬だとは思いますね」
「今さっき私が『ブリジットさん』と呼んだ時、立ち止まったのがなによりの証拠だとは思いますけど――」
「はははっ! たしかにそれはそうかもしれない。あの状況なら聞こえなかったフリをして立ち去るのがベターですよね」
「それに私は……、ブリジットという男に関して、ある仮説を立てています。自分と似た境遇の人間ではないかと」
私は彼の左手を指差した。
「よく左手の甲のあたりを見てますよね?」
彼は自分の左手を上にあげて手首のあたりを見つめていた。
「ああ……、そういうことか。いや、よく観察してますね」
「はい、見ていたのは正確には左手の甲ではない。今はないようですが、以前はずっと付けていたんでしょう? 腕時計を」
彼が左手を気にする仕草は、決まって時間にかかわる話の時。おそらく無意識に、はめてもいない時計を見る癖がついてしまっているんだ。それは彼が思っている以上に、生活に根付いてしまった動きなんだろう。
「いやいや……。ご明察! それなりに頭が回る人だとは思っていたんですよ。ですが、予想以上かな。いや、今回は私がへまをしただけか?」
彼は急に席から立ち上がって私の正面に立った。一瞬なにかされるかと警戒したが、彼は綺麗な仕草でお辞儀をした後、顔を上げて私に目を合わせてきた。
「改めまして、ブリジットです。よろしくお願いします。『ユタカ』」




