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ある男のやるせない一日

作者: 那由多
掲載日:2009/06/11

 それは六月のある日のことだった。

 お天気お姉さんが入梅宣言を出したこの日の空はどんよりと鉛色だった。


 かなり遅めの朝飯を食い終わっても、まだ地面は乾いていた。バイトまでの時間何をしようか。そう思いながらカレンダーを見る。講読している雑誌の発売日であることに気づいた。

ほんの駅前までだから。

 そう思って、俺は傘を持たずにぼろアパートのドアを開けた。

 さびだらけの鉄階段を下りて道路に出る。鉛色の雲は深く垂れ込めていた。やや急ぎ足で俺は歩き始めた。


 結論から言えば、それは選択ミスだった。

 梅雨というのをまだまだ甘く見ていたのかもしれない。

 帰り道、本屋を出るや否や降り始めた雨は瞬く間に強さを増した。俺は慌てて雨宿りの場所を探した。シャッター街になりつつある小さな商店街は、雨宿りの軒先だけなら事欠かない。

 適当なシャッターの前の軒先に飛び込む。

 傘を持っていない俺をあざ笑うように、雨は徐々にその強さを増していった。

 

 目の前にはパチンコ屋があった。

 古い店構えで、もう何年経営しているのかも分からない。ただ、そのにぎやかさは商店街一だろう。その隣にはこれまた古い喫茶店がある。パチンコ屋の帰りに勝った人間が祝杯を挙げたり、負けた人間が悪態をついたりするのだろう。

軒先に立っているよりましかと思い、喫茶店に行きかけて思いとどまった。念のため財布を開けてみると、やはり思いとどまって正解だった。うすら寂しい財布をポケットに押し込み、俺は仕方なくその場に立ち続けることにした。

ただ立っているというのは果てしなく退屈なもので、おまけに時間が過ぎるのも遅くなる。路面のでこぼこにはあっという間に水溜りが出来ていて、雨のしずくは間断なく波紋を作り続けていた。羅生門の下にいた下人も、こんなものを見て退屈を紛らせていたのだろうか。

と言いつつ、今の俺にはさっき買った雑誌がある。湿気にさらすのは嫌だが、退屈のまま雨が止むのを待つのも辛い。小ぶりになったら走って帰ろうと心に決め、それまでの間だけ雑誌を読むことにする。


袋を開けると、雑誌が二冊。そういえば、店頭においてあった無料の求人情報誌を貰ったのだった。どうせ濡らすならこっちの方がいい。俺は情報誌を引っ張り出して開いてみた。

延々とアルバイトで食いつなぐのにも限界を感じる。こうして喫茶店にすら入れぬ身を思うと余計に。何とか就職をと思ったときには不況の波が押し寄せてきていた。今は小さな町工場でアルバイトの工員をやって何とか繋いでいるが、それも果たしていつまで続くことか。

経営が苦しくなってきているらしいとは常々聞いていたが、ここで止めさせられては俺の生活も上がったりになる。何とか首にならぬようにと必死で働いているが、到底それに見合った給料はもらえていないと思う。この地獄から抜け出すためにも、何とか就職したいところなのだが。


「ひゃー、サイアク」

情報誌を読んでいた俺の隣に新しい客が来たのは五分ほどしてからだった。うら若い娘というのだろうか。まだ六月だというのに、小麦色の肌を露出させた服を着て、横からければぽっきりと折れそうな細いヒールの靴を履いている。髪はもはや透き通るほどに脱色され、わずかに黄色が残っているという感じだろうか。安物の化粧品の臭いをぷんぷんさせ、顔にも派手なメイクを施している。

 挙句に後から入ってきてこっちをじろじろ見るのはどうだろうか。

 非常に不愉快で、今すぐにも場所を動きたいところだったが、それを許さぬ勢いで雨は降っていた。最悪なのはこっちだ。

やがて派手女はその安っぽい風体にお似合いの安っぽいカバンの中からムダにきらきらとした携帯電話を取り出した。流行のデコレーション携帯という奴か。全く、何が美しいのか全く分からん。きらきらした光に目がくらむチップでも頭に埋め込まれているんじゃないか?

 そんなことを思いながら、女と情報誌の交互に視線を行き来させていると、女が電話を始めたのに気づいた。

「あ、モシモシ?うん、アタシ」

 実に知能指数の低そうな口調だった。

 何歳なのかは知らないが、こういう奴は社会に出てから苦労するんだろうな。まあ、今の不況が続いてりゃ、間違いなく就職なんて出来るわけがない。そうなってから後悔したところで手遅れなのは見えている。

「マジ、サイアク。いきなり降ってきてさぁ。ちょっと迎えに来てくんない?」

 彼氏か?

家族かもしれない。

 どっちみち、こんなズベ公を抱えている厄介さを思うと、思わず同情するね。

「それがさ、傘、電車ン中に忘れちゃったわけ。でもほら、大前さんトコってさ、駅から近いじゃんか。んで、ぱーっと言ってスグ帰ったら平気と思ったんだけどねー。いきなりよもう、マジムカツクんですけど」

 全く、美しい日本語はどこへ行ってしまったのだ。

「だって、大前さんトコ、駐車場ねぇべ。なんつーの、ちゅーきんっての?あれとか貼られたらやばいべ?んー、マジゴメン。頼むわ。あんね、商店街のうん、パチ屋の前。喫茶店?あん、あるけど?アー駄目。アタシタバコの臭い嫌いなんだよね。あっこってパチ帰りのがよくいるじゃん。だから、うん」

 タバコの臭いが苦手と聞いて意外な気がした。

 子供が産めなくなるぐらいスパスパ吸ってそうなのにな。

「あとさ、何か横にコギタネェのがいんのよ。んで、アタシのほうちらちら見てっから。ダイジョーブ、チョー貧弱っぽいし。何か情報誌よんでんの。マジ受けるんですけど。いやいや、情報誌見る前に鏡見ろよって。ありえねーし。こんなの面接に来たら、即アウトだね」

 舐められたものである。こう見えても大学も出ているし、資格だって色々と持っている。俺が就職できないのは、運が悪いか面接官が悪いかのどちらかに違いない。

 大体、別にこいつに見てもらうわけじゃないから、こんなこと言われたって痛くも痒くも無いのだが。お前はまず自分の心配しとけ。


 それから十分ほどだろうか。

 降りしきる雨を突き抜けるように、突然一台の高級車が目の前に横付けられた。

 降りてくるのはスーツを着こなした壮年の男。

「社長、お待たせいたしました」

「えー、別に待ってないよー。それよか谷村、マジゴメンねー。今日休んで良いって言ったのに」

「いえ、お気になさらず。それよりも早くお乗りください。風邪をひかれてはいけませんから」

「マジやさしーね。だから谷村好きなんだぁ」

 少し照れたように俯きながら、谷村は差していた傘をすっと女のほうに差し出した。その下に当然という顔つきではいる女。

 しゃ、社長?

「あ、あのっ……」

 思わず声をかけようとしたときには、すでに女は車中だった。

 俺の目の前に、谷村がすっと立ちふさがる。

「貴様、社長を犯罪的な視線で見つめていたそうだな。いいか、このお方はさる大企業の代表取締役社長なのだ。貴様のような小汚い若造が安易に近づくと死ぬより後悔することになるぞ」

 その有無を言わせぬ口調には妙な迫力があって、俺は思わず黙り込む。

「もー、谷村はやくいこって。そんなのほっといてさー」

 高級車の窓が開き、あまりにも不似合いというかそぐわない安っぽい顔が出てきた。

「は、ただいま。……いいか、安易に近づくなよ」

 最後に俺の耳元でどすの聞いた声を残し、谷村は踵を返して運転席に入っていった。

「あー、あんたさー。髪切ってさー、髭も剃ってさー。服装もなんつーの、清潔感無さすぎだからさ。そんなんで情報誌見てても駄目だよ。マジで清潔感てさ、チョー大事なんだからさー。アタシも社長やってっから結構面接してんだけどさ。清潔感の無い奴は駄目だわ。たいてー、スグ潰れんの。マジ、気をつけなよー。後、目が犯罪者っぽいし」

 言いたいことを言って窓は再び閉じた。スモークガラスの向こう側に消えた女の顔はもう見えない。呆然とする俺を残し、車はゆっくりと走り去っていった。

 

 梅雨時の空は、今の俺の心を表すかのようにどんよりと鉛色で、降りしきる雨は暫く止みそうになかった。

 俺は急に何だかバカらしくなって、情報誌をとりあえず雨の中に投げ捨てた。

 安物の雑誌はスグに水を吸い上げてしわくちゃになっていく。

 それを見ていると急にこみ上げてくるものがあって、俺は雨の中に飛び出して情報誌をめったやたらと踏みつけた。

 何度も、何度も踏みつけた。

 

 やがて警察がやってきて、俺は取り押さえられた。暴れたけど勝てなかった。おまけに、地面に足を叩きつけ続けていたせいで、俺は足首を捻挫した。

 留置場の暗い部屋の中で、俺はひたすらに泣いていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公への感情移入がしやすかったです。雨は次第に激しさを増した…そんな気さえしました。景色が明白に見えました。たいていの男性の書く小説は一文がやたら短かったり、「情報」「説明」が多く「景色…
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