どんぐりの芽吹き 光枝
3階の教室の一番後ろ。校庭と体育館の間にある駐輪場の端が見えるこの窓から、僕はいつもアルバイトへ急ぐ神田を見送る。階段を駆け下り、速足で駐輪場へ向かう彼の背中は、一度も振り向くことなく体育館の影へといったん消える。いつも駐輪場の真ん中あたりに自転車を止めてるらしい。
校内は乗車禁止だけど、門に先生のいない放課後は、みな駐輪場から自転車に乗って次々と出ていく。
神田も例にもれず、体育館の影からスイッと自転車で門を抜ける。
ほんの数秒の横顔と後姿。僕はそれを教室から見下ろす。
いつも同じ動き。1年の時からそう。変わったのは教室が2階から3階へ変わっただけ。
でも今日は違った。
教室を出た神田はいつものように階段を駆け下り、駐輪場のある体育館の影へ消えるかに見えたが、そこでぴたりと足を止め、じっと前を見つめる。
何を見てるんだろう?
時間にすれば数秒の逡巡のあと、ゆるりと体育館の影へその姿は消えていった。
そして、いつもより長い時間姿を現さず、違和感が不安に変わるころ、神田は自転車を押しながらぼんやりとした足取りで出てきた。そのまま自転車に乗ることなくゆっくりと歩き、門へ向かう。
何かがあったことは間違いない。
何かを見つけて逡巡し、僕から見えないところで、呆然とするような何かを経験したのだ。
僕はじっと駐輪場を見つめる。ほとんど体育館の影になり、ここから見えるのは端の屋根と数台が止められるほどのスペースのみだ。そんなものを見てもきっと何もわからない。でも目を逸らす事ができず、ただ凝視し続けた。
不意に背の高い見慣れた男がそこへ現れた。
中川だ……。さっきの教室でのことを思い出す。彼は確か、菅原を追うようにすぐに教室を出たのではなかったか?
記憶を手繰っていると、中川が教室に現れた。いつの間に3階もの階段を駆け上がったのか、息を乱す風でもない。真っ直ぐに菅原の席に向かい、荷物を手早くまとめて片手に持ち、自分の鞄を肩にかけ、さっさと教室を出て行った。
もしかして……
再び窓の外を見やれば、先ほどと同じ道のりを引き返すように自転車置き場へと急いだ中川は、程なくして自転車を押しながら再び視界に現れた。
菅原と一緒に。
並び歩く二人を見下ろしながら考える。ほかに自転車で門を出る生徒は見当たらない。
あの二人と何かあったのか……?
それからどれくらい経ったのか、教室にほかの生徒の姿はなく、青空がうす布をかけたように明るさをを落とした頃、不意にその音が耳に響いた。自分のものではない着信音の発生源を探すと、神田の席へ行きついた。
机の中から携帯電話を取り出す。自宅からだ。
神田が学校に忘れていったことを伝えたほうがいいだろう。ロックもかかってない。
「もしもし」
そこからは聞きなれた神田の声が聞こえてきた。
電話を切ってため息をつく。
なんなの?あの何があったか言わずにいたいみたいな声。
何を見たの?何を言われたの?
もしかして振られた?
君は気持ちを打ち明けた?
僕はまとまらない思考のまま、神田の携帯を手に自転車置き場を見る。
しばし後、自転車に乗った彼がスイッとやってきた。
*****
ああほら、いつもと違う場所に自転車をとめて、じっと何かを考えている。
菅原は君のお気に入りでしょ?気づいてる?よく彼を見て、ふと笑顔をこぼすんだ。
彼はとてもかわいくて、小さな君たちはとてもお似合いに見える。
僕はそれを見るとたまらない気持になる。
胸が締め付けられる。引き絞られるようにギュッと息が止まるんだ。
僕に向けられる笑顔とは種類が違う笑顔なんだ。
嫌だよ。なんで。
君のことをもっと知りたいのは僕なのに。知らない顔でほかの人を見ないで。
心の内をもっと見せてよ。聞きたいんだ、君の言葉を、考えを。
君ともっと長く居たい、一番近くに居たい、心の中に僕を入れてよ。
だから確かめずにいられない。
弱ってるならつけ込んででも、君の中での僕の価値を高めなくちゃ。
怖いんだ、誰かに取られてしまいそうで。できればずっと腕の中に囲ってしまいたい。
でもそうしたら、子猫はするりと腕から逃げて、二度とは傍へ来てくれないかもしれない。
そんなの耐えられない。
君のそばにいるために、心を隠し続ける日々だ。おかしな逆転現象。
でも、この安定をどう揺さぶるべきなのか、答えが出せないまま今日まで来た。
*****
「止めろよ。」
スマホをかざす手をつかみ、厳しい顔で神田が僕を見る。
僕は馬鹿なのか。それを聞いてどうするんだ。問い詰めて、追いつめて、嫌がられて、結局嫌われるんじゃないの?
でも止められないのはなんで?
隠されると腹が立って、庇われると憎らしくなる。
一体どんな答えを待ってるんだ。
好きな人に振られたんだ、って?だったら、僕に乗り換えてくれるとでも?
違う。 違う。
傷つかないでほしい。誰かの言葉に、態度に、心を痛めている姿を見たくない。
その人でいっぱいにならないで。僕がいるから、ちゃんと見てるから、傍にいるから、
僕がちゃんと、君を好きだから。
ああそうか、僕は答えを待ってるんじゃない。
僕の答えを伝えたいんだ。
「好きだ。」
僕の大好きな黒く濡れた瞳が、これ以上ないくらい見開かれ僕をじっと見つめる。
「君のことが好きです。僕の恋人になってください。」
言ってしまった後、後悔するのに時間はかからなかった。
押し黙る君を見て、困らせている僕を殴りたくなった。
ああなぜ、
もう遅い。
お願いだから、
きっと君はそうしてくれる。
告白は聞かなかったことに、涙は見なかったことに、
そして、友人として一緒に居られる?
そんなごまかしを、僕だって自信がないのに。
ガタリと席を立つ君を、もう見ることができない。壊したのは僕だ。
けれど僕の手を取って、君は優しい言葉をかけてくれる。
「泣かせてごめん。ちゃんと言うから聞いて。」
それは別れの言葉か、友人としてさえ僕はもう……
それから、それからはもう……あまりにも最後の言葉は強烈で、
僕は心臓を打ち抜かれたのになぜ生きてるのか不思議になるくらいで、
それはまさに現実にはありえないことで、
「ゆ」
「夢じゃない。」
「の」
「脳内世界でもない。」
神田の予測変換が優秀すぎる。
「あ」
「愛してる。本当に。信じて?」
少し首をかしげて神田が言う。そんな風に愛を語る、そんな妄想何百回もした。
だから僕は首を振る。
「僕は都合のいい妄想をしてる。目が覚めたらきっと独り、ここで泣いてるんだ。」
怖い。僕はもう、壊れちゃったのかな。
神田は少し困った顔をして、ぼそりと何かつぶやいたが、僕の耳には届かなかった。
妄想だから、聞きたくないことは聞こえないんだ。きっと、困ったとか、めんどくさいとか、迷惑だとかつぶやいてるんだ。
そんな後ろ向きな考えに沈んでいると、今度ははっきりと声が聞こえた。
「分かった。夢じゃないって分かるまで、止めないから覚悟して?」
そして、そして、それからはもう、誰にも教えたくない。
僕の妄想なんてはるかに凌駕するそれは、膨大なデータとして僕の脳に保存され、五感のすべてに刻まれた。これが夢だなんて誰も思わない。
そうだ、夢じゃない。僕は手に入れたんだ。
僕の愛しい黒猫を。
可愛がり慈しむことを許された、唯一の恋人。
「キスしていい?」
小首をかしげる恋人になんだかおかしくなった。
「さっきから何度もしてるに、何で訊くの?」
クスリと笑って、恋人は言う。
「間違った。俺の好きな時に好きなだけ、していい?」
ええ、何そのトキメクような引っかかるような内容。
「僕のしたいときにはしちゃダメなの?」
「許可とって。」
何それズルい。
「今したい。」
「ははっ いいよ。」
するりと彼は膝の上に乗り、僕の首の後ろへ両手を回す。
上目づかいに僕を見上げて微笑む。
何この生き物。何この妖艶。可愛い。怖い。野放しにしたらダメなやつだ。
彼の体を引き寄せ、再び唇を重ねながら思う。
愛してるなんて言葉をくれる、意外と大胆で俺様な恋人。
しなやかで美しい黒猫。
僕はきみに振り回される幸せな未来しか見えない……。




