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中山裕介VS奥村真子シリーズ第1弾

 その日の夜、本田岬から電話が掛かって来た。出ようかどうか迷ったが、夜だから良いかと思い直し出てみる。

『ユースケさん、お久しぶりです。病気の方はどうですか?』

 相変わらずダイレクトだな。

「久しぶり。症状は相変わらずだよ。今日病院に行って薬を変えて貰ったけどね」

『そうですか。それでちょっとでも善くなると良いですね。下平さんや枦山さん、平松さんも他のプロデューサーさん、ディレクターさん、作家の人達も皆心配してますよ。ユースケはまだ改善されないんだろうなって』

「そう。電話やメールも何も来ないけど」

『精神的にプレッシャーを与えちゃいけないって、皆さん遠慮してるんですよ、きっと。私も電話して良いのか迷いましたけど、ちょっとでも現場の事を伝えたくて』

「そうだったんだ。それはありがとう」

 心温まるし本当に感謝感謝だ。出て良かった。

『ユースケさん、違ってたらごめんなさい』

 岬の声色が「真剣モード」に変わる。

「何が? どうかしたの?」

『うつ病って診断されて「自分は不幸だ!」って思ったかもしれませんけど、絶対に幸せな筈だと思うんですよ。幸せな事に気付いてないだけ。それって損だと思うし私もそれを味わって来たから分かるんです。だからユースケさんにもそれをどうにかして教えてあげたくて。僭越ですけど。そのきっかけに下平さん達仕事仲間や私や作家の同僚が少しでもなれたら良いなって思うし、それが出来るようになる為にも、どんな事があっても自分は幸せでいようって思ってます』

 そのような事を常日頃思念していたのか。岬の口振りには熱が入っているし、オレの心にも少なからずグッと来るものがあった。同時に「貴方はもう独身じゃないんだよ」真子の言葉も頭を過る。

 常に気に掛けてくれている相方に仕事仲間。それを気付かせてくれた後輩がいる。確かにオレは、幸せ者だ。

「全然僭越なんかじゃないよ。幸せに気付いてないだけか。勉強させて貰ったよ」

『高飛車な事を言って済みません』

「謝る必要なんかないよ。声を聞けただけでも安心した。今日は『オンガク!』がオンエアされるな。久しぶりに観てみようかな」

『ええ。観てくださいよ、ぜひ』

「最近はテレビを観る気力もなかったんだけど、今日は観るよ。態々ありがとう」

『いえ。私に出来る事はこれくらいしかありませんから』

 電話を終え、早速テレビを点けてTHSにチャンネルを合わせた。『オンガク!』の次は『22』だ。

 薬が効いているのか、現場の様子を伝えて貰って安堵したのか、気分は高揚していた。


 

 二一時となり番組がオンエアされる。

 人気バンドグループとのトーク中、中越智哉が男性ボーカルの肩に右腕を乗せると、観客の女性達からは「えーっ!」と非難の声が上がった。

「何で触っちゃ駄目なんだよ!?」

 次に中越が取った行動が、ボーカルの左頬にキスをする。観客の女性達は「キャーーッ!!」と悲鳴に変化。

「中越さんやり過ぎです!」

 町田翼が突っ込んでも中越はキスを止めない。

「長い! 長い!」

 ボーカルも苦笑するしかない。中越の方が芸能界では先輩。ましてカメラも回っているので嫌がっても突き飛ばす訳にも行くまい。

 十数秒キスを続け、

「これホモ番組か?」

中越当人も苦笑。

「音楽番組ですよ!」

「メインMCなんですから分別を持ってやってください!」

 町田もスカフォーのリーダー押尾玲奈も苦笑どころか呆れている。

 今のはアドリブだろうが観ていて自然と笑っている自分がいた。無気力感、抑うつ症状、倦怠感が消えた訳ではないが、人間は、うつ病の人でも面白ければ症状が出ていても笑うのだ。

 その後もゲストのアーティスト達とのトークで何回も笑う自分がいた。こんなに面白く編集されているのに、何故この番組は低視聴率なんだ? レギュラー番組なので贔屓にしているが、素朴な疑問も涌いて来る。

 そしてエンディング。エンドロールを見てびっくりした。何と構成の欄に休職中の「中山裕介」の名前が入っているではないか。

 休職中なので当然ギャラは入って来ていないが、自分の名前がエンドロールにあったのは、平松絵美プロデューサーの粋な計らいだ。素直に喜びと感謝の念を持った。他のレギュラーはどうか知らないが。

 『オンガク!』が終了し、こちらも久しぶりとなる相方の『22』の天気情報まで観て入浴し、就寝前の薬を服用して就寝。

 『22』はバラエティでもレギュラー番組でもないが、妻が仕事をしている姿を観ると抑うつ症状が出てしまうようになった為、暫く観ていなかった。



 翌朝も六時には起床し顔を洗って洗濯機を掛け、洗濯物をベランダに干して食後の薬を服用。十時過ぎにはウォーキングの習慣は変わらない。

 無気力感と抑うつ症状が完全に消えた訳ではないものの、前の薬より症状が緩和されている。

 これはちょっとずつでも仕事が出来るかな。まだ気が早いだろうがそう思い始め、他の番組を観る気力はないのだが、レギュラー番組はリアルタイムか録画でチェック出来るようになった。

 その後も今会議中だなという時間帯にメールで、「先週のあの企画、面白かったです。でももっとこうすればより良いかもしれませんね」などと僭越ではあるが、プロデューサーや作家仲間宛に意見が出せるようになって行く。

 これに対しプロデューサーや作家仲間からは、『分かった。参考にしてみる』や『意見は伝えたぞ。具現化出来るかどうかシミュレーションしてみるだってさ』と返信されるようになり、会議に出席までは出来ないものの、少しずつではあるがギャラが入り始めた。



 するとある日の日中に電話。画面には陣内美貴。仕事の事だな。

 出ると、

『中山君、徐々に仕事を再開してるみたいだね?』

やはりそう来たか。

「はい。薬が変わって落ち着いてる時間が長くなったんで、メールではありますけど、ちょっとずつ意見を出して会議に参加してます」

『そう。徐々に元気になって私も安心したし、ギャラも入って来て口座に振り込んではいるけどさ、仕事を再開したんなら、まずは社長の私に報告してよね』

 別に怒っている訳ではなさそうだが、態とらしくムッとした口振りの釘の刺し方。

「済みません。順番を間違えました」

 素直に謝るしかなかろう。

『社長の私をおちょくるなよ!』

 今度は悪戯っぽい口振り。ニヤリとしている社長の顔がありありと目に浮かぶ。

「別におちょくってはいませんが」

『冗談だよ冗談』

「分かってますよ」

 今度はオレが態とムッとする。

『でも良かった。ちょっとずつでも仕事が出来るようになってくれて。本当の事を言うとね、もしこのまま仕事に復帰出来なかったら私の責任だって、自責の念があったの。メールではあっても会議に参加出来るまでに回復してくれて、本当にありがとう』

 最後の方になると、陣内社長は声を震わせた。

「社長泣いてます?」

『別に泣いてねえし! ズズッ』

「鼻水啜ってるじゃないですか」

 レギュラー番組を観て笑い、そして今、陣内社長が涙する姿を思い浮かべて自然に笑っている自分がいた。

『やっぱ中山君、私をおちょくってるね。ズズッ』

 社長が涙を目に溜めながら笑みを浮かべている姿を想像し、また笑えてしまう。オレの教育係から前社長に社長業を託されて、陣内社長とは長い付き合いになるが、涙を流す事はこれまで一度もなかった。

「社長にも人間味がありますね」

『どういう事?』

「だってその涙、オレが仕事が出来るまでに回復した安心感から来る涙でしょう?」

『私をどういう人間だと思ってるの!? ズズッ。これでも社長だよ。社員の事が一番に気掛かりな存在に決まってるじゃないの! まあ良いわ。話は変わるけど、この前平松絵美プロデューサーと久しぶりに逢って飲んだの。それで何とかうちだけでも会議室に参加出来ないだろうかって言ってた』

「ほんとですか、それ?」

 今度はオレがおちょくられる番か?

『嘘言ってどうするの。ほんとだよほんと。疑うんなら絵美に確認してごらん。久しぶりにユースケ君の顔が見たいとも言ってたね』

「そうですか。最終的には自分で決める事ですけど、まずは主治医に相談してみます」

『うん。そうしな。まだ無理はしなくて良いんだからね』

「はい。ありがとうございます」

 飲みの席でだから平松さんは覚えているのやら……。

 でも「無理はしなくて良い」そんな言葉も社長の口から初めて聞いた気がする。いつもだったら「また消極的になる!」と背中を蹴り飛ばして、嫌でもGOサインを出す人なのに。

 改めて陣内美貴という社長は、社員の健康を一番に考え、良く見ているのだな。今更ながら良い社長だな、と思う。



 早速平松さんに向け、

「ご無沙汰しております。この前うちの社長と飲んだそうですね? その席で、会議室に顔を出せないだろうか、という趣旨の話をしたそうですけど、本当でしょうか?」

メールを送信。陣内社長に疑義を抱いている訳ではないが「念の為」に。

 数時間後、またレギュラーの会議中に意見を出してみようとメールを打っていたら、平松絵美プロデューサーからの返信。開いてみると、

『うん。言ったよ。まだ無理そうだったら良いけど、久しぶりにユースケ君の顔が見たいなあって伝えといてって美貴に。意見が言えなくても顔出しくらいはどうかなって思ったから。きつかったら途中で退席しても良いよ。病気が病気だからね。無理がない程度にまたヨロピク!』

平松さんらしい文面。

 会議や打ち合わせなど、放送作家はギャラの割には拘束時間が長い生業。半年近くも休職している身体にこれが耐えられるだろうか。



 夜、真子が二五時過ぎに帰宅し、

「おかえり」

「まだ起きてたの!? 大丈夫!?」

驚きと心配の表情。

「うん。後は風呂に入るだけだから」

「じゃあ久しぶりに一緒に入浴しようか。コミュニケーションの時間として」

 相方は笑みを浮かべて言うが、休職中のオレ。朝や日中はうちにいる事もある真子。別に入浴でコミュニケーションしなくても時間はあるのだが。

 案の定、オレから相方の身体を洗って差し上げる事に。休職してからは精神面でも金銭面でもおんぶにだっこ状態だから、これくらいは。

「今日社長から電話があって、徐々に仕事を再開したんなら、まずは私に報告しろって言われたよ」

「社長さんに言ってなかったの? それはまずいでしょ」

 私はまた目を見開いて驚いてしまう。ユースケは見識があるんだか破天荒なんだか……。

「確かに順番が違うよね。でも怒ってはなかった。それで『オンガク!』のプロデューサーがうちの会議に顔出しくらいでも出席出来ないだろうか、だってさ」

「そうなんだ。でも会議って長いんじゃない? 大丈夫そう?」

「きつかったら途中で退席しても良いよ、とは言われた。うちの社長とそのプロデューサーは若手の頃からの友達なんだよ」

「相方、良い上司を持ったね。ありがたい事だよ」

「そうだね。感謝しないとな」

 今度はオレが身体を洗って貰う番。

 ユースケは本当に幸せ者だよ。私もメインキャスターをやらせて貰っているから感謝しないといけないけれど、良い人には良い人が付いて来るんだなあ。痩せ型の彼の背中を洗いながら熟そう思う。



 翌週大牟田クリニックに来院し、まずは主治医である大牟田先生に話してみた。

「良いじゃない。顔出しだけでも良い。きつかったら途中で退席したって良いなんて言ってくれてるんなら」

 今日の先生はパソコンにはあまり向き合わず、オレの目を見て微笑む。大牟田先生にはまだ症状は相変わらずだが、薬を変えて貰ったおかげで落ち着いている時間が長くなり、メールで会議中に意見を出せるようになったと伝えてある。

 その時の先生はオレの話をパソコンに相槌を打ちながらタイピングし、

「良い徴候じゃない。仕事が少しでも出来るようになって、その分の給料が入って来るようになったんなら」

といつものように白い歯を見せて微笑んでいた。

「でも構成会議って、長い時は六、七時間は長考し勘考し続けるんです。それに僕の性格上、「ちょっと辛くなって来たんでお先に失礼します」とは中々言えないと思うんですよね」

「そんなに掛かるんだ。番組制作って大変な作業なんだね。それに中山君は気を遣う人だから。久しぶりだし六、七時間体力と精神力が持つかだね」

「多分、ヘトヘトになるでしょうね」

「じゃあさ、まずはその番組の会議にだけ顔出しでも出席して、メールで意見が出せるようになったみたいに、会議も徐々に身体と精神力を慣らして行ったら? そうしたら感覚も戻って行くだろうし、他の番組の会議はもうちょっとメールだけで参加にしといてさ」

 先生は微笑みは崩さず、目は真剣に提案してくれる。

「なるほど。まずは一本だけですか」

「別に毎週来いって言われた訳じゃないんでしょ? 話を聞く限り、誘ってくれたプロデューサーの人は病気に理解を示してくれてるみたいだし」

 その手があったか。

「それはそうですしありがたい事なんですけどね。分かりました。リハビリだと思って会議に出てみます。本当にきつい時は今日は出席出来ませんって言えば良いんですしね」

「そうだよ。せっかくのお誘いなんだから無下にしちゃ勿体ない。後は、今服用してる薬が前のより効いて症状が少しでも治まっているんなら、暫くは現状維持にして、量は変えずに含有量を減らせるようになれたらもっと良いね」

 大牟田先生は再び治療せざるを得なくなった患者が、また良い徴候に進んで行っている事を心から喜んでくれて、白い歯を見せて微笑む。



 まずは『オンガク!』の会議にだけ顔出しでも出席する。リハビリだと思って。

 クリニックから帰宅したその日の内に、「来週の会議、意見が出せず本当に「顔出し」だけになってしまうかもしれませんが、出席させて頂きます」平松さんにメールを送信。

 陣内社長にもその旨のメールを送信しておく。これで今度は何も言われないだろう。多分。

 数時間後、平松さんから返信が来た。『そうかそうか!! 逢えるの楽しみにしてるね!』とあったのだが……。

 週末土曜日の夜。また平松さんからメールが送信されて来る。

 何だろうと見てみると、『いま赤坂(港区)の居酒屋で飲んでるんだけど、早くユースケ君の顔が見たいな!!』要するに飲みの誘い。

「『オンガク!』のプロデューサーから赤坂で飲んでるけど、早くオレの顔がみたい、だってさ」

 真子にぼやいてしまう。

「無理そうだったら断れば」

「うーん……でも会議には出席するって言っちゃったからなあ」

 悩んでる悩んでる。ユースケは優柔不断な所もある。まあ「上司」からのせっかくの誘いだし、中々断れないっていうお人好しでもあるのだけれど。「「お久しぶりです」って挨拶だけして、「じゃあまた会議で」って言って帰れば良いか」

 何それ!? ユースケにはたまに素っ頓狂な言動を取ろうとする時もあり……。そこが面白くもあるのだけれども。

「一杯も付き合わずに帰るつもりなの?」

「そう」

 「そう」じゃねえし! 見識があり、地道で真面目、優しくてお人好しかと思えば、マイペースで意外に頑固者で突飛な面もあり。この男の本性は一体何なのだろうか? 男性は「女の事は分からない」と言うが、女性の私もユースケの人間性は全くもってワカラナイ。

「それだったら最初から来るな! って私でも後輩に言っちゃうよ」

 人付き合いってそういうものなのか。

「送り迎えはするから挨拶だけしようと思ったんなら、久しぶりに職場の人達と飲んで来れば。帰りが何時になっても良いから。私明日も休みだし」

「挨拶だけして最初っから来るな! って言われるくらいなら、久しぶりに外で飲んで来るか。どうせ独りで飲んでるんじゃないだろうし」

「その考えの方が私も妥当だと思う」

「ああ、でも金降ろしてねえや」

「だから早くキャッシュレスにすれば良かったんだよ。コンビニで降ろせば良いじゃない」

「手数料掛かるぞ」

「そんなケチ臭い事言うんなら断れば。銀行のATMだって手数料掛かるよ」

 態と冷たく言い放ってやった。ユースケは未だに現金主義。まるでお爺ちゃんと結婚したみたいで、そこも面白いとこ。

「じゃあ途中で銀行かコンビニのATMで降ろすか。仕方ねえ」

 諦めて外出着に着替えた。平松さんに、「今から行きます。赤坂の何処の居酒屋ですか?」とメールし直ぐに、『ほんとに来てくれるんだ! 無理だって断られるかもって不安だったんだ。無我夢中っていう居酒屋だよ。待ってるからね!』と返信が来た。

「赤坂の無我夢中ってとこだってさ。聞いた事はあるけど行った事はないな、オレは」

「そこなら私も知ってる。『22』のスタッフの人達と行った事あるから」

 行きはオレが運転し、途中銀行のATMに寄って三万九千円を降ろした。これで多分足りると思うのだが。

 赤坂の居酒屋近くまで車で行き、下車して運転は相方とバトンタッチ。

「じゃあ行って来る」

「行ってらっしゃい。楽しんで来てね」

 満面の笑みで送り出し相方は運転席に移った。休職中の身なのに飲みに誘ってくれる人がいる事を、真子も嬉しく思っているのだろう。

 今日はアルコールが入るから症状も紛らわせられるだろうが、居酒屋に入るまでに若干の緊張はある。

 恐る恐る教えて貰った居酒屋の方へ歩く。思い返せば平松さんは疎か外で飲むのも半年近く振りだ。

 どんな顔で挨拶すれば良いのか? 根本的な事から勘考、不安を抱えている内に居酒屋が入るビルに到着し、エレベーターで二階へ上がる。



 エレベーターが開くと、

「いらっしゃいませ! 一名様ですか?」

威勢の良い男性店員の声。久しぶりだがこれにも正直まだ緊張があった。

「いや、誘われたんですが……何処の席かなあ。ちょっと待ってください」

 平松さんに「居酒屋に到着しました。席は何処ですか?」とメールする。すると、

「ユースケ君! こっちこっち!」

平松さんが立ち上がって手を振る。

「あそこのようです」

「分かりました! それではごゆっくり!」

 席の方へ近付いて行くと、

「久しぶりだね。ちょっと痩せたんじゃない?」

平松さんは満面の笑みを湛えて喜んでくれるが、目には心配が表れている。

「ええ。四、五キロくらい。毎日ウォーキングしてますから」

「そうなんだ。まあ座って」

 今のやり取りで緊張が消え去った。考え過ぎ。普通にしていれば良かったのだ。

 平松さんの隣には、

「ユースケ君心配してたんだよ。このまま番組を降りちゃうんじゃないかって皆でさ。でも見た目も相変わらずだし頭の右半分は金髪のままだし、変わりなさそうで良かった!」

枦山ディレクター殿が再会を喜んでくれてはいるが、「良かった!」じゃねえし! うつ病が再発した原因はあんたにもあるかもしれないんだぞ。

「ユースケさんご無沙汰してます。男独りで寂しかったすよ。オレの事覚えてくれてますか?」

 オレの隣にはNARI君。

「そんな一年も二年も逢ってなかった訳じゃあるまいし、NARI君は印象に残り易いから忘れられないよ」

「ありがとうございます。休職中なのにメールで意見や提案を出して貰って、ありがたかったっす。随分参考になりました。やっぱ売れっ子作家は休職中でも洞察力半端ないっすね」

「NARI君、お世辞にも程があるぞ。あんなの一視聴者の批評に過ぎないよ。テレビ好きの人なら誰だって言える」

「いやほんとっすよ。相当的を射てました。かなり的確な意見だって、岡本さんも感心してましたから。ねえ平松さん」

「そうだね。番組を良くチェックしてるなって思った。初めて逢った時から真面目で神経質だったから、これは仕事が来る作家に成るなって私も思ってたけど、まさかこんなに売れっ子になるまでは想像もしてなかったよ」

「そうですよね。ユースケ君の提案が参考になって決まった企画もあるんだよ」

 NARI、平松、枦山の三名に笑みを浮かべられて面映い事此の上ない。

「レギュラー番組だけは毎週チェックしてますし、『オンガク!』はカミさんの『22』の前ですからカミさんの番組の数字を下げないようにって念もあったんでしょう。でも直接場にいない奴の意見が参考になったのなら良かったです」

「奥村さんの為かい! それで何飲む? おつまみも何か注文して良いよ」

「じゃあ生中を。つまみは空揚げが食べたいですね」

「オッケー!」

 平松さんがタッチパネルで注文してくれる。自分で注文すれば良いのだが、パネルに一番近い席は平松さんとNARI君なので。

「本当の事言うと、「どうもご無沙汰しています。それじゃあまた会議で。失礼します」って挨拶だけして帰ろうと思ってたんです」

「何っすかそれ!? 居酒屋にまで来て」

「ユースケ君って常識人なんだか天然なんだか、長い付き合いになるけど、未だに分かんない」

「飲まなきゃ挨拶にならない!」

 相方に言われた通りNARI君からは目を見開かれ、枦山さんからは爆笑され、平松さんからはオーソドックスに突っ込まれた。やはり人付き合いって、オレも未だに要領を得ない。

「でもユースケさん薬飲んでるんすよね。酒大丈夫なんすか」

 NARI君は改めて心配そうに訊く。

「アルコールは別に控えられてはないよ」

「ユースケ君は見た感じ元気そうだし大丈夫だよ!」

 平松さんは笑顔で言うが、「見た目は元気そう」これがうつ病が今一認知されない特徴。内臓疾患とは違い、うつ病は「脳の疾患」。身体に症状が現れる患者もいるが、そうでない患者は「辛い」と訴えても「気の持ち用だよ」などと笑顔で返されたりする。

 どんな病でも同じだが、うつ病もなった人ではないと理解、認知して貰うのは難しい。

 やがて生中と空揚げが届き、

「じゃあ改めて乾杯しよう。ユースケ君の復帰に乾杯!」

「乾杯!」

 平松さんの音頭で全員でグラスを『カチン』と鳴らす。

「ありがとうございます。ご心配をお掛けしました」

 まだ「完全復帰」ではないが、こうして迎え入れてくれる人達がいるというのは、嬉しい限りだ。



 酒が進んで行き、仕事、プライベートの話で場は盛り上がった。オレも自然とうつを忘れて笑っている。

「ユースケさん、休んでる間はどうしてたんすか」

 NARI君が何気ない口振りで訊く。

「まずは規則正しい生活を心掛けてたよ。二三時くらいには寝て朝は六時か七時台には起きてた。今もそうだけどね。後は一時間ちょっとのウォーキング。身体を動かす事も大事だそうだから」

「へえ。一時間以上も歩くって凄いっすね」

「そんな大した事じゃないよ」

 その時、平松さんがグラスを誤って床に落として割ってしまう。『ガチャン!』と音が響き、他の客の目がこっちに注がれる。

 男性店員が小走りで、

「大丈夫ですか?」

と寄って来た。

「済みません。大丈夫です。でもグラスを割っちゃって、ごめんなさい」

「いや、お怪我がないのなら大丈夫です」

「レモンサワーを一杯お願いします」

「はい。ちょっとお待ちください」

 お詫びの一杯かい!

「平松さんかなり酔ってます?」

「ごめんね夕貴ちゃん。怪我したり服濡れたりしなかった?」

「全然大丈夫ですよ。音にはびっくりしましたけど」

 店員はグラスの破片を片付けモップで床を拭き去って行く。暫くして別の女性店員がレモンサワーを持って来た。

「お待ちどう様でした」

「さっきは本当に済みませんでした」

「いえ、大丈夫ですよ」

 店員はにこっと微笑んで去る。

「平松さんも神妙な顔するんですね」

「それどういう意味!? 私だってちゃんと謝る時は謝るよ!」

 平松さんはムッとした顔付をしているが、いつもの「平松スマイル」に戻った。

「でも初めて見ましたよ、あんな表情」

「いつも笑顔のイメージしかないっすからね。平松さんって」

 NARI君も意外そう。

「私も真面目になる時だってあるよ」

 事が済んで安堵したのだろう。完全に笑顔だ。



「所でユースケさん、うつ病って具体的にどんな症状が出るんすか」

 NARI君が思い出したように訊いて来る。

「人によって色々あるけど、寒気を感じたり下痢が続いたり、無気力感とか塞ぎ込んだ状態が連日続いたりするね」

「落胆した状態が連日続くのは確かに辛いよね」

 平松さんが口を真一文字に結んで頷く。

「他にはどんな症状があるの」

 枦山さんがテーブルに両腕を乗せ前のめりになって訊く。

「オレの場合だけど、気分が沈んでる状態が続くと、もうテレビを観たりラジオを聴く気力もない。電話に出るのもメールを打ったり返信するのも億劫になる。とにかく気分の浮き沈みが激しい」

「でもメールを返信するのが億劫っていうのは、そんな事私にだってあるよ。返すの面倒だなあって時がさ」 

「うん、私にだってある」

「気分が落ち込む事は誰にだってありますからね」

 平松、枦山、NARIの順で呟くように返された。三人共「そんな事気にしなくても良い」というニュアンスで口にしたのだろうが、うつ病と診断された人とそうではない人の違いとは、一体何なのだろうか? それに、日本には「皆一緒」という表現もあれば、「人にもよる」という真逆の表現もある。国民はどのように使い分けているのであろうか……。埒が明かないと思念し、オレは口を噤んだ。

 色んな事を感じたりあったりした飲み会は、十九時台に始まり終わったのは二四時を過ぎていた。

「じゃあ帰ろうか。ユースケ君今日はありがとう。また会議でね」

 平松さんの一言で会計。

 三人はキャッシュレスやカード決済だが、オレだけは現金。

「ユースケ君、まだカードとか使ってないの」

「キャッシュレスやカードの方がポイント溜まってお得なのに」

「そうっすよねえ」

 枦山、平松、NARIの顔には「勿体ない」の気持ちが浮き出ている。が。

「現金見ないとどんどん遣っちゃう気がするんですよ」

「フフフンッ! 何か五十代か六十代のおじさんの考えみたいだね」

「そうですね。でも好きだよ私は。ユースケ君の古風な一面」

 笑う平松さんと笑みを浮かべてフォローはしてくれた枦山さん。彼女は好意的なのか、只嗤われているんだか……。



 枦山さんとNARI君はタクシーで、平松さんとオレは「終わったよ」と電話し迎えに来て貰う。

「良いなあ。結婚してる人は」

 出た枦山夕貴のぼやき。「あれから」大分経つが、まだ新たな彼氏は出来ていないようだ。

 大通まで四人で歩いて向かい、

「ユースケさん、今日は久しぶりに逢えて良かったっす。じゃあまた会議で」

「私もだよ。来週の会議でまた会おうね!」

 NARI君と枦山さんは先に空車のタクシーを見付けて帰途に着いた。

 平松さんと迎えを待つ。

「ユースケ君、今日は楽しかったけど、無理させちゃった? 後、会議に誘ったのも」

「無理はしてませんよ。オレも久々に外で飲んで、職場の人三人と話せて楽しかったですし」

 平松さんを擁護しているのではなく、本心だ。色んな刺激、良い意味での心の揺蕩もあった。

「そう。なら良いんだけど。美貴と逢った時も会議に誘っても大丈夫かなあ? って、一応打診のつもりで確認はしたんだけどね。美貴は中山君は大丈夫だよとは言ってたけど」

 やはりそうだったか。陣内美貴め……。

「まっ、あの人なら言うでしょうね。何せ社員の背中を蹴り飛ばして仕事をさせるタイプの社長ですから」

「へえ。そうなんだ。根は優しいんだけどね。美貴は」

 確かにこの前はオレの回復に泣いていて意外な一面を発見したが……。

「オレなんか「また消極的になって!」って、鞭で叩かれまくって背中は痣だらけですよ。あれじゃSMの女王と遜色ないですね」

「ああ、言っとこう! ハハハハハッ!」

 平松さんはにんまりとして言ったかと思えば爆笑。

「別に良いですよ。オレからすれば本当の事ですから。ハハハッ!」

 釣られて笑ってしまう。声を出して笑うのも、久々だなあ。

 そう思っていた刹那、

「あっ、旦那が来た」

シルバーの乗用車が到着。間を置かずに、

「相方、こっちこっち!」

真子も運転席から手招きをしている。

「奥村さんだね?」

「ええ、勿論」

「それじゃあユースケ君、会議も楽しみにしてるから」

「あまりプレッシャーを掛けないでくださいよ」

「だってほんとに楽しみなんだもん。でも何度も言うけど、きつかったら正直に言ってね。また無理して病気を悪くさせちゃいけないからさ」

「はい。ありがとうございます」

 平松さんは助手席に乗車して手を振る。オレも「今日はありがとうございました」との想いを込めて手を振り返し、自分の車の下へと向かう。

 これで本当に、解散。

 助手席に乗車すると、

「あの人が誘ってくれたプロデューサー?」

「そう。THSの局P」

「社員の人なんだ。今の光景を見たら察するに余りあるけど、随分と楽しかった飲み会みたいだね」

「楽しかったよ。皆久しぶりだったし」

 そう言いながらユースケはシートベルトをするけど、彼の顔を見ていると楽しい中にも、多人数の場に出るのはまだ疲れが滲んでいるようにも見える。これが会議だともっと人数は増える訳で、本当に大丈夫なのだろうか?

 私の方が不安になってしまうけれど、この想いはせっかくユースケがやる気になっているのだから、口には出さないでおこう。



 週が開けた三月下旬の火曜日。今週からもう四月に入る。今日も他のレギュラー番組の会議中に作家仲間にメールで現場の様子を探り、意見や提案を送信する。

 『ディレクターに伝えた。検討してみるだってさ』直ぐに返信は来るのだが、『その案は先週の会議で出た』と返されるのもしばしば。やはりリアルタイムで現場にいないとメールでは限界があるが、現状では今の形での参加がやっとの状態。

 なのに『オンガク!』の会議には今週から出席する……「出席します」と言ってしまったが、どれだけ力になれるか、平松プロデューサーと枦山ディレクター達を満足させられるかは未知数だ。

 やがて夜になり、二一時が近付いて来た。会議に復帰するに当たり、というか毎週だが気持ちを新たに、気を引き締めてオンエアされた『オンガク!』をチェックする。

 この日は通常通りの一時間のレギュラー放送。MCの中越智哉とゲストアーティストとのトークで、声は出さないが普通に笑った。

 あまり気を引き締め過ぎて斜に構えてもうつ症状には悪影響だろうが、当日は絶対緊張MAXだろう。オンエアを観ているだけで緊張を感じるのだから。

 笑ったり、緊張したり、「ここはもっとこうした方が良いのでは」と考えたりしている内に番組は終了し、奥村真子キャスターの『22』が始まっていた。

 いつものように天気情報まで観て入浴して就寝しようと思い、チャンネルはTHSのままにしてニュースを観ていたのだが、ニュースのVが流れている途中で何故か先程オンエアされた『オンガク!』の1シーンが挿入されてしまう。立派な放送事故だ。

 画面は直ぐに奥村キャスターのアップに切り替わり、

『途中映像が乱れました。大変失礼致しました』

と頭を下げ、何事もなかったかのように番組を続行させていた。

 別にオレが悪い訳でもなく謝る事でもないが、スタッフの一人として余計な謝罪をさせてしまい、申し訳ない。

 何か一言言わねばと思うと寝付けもせず、相方が帰宅するのを待つ。それまでの間録画したレギュラー番組のチェックをして時間を潰す。

 いつも通り二五時過ぎに真子が帰宅した。

「おかえり」

「また起きてたの? あまり夜更かしすると症状が悪くなるよ。せっかく改善されて来てるのに」

 真子の表情は呆れと心配がない交ぜになっている。が、今日は夜更かしするつもりではない。

「ちょっと一言謝ってから寝ようと思ってね」

「謝るって? 何か女遊びでもしたとか?」

「違うわい! ……」

 深夜なので大きな声では突っ込めない。それに、女遊びをする気力があるのであれば、仕事もとっくに完全復帰してるわい!

「余計な謝罪をさせてしまって、本当に申し訳ない」

 真顔で『オンガク!』スタッフ代表として謝罪すると、

「余計な謝罪? ……ああ、Vの途中で『オンガク!』の映像が流れた事だね。フフフフンッ! 何で相方が謝るの? フフンッ!」

嗤われてしまう。今にも大声で吹き出しそうだ。

「曲がりなりにも番組のスタッフだからね」

「終わった後にスタッフに訊いたら、何か放送機器のトラブルみたいだってよ。関東だけじゃなくて全国的にああなっちゃったんだって」

「そうなんだ。びっくりしただろう」

「そりゃびっくりするよ。えっ!? 何で!? って、平静を保つの大変だったんだから」

「それは大変だったね。キー局であんな事故は珍しいからな」

 ユースケも苦笑だけど笑った。彼の責任でもないのに、私への謝罪の為だけに起きていたなんて、律儀な奴。本当に。



 そして迎えた『オンガク!』の久々の会議当日。約二十分前にTHSに自分で運転して到着し、入館手続きをしてエレベーターを待つ。

 放送局内に入るのも、中々来ないエレベーターを待つのも久しぶり。何だか新人の頃に返ったようで、新鮮さが心に広がって行く。同時に緊張感も。予測通りに……。

 やっと下りて来たエレベーターで六階のF1会議室へ向かっていると、平松さんが会議室前に立っていた。

「おはようユースケ君。本当に来てくれたんだ」

 喜色満面なのはこっちも嬉しいが、「本当に」って白々しい。

「おはようございます。プロデューサー自ら態々お招き頂いて、こちらこそ恐縮です」

「ユースケ君は私が呼ぶまで別室で待ってて」

「えっ? 何でですか?」

「サプライズで登場して欲しいの」

 にやつきながら……そうでなくても緊張はMAX状態で口はぱさぱさ、両手には脂汗が滲んでいるというのに。

「良いですよ、そんな演出しなくても。皆知ってるんでしょう」

「知ってるのは夕貴ちゃんとNARI君だけ。後は誰にも伝えてないの」

「どうせ二人は誰かに話してますって」

「いや、二人には口止めしといたから」

 用意周到というのか大仰というのか……。

「そんな事より今週のオンエアの……」

 放送事故。何故か途中で口を噤んだ。

「今週のオンエアが何? 観てないの?」

「いや、観ましたけど」

 平松プロデューサーは事故について触れない。惚けているのか本当に知らないのかは分からないが。

「それで、何処で待機してれば良いんですか」

「隣の会議室」

「どうせ会議室じゃないですか」

 まあ、楽屋が用意されている訳がないわな。平松さんは会議室の出入口を開け、

「ここで私が呼びに来るまで待機してて」

終始にやついたまま。その顔がいじらしいというのか、却って憎たらしく思えて来るのか、何だか訳が分からなくなって来た。

「分かりましたよ」

 仕方なく出入口付近の席に座る。

 会議開始時刻が近付いて来ると、「おはよう」「おう! おはよう。聞いてくれよ。この前さあ……」「岬ちゃんおはよう」「おはようございます」電話以来に聞く岬の声だ。

 「何か今日は特に遅刻しないでくれって、平松さんから言われなかった?」「はい。そんなメールが届きました。前の打ち合わせがちょっと押しちゃって焦りましたけど」「何か重要な話でもあるんだろうか」。こちらも久々に聞く岡本真司さんの声。特に重要ではなく、オレがサプライズ登場するからですよ。

 岬も同じ事務所なのに知らないのか。平松さん、陣内社長にも根回ししたな。

 ディレクターや作家仲間の声を聞いていると、聞き慣れた声の筈なのに心臓は大きくバウンドし、額や両脇からも脂汗が流れて来る。

 平松プロデューサーもこんな演出画策しないで、普通にF1会議室の席に座らせてくれていたら良かったのに。それだったら今頃は緊張も緩和されていただろう。

 腕時計を見ると会議開始五分前になっていた。



 良し! これで「あいつ」以外は全員集まったね。準備は万端。

「夕貴ちゃんにNARI君、「例の約束」守ってくれたね」

「はい。誰にも言ってません」

「ちゃんと守ったっすよ」

「夕貴ちゃんもNARI君も偉い! なら宜しい」

「何なの?「例の約束」って。やっぱり何か重要な話でもあるんだな」

「でも番組は継続される事は決定してますよね」

「まあまあ、岡本さんも智弥ちゃんも落ち着いて。会議を始める前に、皆に発表したい事があります!」

「やっぱ何かあるんじゃん。数字が上がった訳じゃないよね」

「まさか継続が決まってたけど急に打ち切りだったりして。でも平松さんの様子だと違うかなあ……」

「はい。岡本さんも岬ちゃんも全然違います。ちょっと待ってて」

 私は会議室を出て、ユースケ君が待機する会議室ドアを開け小声で、

「ちょっとF1の入口まで来て」

と告げて彼を誘導する。

「やっとですか」

「しっ! 大きな声出さないで」

 ユースケ君を皆には見えない位置でまた待たせて、私は室内に入る。

「発表というのは見れば一目瞭然です。今日はこの方に来て貰いました。どうぞ!」

 平松プロデューサーの演出は正直いじらしいか、面倒臭い。

 笑顔で入るか、いや、休職していたのだから「出来るだけいつも通りの表情」を心掛け、オレは入室した。

「皆さん、おはようございます。そしてご無沙汰しておりました」

 軽く一礼。

 ユースケ君が入るなり室内には「おおーっ!!」「ああーっ!!」とどよめきが起こった。

「おい、ユースケだぞ! 元気だったか?」

「身体だけはね。精神はずたずただけど」

「あんまり無理すんなよ!」

「心配させやがって! いつでも職場復帰出来るようにって、お前の席はいつも空けてたんだぞ!」

「それは平松さん、ありがとうございます」

「いいえ。どういたしまして」

 ディレクター達も私も顔が綻びてしまう。

「発表ってユースケ君の復帰の事だったんだね。久しぶり。そしておかえり」

「ありがとうございます。只今戻りました。でもまだ『オンガク!』だけですけど」

 岡本さんも顔が綻ぶ。

「ユースケさん、本当にお久しぶりです。社長も心配してたんですよ。でもちょっと痩せたんじゃないですか?」

「ちょっとね。三、四キロくらい。毎日ウォーキングしてるから」

 岬ちゃんはちょっと目が潤んでいるように見える。只の反射かもしれないけど。

「「ユースケ」ってあだ名、久しぶりに聞きましたね。私の事忘れたとは言わせませんよ」

「そんな、忘れる訳ないよ」

 いつもはクールビューティーの臼杵智弥ちゃんも微笑を浮かべている。

 よっしゃあ! 私の演出は成功した。皆ユースケ君を暖かく迎え入れているんだから。



「じゃあユースケ君座って。会議を始めるよ!」

 確かにいつも座っていた岡本さんの左隣の席は空いている。テーブルの上には資料も用意されていた。ありがたく、目が潤んでしまいそうだ。

 それはそれとして、平松プロデューサーも枦山ディレクター達も岡本さんや他の作家も、この前の放送事故については誰も触れない。『22』を観ていないのだろうか、それとも箝口令でも出されているのだろうか。だとしたら、オレも触れない事にしよう。

「今日は『平成の歌姫特集』を煮詰めて行こうと思ってるの」

「『平成の歌姫特集』ですか」

「そう。だから華原朋美さんや、鈴木亜美さんにゲストで出演して貰おうって候補が上がってるの。来週は『もう1度聴きたい名曲特集』をオンエアするんだよ。収録は済んでるし。ああいう企画をやると少しは数字が上がるんだよね」

「ユースケ君が出した提案が参考になった企画ってこれなんだよ」

 平松プロデューサーも枦山ディレクターも数字に期待している様子。だが……。それって去年提案して特番でオンエアした企画では?

「『名曲特集』は人気フォークデュオに『上を向いて歩こう』をカバーして貰ったの。良い出来に仕上がったよ」

 平松さんはオンエア前から満足げ。

「そう、ですか」

 僭越だしスタッフの一人としてオレが批評するのはおかしいが、『もう1度聴きたい名曲特集』も『平成の歌姫特集』も同じような企画ばかり。幾ら数字が上がるとはいえ、これでは視聴者は飽きてしまうだろう。

 まあ、『懐メロ特集』をやってみてはと提案したのは確かにオレだけど、ここまで続けるとは……。平松絵美プロデューサー、ある意味恐るべし。



 会議が始まって約一時間。久しぶりでまだペースも掴めず対人恐怖もあるせいか、緊張して中々意見が出せない。うちでメールで意見を出すのとは環境が違って当然だが。

 そこは誰にだって予測は出来るだろうしオレも覚悟はして「出席します」と決意はした。でもこれ程力になれないとは……全く腑甲斐ない。

 でも久しぶりの会議室の雰囲気自体は新鮮だ。THSの会議室ってこんな感じだったかなあ。と別の事では頭が働く。

 室内全体や向かいの席に座るNARI君や臼杵、平松プロデューサーに枦山ディレクター達を目だけを動かして観察していると、

「ユースケ君大丈夫」

岡本さんが声のトーンを落として訊く。

「無理してるんじゃないですか」

 岬もトーンを落とす。

「大丈夫です。久々の環境だからまだ慣れなくって」

 オレもトーンを落として苦笑し、資料に目を通す。

「辛かったら言って良いんだからね」

「そうですよ。焦らなくてゆっくり環境に慣れて行けば良いんですから」

 岡本さんも岬も優しい目を向けてくれる。

「本当に大丈夫ですから。根はマイペースな性格なんで。知ってるだろう、本田さんは」

「まあ、マイペースで掴み所がないですけどね、ユースケさんは」

 岬が微笑を浮かべた刹那、『ガチャッ』とドアが開き、「遅刻の常習犯」宮崎哲哉の登場。相変わらず「遅れて済みません」の一言もなく平然と席に着く。

 オレとも目が合ったが反応は全くなし。この人こそマイペースだし変わらないなあ。

「ちょっと宮崎君、今日は特に遅刻しないでってメール入れたよね」

 放念しているかと思っていた平松さんも今日は黙っていない。

「済みません」

 顔は平然としたままで気持ちが入っていない。プロデューサーに対してもこの態度。マイペースというより肝が据わっている。

「今日からユースケ君が来てるんだけど」

「久しぶりだな。ユースケ」

「ご無沙汰してます」

 お互い上辺だけの挨拶。

「自分がやってる事分かってる? 毎回毎回」

「まあ平松さん、これで全員集まったんだし、会議を続けよう」

 岡本さんが穏やかに宥め、会議は続行された。



 結局、殆どは「顔出し」の状態で約六時間半の会議は終わってしまう。

 今日決定されたのは『平成の歌姫特集』のゲストと、オンエアは四月中旬にはしようという事。後は「昭和ポップスだけを特集してみよう」と決まり、聴きたい、もっと知りたいアーティストは誰か、と視聴者に番組ホームページなどで募集する。という内容。

 また僭越だが二つの企画、どれも曾ての名曲に頼ってしまう。こういう企画でないと、レギュラーの音楽番組が生き残る活路は見出せないのであろうか。かといって自分に「画期的な妙案」が浮かぶ訳でも、なし。

 席を立つ前に企画書の隅に「発言出来なくて済みません」と書き記して平松さんに渡す。それを見た平松さんは「うんうん」と頷き、優しく微笑んでくれた。表情には「別に良いんだよ」との気持ちが表れているような。都合の良い解釈だろうが。

 帰り際、

「ユースケ、この番組の会議に復帰出来たんなら、他のレギュラーでも復帰するよな?」

言われるであろうと予測していた言葉を宮崎さんに言われてしまう。プラス、言って来るとしたら宮崎哲哉さんだろうとも、何となく予測していた。まさにその通りの結果。

 だが、

「いや、まだこの番組だけにして徐々に慣らして行きます」

正直に言うしかあるまい。

「半年近くも休めばもう十分だろう」

「主治医から言われてるんですよ。何れ全レギュラーも復帰するんでもうちょっと待ってください」

「お前もややこしい病気を患ったな。心に風邪を引きっぱなしじゃねえか。まあ、今日はお疲れ」

「ええ、また」

 「心の風邪」。いつから日本ではそういう表現が使われるようになったのだろう。何度も繰り返すが、うつ病は「心」ではなく「脳」の病だ。

 これは患った人間でないと分からないし、うつ病ではない人間に理解を求めても無理な所も、仕方のない事だがあるだろう。

 後ろから『ポンポン』と背中を軽く叩かれた。振り返ると岡本さんが笑顔で立っている。

「あんな事言われちゃうとね。ゆっくり、焦らずで良いと思うよ、オレは」

 中にはこういう言葉を掛けてくれる人もいるのだ。

「今日はお疲れ様。また来週会おう!」

 岡本真司さんは右手の親指を立てて室内から出て行く。

「お疲れ様でした。また来週」

 オレが言うと背中を向けたまま手を振った。

 喫煙ルームへ行き一服。ガクーンと疲れ、倦怠感が全身を覆う。

 会議中はさっき宮崎さんが言った通り、時間が経つにつれ場には慣れ、緊張感も緩和されて来て、これなら他の番組の会議にも復帰出来るかな? と一瞬思ったものだが、病はまだ寛解までは行っていない。

 気短で衝動的な思考だったようだ。また暫くは『オンガク!』を除き、他のレギュラー番組の会議はメールでの参加で勘弁して貰うしかない。会議室へ出向くのはまだ『オンガク!』だけで精一杯な状態だ、これでは。



 でも他のレギュラー番組のプロデューサーや作家仲間からは最近、『今日はこの企画を詰めようと思ってる』とメールで知らされるようになり、今までよりも具体的に意見が出せるようにはなった。

 だがメールでの参加なので、『その提案はさっき出てボツにされた』と返信され、意見や提案が人と被ってしまう事もしばしばあるのだが。

 ぼんやりタバコを吸っていると『ガチャッ』とドアが開き誰かが入って来たが、オレは一瞥もせず「お疲れ様です」も「おはようございます」とも挨拶せず不躾な態度だった。

「挨拶も出来ないくらい疲れてるの? だから言ったでしょ、きつかったら途中で退席しても良いって」

 平松さんだ。

「済みません。お疲れ様です。ぼんやりしてたんでつい」

 今更謝ったり挨拶しても遅い。

「そりゃぼんやりもするよね、久しぶりの長丁場だったんだからさ」

 オレの右隣に来ながらいつもの「平松スマイル」を見せタバコに火を点ける。

「どうだった? 久しぶりの会議、職場は」

「終わって倦怠感があるのは事実ですけど、三時間四時間と時間が経つ内に徐々に感覚を思い出すっていうか、人にも慣れて来て良い刺激になりました」

「それは良かった!」

「かと言って殆ど発言は出来ませんでしたけど。この刺激も平松プロデューサー殿のお誘いのおかげでございます」

 吸煙機に向け紫煙を吐き出した。

「そうであったか! どういたしまして」

 平松さんも吸煙機に向け紫煙を吐き出したのだが、それまで笑みだった表情が急に真顔になる。何か重要な事でも言われるのだろうか?

「宮崎君の事、どう思う」

「どうって、一年先輩、正直に言えば、オレにとっては苦手で仕事がやり辛い人ですけどね」

 自分でも正直に白状し過ぎではないか? と思ったが言ってしまったものは取消せない。

「ユースケ君にとってはそういう存在なんだ」

「今の本人に伝えるとかじゃないですよね」

 恐る恐る訊いてみた。

「別に言わないけど。私も白状するとね、彼を番組から外そうと思ってるの。何度注意しても行動を改めない「遅刻の常習犯」だからさっ」

「そう、なんですか……」

 何故オレにぶちまけるのか。

「宮崎君の事務所にも伝えたし、再三再四注意されてる筈なんだよ。それでもあんな態度。流石の私もキレかけてる」

「打ち合わせやロケハンで時間が押す事も間間ありますからね。まあ、オレも休職中の身なんで、人の事は何も言えねえ、ですけど」

「私も最初はそう考えてた。でも毎週繰り返されれば、流石に疑うでしょ。彼の場合はユースケ君とは違うよ」

「「仏の平松」も流石に「鬼」に変わりますか」

「社内じゃ平松は仏過ぎるって言われてるけど、我慢の限界は疾うに過ぎてるよ」

 平松さんが口を噤み、喫煙ルーム内は「フー」と紫煙を吐く声と『ゴーー』と稼働し続ける吸煙機の音だけになってしまう。

「それじゃあ、今日はお疲れ様でした」

「うん。また来週ね」

 最後はまた「平松スマイル」に戻り、オレは火を消して喫煙ルームから出て、複雑な心境のまま帰途に着いた。

 オレは他人から本音を打ち明けられる事が多い。言い易い顔なのか人畜無害と思われて軽侮されているのかは知らないが、平松さんもそんな所だろう。



 今夜もいつも通り『22』の天気情報まで観て、今日は疲れているから睡眠導入剤はいらないかな? とも思ったが「一応」服用して就寝した。

 だが翌朝、六時にセットした携帯のアラームが鳴る前、携帯を見ると五時四五分頃には自然と目が覚めてしまう。何故だか分からないが、それだけ熟睡したという事かいな?

 オレは携帯を手にして相方を起こさないようにベッドから立ち上がり、リビングへ行く。

 電気ケトルでお湯を沸かしながら洗面所で顔を洗って口を濯ぎ、うがいもしてリビングへ戻る。沸いたお湯でコーヒーを淹れて換気扇をつけて一服。

 毎日この時間帯は精神も平常心を保っている。が、昼頃から夕方、夜に掛けて無気力感と抑うつ症状、更には倦怠感がプラスされる症状は相変わらず。

自律神経症状も相変わらずで、三七度台の微熱と両手両脇から脂汗が流れる。

 それでも正午に精神安定剤を一錠服用し、昼寝をしたりして何とか落ち着きを取り戻しメールではあっても会議に参加する仕事は出来てはいた。

 ちょっとメールを送信、受信しては勘考しながら一服。またちょっとやっては考え事、ぼんやりしながら一服……。の繰り返し。傍から見れば「集中力が欠如していて、ダラダラやりながらそれで金が貰えるなんて、良い身分だなあ」と思われるだろうし、自分でも自覚はしているつもり。

 だがこれが現実。怠けているように見えても症状に耐え、勘考しながら一生懸命やっているのも事実なのでありまして……。

 無論、大牟田先生には現状と想いは診察の時に伝えている。先生は、

「今は人の目を気にしないで、自分が出来る事、範囲でやって行くのが先決だよ」

と否定はせず肯定するのみ。薬の内容も一度変更したっきりで、あれからずっと変わらずに処方されている。



「今日は早いね、相方」

 真子が起きて来た。

「起こしちゃったか?」

「いや、私はアラームで起きたから」

「オレはアラームが鳴る前に目が覚めちゃったよ」

「良いじゃない。今は規則正しい生活が基本なんだから。寝坊するよりかは増しだよ」

 相方は左手は椅子、右手は腰に当て澄ました顔で言う。

「コーヒー飲む?」

「うん。貰おうかな」

 食器棚から相方のカップを取り出しコーヒーを淹れてテーブルに置いた。

「それでどうだったの? 昨日の会議は」

「終わった後に酷い倦怠感があってちょっと休憩したけど、皆久しぶりだったし良い刺激もあり、心も揺蕩されたよ」

「久しぶりだったら疲れるよ。私もメインキャスターの初回が終わった後は達成感よりも、凄い疲労感があったし。でも良い刺激になったのは分かる。私は今はメインで一本だけど、相方は九本もこなしてたんだから凄いよ」

「長丁場の後にまた次の会議や打ち合わせに向かう人達を見てると、他人事みたいに凄いと思う。作家はギャラの割に拘束時間が長い職業だからね」

 「私はメインで一本だけだから楽だって言いたいの?」て冗談が浮かんだけど口に出すのは止めた。ユースケの口振りには作家仲間達への畏敬が込められていたし、嫌みっぽさは全くなかったから。

 ユースケはコーヒーを飲みながらタバコに火を点ける。何杯目か何本目かは知らないけど、タバコは本当はうつには良くないデータもあるんだぞ! 吸い過ぎて今度は身体を壊しても、私は知らないからね!

 今のは口に出してやろうかと思ったけれど、彼の清々しい表情を見ていると気を悪くさせてしまうだろうから、また口を噤んだ。

「私、今日は現場に行かなくちゃいけないから、いつもより早く出るからね」

「そう。「報道記者」も大変だよね」 

洒落っぽく言ったが、本心からの労いだ。

 真子は今、メインキャスターとして、局アナ時代に培った報道記者の経験を存分に発揮し、光り輝いている。オレも負けてはいられないのだが、今は精神も身体も中々言う事を聞いてくれない日々、なのであった……。



 四月も下旬になろうとするある日。『もう1度聴きたい名曲特集』は七・三、『平成の歌姫特集』は六・九%と確かに数字は多少持ち直した。後は来月オンエア予定の『昭和ポップス超豪華版!』がどれだけ数字を稼げるかだ。

 〈マウンテンビュー〉まで視聴率表を確認しに行く気力はなく、事務スタッフにレギュラー番組の数字をメールで知らせて貰う。

 その週の会議。いつものようにエレベーターで時間が押し、十分前に会議室に入室すると、何と宮崎哲哉の席がなくなっていた。

 平松絵美プロデューサー、到頭キレたか……。

 岡本さんは既に来ていて、

「おはよう」

「おはようございます」

挨拶を交わしながら自分の席に着く。

「宮崎君、番組から外されたんだって」

「えっ!? そうなんですか?」

 自分でも嗤ってしまう程白々しく思うが初耳を装う。

「平松さんはもう何も言わなくて放念してるように見えたけど、遂に堪忍袋の緒が切れたんだよ。平松さんが直接宮崎君の事務所にクビを宣告したんだって。先週の会議の後「今までありがとうございました」って挨拶されて、オレは「今後は遅刻しないよう改めますって、平松さんに謝った方が良いよ」ってアドバイスしたんだけど、遅きに失したみたいだね」

「あの人も根は良い人だしオレより優秀な作家だから、勿体ないですね」

「ユースケ君だって彼に負けてないよ」

 白い歯を見せる。岡本さんも優しい人だから。

 でも、フォローは無用です。何故なら宮崎さんよりオレの方が、断然遜色していると思念しているからだ。単なる妬みかもしれないが。

 もう一つ悪辣な思念をすれば、宮崎哲哉がいなくなった事で精神的には随分と楽になった。理知的な部分もあったのも事実だが、オレからは馴れ馴れしくて偉そうに見えていたからだ。

 例えば喫煙ルームで独り一服していた時、「一本くれよ」と入って来たので仕方なくタバコの箱を差し出しライターで火を点けて差し上げた。それで終わるかと思いきや、

「ユースケ好きな子誰」

興味本位そうな表情で訊いて来る。

「宮崎さん、オレ結婚してるんですけど」

「誰にも言わないからさ」

 食い下がって来るので仕方なく、

「奇麗だなと思う人はいますけどね」

適当に答えると、

「誰? マジで誰にも言わないから」

とにかくしつこい。

「枦山さんとか臼杵さんっていったとこでしょう」

「お前もオーソドックスな奴だな。カミさんもその思考で選んだのかよ」

 訊かれたから仕方なく答えてやったのに嗤う。そうやって人を軽侮するような部分もあったのも事実。

 「こいつ正直苦手だな」。ムカつくやら一発ぶん殴ってやりたい衝動に駆られるやら。そんな存在だった。飽く迄もオレには。



「何か怖い話聞いちゃいました。作家は何の保証もない職業だから、私も気を付けなきゃですよね」

 隣の席の岬はずっと聞き耳を立てていたらしく、戸惑った表情。携帯を見ていたからてっきり知らない振りをしているのかと思いきや、終始聞いていやがったか。

「本田さんは遅刻しないし真面目だから、大丈夫だよ」

「本当ですか!? このままのペースで頑張って行けば良いんですね!」

「多分ね」

 先輩のオレの今の発言こそ何の保証も根拠も、なし。我ながら無責任だ。

「分かりました!」

 不安顔から急に破顔。気持ちの切り替え、心境の変化が早い事……。こっちも羨ましいよ、その性格が。

 平松絵美プロデューサーは、

「皆揃ってるみたいだし、そろそろ始めよう!」

宮崎さんの事には一切触れずに、いつもの「平松スマイル」。「鬼」の顔に笑顔が戻った形だが、オレにとっては「平松スマイル」の方がよっぽど怖い……。

 後日、宮崎さんから『ユースケ、お前からも色んなことを教わったよ。ありがとな! そして早く元気になれよ!! 嘘ではないから』とメールが届いていた。

 『教わった』て、オレに対するお世辞か? 将又嫌みか? 何れにせよこういった気配りが出来る部分も併せ持っている人であるのも、また事実なり。



 宮崎さんが抜けた穴には同じ事務所の作家が入るという。

 四月最終日の会議。

「今日から新たに加入してくれる大坪仁美ちゃんです! ほら、皆拍手は?」

 オレを含め皆知らない顔ではないからだろう、拍手をするのを失念してしまう。

「良いですよ拍手なんてしなくて。悪いのは「あいつ」なんですから」

 大坪さんは言うが、

「そういう訳にはいかないよ。ニューカマーとして加入してくれたんだから。大いに歓迎しないとね」

平松プロデューサーの鶴の一声により……。

『パチパチパチパチパチ!!』

 皆で拍手はするのだが「後藤由衣の件」、そして今回の「宮崎哲哉の件」もあるし、おまけに最近は五%台、四%台と数字が落ち低視聴率にも拍車が掛かっているから、皆表情は複雑そう。それはオレも同じ心境だ。ニューカマーは歓迎しないといけないと分かっていても、今一「明るい顔で歓迎」が出来ず戸惑ってしまう。

 かと思いきや。

「仁美ちゃんって相変わらずっていうか、どんどん美人になって行ってるよなあ」

「そうっすね。何回か一緒に仕事した事ありますけど、その度にオレも惚れちゃいそうになりますね」

 男性ディレクターに加えNARI君まで……。例外もいたか。まあ、確かに大坪さんは美人ではあるけれども。



「『オンガク!』の数字が芳しくない事は承知しています。私がどれだけ起死回生のお力になれるのかは未知数ですが、どうか宜しくお願いします」

 恭しく頭を下げた。

「頼もしい事言ってくれるじゃない! 起死回生の為、皆と頑張って行こうではないか!」

 平松さんはもう満足げな笑み。

「『オンガク!』の数字が芳しくない事は、この業界では周知されていますからね」

 臼杵はいつも通りクールで澄ました表情。彼女はちょっとやそっとでは顔付を変えない。

 大坪仁美。元六本木のキャバ嬢からオレと同じ歳のニ四歳の時に放送作家に転職した変わり者。宮崎さんと同期で従って歳も作家歴も一年先輩。

 大坪さんには絶対にすべらない「鉄板ネタ」がある。

「大坪さん、まだ肋を胸と間違えられるの?」

「ユースケまたその話しさせる気?」

 さっきまでの恭しさは消えうんざりとした顔付。

「だって面白いじゃん、あのネタ」

「ネタじゃなくて下世話だよ!」

「ユースケ君もかなり元気になって来たね」

 岡本さんは苦笑満面。この人も大坪さんの「鉄板ネタ」は知っている。

「何あのネタって? 私も聞きたいなあ」

 平松さんのアンテナにも引っ掛かったようだ。

「別に態々聞くような内容じゃないですよ」

「面白いんだったらそこを何とか!」

「プロデューサーにまで関心を持たれたら仕方ないよね」

 ユースケの奴……。

 大坪さんは半ば嫌々そうな口振りで「私Aカップなんですけど……」、「鉄板ネタ」を語り始める。

「彼氏とSEXする時に電気消すじゃないですか」

「私は点けたままでも平気だけどね」

 平松さんの方が兵だったか。

「そうですか。私は消す派なんですけど、肋の部分が膨らんでるんですよ」

 大坪さんは上着を肋の部分まで上げて見せた。肋の部分が瘤のように膨らんでいる。この光景を見るのは何度目であろうか。

「ほんとだ!」

「何か胸みたいですね。Aカップならそこにブラした方が良いくらい」

 平松さんは目を見開き、枦山さんはからかうように笑う。大坪さんは少しムッとした表情を枦山さんではなくオレに向け、目は「全部あんたのせいだぞ!」と言わんばかり。

「だからいつも肋を最初に揉まれて乳首を捜されるんです。仕方ないんで私が彼氏の手を胸まで上げてあげると、「あっ、ここだったんだ」って言われちゃうんです」

「ハハハハハッ! パチパチパチ!」

 大爆笑とまでは行かなくともスタッフ全員が笑顔になった。臼杵も「フフンッ」と微笑を浮かべているし、やはり「鉄板ネタ」で間違いではない。

 大坪さんには本当に「Good Job!」だ。



 会議終了後、いつもと同じく酷い倦怠感を感じながら喫煙ルームで一服し、暫し休憩。まだ『オンガク!』の会議一本だけで精一杯な状態。

 それでも最近は段々と感覚も戻って来て、人が集まる場にも慣れ、「『昭和ポップス』はあの人も呼んでみたらどうでしょう」「スカフォーの新曲とリーダーの押尾玲奈のソロデビューが決まったんなら、新曲は冒頭に持って来て、ソロは「目玉」として終盤に回してみたら良いんじゃないですか」などと意見や提案を出せるようにはなって来ていた。

 今日は岡本さんと大坪さんも一緒だ。

「ユースケ君大坪さんの肋の話好きだよねえ」

「ほんとだよ。何回も同じ話しさせられてこっちは飽きてるんだからね」

 岡本さんは苦笑が混じったにこやかさ。大坪さんは完全に不服顔だ。

「でもウケたんだから良かったじゃん」

 ユースケは悪びれる素振りもねえし。

 ユースケは本当に不躾な奴で、私が初めてあの話をした時、初対面にもかかわらずに「元キャバのコブ女」と言って来やがった。それからは今も「大坪さん」とは呼んでいるけれど、ずっとタメ語だ。完全に私を侮っていやがる。

「大坪さんもあまり遅刻し過ぎないように気を付けておいた方が良いよ。平松さんは普段は「仏」の顔だけど今回みたいに「鬼」の顔も持ってる人だからさ」

 にやにやしながら言いやがって……。

「私はあいつみたく遅刻しねえし! うちの事務所の作家を皆「遅刻の常習犯」みたく言わないでよね」

「そんなムキにならなくても。ギャグだよね? ユースケ君」

 岡本さんは相変わらずにこやかだなあ。

「まあそんな所です」

 「そんな所」じゃねえし! やっぱりユースケは私どころかうちの事務所の作家全体を侮っていやがるな。

「それより宮崎さんからユースケをフォローしてやってくれって託されたけど、見た目は元気そうだね。病気は大丈夫なの?」

 宮崎さんそんな事言ったんだ。

「まだ寛解とまでは行ってないけどね。会議が終わった後はぐったりしてるし」

「そう。でも珍しいね。男でうつ病なんてさ。女の患者が多いとは聞いた事あるけど」

「ユースケ君はそれだけ繊細なんだよ。でも確実に回復には向かってるよ」

「ハートがあって温かいですね、岡本さんは」

 でもそんなに優しく接する必要はないと思いますよ、ユースケには。うじゃけてて悪戯心の塊ですからね、こいつの本質は――



 五月中旬の火曜日。『オンガク!』の数字は依然五、六%を行き来し平均視聴率は六・九%のまま。

 だがリアルタイムで視聴出来る時間帯なので、他のレギュラー番組と同様、プライムタイム(十九時〜二三時)の番組は録画せずに毎週観ている。火曜日だけは相方の『報道LIVE 22』とセットで。

 正直まだテレビを観たりラジオを聴いたり、活字を読んだりする行為もしんどいのだが、会議に出席、参加している以上は観たり聴いたりスポーツ紙やネットニュースの記事をチェックせざるを得ない。

 それでも本来放送作家は、レギュラー番組だけをチェックしていれば良いという生業ではなく、常に様々なトレンドにアンテナを張っておく事が必要不可欠。これが放送業界で「存続し続ける道」の術の一つなのではあるが、無気力感と抑うつ症状にさいなんでいる今の自分には、九本のレギュラー番組と、それに関連する記事をチェックするのがやっとの状態なので候……。

 二一時となり『オンガク!』が始まった。ゲストのアーティスト達が新曲を披露して行くのだが、歌唱中にいきなりCMに入ってしまう。

 その後も映像がフリーズしたりブラックアウトする。提供バック中に映像は一時停止したままCMに入り、開けると人気女性アイドルグループの歌唱が始まった。かと思えば「恐れ入りますが、このまましばらくお待ちください」という静止画が一分近く流れ、提供読みは同じものが二回も入り、さっきオンエアされた女性アイドルグループの歌唱も二回流れる事に。

 ちっ。また放送事故か……。番組の終盤にはスカッシュ4の四人が東京ドームで行われたSTATION CLUBのライブの舞台裏をリポートする企画がオンエアされたのだが、放送終了時間が来てしまった為に途中で終了。そのまま『22』が始まった。

 番組冒頭で奥村真子キャスターは、

「ニュースをお伝えする前に、前番組『オンガク!』の放送中、大変お見苦しいシーンがございました。大変失礼致しました」

カメラに向かって深々と頭を下げる。

 またカミさんに余計な謝罪をさせてしまったか……。今夜もスタッフを代表としてオレが「謝罪」するか。



 二五時過ぎ、奥村キャスターがご帰宅。洗面所で手洗いうがいを済ませリビングに入るなり、

「やっぱり、起きてると思ったよ」

察しは着いていたご様子。

「今日はまた余計な謝罪をさせてしまって、本当に申し訳ない」

 奥村キャスターの真似をして深々と頭を下げた。

「ほんとだよ。確りしてよ『オンガク!』さん。っていうよりTHSさんだよね」

「他のキー局じゃ滅多にない事故だもんな。THSには放送の仕方の基本から学び直して欲しいよ」

「そうだよね」

 真子と共に深夜なので声を殺して笑う。

「また放送機器のトラブルなんだろう」

「みたいだよ。今回も全国的にあんな感じになっちゃったんだって」

「開局して六十年以上にもなる、しかもキー局がなあ」

「ほんとに基本から学び直した方が良いよね。フフフフフンッ!」

 相方は堪え切れずに遂に声を出して笑ってしまった。

 部外者のフリーアナウンサー、放送作家も嗤うのだから、視聴者からはもっと嗤われてしまうぞ、THSさん。



 その週の会議。

「今週の事故は酷かったね」

 岡本さんから口火を切った。

「何かオンエア中に放送機器のトラブルとみられる障害が起きて、技術的な原因を究明中みたいらしいけど」

 平松絵美プロデューサーは冴えない表情。今度は事故について触れない訳にもいくまい。

「今朝のスポーツ紙にもそのような旨が載ってましたね」

 臼杵に続き、

「カミさんも確りしてよTHSさんって嗤ってましたよ」

オレも平松さんと目を合わせてチクリ。

「ユースケ君の奥さんが謝罪してたね。THSの社員を代表して皆には私から謝罪します。本当に申し訳ございませんでした」

 平松さんは席に着いたまま軽く頭を下げたが、表情は「神妙」ではなく「平松スマイル」だ。これくらいの事でめげる人ではない。平松プロデューサーを始めスタッフ全員が気に掛けているのは、事故よりも低視聴率の点だ。

「ユースケ、平松さんを責めたって仕方ないよ」

 大坪さんは平松さんを気の毒そうな表情と口振り。

「別に責めたつもりはないよ。THSの社員っていったって、平松さんが責任を負う事じゃなくて技術面の問題なんだから」

「奥さんを庇いたい気持ちは分かるけど、トラブルの原因と理解してるんなら良いけどね」

 大坪さんは澄ました顔で言ったかと思えば最後ににやつく。その笑み、何かムカつく。これくらい業界の者でなくとも誰だって理解出来るだろう。

「そうっすよね。構成上のトラブルだったらオレ達の責任っすけど、放送機器のトラブルだったら平松さんやオレ達には関係ない事っすよ」

 NARI君も笑みを浮かべて平松さんをフォローする口振り。

「皆ありがとう。でもさあ編成局長、再放送の日日はお前が決めろ、とか言うんだよ」

 平松さんはじれったそうな口振り。

「明らかに丸投げですね」

 臼杵も苦虫をかみ潰したような表情。

「そうなんだよねえ。だから七月上旬にします! って専決しちゃった。良いよね?」

「平松さんがそれで良いんなら、オレ達は従うのみだよ」

 岡本さんはにこやかに言う。番組内で再放送するという事は、ホンもそれに合わせて執筆し直さなければいけない。岡本さんも「仕方がない」と諦めているのだろう。というより諦めざるを得ない。



 五月下旬。THSはホームページ上にて「『オンガク!』における放送事故について」と掲載し、「データの不具合によって発生したこの度の放送事故により、番組を楽しみにして下さっていた皆さま、関係者の皆さまには、多大なご迷惑をお掛けしましたことを深くお詫び申し上げます。

 事故後、視聴者の皆さまから今後の放送予定について、多数のご意見、お問い合わせを頂いております。当該事故で通常放送できなかった番組内容につきましては、七月上旬の『オンガク!』の中で放送させて頂くことに致しました。

 今後は同様の事故の再発防止に万全を期します。改めてお詫び申し上げるとともに、引き続き『オンガク!』をお楽しみ頂きますよう、何卒宜しくお願い致します」と正式に謝罪した。

 誰が執筆したのかは知らないが、再放送の予定の件はさも社内で協議しました、と言わんばかりの文言だ。

 番組は翌週に『昭和ポップス超豪華版!!』がオンエアされ、この日は事故もなく通常だった。

 五月下旬に入ってオンエアされた回は事故が起きた翌週に収録されたもので、番組冒頭でMCの中越智哉がゲストアーティスト達に向かって、

「皆さん、同じ時間と番組内で同じ曲を同じアーティストが二回歌わないように気を付けてくださいね」

と事故の件をネタにし、町田翼も、

「はい、皆さんそこの所は注意してください」

と続き出演者、観客の笑いを誘っていた。



 六月上旬。オレが提案して他の作家やディレクター陣が肉付けして行った、スカッシュ4の新曲を冒頭に、リーダーの押尾玲奈のソロデビュー曲を「目玉」として終盤に回した回がオンエアされる。までは良いのだが……。

 翌日にメールで通知された数字を見て唖然としてしまう。何と三・八%……番組ワースト記録を更新してしまったではないか。

 因みに『昭和ポップス超豪華版!!』は八・六%だった。レギュラーの音楽番組は、やはり曾ての名曲頼み、なのだろうか……。

 ああ、会議に行きたくない。と抑うつ症状が出ていても当日はやって来る。

「由由しい事態ですね」

 臼杵が冷静に口を開いても、室内の誰しもが押し黙った状態。重苦しくいつもにも増してどんよりとした雰囲気に包まれていた。

「幾ら裏が強かったとはいえ、ゴールデン帯で三・八は緊急事態だよねえ」

 平松さんの表情はいつになく沈鬱。

「ネットニュースにも載ってますよ。懐メロ系の人選は当たったのですが、焼け石に水といった所だって。『低視聴率連発の『オンガク!』ついに打ち切りか!?』って見出しで」

 大坪さんはさっきから携帯を見ていたかと思ったら、そんな記事を読んでいやがったか。今の発言で再び会議室内はシーンと静まり返る。空気を読めやい!

「済みませんでした。オレが口火を切ったばかりに」

「ユースケ君が謝る事ないよ」

「岡本さんの言う通りだよユースケ。誰もあんたを責めてないでしょ。仮に平松さんが責任取れ! って言ったら何が出来るの?」

「仁美ちゃん、私はそんな事言わないって」

 平松さんは渋い笑みを浮かべる。

「うーん……何も出来ないよなあ」

 「うつ男の安来節でも踊ろうか」とギャグを口にする空気ではないのは確か。しかも安来節の振り、テレビで少し観た事があるくらいで知らねえし……。

 只、平松さんの顔を見ていると他のスタッフ、大坪さんは多分ないだろうが、分からないけれども察するに余りあるというのか、何か感じ取れるものがあった。これはもしや……。



 それから一ヶ月、番組は何事もなかったかのように継続され、平松プロデューサーにも特に変わった様子もなく、いつもの「平松スマイル」を見せていた。所がである……。

 七月上旬、梅雨はまだ開けていないが今日は梅雨の晴れ間が広がり、気温も三十度近くまで上がって蒸し暑い。

 習慣となっている朝六時には起床、洗濯を終わらせて朝食。少し経って十時過ぎには昼前の一時間ちょっとのウォーキングを済ませ、昼食後は今日会議がある番組のプロデューサー直々や作家仲間から送信して貰った、議題となる企画書、資料に目を通す。

 他には〈マウンテンビュー〉の事務スタッフから送信されて来たレギュラー番組の数字を確認。最近は企画書や資料に只目を通すだけではなく、探究心からネットではあるのだが自分で事物を調べ、会議に備えて資料を作成出来るまでになっていた。

 症状は相変わらずだが、安定剤に頼ったり深呼吸をしたりして何とか毎日を送っている。徐々にではあるが放送作家としての感覚が戻って来ていた。

 今日もメールで会議に参加し、携帯と資料などに向き合っては一服。この行為を繰り返して傍から見れば「ダラダラ」と仕事をやっている。これも相変わらず。

 途中、陣内美貴社長から電話が掛かって来た。何か平松プロデューサーの時と同様に察するに余りある。感付くものがあった。

『中山君、今は会議中、だよね?』

「そうですけど現場じゃないんで構いません」

『ちょっと伝え辛いんだけど……『オンガク!』が九月で打ち切りになるんだって』

「まあ、そうだと思いました。先月ワースト記録を出した直後の会議で、平松さんの顔を見てたら何となく推察は出来ましたから」

『そうなんだ。看破する洞察力は鋭いんだね』

 何だ、嫌みか今の言葉は。

『それで絵美が心配しててね。せっかく復帰出来たのに番組が終わっちゃうってさ。少しずつでも仕事が出来るようになったのなら、また「復帰の現場」を捜さなきゃだね』

 陣内社長も少し途方に暮れた口振り。それだけ社員の事を心配してくれている証だが、当のオレも途方に暮れてしまう。だが二人で「うーん……」と唸り合っていても埒が明かない。

「今度は深夜とか、人数が少なくて時間もゴールデン帯よりも短い所があれば良いんですけどね」

『プロデューサーが会議だけ出席で良しと承諾してくれるんなら、それもありがたいけどね』

「そこなんですよねえ。とどのつまりは……フー」

 鼻から溜息が出てしまう。結局は社長と二人で途方に暮れてしまった。奇しくも今日は『オンガク!』がオンエアされる火曜日だ。



番組の打ち切りが通知されて数日後。

「ごめんねユースケ君。せっかく復帰出来たのにこんな形になっちゃって。仁美ちゃんもまだ加入してくれたばかりなのに終わっちゃう」

 平松プロデューサーは会議冒頭から切なさとやる瀬なさがない交ぜになった表情。

「仕方ないですよ。編成局や上層部の人達が協議した結果が打ち切りなんですから」

 オレも悔しいが、これくらいしか返す言葉は見付からず……。

「そうですよ。私達には抗えませんし悔しさと残念な気持ちは同じです。もう決定されちゃった事ですから。ねえ、ユースケ」

「うん。数字も数字だし今回の決定は致し方ないよね。現場のオレ達じゃどうにもならないし無力」

 大坪さんとオレの方が気遣ってしまう。

「数字の割にMCだけでもギャラは相当な額だからね、この番組は」

 枦山ディレクターの表情もいつになく冴えない。

「実を言うとね、先月に三%台を記録した時に編成局長から、そろそろ潮時かもしれないなって言われたの」

 そんな事だろうと思っていた。感付きは当たっていたのだ。人生、そういった憂いだけは見事的中する事は間々ある。望みは外れてしまうのに。

「でも後ニヶ月はあるんだし懸命にやり遂げようよ!」

「そうっすね。最終回はド派手にやっちゃいましょうよ!」

 岡本さんとNARI君の一声で、

「そうだね。後ニヶ月はあるんだしね! プロデューサーが沈んでちゃ駄目だよね!!」

いつもの「平松スマイル」と元気さを取り戻す。

「またスペシャルでも組ましょうか」

「あんまり無理しちゃ駄目ですよ、ユースケさん。スペシャル組むって言っても春もスペシャルやりましたし、来月には『真夏の音楽祭 2時間スペシャル』の予定もあるんですから」

 岬は露骨に不安顔。心配してくれているのは嬉しいが、

「九月だからもう秋だし、『秋の音楽祭 オンガク! ラストライブ』とか銘打ってもありなんじゃないの。それにオレ、現場に出てるのはこの番組だけで後は「在宅勤務」だから無理はしてないよ」

「なら良いですけど」

岬は渋々といった感じ。

 張り切っているのかやけくそになっているのかは自分でも理解不能だが、異常にテンションが上がっていた。

「『オンガク! ラストライブ』って良いタイトルだね。ユースケ君が提案してくれた今のタイトルで行けるかどうか、編成と掛け合ってみる」

「有終の美を成せるかもしれないね」

 平松さんと岡本さんもにこやかに食い付く。

「その前に『真夏の音楽祭』のゲストの人選ですね。ユースケさんは岬ちゃんが言った通り無理をせずに会議とホンの執筆に専念してください。打ち合わせとかは私達に任せて」

「智弥ちゃんの言う通りっすね。あまり頑張り過ぎてまた調子崩したら元の木阿弥っすから」

 臼杵とNARI君も微笑を浮かべて心配してくれ気遣ってくれる。

「済まないね、皆。また余計な仕事を増やしちゃって負担を掛ける事になって」

「私達の事は気にしなくて良いですから。ユースケさんは今の時期を大切にしないとですよ」

 岬も微笑を浮かべて念を押す口振り。まるで今度はオレが教育係を担当されているような錯覚を覚えてしまう。

「最終回を『秋の音楽祭 オンガク! ラストライブ』にしようと提案してくれたのと、タイトルも決めてくれただけで十分仕事してるよ。オレ達の事は本当に気に掛けなくて大丈夫だから。ユースケ君は今出来る仕事をこつこつとやって行くのみだよ」

 岡本さんは破顔し頷きながら言ってくれる。唯唯感謝の気持ちのみだ。

「『真夏の音楽祭』の数字も気になるけど、『オンガク! ラストライブ』はどれだけ数字を稼げるかだね」

 平松さん……まだ企画段階なのに期待に胸を膨らませ過ぎ。

「平松さん、その前に編成と掛け合わなくちゃいけないんですから」

「ああそうだったね」

 苦笑を浮かべる枦山さんに指摘されても、「平松スマイル」は消えない。そんな大そうな提案をした訳でもないのに。

 でもさっきまで重苦しい雰囲気に包まれていた室内に明るさが宿ったのは良かった。きっかけは岡本さんとNARI君の一言だが、足手纏いで野放図な存在だがオレも少しはお役に立てた? のか。自分に対して大甘だろうが。



 七月中旬。THSは正式に『オンガク!』が低視聴率で一向に改善されない為、九月で打ち切りにすると発表する。鳴り物入りで開始された番組も一年半の短命番組だった。

 『オンガク!』の終了によってTHSではゴールデンタイムの音楽番組がなくなるが、

「終了は視聴率の低迷が大きな原因。音楽番組はゴールデンでは視聴率に幅があるジャンル。一度リセットしたい」

とコメントを出す。

 番組を終了させるのは局側の勝手だが、次は何処の番組で現場復帰しようか、受け入れてくれる番組があるのだろうか、相方の真子にもましてや大牟田先生に相談しても解決する筈がないし、却って困惑させてしまうだけ。

 独り悩みあぐねていた折、下平希プロデューサー殿から電話が入った。



 どうせまた飲みの誘いか新番をプロデュースする事になったの、と自慢話を聞かされるかのどっちかだろう。そう思念しながら軽い気持ちで出てみる。

『もしもしユースケ?』

「オレの携帯に掛けたんだからオレだよ」

『そっけないね相変わらず。もっと友達を歓迎する出方は出来ないの』

「オレは昔からこんな感じだろう」

『それは分かってるけどほんとにあんたはさあ……まあ良いや。あたし、十月から深夜で新番をプロデュースする事になったんだよ』

 案の定。呆れた声から急に気持ちを入れ替え少し弾んだ声になりやがって……。本当はもっと弾ませたいのかもしれないが、オレに気を遣っているのかは察しが着かないけど。

「それはおめでとう。喜びたいんなら遠慮せずにもっと嬉しそうな声を出しても良いんだぞ」

『ユースケって友達の気持ちに対しては洞察力がないんだね。じゃあ何であたしが新番の話をしたのか教えてあげよう』

「ああ。教えて頂きましょう」

 ……て、こいつまさか!?

『今『オンガク!』の会議にしか出席出来てないんでしょ。しかも打ち切りになっちゃうしね。だったらうちの番組の会議からまた現場復帰する気はない? って要件で電話したんだけど、これで分かった?』

 オレは、下平の言う通り本当に友達の心中に対しては洞察力がない人間。

「ありがたい話だけど、ペースを取り戻すまで時間を要するぞ、きっと」

 声を弾ませたいのはこっちだが態と平然を装う。

『せっかく誘ってあげてんのにテンション低っ! まっ、あんたはそういうキャラだからね、昔っから。ペースを取り戻すのに時間を要したって別に良いよ。夕貴から聞いたけど『オンガク!』も初めは顔出し程度だったんでしょ』

「そうだった。最近はやっと提案や意見が出せるようになって来た所で終わっちゃうんだもんなあ」

『だったらうちの番組は慣れるのも早いんじゃね? また徐々にペースを掴んでいけば良くない? それに新番は深夜の三十分だし会議も一時間のゴールデン帯よりそう長くないと思うよ』

「そうだよなあ。また一からやり直させて頂きましょうかね。リハビリを」

『そうだよ。あたしもそうだけど皆もずっと心配してるし、深夜の三十分からやり直すのも全然ありだよ』

 下平の声が優しく響く。電話の向こうで微笑んでいやがるな。

「肩肘張らずにまたお世話になろうかな。君がそう言ってくれるんなら」

『かな、じゃなくてお世話してあげるんだよ! もしユースケが望むんだったら、構成に岡本真司さんやNARINAKA君、後は大坪仁美ちゃんを入れてあげてもオッケーだよ。皆知らない仲じゃないから』

「そう」

 大坪さんは別に良いが口に出すと下平は、『何なの!? せっかく配慮してやってんのに! 本人にチクるぞ!』と気を悪くするだろうし、罰が当たるかもしれない。

『そう、だけかよ! ここまで気遣ってやってんのに。ユースケの口からあたしに対してありがとうって言葉聞いた事ねえし! あんたは何処まで気遣えばありがとうって言う人間なの』

「はいはい。ありがとう」

『もっと心を込めて言ってよね』

「分かったよ。この度はありがとうございます。下平プロデューサー殿」

『やっぱりナメ腐ってんな。もう一つ言わせて貰えば、同期の夕貴は「枦山さん」って呼んでるのに何で先輩のあたしには「下平さん」じゃなくて呼び捨てで「元ヤン読モ」とか言って来んの』

「特に理由はありませんよ、シモダイラさん」

『シモヒラだよあたしは! 何か心配して損した』

 ムッとした口振りだが下平の声は優しいまま。これが下平とオレのいつものやり取りなのだ。

 電話を終え心中は清々しい。憂いも抑うつ症状もこの時は消えていた。



 翌日の午後、昼食が終わった後に昨日の事を真子に話してみる。

「昨日友達のプロデューサーから電話があった。秋から深夜で三十分の新番をやるんだってさ」

「そうなんだ。それだけ」

 相方は食器を洗いながら訊く。

「どうせ自慢話を聞かされるんだろうなあって思ってたら、オレを構成に迎えるって。また一から深夜の三十分番組でやり直すのも全然ありだよって言われた」

 真子は作業中の手を止めてオレの方を振り返り、

「ほんとに!? 良かったじゃない相方! また現場復帰出来る場所が見付かって。私も『オンガク!』が打ち切りになるって知って、今後はどうするつもりなんだろうって内心は気が気じゃなかったんだよね」

破顔して喜んでくれる。

「オレもどうなるのか、どうして行こうかって考えあぐねいてた時の誘いだったんだよ」

「誘い込んでくれるプロデューサーの友達がいるなんて、相方は幸せ者だよ」

 真子は一旦食器を洗うのを止めてタオルで手を拭くと、ソファに座るオレの横に座った。

「今回の事も、相方が不器用なりにもご縁を大事にしてた証拠だよ。他のレギュラー番組のプロデューサーの人達が復帰まで待つって言ってくれたのもね」

「『オンガク!』が打ち切りになってレギュラーは八本になるって思ってたけど、また九本のままだよ」

 宙を見詰めてぶっきらぼうな口振りで言うと、

「フリーの私もそうだけど、放送作家も何も保証もない職業なんだから、レギュラー九本も与えられてる、雇われるって事はありがたいんじゃないの。そんな言い方したら罰が当たるぞ!」

真顔から再び破顔して背中を『パシン!』と叩いて突っ込まれた。

「無論感謝はしてるさ。本当に痛かったぞ、今の突っ込み」

「だって分かってなさそうな言い方だったんだもん。でも相方、良い友達を持ってるね。持つべきものは友ってこういう事を言うんだよ」

 真子は我が事のように嬉しそうに破顔し、今度はオレの左肩を擦る。

「そうだな。幾ら感謝しても足りないくらいだね」

 心底そう思う。

「でも無理はしないようにね」

「分かってるって。一時間のプライムタイムの番組と違って、深夜番組はスタッフも少なくて拘束時間も番組によってだけどそう長くないから。その分、ギャラは安いけどね」

「またそんな余計な一言を!」

 相方はまた背中を『パシン!』と叩いて突っ込む。しかもさっきよりも強めだ。

 ユースケは本当は嬉しいくせに照れ臭いのか「男の意地」なのか、平然としている。というか彼はこういうキャラクター。でも本性は小心者で極度の心配性な性質のくせして、いつも冷静さを装ってしまう。

 それがユースケの理想像なのだろうけれど、根は正直で嘘を付くのも下手だから、彼と付き合いが長い周囲の人達は直ぐに看破出来るだろう。私もその内の一人。冷静さを装っても顔付を見ていれば分かるんだぞ! ユースケ――



 『22』の打ち合わせがある相方を送り出し、夜にオレの方から〈マウンテンビュー〉に電話を掛ける。

 掛けるのも出るのもしんどくて嫌だった電話も、最近は下平を始め友達のプロデューサーやディレクター、作家仲間や顔見知りの人に対しては掛けるのも出るのもあまり苦にはならなくなっていた。

 事務スタッフの女性に陣内美貴社長に取り次いで貰う。陣内社長は確かに事務所にいた。が……。

『中山君、半年以上も事務所に来てないでしょう。要件は大体分かるけど、たまには顔を出しなさいよ。私と逢うくらいだったらもう大丈夫でしょ?』

 と言われてしまう。

「ええ、まあ」

『今日はもう良いから明日にでも症状が落ち着いてる時においで。久しぶりに面と向かってゆっくり話そうよ』

 社長の声は悪戯っぽい。顔はにやついているな。まだ仕事のオファーを承諾するとも拒否したいとも伝えていないのに。

「社長としてそんなに社員の顔が見たいですか」

『そりゃそうだよ。特に中山君は事務所に顔見せないから一番案じてたんだから』

 陣内社長の声が悪戯っぽさから真面目なトーンに変化する。これは本音のようだ。

「分かりました。明日の会議前、午前中にでも伺います」



 翌日。久しぶりに南青山の〈マウンテンビュー〉に向け車を走行させた。一応精神安定剤を服用して。

 最寄りのパーキングに停車させ事務所が入る最上階の六階へエレベーターで上がる。

 休憩エリアにオフィスエリア、変化はないが久々で初めて事務所内へ入った時の事を回顧してしまう。オレのデスクも元のままだ。

 だが当の社長の姿はなし。岬が自分のデスクで仕事中だったが、

「社長は何処だろう」

邪魔だろうが訊いてしまう。

 岬はタイピングの手を止め、

「ユースケさんと事務所で会うの久しぶりですね」

笑顔を見せた。

「九ヶ月ぶりくらいだね。ここに来るのは」

「さっきまでいたんですけど、休憩エリアにもいないんだったら外の喫煙エリアじゃないですか」

「ああそうだった。喫煙エリアを確認するの忘れてた。ごめん。邪魔して」

「いいえ」

 喫煙エリアの方へ行ってみると陣内社長が一服しながら電話中。社長はオレを確認すると左手を垂直に立て「ちょっと待ってて」と合図した。

 電話中なら仕方がない。オレも喫煙エリアに出て一服。

「じゃあその方向で。了解」

 間もなくして電話は終わる。

「直接逢うのはほんとに久しぶりだね。ちょっと痩せたみたいだけど元気そうじゃない」

 陣内社長は笑みを浮かべて言うと、正面のビル群の景色に身体を向けて新しいタバコに火を点けた。

「ご無沙汰でした。社長も変わりないようで」

 オレは初めから正面を向いていたが、挨拶だけは社長の顔を一瞥した。

「要件って、下平さんの新番の事でしょ」

「ええ。一昨日本人から電話がありました。お世話してあげるんだよ! ってね」

「ありがたい事だよね。そうやって誘い込んでくれるプロデューサーが友人にいるなんてさ」

「それはカミさんにも言われましたし自分でもそう思います。唯唯感謝ですよ」

 陣内社長と紫煙を吐く。オレ達夫婦もそうだが、口振りや顔付からして社長が一番安堵したようだ。社員の新たな「復帰場所」が決まったのだから。

「〈プラン9〉さんから昨日オファーが来たよ。今回の新番は中越智哉さんの深夜番組をディレクターや作家を入れ替えて刷新させるんだって」

「下平の制作プロダクションからのオファーでしたか。中越さんの深夜番組という事は放送局は」

「THSだね」

 社長と目を合わせた。

「そうですか」

 正面のビル群に目を向ける。正午近くになり、ビル群の真上に広がる青空に照り付ける陽光が眩しい。

 こんな事なら下平に制作局を訊いておけば良かった。THSに捨てられたかと思ったらまたTHSに拾われた形だから。

「でも秋の新番ですよねえ。普通なら六月下旬か七月上旬にはオファーされる筈なんですけど」

「ああその事ね。下平さんから聞かなかったんだ」

「失念してました」

「実は中越さんとMCを務める渋野定さだめちゃんとのスケジュールが中々合わなかったんだって。だから開始時期は十月下旬か十一月上旬、他の番組より遅くなるみたい。開始されるまでは単発番組でつなぐんだって」

「なるほど。そういう事情がありましたか」

 空に向かって紫煙を吐く。新たな復帰場所が見付かった事に浮かれてしまい、一番肝心な部分を訊くのを失念してしまうとは、放送作家として落第点だ。

「会議は今月の下旬から始まるみたいだよ。どうする? 最初から参加する? それとも『オンガク!』が終了してからにする? 下平さんはユースケに任せますとは言ってたけど」

 会議が週二回、か。正直まだきつい点もあるのだが、

「初回から参加します。そうでなくとも今は会議と少しホンを執筆するだけで打ち合わせには参加しない、他のディレクターや作家の人達の足手纏いになって負担を掛けてますから」

あーあ。言ってしまった……。でも事実だからな。

「本当に大丈夫なの? それで」

 陣内社長は心底心配してくれている顔付。

「大丈夫です。最近は良い表現じゃないですけど、力の抜き加減というか、頑張り過ぎない新しい作家活動のやり方が身に付いて来ましたから」

 あーあ。知らないぞ。

「力の抜き加減ねえ。中山君がそれで良いんだったら行ってこい! 私は構わないよ。でも、無理はしちゃ駄目だけど、あまり力を抜き過ぎて職務怠慢にはならないように気を付けてよね」

「はい。それは心得てます」

「なら宜しい!」

 陣内社長は微笑を浮かべ、正面に向かって紫煙を吐く。禁煙ブームも何処吹く風だこりゃ。



 残り少なくなって来た『オンガク!』の会議。

「岡本さんの所にも〈プラン9〉から新番のオファー、来ました?」

「うん、来たよ。随分と急な立ち上げみたいだね。中越君と渋野定ちゃんのスケジュールが合わなかったとか」

 岡本さんは窺知していたか。何だか自分が自分で屈辱を与えられた気分だ。が、その気持ちは打ち消し……。

「そうみたいですね。今後とも宜しくお願いします。新番の会議には初回から出席しますので」

 平然とした顔で挨拶。

「大丈夫なの? 『オンガク!』が終わってからでも良いんじゃないの」

「大丈夫です。徐々に感覚も戻って来ましたから。途中参加だと調子が狂いそうなんで」

「まあ調子が狂うのも嫌だよね。でも無理はしないでね。こちらこそ宜しく!」

 岡本さんが破顔した刹那。

「岡本さんとユースケさんもご一緒なんっすね。また宜しくお願いします。MC同士のスケジュールが合わなかったとか、そんなのキャスティングした時点で分かると思うんすけどね」

 NARI君は不服な表情でこっちに近付く。

「売れっ子にMCをして貰いなかったんじゃないの。どっちにしても見切り発車だよ、下平プロデューサー殿は」

「ユースケ君、下平ちゃんと仲良いから随分と言うねえ」

「いつものユースケさんに戻って来てますよ」

 岡本さんは苦笑、NARI君はにやつき満面になった刹那。

「岡本さん、ユースケはこういう奴なんですよ本性は。影で言うんならまだしも希ちゃんには「元ヤン読モ」、私には「元ギャバのコブ女」とか面と向かって言って来るんですから。しかも先輩に対してですよ」

 大坪さんも口振りは不服、表情は澄ましてオレ達の方へ近付いて来る。

「そうなんだ。オレも何か言われないように気を付けないとな」

「岡本さんには欠点はないですしリスペクトしてますから」

「私らは欠点じゃねえし! 先輩を侮るなよ! それよりユースケ、今回の作家の人選はあんたのご希望なんだってね。希ちゃんから聞いたけどさ」

「ちげーよ!」

「そうなのユースケ君? こんな初老を選んでくれたんだ」

「本当に違うんですよ岡本さん。下平の方から気心が知れた作家の方がやり易いだろうって気遣ってくれたんです。だから大坪さんはおまけだよ」

「おまけって、こっちの方から願い下げだっつーの!」

 必死になって弁解してしまう。下平の奴、また余計な事を言いやがって。

「まあまあ仁美ちゃん。とにかく皆また宜しくね!」

 岡本さんの掛け声で、

「また迷惑掛けるんでしょうけど、宜しくお願いします」

「引き続きお世話になります!」

「岡本さんがいれば安泰ですよ! こちらこそ宜しくお願いします」

オレ、NARI、大坪の順で返した。

「安泰かどうかは分からないけどね」

 岡本さんは再び苦笑満面、した刹那。

「貴方達秋からの新番でもまた一緒なの」

 平松プロデューサーがにこやかに訊く。

「そうなんだよ」

「またTHSにお世話になるんです。中越さんの深夜を刷新するんですって」

 岡本さんに続いた。

「ああ、あの枠ね。ユースケ君またレギュラー九本でしょう? 売れっ子なのは良いけど病気は大丈夫なの」

「平松さん、ユースケはもう寛解したようなものですから大丈夫ですよ」

 大坪さんよ、あんたが言うな!

「まだそこまで行ってねえよ。薬も服用してるし。また一から深夜で「リハビリ」をやり直します」

「無理はしない事、後張り切り過ぎちゃ駄目だよ。うつ病は環境が変化して善くなる人もいるらしいけど、逆に却って症状が悪化する人もいるそうだから」

 平松さんは心配が混じった微笑みを崩さない。が、

「でも良かったね。また「お友達」と一緒の現場で」

最後の一言は嫌みか。だが下平が気遣ってくれたのは事実であるから、

「ええ。そうですね」

反論する余地は、なし。少し癪ではあるが。

「ユースケは甘えん坊だからね」

「ハハハハッ!」

 大坪さん……NARI君まで嗤いやがって。

「だからあんたはおまけ。「元ギャバのコブ女」はうるせえよ!」

「またあ、あんたこそうるせえし! 私マジで今回の新番のオファー断ろうかな」

「これはユースケ君なりのスキンシップなんだよ」

「ユースケ君は新人の頃は大人しかったのに、あれから大分変わったね」

 岡本さんも平松さんもにこやかにユースケを見守って、優し過ぎるよ!

「ユースケはスキンシップじゃなくて只の悪口、悪辣も良いとこですよ」

「でもユースケさんは誰からも嫌われてないっすよね。悪辣さもユースケさんがこれまでに培って来たキャラなんすよ」

 NARIまで……。

 でも確かにユースケの事が嫌いだって言う人はいない。私も忌々しいと思う事はあるけど、別にユースケを嫌ったり敵視はしていない。だけども、それとこれとは別問題だ。

「かなり元気になったね、ユースケ君。これなら病気が治る日も近いよ」

 夕貴ちゃんもユースケを擁護するか!

「ユースケは疾うに元気だからもう心配ないよ。この男は」

 私にとってはやっぱり忌々しい存在であるには違いない。希ちゃんにとってもきっとそうであるに違いないと思うけど。幾ら昵懇の仲とはいえ、だ――



 数日後のあるスポーツ紙には、早速新番に関する記事が『中越引越大作戦! レギュラー枠剥奪危機にスタッフが動いた!?』という見出しで掲載されていた。

 内容は。

『STATION CLUBのリーダーでタレントの中越智哉が7月下旬、本誌のインタビューに応じ、「今ある計5本のレギュラー番組は継続すると聞いている」と語ったが、実情は微妙に異なるようだ。

 MCを務めるTHSの深夜帯の冠バラエティが9月いっぱいで終了し、別の曜日の同じ時間帯に新番組が用意されるという。その裏では極秘プロジェクトが発動されていた。

 本誌のインタビューで、中越は全番組が「継続」と明言。一方で、「評判が良ければ続くし、悪ければ終わると思う」とも語っていた。

 その後の追跡取材で、実際に5本のうち一本がリニューアルすることになったとの情報をキャッチ。それがTHSの深夜番組だ。

 事情通は、「あの番組は視聴者が定着していなかった。そもそもお茶の間であの番組の存在を知っている人は少ないのではないか。

 THSは今春に「9月で打ち切る方向」と内示していた」と裏事情を明かす。

 現在放送されている月曜日の深夜枠は「中越枠」と呼ばれている。リニューアルを繰り返し6年間も全て中越がMCを努めてきた。

 中越とTHSは蜜月関係だ。スポーツ番組では同局の「五輪番組の顔」として夏季・冬季合わせて8大会連続でメインキャスターを担当してきた。

 只知人によれば、中越は「中越枠」について、「可能であればやらせてもらいたいんだ」と打ち明けていたという。そこでTHS局内でも特に中越を慕う、通称「中越組」のスタッフが6月から水面下で動き出した。

 事情通は、「現在放送中の深夜番組の打ち切りが不可避であれば、別曜日の深夜枠に「引越」して、中越の新番組を立ち上げるべくプランを練っていた」とも明かした。

 「引越先」として木曜深夜枠が浮上しており、新番組のタイトル名、コンテンツを詰めているという』。「ほーう。そうなんだ」と、スタッフとして携わるこっちの方が「学ばせて」貰った。

 下平達が六月中から新番組の立ち上げの準備を始め、放送日も木曜深夜枠であるのは作家陣も既知している。

 だが中越智哉が「中越枠」に強い拘りを持っているとか、下平希やTHSの中越を慕っているスタッフが「中越組」と呼ばれているという話は、今までに聞いた事がない。

 それに木曜深夜枠に移動となるのは中越智哉と渋野定とのスケジュールの都合上、「已むなく」そうせざるを得なくなっただけの事。別に「引越大作戦」でも何でもない。

 その新番の初会議。「初回から出席する」と言ってしまった以上、今更「やっぱり無理だ」とは口が裂けても言える筈があるまい。が、それより困惑してしまう事態が……。



「ごめーんユースケ。三十分番組で調製してたんだけど、十月からTHSが『22』の後に新しい枠を編成するみたいで、五五分番組になっちゃった」

 下平プロデューサー殿は合掌して心底から申し訳なさそうな表情で頭を下げた。

 奥村真子アナの『報道LIVE 22』の前番組に携わったかと思えば、今度は後番組に携わる。前後逆になっただけ。

「已むを得ないよ。下平もTHSも何も悪くない。オレが勝手にうつ病になっちゃったんだからな」

「出た。また澄ました顔で皮肉を言う。ユースケ、あんたほんとにひねくれた奴だよね」

「大坪さんだって澄ました顔で皮肉言ってるじゃんかよ」

「なら本音を言ってみな」

「言って良いんなら、話が違うじゃねえか! になるよね」

「ガチで言いやがった、こいつ」

 大坪さんは呆れ笑いを浮かべる。でも今のが本音。

「話が違うって、私達も言いたいんですよね」

 田辺千夏ディレクターが同感して頷きながら苦笑。

「それより千夏、あんたまた二日酔いじゃね」

 放送作家の財部光が訊く。

「私も三十分から五五分に延長されるって聞いて自棄酒で日本酒飲み過ぎた。でもゲロは吐きそうにないからオッケー」

「オッケーじゃねえし」

 財部も、呆れ笑い。田辺千夏と財部光は昵懇の仲。下平とオレのような関係だ。

「ユースケは先輩の事をおちょくってばっかりいるから天罰が下ったんだよ」

「大坪さん、まだ言うか。そうかもしれませんね、「元キャバのコブ女」さん」

「あんたもしつこく食い下がってくるねえ。事実を受け止めろ! ユースケ」

「もう十分受け止めてるんだよ! こう見えてもね」

 また澄ました顔で……。かわいくない後輩だし忌々しいったらありゃしない!

「皆には本当に申し訳ない!」

 下平は笑いもせずにさっきと同じ態度でまた頭を下げた。

「下平ちゃんが謝る事じゃないよ。已むを得ない事なんだからさ。ね? ユースケ君」

 岡本さんはいつもと変わらないにこやかさ。それに対してオレは……。

「済みません。別に下平を責めるつもりはありません。THSの編成局の人達や上層部の人達が決めてしまった事ですからね」

 この人には八つ当たりは出来ぬ。

「ユースケ君の機嫌が直ったんなら良かったよ」

 別に機嫌が悪かった訳ではありませんが……。

「所で下平ちゃん、新しい枠のタイトルとかはもう決まってるの」

 岡本さんが訊く。年配者としてか、会議室内の空気を入れ替えようとなさっているな。

「『ツイシン』だそうです。手紙の追伸。一日の終わりに観てくださいって気持ちが込められてるそうですけど」

「月、金でやるの」

 オレも訊く。会議にはこうして初回から出席しているのだし、いつまでもショックを受けていても始まらない。

「そうみたいだね。でも金曜だけはバラエティじゃなくてドラマ枠になるそうだよ」

 下平プロデューサー殿にはまだいつもの覇気がない。下平も三十分番組で調製していたものを、いきなり後二五分延長させてくれと告げられてショックを受け、プロデューサーとしてオレや他のスタッフ達に対する申し訳なさが交錯しているのだろう。

「ドラマが入るから五五分間の枠になったんでしょうね」

 今まで静観していたNARI君は冷静に推察。

「深夜ドラマでも三十分のやつは一杯あるのにね。でも時間が延長されるからって、制作費を上げて貰える訳じゃないんですよね」

 財部が下世話な事を訊く。

「通常通りの約二百万。ドラマも二百万で制作しろって言われたそうだからドラマ班はもっと大変だよ。今更あたしが言わなくても周知されてるけどさ、数字の低迷とか広告収入の減少で、プライムタイムの番組でも大幅な制作費削減が求められてるじゃん? バラエティならまだしも二百万で五五分間のドラマを制作しろって、ドラマ班の制作プロダクションの人達はオレらに赤字を垂れ流しさせるつもりか! って憤ってたよ」

 下平は苦虫をかみ潰したような表情。いつもの「平松節」が戻って来た。「元ヤン読モ」はこうでなくては。

「何処の放送局でも制作費削減は定石になってるからね」

 岡本さんは腕組をし、これも已むを得ないとうんうんと頷く。

「制作費を掛ければ良い作品が出来るって訳でもないでしょうけど、あまりケチって粗製な作品にならなきゃ良いですけどね。制作費を削減しても数字は取れって上層部は言って来るんですから」

 上層部と制作現場にはこういった所に大きな矛盾が生じている。

「じゃあ今回の新番も、あまりギャラの高いタレントは起用出来ないね。MCのギャラだけでも相当な額だろうし。セットはどうするつもり」

 大坪さんが訊く。この人も既に機嫌は直っているようだ。

「数百万も予算が掛かるセットなんて作らないし作れる筈がないから、もうリハ室とかで収録しようかなって思ってるんだよね。背景を黒とかにして電飾は番組のロゴくらいにしてさ」

「只でさえ深夜は制作費が少ないんだからリハ室で収録するのもありだよね」

「うん」

 下平と大坪さんは共感して頷き合う。

 プライムタイムの番組でさえ数百万も掛かるスタジオセットは作らなくなっているのがテレビ業界の時勢。中には背景をCGにして会議室で収録している番組もあるくらいだ。その方がセットを組むのと比べて制作費は圧倒的に安く着く。今回の新番もそれに倣おうという事だ。

「それで下平ちゃん。新番のコンテンツは大方固まってるんでしょ」

 岡本さんが問い掛けた所でやっと本題へ。

「はい。恋愛トークバラエティにしようと思ってるんです」

 下平がやっと笑顔を見せた。

 謝罪に始まり皮肉の言い合い、呆れ笑いに愚痴と三、四十分は費やしている。でもこれは業界では日常茶飯事。こういった雑談や戯言から企画やアイデアが生まれる事もあるのだが、今日は只の「無駄」に終わった。



「全国から彼氏が大好きで堪らないっていう「恋する女達」をホームページから募集するんです。経歴と彼氏とのエピソード、顔写真を送って貰って。自薦、他薦は問いません」

 田辺ディレクターの説明と同時に作家陣も企画書を開く。

「十八歳未満と高校生、彼氏、男性は不可。住んでるとこは何処でも可能だけどスタッフは迎えに行かないから、収録には自費で来て貰うの。MCが「恋する女達」の恋愛話を聞いて、現在進行形で巻き起こるリアルな恋の進展を見守り応援して行くトークショー。以上が現時点で固まってるコンテンツだね」

 下平プロデューサーが付け加えた。

「リアルな恋の進展を見守り応援して行く、か。只話を聞くんじゃなくて何か、もう一つプラスαが欲しいよね」

「うーん……後、もう一人芸人っていうか、賑やかし役がMCに一人いても良さそうっすね」

 岡本さんとNARI君は企画書に目を向けたまま勘考。オレも大坪さんも財部も只説明を聞いていただけではなく、企画書に目を通しながら勘考している。

「岡本さんもNARI君もあんまり予算が掛かりそうな案を出さないでよ」

 下平は口酸っぱそうに言うが、確かに何かプラスαは欲しい。さて何かないものか……。

「「恋する女達」は何人呼ぶつもりなんですか」

 財部が訊く。

「六人。最初はタレントも何人か入れるつもり」

 田辺が答える。

「前列に三人と後ろに三人ね。トークの他に彼氏と一緒にいる時間をCCDで撮ったVも流す予定」

 下平がまた付け加えた。なるほど、そういう構成にするつもりなのか。ならば……。

「一人ずつにクイズを出題して行って、正解出来たらエピソードトークとVが流せるっていうルール付きにしたらどうだろう」

「ああ、それがプラスαだね」

 岡本さんは頷いてくれるが、

「クイズを出題するって言っても例えば?」

下平は渋い表情。

「時事クイズとか最後に「ぼう」が付く言葉は? って訊いて、赤ん坊、細胞、用心棒とか解答させるんだよ」

 全て思い付きで提案した。

「それ良いアイデアかもね。五問か十問正解出来たら彼氏とお揃いの景品が贈られるとか、そういうのもありかもしれない」

「例えば番組特製の十八金のダイヤモンドリングとかね」

 これも思い付きだ。

「ちょっと仁美ちゃんとユースケ、深夜なんだからそんな予算ある訳ないじゃん!」

 下平プロデューサー殿の気持ちも分からなくもないが、

「でも他の番組と差別化しなかったら数字は取れる訳ないだろ。只単に愛し合ってるカップルのエピソードとかV観せられたって、直ぐに飽きられるか視聴者は冷めちゃうぞ」

「それはそうかもしれないけどさあ……」

訥弁にしてやった。

「下平ちゃん、ユースケ君が言った事は強ち間違ってはないと思うよ。女性が友達の彼氏の自慢話を散々聞かされて飽き飽きしたとか、冷めたって言ってるのテレビでたまに見聞きするじゃん。何かゲームをさせて白熱した場面もあった方が面白いよ」

 岡本さんは諭すような、ゆっくりとした口振り。

「私もそんな気がして来ました」

「あんたも他に追随するね」

 財部は田辺に対して呆れ笑いもう一つ。

「分かりました。皆がそこまで言うんなら検討してみます」

「オレが言った芸人をMCに入れるって話も忘れないでくださいよ」

「覚えてるよNARI君。それも合わせて検討してみる」

 下平はプロデューサーとして不承不承。

 予算がないのは放送業界で勤務している人間であれば、誰もが周知している事。だがあまりケチっていたりしていればそれこそ粗製だし出演者も乗らないし番組は弾まない。=面白くないものになってしまう。

 少ない制作費の中でどうやり繰りして行くか。セットは簡素なものにしてその分コンテンツを濃密なものにさせる。ギャラは高くないが個性があって面白く、これから伸びるであろう若手の逸材を見付けてキャスティングし、番組を引き立てて貰う。

 制作現場の人間は金がない分勘考する、頭を遣う事が求められている。それが放送業界の実情だ。



 会議中は集中していたからか症状も治まっていたが、約四時間の会議が終わると酷い倦怠感が全身を包み込み、抑うつ症状も出て来た。倦怠感はストレスもあるだろうが、抑うつ症状は何に気落ちしているのか、自分でも分からない。

 だからオレは自分に対して「知らないぞ」と言ったのだ。やはり『オンガク!』が終了してからにすべきだったのか、覆水盆に返らず、である。

 皆は次の打ち合わせや会議など次々と会議室を後にして行くが、オレは椅子に深く腰掛けたまま動けないのだ。

 すると心配した顔付で下平、岡本さん、NARI君、大坪さん……この人はにやついているがオレに近付いて来た。

「ユースケ大丈夫?」

「まだ長丁場の会議二本には無理があったか」

 下平と岡本さんは神妙な表情で気遣ってくれる。

「でも会議中はクイズの提案も出しましたし、色々喋って他のディレクターや作家と遜色なかったっすよ」

「普段通りの様子だったし笑顔も見せてたけど、終わると沈んだ表情になっちゃうんだよね。それがユースケの病気の特徴なのかもしれないけどさ」

 NARI君は真顔で励ましてくれ、大坪さんはにやつきの中にも何とか打開出来ないものか、という思念も滲んでいる。この人も自分なりにうつ病を理解してくれようとしているのだろう。

「オレは大丈夫だよ。少し休憩すれば動けるようになるから」

 喫煙ルームへ行って一服する気すらない。もう暫く動きたくないのだ。

「どうしてもきつかったら平松ちゃんの時のように途中で退席しても良いんだよ」

「そうですね。あたしも三十分番組だからって誘っちゃったから無理させたのかもしれない」

 岡本さんも下平も心配の表情を崩さない。

 抑うつ症状の因子となっているのは三十分番組が五五分番組になったショックからなのか。だが、ニ五分延長されただけじゃないか、と自分を励ます一面もある。何とも表現のしようがない心境だ。

 それに、「三十分が五五分になった事がショックで」などと口に出そうものなら、大坪さんから「あんたも諦めが悪い奴だね」とまた皮肉られるに違いないからな。

「でもオレは嬉しいっすよ。またユースケさんと同じ職場になれて。オレにとっては優しい兄貴みたいな存在っすから」

「私もユースケの事は嫌いじゃないよ。気兼ねなくおちょくったりおちょくられたりする後輩って、いそうでいないんだよね」

 NARI君も大坪さんも優しい微笑みを見せる。この二人、オレをそんな風に思っていたのか。うつ病が再発したからこその本音を聞いた。

「あたしも仁美ちゃんに同感だね。ユースケみたいに一見真面目で地道に仕事をこなすんだけど、生意気な一面もあって掴み所がない。ほんとにいそうでいないよ、ユースケみたいな奴は」

「良かったねユースケ君。オレもだけど皆から好かれてさ。徳な部分だしだから仕事もなくならない。只生意気な奴だったら直ぐに干されちゃうもん」

「本当にありがたい事ですね」

「また澄ました顔で言っちゃって。そういう言葉をもっと表情に表せないのかねえ、あんたはさ」

 岡本さんはいつものにこやかに。大坪さんは笑う。皆の優しい笑み。唯唯感謝だけだが、オレって本当に好かれているのだろうかいな? 只の「人畜無害な奴」と思われているだけな気もするのだが。

「休憩するのは良いけど、会議室は別の番組の人達が使うからあまり長居は出来ないよ」

「後五分くらいは良いだろ」

「まあ五分くらいだったらね。今回は無理させる事になっちゃってごめんだけど、本当にきつかったら遠慮しなくて言って良いんだからね。じゃなきゃまた病気を悪化させて気落ちするのはユースケ自身なんだから」

「ああ。心得てるよ」

 他の人達が次の現場へと向かっても、下平だけはプロデューサーとしての責任感からか最後まで残ってくれた。

「下平も次があるんだろ」

「あるけど大丈夫なの? 本当に」

「オレはこの後は帰るだけだから、次があるなら行って良いよ。プロデューサーが遅刻しちゃ始まらないだろ」

「そう。じゃ、今日はお疲れ。また今度ね。それとクイズの提案、ありがとね。何かゲームがあった方が面白いかもって、時間が経つと思えて来た。やるからには面白い番組にして行こうじゃねえか!」

 下平の顔には覇気が漲っている。あまり力が入り過ぎてもコケた時の落胆も大きいと思うのだが、プロデューサーに気合がないのもまた戸惑ってしまう。プロデューサーに覇気が漲っているのなら、作家は何も言うまい。

 始まる前から「コケる」と思念してしまうのが、オレの消極的で悪い所。

「うん」

 これくらいしか言葉を発する事が出来ない。とにかく気力がないのだ。

 下平が会議室を後にする。見送った後もオレは無人となった室内から約十分くらい、重い腰を上げる事が出来なかった。

 本当に大丈夫なのか? オレは。自分の中で患っているのに自分が分からなくなってしまう。何とかこうして付き合って行くしかないのだろう、うつ病とは。

 誰のせいでもない。人のせいにしても治る疾病などある訳がないが、厄介な持病を抱えたものだな……。



「ユースケ君が提案してくれた『秋の音楽祭 オンガク! ラストライブ』、企画が通ったよ! しかも十九時からの三時間でオンエアしても良いって編成局長のお墨付き! ラストは音楽バラエティらしく賑々しくやろうではないか、皆!!」

 平松絵美プロデューサーは正に破顔一笑で歓喜に沸いている。まだ『真夏の音楽祭 2時間スペシャル』もオンエアされる前だというのに。この様子からして数字の事も請け合っているな。

「平松さん、まだ夏のスペシャルもオンエアされてないのに妙に張り切ってますね」

 岬は小声で呆れと戸惑いが混じった表情。

「平松さんはああいうキャラなんだよ、昔っから。オレも付いて行けない時があったけど、多分平松さんの中では『オンガク!』はもう終了してて、次の番組に目が移ってるのかもしれないね」

 オレも小声で苦笑しながら返した。

「そうなんですか。まだレギュラー放送も数回あるっていうのに、この業界の人達って目移りが早い人が多いですね」

 岬は腑に落ちない目で平松さんの様子を見詰めている。

 『オンガク!』はもう終了している。次の番組に目が移っている。というのは当て推量ではあるが、歓喜に沸いている姿から察して、『真夏の音楽祭』もレギュラー放送ももう眼中にないのは火を見るよりも明らか。それとも『秋の音楽祭 ラストライブ』の企画が通った嬉しさだけ、なのかもしれないが、平松プロデューサーの心境がどうなのかは実際の所、オレにも分からない。

 でも岬のような新人が戸惑ってしまうのは分かる。何処の業界もそうだろうが終われば次、終了が決定されたら次へと目移りして行くのが世の中の流れだから。

「今は腑に落ちないかもしれないけど、本田さんも徐々に慣れて行くよ」

 オレからアドバイス出来るのはこのくらい。

「だと良いんですけど」

 岬は複雑な表情を崩さない。 

「さっ、企画が通ればゲストアーティストの人選だね!」

「平松ちゃん、その前にどういう構成にするかだよ」

 岡本さんも流石に苦笑して突っ込みを入れてしまう。気が急くにも程があるぞ、平松プロデューサー殿。

 『真夏の音楽祭 2時間スペシャル』と最終回となる『秋の音楽祭 ラストライブ』までのレギュラー放送分は既にホンも出来上がっており、ゲストアーティスト達へのオファーも済んで承諾を得ている。

 スペシャルは生放送でオンエア日は八月中旬。後はレギュラー放送の収録と、『ラストライブ』の構成、ホンの執筆と平松プロデューサーが張り切るアーティストの人選のみとなった。

 オレにとっては色んな事があったが、振り返ればあっという間の一年半だった。



「ユースケ君とももう直ぐお別れだね。一年半どうもありがとう。そしてお疲れ様」

 THS内の喫煙ルームで暫し休憩&一服。

「平松さん急に沈んだ表情しなくても。まだ番組は終わってませんから」

 思わず苦笑してしまう。今日は平松さんから「一服しに行かない?」と誘われた。

 『オンガク!』の会議は慣れているからか、この前の新番の会議後のような暫く動けなくなるといった抑うつ症状や重い倦怠感はない。

「終わってはないけど、会えなくなるのは事実じゃない」

 平松さんはしんみりとして紫煙を吐く。

「それはそうですけど、感謝するのはこっちですよ。休職を承諾して貰ったばかりか顔出し程度でも良いからって、復帰の機会まで与えて頂いて、オレは何も力になれていませんよ」

「でも『懐メロ特集』を提案してくれたじゃない。おかげで数字は稼げたし立派な功労者だよ」

 平松さんがやっと笑顔を見せた。

「功労者だなんてとんでもない。あれくらいの提案なら誰にだって出来ますよ」

「また相変わらず謙遜しちゃって!」

 平松さんは笑いながら右肘でオレの身体を揺蕩させる。

「謙遜じゃなくて事実ですよ」

「ユースケ君って絶対「どう致しまして」とも言わないし、偉ぶったりしないよね。謙遜謙遜で地道に仕事をして行く。だから他のプロデューサーや作家にも慕われるんだよ。そこは自信を持っても良いとこだよ」

「慕わられてるかどうかは」

 自分では分かりません。苦笑しながら紫煙を吐く。

「所で中越君の深夜の新番、『ツイシン』枠に入っちゃって一時間番組になっちゃったね。大丈夫そう」

 平松さんはまたもや急に、今度は心配顔になって訊く。

「三十分番組だった筈が五五分に延長されるって聞いた時はショックはショックでしたけどね。抑うつ症状も出ましたし」

「やっぱりそうなんだあ。まだ無理しない方が良くない?」

「でも人間不思議なもので三十分が二五分延長されただけじゃないかって、自分を励ます自分もいるんですよね。だけど会議が終わった後やうちに帰るとまた抑うつ症状が出て来たかと思ったら、二五分延長されただけだって励ます自分も出て来て、その状態が十重二十重に続いたんでかなり精神的にはダメージを受けましたね」

 自分でも嗤ってしまうくらい愚直に喋ってしまった。

「励ます自分ねえ。ある意味普通の精神状態ではないよね」

 平松さんも大坪さんと同様に、といってもにやつきがタバコに変わっただけではあるが、真顔で何とか打開策はないものかと勘考してくれている様子。

「まあいつまでも「在宅勤務」という訳にはいきませんし、徐々に精神と身体を慣らして行かないとですからね。真面目に地道にやって行く事しか取り柄がない人間ですので」

「また卑下しちゃって。でもほんとに無理しちゃ駄目だよ。せっかく現場に出られるようになって、今が一番重要な時期なんだから」

「はい。それは心得てます」

 にこやかな平松さんに釘を刺され、オレはTHSを後にする。

 酷な表現をすれば、うつ病の打開策は患った人でなければ導き出すのは困難だろう。患った者でさえ薬くらいしか打開策は導き出せないのだから……。



 八月中旬となり、『オンガク! 真夏の音楽祭 2時間スペシャル』は予定通り生でオンエアされた。ニ十時からの開始となった為、労働基準法に従い十八歳未満のアーティストはゲストから除外されたが、STAION CLUBやスカッシュ4を始め七組のアーティスト達がMCの中越智哉、町田翼、スカフォーとのトークで番組を盛り上げた後は新曲、夏に因んだメドレーで番組と観客を大いに賑やかせていた。

 翌日に発表された視聴率は八・六%。

「レギュラー放送回よりかは少し盛り返せたね。後は『秋の音楽祭 ラストライブ』でどれだけ数字が行くかだね。有終の美を飾ろうではないか、皆!」

 平松絵美プロデューサーの中ではやはり、最早レギュラー放送は眼中にはなく放念といった様子。

「平松ちゃん『ラストライブ』の数字を気にするのは良いけど、プロデューサーとしてレギュラー放送の事も考えなきゃ」

 岡本さんが苦笑しながら注意喚起するも……。

「だってレギュラー放送は数字が落ちちゃうじゃない。最終回を有終の美で終えた方が会社の査定にも響いて来るんだよ。そうだよねえ、夕貴ちゃん?」

「制作プロダクションはボーナスの額も放送局の社員に比べたら微々たるものですけど、確かに査定には響きますね」

 平松、枦山、その他のディレクター陣もニヤリとして頷く。

「打算的だなあ」

 非正規の放送作家なら誰もが思念したであろう事を岡本さんが代弁してくれた。

「作家さん達だって今後の仕事に響くんじゃない?」

「まあそれはそうですけどね」

 オレも苦笑いを浮かべるしかない。

 平松プロデューサーの読み通り? なのか、スペシャルの翌週にオンエアされたレギュラー放送は五・八%に落ちはしたが……。



 世間ではお盆休みも終わり、再び慌ただしい日常と喧騒が戻った時期、相方が一週間の夏休みに入った。

「今年は義父と義母に挨拶しとかなきゃな」

「良いんだようちは別に。両親は私が今みたいな職業に就いてるから、相方の職業も忙しい事は理解してるし」

「そうはいっても去年も正月にも夏にも挨拶しなかったし、今年の正月も顔を出してないからな。時間がある時には挨拶しとかないと失礼だろう」

「相方がそれで良いんだったら連絡しとくけど、本当に大丈夫なんだろうね」

 顔は悪戯っぽくにやつき、口振りは念を押すように訊く。

「遅かれ早かれ顔は出さなきゃ失礼なんだ。連絡するんならオレの気が変わらない内に早くしてくれ」

「はいはい。分かりましたよ」

 真子は悪戯っぽいにやつきを消さない。何なのだろうか、その子細ありげな表情は。

 二日後、オレが運転して世田谷区内にある真子の実家へと向かう。

「相方の病気の事は両親には伝えてないから」

「そう。オレも両親には伝えてない」

「余計な、て言ったら悪いけど心配掛けるからさあ」

「そうじゃなくとも夫婦揃って非正規労働者。これ以上余計な心配は掛けられないよね。義父に今更何しに来たんだ!? とか言われて怒られなきゃ良いけど」

「言う訳ないでしょ、そんな事。久しぶりに一緒に飲めて喜ぶよ」

 真子は笑い飛ばす。

「だと良いけどね」

 放送作家に成って親元を離れて暮らすようになって以来、自分の両親と逢うのも照れ臭いというか緊張してしまう性質。これが妻の両親となれば緊張感は更に増してしまう。よその夫もそうかもしれないが。

 無意味かもしれないが精神安定剤を一錠服用して向かっているのだが、世田谷区が近付くにつれ心臓は大きくバウンドし始め、両手からは脂汗が滲み出して来た。

 世田谷区内の私の実家に到着したのは良いけど、ユースケは平静を装ってはいるが実家の外観を見ただけでかなり緊張している様子。だから「良いんだようちは別に」て言ったのに。

 別に父親は怒っている訳でもないし、母親も裕介さんが来るのならご馳走作って待っていると歓迎ムードなのだから――

「初めて来た家じゃないんだしそんなに緊張しなくても。もっとリラックスして良いんだぞ!」

「分かってるよ」

 澄ました顔で言ってるけど強がっちゃって。

 インターホンを押し「はい」と出たのは母親だ。

「私。今着いたよ」

「車の音で分かったわ。今開けるから」

「じゃあ入るよ。心の準備は良いね?」

「ああ。良いよ」

 ドアを開けると両親が揃って出迎えてくれた。

「裕介君、久しぶりだなあ。元気そうじゃないか」

「本当に。裕介さん久しぶりね」

「ご無沙汰してます。中々挨拶出来る時間がなくて済みません」

 ユースケは深々と頭を下げる。

「良いのよ。そんなに畏まらなくて。忙しい職業なんだから」

「男は忙しく働いてこそ立つんだ。放送作家は土日祝日もないらしいじゃないか」

「ええ。まあ」

 にこやかな父親と後ろ暗そうな笑みを浮かべるユースケ。少しかわいそうだ。

 父親は昔気質の人。私と妹が子供の頃は、「仕事がなくてどうやって家族を養って行けるんだ」と、それこそ土日祝日もなく勤務していた。定年してからは夫婦で旅行にも行けるようになったけれど、家族旅行は一回しか経験がない。しかも近場の熱海市。

「今日は母さんが腕を振るって料理してくれたんだ。裕介君飲めるんだろ?」

「帰りは私が運転するから」

 お酒でも飲まないとやっていられないだろう。今の彼の精神状態では尚更。

「なら大丈夫です」

「早速上がって。腕を振るうっていっても大した料理はないけど」

 母親が私達用のスリッパを下駄箱から出してくれた。

「お邪魔します」



 リビングに入り茶の間へ行くとテーブルの上には、炊き込みご飯と空揚げ、出汁巻き卵に鱈の煮付け、ポテトサラダが用意されていた。お母さんは相当腕を振るったな。

 隣に座ったユースケを見ると正座。

「足崩しても良いんだよ」

「そうだよ裕介君。楽にしなさい」

「はい。失礼します」

 お母さんの料理も然る事ながら、久々に義理の両親に逢って相当緊張MAXだな。

「まあ飲もうじゃないか」

 父親が瓶ビールを差し出す。

「頂きます」

 ユースケに注ぎ終わったら、

「次は僕が」

親子でお酌をする。ユースケは手までは震えてないから良かった。その光景を横目で窺いながら、私はポテトサラダと炊き込みご飯に箸を付ける。

「ご飯のお代わりはまだあるからね。裕介さんも真子もどんどん食べて」

 母親がやっと座り家族で昼食。

「裕介さんは少し痩せたみたいだから沢山食べてね」

「はい。頂きます」

 ユースケはポテトサラダと空揚げを三つ皿に取る。

「真子が仕事に託けて料理をしてないんじゃないのか」

「ちゃんとやってますう」

「一日三食は食べてます。只、毎日一時間ちょっとウォーキングをするようになったんです。痩せたのはそのせいもあると思います」

「忙しいのに運動までして、ストイックね、裕介さんは」

「いやいや。昼前の空いた時間にちょっと歩いてるだけですから。ストイックなんてそんな大そうな思念じゃないですよ」

 ユースケはビールを飲みながら苦笑を浮かべた。

 でもアルコールが入って少し落ち着いたのだろう、会話もいつも通りになって来ている。本当は薬も服用しているからお酒もあまり良くないのだろうけれど、今日は飲ませて良かったのだ。少し安心。

 お酒と食事が進んで行くと、いつもは寡黙な父親も徐々に饒舌になって行く。

「裕介君は今、仕事はどれくらいやってるんだ?」

「レギュラー番組はテレビとラジオを合わせて九本です。秋からは深夜で新番組も始まります」

「そんなに仕事を貰えているのか。全ては君が真面目に勤勉にやって来た証拠だな」

「真面目かどうかは分かりませんけど、地道にやって行く事しか能がありませんからね」

 ユースケはまた後ろ暗そうな笑みを浮かべる。別に嘘を言っている訳でもないし、真面目に地道に仕事をこなして来たのは事実なのだから、もっと胸を張っても良いのに。

「真子もそうだが非正規の職業で九本もレギュラー番組があるというのはありがたい事だ。裕介君がそれだけ信頼されているという意味もあるしな。男は身を粉にして家族を守って行く義務がある。仕事を地道にやっていくのも立派な取り柄だ」

「どうでしょうかねえ」

 ユースケはまた苦笑いだ。

「お父さん、相変わらず「昔の男」だね」

「本当に。働き方改革の世の中っていうのにね」

 母親と二人で笑っていると、

「真子と裕介君のような非正規労働者には働き方改革も何もないだろう」

父親は鋭い視線を向けて来た。

「確かに僕らは会社員とは違いますからね」

 ユースケは気を遣って話を合わせている。

「その通りだ。オレ達が新人の頃は日本の経済も右肩上がりだったが、真子が就職したのはリーマンショックの後だった。それでも民放のキー局に入社出来たんだ。フリーになってもコロナ禍があったが真子も裕介君も仕事はなくならなかった。これは感謝すべき事だしありがたいんじゃないか」

「それは分かってるよ」

「そういう事ですよね」

 ユースケは頷いて相槌を打つ。飛び火させちゃって申し訳ない。

「お父さん、ちょっと飲み過ぎたんじゃないの」

 母親はにこやかにしているけれど、

「非正規の身で働き方改革とか言うからだ!」

「それはお母さんが言ったの! 非正規非正規ってもう」

私は昔気質にうんざりだ。

「でも真子、裕介君みたいな良い伴侶と出逢えて良かったな。お前みたいな天の邪鬼で勝気な女は嫁の貰い手がいるか心配だったんだぞ。いかず後家にならなくて本当に良かった」

「お父さん、それ言い過ぎ!」

「ハハハッ。勝気な面は敵いませんけど天の邪鬼は僕も同じですから」

「ちょっと! 何なのユースケまで!?」

「フフフフフッ! 本当に、良い人に嫁に貰えたわね、真子」

 お母さんまでもかい!?

 十五時過ぎ、

「それじゃあお邪魔しました」

「また時間がある時には顔を出してね、裕介さん。真子もだけど」

「うちはいつでも大歓迎だからな」

「はい。ありがとうございます」

両親に見送られ、帰りは私が運転して世田谷の実家を後にした。

 車を走行させて約五分。

「相方、今日は疲れたでしょう」

「……」

 返事がない。横目で一瞥すると寝ているではないか。お酒も入っているからな。態々訊かなくても相当お疲れのようだ。

 今日は本当にご苦労様。私の両親にも挨拶しておかないと失礼だと言い出してくれた事にも、ありがとう、ユースケ――



 九月に入った。上旬で『オンガク!』は『オンガク! 秋の音楽祭 ラストライブ』で終了する。

 生放送の前日、

『番組も賑々しくオンエアして終わるんだけど、打ち上げもそのままスタジオを貸し切って賑々しくやる事になったの。これも編成局長の粋な計らい。だからユースケ君にも来て欲しいなって思ってるんだけどどう?』

平松絵美プロデューサーからのお誘いの電話。だが……。

「正直に言うと、まだ集団の中に入るのがしんどいんですよねえ」

『そっかあ。無理強いはさせるつもりはないけど、ユースケ君は『ラストライブ』の提案者だし名付け親でもあるから立派な功労者なんだよねえ。それに、またいつ逢えるか分からないし』

 このように強請るような口振りで言われると、オレは弱い、のである。

「……分かりました。会議と同じようにきつかったら途中で抜けても良いんだったら、顔を出します。条件付きで申し訳ないですけど」

『ほんと! きつかったら途中で抜けても良いし、最初から出席するのが辛かったら途中参加でも私はオッケーだよ!』

 急にテンションを上げられて……。平松さんも人が悪い。最初から出席させるつもりだったのだろう。

『本当に顔出し程度でも良いからね! じゃあ明日待ってるから。最後は存分に楽しもうね!』

「こちらこそお誘いと条件を呑んで頂いてありがとうございます」

 少し嫌みっぽい口振りで返してはみたが、

『いいえ。どう致しまして! また明日ね。私も楽しみにしてるから!』

平松プロデューサー殿には全く効果は、なし。しかも仕事よりも打ち上げの方を楽しみにしていらっしゃるご様子。それともう一つ、オレは「楽しみにしています」とは一言も言っていないのですが……。

 翌日の朝食中。

「相方、今夜迎えに来れる」

 『22』終わり、申し訳なさそうな顔を作って訊いてみる。

「えっ!? 私は別に構わないけど、何処に行くの?」

「THS。今日は『オンガク!』の最終回なんだよ。本番後にスタジオを貸し切って賑々しく打ち上げをやるんだってさ」

「迎えに行くのは良いけど、会議や私の両親に逢うだけでもぐったりしてるのに、打ち上げみたいな集団に入って大丈夫なの?」

 相方は怪訝な顔付。

「だから顔出し程度。きつかったら途中で抜けても良いって条件付きで承諾した。プロデューサー直々に強請るような口振りで誘われちゃあ、流石に断れないよ」

「プロデューサーからのお誘いだったら邪険には出来ないだろうけど、強請るように誘われちゃったんだ」

「またいつ逢えるか分からないしって」

 平松さんの口振りを真似た。

「そんな口振りだったんだ。フフフンッ! 相方も押しに弱いね。このお人好し!」

「うるせえ!」

 真子に嗤われて少しムッとしたが、押しに弱くお人好しなのは、仰る通りだ。



 十九時。THSにチャンネルを合わせると『オンガク! 秋の音楽祭 ラストライブ』のオンエアが開始された。

 番組では累計四十五曲を紹介。『ラストライブ』には総勢九十人のゲストアーティストが登場し、MCの中越智哉が所属するSTATION CLUBの曲から賑やかに番組はスタート。

 生放送である為、労働基準法に従い十八歳未満のアーティストはニ十時までの出演となるが、平松プロデューサーの思惑通り、本当に賑々しく番組を引き立ててくれるアーティスト達が出演オファーを承諾してくれた。

 その後も番組はスカッシュ4のヒット曲メドレー、新曲や秋に因んだメドレーと続いて行くのだが、今日はいつまでもテレビを観ている場合でもない。

 番組が開始されて一時間半が経った頃、そろそろ行くか、外出着に着替えて自宅マンションを出て、最寄りの駅から電車でTHSに向かった。

 ニ一時ちょい過ぎにTHSに到着、したのは良いが、何処で待機していれば良いのかを訊くのを失念していた。仕方なく入館手続きを済ませ係の人に本番中のスタジオを教えて貰い、サブ(副調整室)の方へ行ってみる。ドアを開けると岡本さん、大坪さん、岬が後ろの席で本番を見守っていた。

「おっ! ユースケ君来たねえ」

 いの一番に岡本さんと目が合う。

「おはようございます。多分ここだろうと思って」

「ただ酒が飲めるからねえ、今日は」

 大坪さんはからかいのにやつき。

「無理しないでくださいよ、ユースケさん」

 岬は相変わらず心配顔。

「ただ酒が飲めるのは皆一緒だろ」

 モニターを観て一視聴者のように笑っていた平松プロデューサーも振り返り、

「やっと来てくれたんだユースケ君! あんまり遅いから無理なんだと思ってたよ!」

破顔して近付いて来る。

「せっかくお誘いの電話まで頂きましたんで」

 こんな白々しい破顔は見た事がないぜよ、平松さん……。

 やがて番組はゲストではないアーティスト達の新譜情報を伝えた後、エンディングとなる。オレも岡本さん達と一緒の席に座りラストまでモニターで見守る。

「何でこんなに楽しい番組がこんなに早く終わっちゃうんですか!?」

 中越と同じ事務所の後輩男性アーティストが詰め寄るが、

「オレも終わりたくないけど、THSさんが決めちゃった事だから」

中越は苦笑して返す。

 スカフォーのリーダーの押尾玲奈が、

「私達皆をご飯に連れて行ってくれるっていう約束、まだ実現してないんですけど」

中越に迫ると、

「あまり君達とはお話する事がなかったからさ」

と軽く交わした後、

「ゲストの皆さん華やかなステージで番組に華を添えて頂いてありがとうございました! そしてテレビの前の皆さん、一年半の間どうもありがとうございました!」

カメラに向かって大きく右手を振る。

「中越さん淡々と流さないでくださいよ!」

 押尾が突っ込んでも中越は構わず、

「翼ちゃんからも一言」

町田に振った。

「アーティストの方々のパフォーマンスにいつも心が動きました。ありがとうございました」

 町田もカメラに向かって頭を下げ、目を潤ませる。

「女優って泣くよね、こういう場面でさ」

「「MC役」、ですからね」

 大坪さんと岬だけ爆笑。それを聞いている岡本さんとオレは失笑。

「最後にスカフォーを代表して玲奈ちゃんからも一言」

「中越さん約束スルーしないでくださいよ! でも沢山の人に出会わせて頂いて、勉強になりました。中越さん、町田さん、スタッフの皆さん、アーティストの皆さんに支えて頂いてばかりだったんですけど、凄く有意義な時間を過ごす事が出来ました。ありがとうございました」

 スカッシュ4四人で頭を下げる。

「はい。皆さん本当にお別れです。さようなら!」

 最後は中越が閉め番組は無事に終了した。

「さあ、私達はここからが本番だよ!」

 と、平松絵美プロデューサー。やはり番組よりも明日の数字と、打ち上げ、だな。



 生放送終了後、中越が「○○さんでした」「○○の皆さんでした。ありがとうございました」とゲストのアーティスト達を見送り、アーティスト達はスタジオを後にして行く。

 最後に観客に向け、

「夜分遅いですのでお気を付けてお帰りください。今日は本当にありがとうございました!」

MC陣は頭を下げ、一旦スタジオから出て行く。

 観客全員が帰途に着いた所でスタジオ内は打ち上げの準備に入った。

「今日はメニューも特別なんだよ。社食からじゃなくて居酒屋からオードブルをデリバリーしたからさ。限られた制作費から大奮発。皆への感謝の気持ちを込めてね」

 平松さんは先程とは打って変わって純粋な、破顔。

「へえー。お酒も料理も楽しみですね」

 大坪さんは早くただ酒、ただ飯が食べたい、破顔。

「済みません。遅くなりました。まだ打ち上げ、始まってないっすよね? 打ち上げがある事ころっと忘れてて」

 NARI君は如何にも慌てた様子でスタジオ入り。

「まだ始まってはないけどNARI君、打ち上げみたいな特別な日を忘れて貰っちゃ困るねえ。皆で労う日、なんだからさ」

 平松さんはそれでも彼をにこやかに迎え入れるが、

「本当に申し訳ないっす。でも番組は最後までチェックしたんで」

NARI君は平身低頭。

「後は、智弥ちゃんがまだだね」

 平松さんは周りを見渡す。

「臼杵さんは打ち合わせが押してるか向かってる途中でしょう。彼女は予定を失念するような人じゃないですから」

「そうだね。誰かさんとは違うからね」

 平松さんと共に笑っていると、

「それオレに対する嫌みっすか? ユースケさん、心配してましたけどもう十分元気っすね」

「NARI、ユースケはもう心配いらないよ。本質は悪戯心の塊なんだから」

「ですよね」

NARI君と大坪さんはにやつく。でも目は「安心」で嫌みっぽさはない。

「何だかんだ言っても皆さんユースケさんの事を心配してるんですよ」

 岬がそっと言う。

「うん」

 頷く事しか出来ないが、本当にありがたい事だ。素直に多謝すべきなのだが、照れ臭くて悪戯心の方が勝ってしまう。

「済みません。遅くなりました。打ち合わせが押しちゃって」

 一通り打ち上げの準備が整って来た所で臼杵智弥が駆け足でスタジオ入り。

「待ってたよ。仕事なんだからそんなに慌てなくても大丈夫だよ。遅れたって別に良いんだから」

 平松さんはにこやかに迎える。

「ありがとうございます。あっ、ユースケさんも来てたんですね。大丈夫ですか」

 臼杵も岬と同じく心配顔で訊く。

「今日はアルコールも入るしきつかったら途中で抜けても良いって平松さんに言われてるから」

「そうですか。なら良かったです」

 臼杵は微笑を浮かべた。彼女はいつも微笑むのみ。破顔した顔を見た事がない。

 やがて私服に着替えたMC陣が再びスタジオに戻り、社食から冷えた瓶ビールとコップも届けられ打ち上げの準備は全て整った。

 オードブルを見ると串焼きの盛り合わせに空揚げ、半熟の目玉焼きが乗せられた焼きそばに焼いたほっけにサラダなど、確かに旨そうだ。

 平松絵美プロデューサーがステージの上に上がりマイクの前に立つ。

「それでは全員揃いましたので、打ち上げを始めたいと思います」

 全員のコップには冷たいビールが注がれていて、皆は手に持ち乾杯の音頭を待っている。が……。

「まずはMCの皆さんから一言ずつどうぞ」

 中越と町田、スカフォーのメンバー達は番組が終了した名残惜しさ、スタッフへの感謝の言葉を述べて行く。までは良かったのだが、

「では最後に私からスタッフを代表して一言だけ」

何か嫌な予感がする。

「MC六人の皆さんとスタッフの皆さんで作り上げて行った『オンガク!』。とても面白いコンテンツだった筈なのですが、低視聴率だった事も一年半で終了してしまうのも納得出来ません。またこのMCとスタッフのメンバーで特番でも良いからご一緒したい気持ちで山々です……」

 一言だけだった筈が、長い。最後の方は声を詰まらせ、一人で十分近くは喋った。幾ら感慨深いとはいえ……。

「……それでは皆さん! 乾杯!!」

「乾杯!!」

 平松プロデューサーは元気良く音頭を取ったが一口飲んだビールは、温くて不味くなっていた。

 二三時過ぎから始まった打ち上げではあるが、岡本さんや大坪さん、NARI君と秋からの新番についてあれこれ「打ち合わせ」している内に時間は流れ、結局は二七時(深夜三時)過ぎにお開きになるまで最後までいた。



 タクシーで帰宅しようかとも頭を過ったが、恐る恐る相方に電話しようとしたら……、『相方ごめん。明日現場に出なくちゃいけなくなったから先に寝てる。だからタクシーで帰って来て。タクシー代は私が出しても良いから』真子からメールが入っていた。先手を打たれたか。

「ユースケ君最初から終わりまでいたけど、無理させちゃった?」

 平松さんが赤ら顔で声を掛けて来る。

「いや、今日は酒も入りましたし新番の「打ち合わせ」も出来ましたから」

「なら良かった。私達タクシーで帰るけど、ユースケ君は奥村さんに迎えに来て貰うの?」

「オレもタクシーで帰ります。カミさん、明日現場に出なきゃいけないそうですから」

「そうなんだ。ならタクシー会社に電話しなきゃだね。でもごめんね。スタッフはタクシー自腹なの。打ち上げで制作費遣い過ぎちゃったからさ」

 平松さんは笑みを浮かべて合掌するが、でしょうね。

 THSの正面玄関に出るとタクシーの渋滞が出来ていた。

「じゃあユースケ君、またいつか逢える日まで。その時はまたヨロピク」

「こちらこそ本当にお世話になりました。ご苦労様でした」

 平松さんは右手を振ってタクシーに乗車する。

「ユースケ君、また新番の会議でね」

「無理はしなくて良いっすからね。焦らずゆっくりとですよ、ユースケさん」

 岡本さんは笑みのままタクシーに乗車し、

「分かってるよNARI君。今日もお疲れ様でした」

NARI君も笑みを浮かべて右手の親指を立て乗車した。

 皆が各々帰途に着いた所でオレもタクシーに乗車し、

「文京区の音羽までお願いします」

「はい。畏まいりました」

オレもやっと帰途に着く。

 帰宅したのは二八時過ぎ。それから入浴して就寝前の薬を服用してベッドに横になった時には午前五時になっていた。空は明るくなっておる。久しぶりの打ち上げ&夜更しだ。

 寝るのが遅かった為、起床したのは午前十一時過ぎ。現場に取材に出ると言っていた相方は当然いない。その代わりお握りが冷蔵庫の中に入っていた。朝食ではなく昼食だ。

 携帯を見ると昨日の『オンガク! ラストライブ』の数字がメールで送信されていた。確認すると十・一%。有終の美と表現して良いのか微妙な数字だが、二桁は二桁。平松プロデューサーや枦山ディレクターは喜んでいるのではないだろうか、多分。



 七回目となった新番の会議。あれからクイズは一人ずつではなく一回のオンエアにつき三問、全員に向け出題して早押しで正解した「恋する女」にトーク権が得られ、彼氏とのエピソードとVを流して更に中越智哉らMCとディープなトークを展開させる、までのコンテンツは決まった。

後は、見事十問正解すると番組から記念品が贈られる事も決まった、のではあるが、記念品を十八金のダイヤモンドリングにするのも、NARI君が提案した中越、渋野定ともう一人、MCを三人にするのは下平プロデューサー殿は未だ渋っている。しかもオンエア開始まで後一ヶ月ちょっとだというのに肝腎の番組タイトルすら決まっていない有様。

 記念品とMCを三人にする事は制作費の兼ね合いもあるのは理解出来るが、スタッフの一人として誠に僭越な事をいえば、ちょっと、というか大分遅遅とし過ぎだ。

「今日は伝えなきゃいけない事があるの」

 冒頭で下平が口を開く。

「良い話なんですか。それとも、まさかここに来て番組の放送自体がなくなるとか」

 財部光が苦笑を浮かべながら訊く。

「なくなる訳ねえじゃん! ここまで会議重ねて来たのにさ」

 田辺千夏ディレクターも苦笑を浮かべて突っ込む。

「皆良く聞いといてね。初回オンエア日が十一月上旬に決まりました。立上げが急だったからね。それと、THSからの演出兼プロデューサーも決まりました」

「今頃かよ」

 思わず本音が出てしまう。

「オレもTHSからのプロデューサーが出ていない事は初回から不思議だったんだよね」

「私もそう思ってました。制作プロダクションだけで作って行く番組なの? って敢えて訊かなかったんですけど」

 岡本さんも大坪さんも「今頃?」という風に不思議がって頷き合っている。

「本当に立ち上げが急だったんで、THS内でも難航してたんです」

「難航したって言ってももう九月だぜ。制作プロダクションに丸投げしてないで確りして欲しいよな、THSさんにも」

「そうっすよね」

「マジで無責任ですね」

 NARI君と財部も同感。

「あたしもそう思うけど『ツイシン』枠の開設も急だったし他の番組もごたごたしてるんだよ。THSに翻弄されてるのはうちの番組や〈プラン9〉だけじゃないよ。別の制作プロダクションだってそう」

「それで番組が当たれば手柄は持って行かれますからね」

 下平も田辺ものべつ幕なしといった表情。

「でもさあ、あんまりTHSの事も悪く言ってられないよ。仕事貰ってる立場なんだから」

「岡本さんはいつもにこにこしてて優しいですね。私達もそういう風に考えなくちゃいけないんですけど」

 田辺は決まり悪そうな顔付。

「まあそうなんですけどね。今から演出兼プロデューサーを務めてくれる人を呼んで来るから。呉呉も今までに話した内容はその人にはオフレコだよ」

 下平は席を立ち右手人差し指を口に当てる。

「分かってるよ」

「言う訳ないっすよ」

 オレは無表情。NARI君は苦笑して返す。

 下平が会議室から出て行って経つ事十分以上、

「誰を連れて来るんだろうね」

大坪さんが何気ない表情で口にした刹那、ドアが開きまずは下平が入って来た。

「どうぞ」

 後に続き入って来た人物は……。

「皆おはよう!」

「平松さんだ」

「演出兼プロデューサーって平松ちゃんの事だったんだね」

 オレも流石の岡本さんも度肝を抜かれてしまう。でもそれは作家陣は皆同じ。大坪さんもNARI君も言葉が出ない様子。

「おはようございます。私は初めましてですね」

 財部だけは違ったか。

「どうしたの皆! 唖然とした顔して。また一緒に仕事が出来るんだよ、ヨロピクね!」

「でも何で平松さん?」

「ユースケ君私じゃご不満なの?」

「いや、別にそういう意味ではないですけど」

「編成局長はお前しかいないって煩いし、『オンガク!』は終了させちゃったから断れないでしょ。THSのプロデューサーとしても今回の新番はコケさせる訳にはいかないからね」

 平松プロデューサーは破顔して下平の右隣の席に座る。コケさせる訳にはいかない、まあそうでしょうけれど……。



「希ちゃんからは大体の進捗状況は聞いてるよ。クイズに正解したらトーク権が得られるって提案したのはユースケ君なんだってね」

「ええ、そうですけど」

 ボツにされるか?

「私もそれで面白いと思うよ。只ラブラブな話を聞かされたりVを観せられただけじゃあ、確かに視聴者は嫌気が差しちゃうだろうから。後は賑やかしとして中越君と渋野定ちゃんの他にMCを三人にするって案、これはNARI君が提案したんだよね」

「はい、そうっす」

「これも私はありだと思うよ。中越君だけでも十分賑やかだろうし、定ちゃんも第三者の女性目線として重要な存在だけど、そこに話術に長けた人が加わるともっと番組は弾むと思うんだよね」

「でも平松さん、制作費は限られてるんですよ」

 真顔の平松さんに困惑顔の下平。

「だから希ちゃん、中越君より後輩で低価額でもOKな芸人とかを捜すんじゃないの」

「低価額OK……ですか」

 平松さんはにやつくが下平は困惑顔のままで釈然としていない様子。

「それともう一つ。十問正解したら十八金のダイヤモンドリングっていうのも良いよね」

「そんなに予算に余裕がありますかねえ」

 田辺も困惑顔を浮かべる。

「やってみないと分からないけど、もし予算に余裕がなかったら旅行券とかにしても行けるんじゃないかなあ」

「ああ、ペア旅行券も良いかもしれないね。ペアリングが駄目だったら」

 真顔で話を進める平松さんと岡本さんペア。

「お二人さん、失礼ですけど制作費の事を考えてくださいよ」

「旅行券っていっても国内旅行が限界かも」

 飽く迄も予算を削減したいと困惑しきりの下平と田辺ペア。予算削減はこのご時勢にマッチはしているが。

「それは私も自覚してるよ。だから収録もリハ室でやろうとしてるんでしょ? でもお金を掛ける所には掛けないと番組に魅力がなくて、出演してくれる一般女性は出て来ないかもよ」

「それは、そうかもしれませんけど……」

 下平にはいつもの勢いがない。正に平松さんに為てやられたりである。

「流石は平松さんっすね。テレビ業界不況の渦中でもポンポン決めちゃうんすから」

 隣のNARI君がそっと言った。

「これが、局Pと制作プロダクションのプロデューサーの最大の違いかもね」

 これ以上何と表現出来ようか。



 約六時間の会議が終わり、いつも通りの酷い無気力感と倦怠感が全身を包み込む。これに抑うつ症状が重なったら最悪だ。だからいつも通り喫煙ルームで休憩&一服。

 オレはこれから帰宅するだけだから良いものの、皆は次の現場へと向かっている。早く帰宅して休憩すれば良いし自宅マンションに帰っても無気力感、抑うつ症状、倦怠感の症状は変わらないのだが、どうしても直ぐに次の行動、身体が重く素早く帰途に着くといった動きが無気力感と倦怠感で遮り、身体が言う事を聞いてくれないのだ。

 虚ろな目で紫煙を吐く。タバコも価格が上がって来たし、そろそろ止め時なのかなあ。こんな状態でも頭ははっきりしているからオレはまだ増しだ。身体は思うように動かなくとも色々と思念する事は出来るのだから。

 『ガチャ』。誰かが入って来た。

「ここだろうと思った。お疲れー!」

 声を聞けば直ぐに分かる。平松さんだ。

「お疲れ様です」

「随分と疲れた顔と声だけど、大丈夫なの」

 平松さんはタバコに火を点けながら訊く。

「いつもの事ですから大丈夫です」

「いつもの事か。何もしてあげられないけど辛いよねえ」

 平松さんは気の毒そうな表情で言う。何もしてあげられない。どんな疾病であろうと周囲は気遣うか見守るか、気の毒がる事しか出来ないだろうし、当事者もあれこれ求めても病が治る訳ではない。

 只、今回オレが幸いだったのは周囲に偏見の目を持たれなかった事。これ以上贅沢な事は求めてはいけない。

「でもさ、また同じ現場だね! 今後もヨロピクー!」

「はい。ヨロピクお願いします」

 平松さんは破顔しているがオレは笑顔になる気力はない。

「……って何がまたいつか逢える日まで、ですか。打ち上げの時点でもう新番の演出に就く事は決まってたんでしょう」

「まだ決定ではなかったよ。編成局長から打診はされてたけどね」

「打診までされてたんなら、何であの時言ってくれなかったんですか」

「ちょっと皆を驚かせたくてね。まあ、一種の悪戯心ってやつ? びっくりしたでしょう」

 平松さんは為てやったりの破顔。

「まあ驚きはしましたけどね。財部さんを除いた皆は。「平松流演出」って訳ですか」

「まっ、そういうとこだね」

 唯唯唖然とするばかりで候。こっちとしては。



 九月も中旬に入っていた。日中、いつものようにメールで会議に参加していると突然携帯の画面が切り替わり、「大場花」と表示される。電話だ。

『ようユースケ! 体調の方はどうだい?』

「オレが壊してるのは体調じゃなくて精神」

『ああそうだったな。それで具合はどうなの?』

「症状は相変わらずだよ。無気力感に抑うつ症状に倦怠感とね」

『そっかあ……。じゃあ仕事のオファーはまだ出来そうにないな』

「この時間帯だから仕事の話だろうとは推測出来たけど、テレビ? それともラジオ?」

 取り敢えずお話だけでも伺っておきましょう。

『テレビなんだけどさ、来月からテレ太(TV TAIYOU)でスタートする深夜の女性向けの情報バラエティなんだよ』

 また深夜か。

「何かのべつ幕なしみたいな声だし、十月から始まる新番のオファーにしては遅過ぎなんじゃねえの」

『それがさ、テレ太は二百万前後が相場の深夜番組を百五十万で制作しろって言うんだぜ。オファーが遅くなったのは中堅の作家を一人入れたんだけどさ、そんな安いギャラで出来るか! ってキレて降りちゃったからなんだよ』

「なるほどね。声のテンションが低いのはそんな理由でしたか」

 百五十万とは、放送業界の台所事情も随分と苦しくなったものだ。それに、キレて降りた中堅作家とは誰さんだか知らないが、プライドの高いお人だったのだろう。だから、安いギャラでも承諾しそうなオレ……お鉢が回って来た訳だ。

『なあユースケ、下平から聞いたけど、まだ深夜の一時間番組でしか会議に復帰出来てないんだろ』

「まあね。今の所は」

『まずは徐々に肩慣らしするつもりで深夜番組から始めて行ったらどうだろう。三十分番組だからスタッフも少ないし時間もそう長くないぞ。百五十万で制作するからあまりギャラは払えないけどさ』

「全部引っくるめて百五十万なんだろ」

 態と話を逸らす。

『そう。出演者のギャラ、撮影費、編集費、スタッフの人件費とか全部引っくるめてね。テレ太は新番をやりたいから企画を出して欲しいって制作プロダクションに企画を募ったんだけど、低予算に尻込みしたプロダクションも数多あったらしいよ。うちのプロダクションも最初はそうだったんだけどさ』

「まあそうだろうな。それでも良く企画を出したな」

『試しに企画を出したら、この時間帯はお宅のプロダクションに任せるって確約されたからだよ。それはそうと、今回のオファー呑んでくれるの? どうなの?』

「どうって言われても……今一本の会議だけでもクタクタなんだよなあ」

『それも下平から聞いた。だから無理強いはさせるつもりはない。もう企画は煮詰まってるんだ。ロケハンにも出なくて良いし会議に顔出し程度でもこっちはOKだからさ。肩慣らしのつもりで』

「肩慣らし、顔出し程度っか」

 今までと同じ……だが、会議に出席するからには何かしらの発言はしなくては、本当にギャラ泥棒だろう。それに、ここまで食い下がるという事は、大場はテレ太のプロデューサーに中堅作家が降りた穴を埋められる作家の友達はいないか、とか言われたに違いない。

 だからオレに。まだ休職状態なのにレギュラーが十本になってしまう、オレって一体……どういう存在の放送作家なのだろう。

「本当に三十分番組なんだろうな」

 念の為に訊いておく。

『それは確約する。下平の番組みたいに三十分で制作してたのが五五分になったとか、そういう事は絶対にない。プライムタイムでスペシャルになる事もあり得ないから』

「本当だろうな。今あんたが言った事を信じて良いんだな」

『疑り深い奴だなユースケも。オレが言った事を信じて大丈夫だよ。テレ太のプロデューサーも他の作家もスタッフも、ユースケが他のレギュラーを休職してるのは知ってるから無理強いはさせないし、ロケハンに出ないとか不満も言わないよ。これも確約する』

「そこまで言うのなら分かったよ。考えてみる。〈マウンテンビュー〉にはテレ太からも制作プロダクションからも番組サイドからも、まだオファーはしないでくれ。飽く迄も考えてみる、だから。ちょっと時間をくれ」

『分かったよ。でも三、四日間くらいにしてくれよ。こっちにも都合があるから。申し訳ないけど』

「ああ。それはこっちも分かってるよ」

『じゃあ良い知らせを待ってるからな』

 大場にとってはこれで「任務遂行」といった所だろうて。

 電話を終え、抑うつ症状なのか倦怠感なのか、自分でもはっきりしない症状が全身を包み込む。暫くは何もしたくない。

 大場花プロデューサー殿。下平希と同じく制作プロダクション〈プラン9〉の社員でディレクター時代からの友人。

 口振りも服装も男っぽいがれっきとした女性だ。なので恋愛対象は男性なのだが、女性でも「好きになったら仕方がない」と、以前奴は言っていた。

 もう一つ特徴的なのが大場花を音読みすると「おおばか」と読める事。先輩プロデューサーなどから「親は考えなかったの」と尋ねられても、「考えなかったか気付かなかったんじゃないですか」と軽く答えるのみで本人は気にしていない、放念といったご様子。でも覚えられ易い名前である事は確かだ。



 しっかし今回の仕事、社長の陣内美貴はまた社員の背中を蹴り飛ばしGOサインを出すのだろうか。将又オレのうつ病を鑑みて、珍しく今回は見送った方が良いという判断を下すのか。

 オレが疾病を抱えていなければ社長は喜んで前者の態度を取るであろうが、オレの現状からして今回はどちらなのであろうか。どういう反応を見せるのであろうか。長い付き合いのオレであっても推測が着かない……。

 というより、当事者であるオレが今回の新番のオファーを承諾したいのか、将又拒否する、大場にせっかくだけれど今回は見送らせて欲しいと確言したいのか、陣内社長の反応を窺うより前に、オレが態度をはっきりさせるのが必要だ。

 でも今は精神が揺蕩して自分でもどちらの態度を取りたいのか、自分の中の天秤が左右に傾く動作を繰り返して結論が出せない。

 抑うつ症状なのか倦怠感なのか、とにかく何にも手に付かない何もしたくない無気力感に覆われ、作家仲間に「今日は調子が悪くなった」とメールで告げ、メールでの会議の参加も途中で切り上げた。

 夜になってもこの状態は続き、この日は奥村真子キャスターの『22』も途中で観るのも止めて就寝前の薬を服用し、二二時半にはベッドに横になった。というより、もう起き上がっている気力もないのだ。



 翌朝。目を覚ますと時刻は七時五分。いつもは携帯のアラームで六時には起床するのだが、今日は一時間も寝坊してしまったか。だが抑うつ症状も無気力感もなく、気持ちの良い朝だ。

 隣の相方を見てみるとすやすやと眠りの中。よく目を覚まさなかったものだ。アラームの音で一瞬起きたかもしれないが、月〜金の生放送も相当疲れるだろうからな。

 真子を起こさないようにベッドから立ち上がりリビングへ向かう。電気ケトルでお湯を沸かしコーヒーを淹れて一服。

 一晩寝て平静となった頭と身体で昨日の大場からの要件を思い返してみる。

「……大場の話に、乗っかってみる、っか」

 換気扇に向け紫煙を吐きながら呟く。正確にいえば「乗っかる」ではなく、彼女の「術中に陥る」という表現の方が正しいが。

 つまり、今回の仕事のオファーを承諾するという事だ。

 それに、病気だ何だかんだといってもオレは放送作家の仕事が好きなのであって、それで倒れても致し方ないだろう。早計かもしれないし不謹慎だろうが。



「アラームで一瞬起こされたけど、調子悪いの?」

「やっぱり起こしちゃってたか。ごめん。今日は一時間寝坊しちゃったけど特に調子は悪くはない。今の所はね」

「なら良いけど、私にもコーヒー頂戴」

 ユースケは食器棚から私のカップを取り出してコーヒーを淹れてくれた。

「それでさ、昨日友達のプロデューサーから電話があって、深夜の三十分番組から肩慣らしのつもりで復帰して行ったらどうだろうって、打診されたんだよ」

「そう。それでどうするつもり?」

「百五十万で制作するらしいからギャラはそんなには出せないって言われたけど、オファーを承諾しようと思ってる。どうだろう?」

「百五十万!? 今は広告収入も減って何処の放送局もじり貧だからね。どうだろうって訊かれても、それは私が決める事じゃなくて相方が決める事だから」

 態と突き放す口振りで言ってやった。でもユースケの中ではオファーを承諾する腹は決まっている様子だし、私がとやかく言う事ではない。

「今回も会議だけに顔出し程度でOKだって言われたし、ロケハンにも出なくて良いって言われた。でも会議に出席するからには何かしらの提案、意見を出してなんぼなのが放送作家だけどさ。深夜の五五分と三十分番組で、徐々に精神と身体を慣らして行こうと思ってる。間違ってるかなあ」

 言い終わるとユースケは換気扇に向けて紫煙を吐き出し、コーヒーを一口飲む。顔には「決心」が窺えて清々しささえ感じ取れる。

「もうそこまで相方が腹を固めてるんなら、私は何も言う事はないよ。でも相方、休職状態なのに気に掛けてくれて現場に誘ってくれる。良いプロデューサーの友達を持ったね。持つべきものは友ってこういう事を言うんだよ」

「そうだな」

 ユースケの顔には若干憂いも感じ取れるけれど、全体的には嬉しそうだ。また放送作家として現場で仕事が出来るからだろう。私も神経質な性質でまた無理をしないかと心配だけれど、ユースケの病気を理解してくれて気に掛けてくれるプロデューサーの友人がいる事には、嬉しいし安堵する。

「でも無理はしないようにね」

「分かってるって。無理が出来る精神と身体じゃないからな」

 私の前では澄ました表情で冷静さを装っているが、本当は自分の事を笑い飛ばしたいのだ。

 沈うつな表情を浮かべている時もありはするが、ユースケは最近笑顔を見せる事も増えて来ている。

「精神疾患は薄皮を剥いて行くように寛解へと向かって行く病なんだからね。焦らずゆっくりとやって行けば良いんだから」

「ああ」

 そうでないとまた振り出しに戻ってしまうから。ユースケ、そこは肝に銘じておかないとね――

                                  了


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