正義とは何か?悪とは何か?5ー井手老婦の場合ー
ーーーーーー井手老婦の場合ーーーーーーーーーー
手鏡で自分を見ていた。白い髪にシワシワの顔随分老いたものだ。ベットの窓から見える景色は青い空のみ、この十年間、この景色以外見たことがない。最近、息子の嫁に話をすると、怪訝な顔をされる。私はおかしなことを言っているのか?ただ猫か犬が机の上でした糞を片付けてくれとお願いしただけなのに・・・。それに嫁は私を赤ちゃんのように扱う。私の身体が上手く動かないのを言い訳になんと赤ちゃんが履くオムツを私に履かすのだ。私はこの恥辱に10年間絶えていた。私はベットの窓から空を見ているだけ、最近は少女の頃を思い出す。少女の頃の私は白馬の王子様が私の目の前に現れて、私を何処か遠くに連れさり、ユートピアという楽園で老いることなく暮らすと思っていた。今思うと現実を知らない少女の荒唐無稽な夢だった。それが荒唐無稽な夢であることに気づくのは10年とかからなかった。そんな夢見る女にも王子とまでは言わないが、顔は中の下で弱々しく細身であるが性根のいい男と結婚することとなった。1男1女をもうけ、娘は嫁に行き、息子は嫁をもらい、孫が生まれた。思えばあの時が私の人生で最高の時であった。そんな時は長く続くわけもなく、弱々しいが性根のいい男だった夫は先に死んでしまった。私は泣き崩れた。それまで私は夫を白馬の王子さまだとは思っていなかったが、その時初めて知ったのだ。白馬の王子様は私のそばでいつも優しく笑いかけてくれていたことを、だがそんな時に私の心を埋めてくれる小さな孫の存在があったので、私は少し救われていた。そんな孫も大きくなり、家を出て、また私の心には隙間風が吹くようになったそんな頃からだった。嫁の私への態度が変わったのが、私が夜に散歩に出かけると文句を言い、良かれと思い台所にあった食器をトイレにあったぞうきんで拭いていると文句を言われ、私の体が上手く動かないことを理由にベットに私を縛り付ける。私は不自由だ。そんな私でも小さな楽しみがある。それはエディット・ピエフの「愛の讃歌」を聞くことだ。小さな頃、何語か分からないエディット・ピエフという女性の曲を聞き、愛の偉大さに感心した。あの曲は昔も今も私の心の中で色褪せない。最初はレコードで聞いていた。時は流れカセットテープという小さな箱で聞けるようになった便利なものである。時代はさらに変わり今はCDという円盤で聞ける。孫と前話した時はカセットテープぐらいの大きさの機器で音楽を何万曲と聴けるらしい。私にとってはCDで十分だし、私はもう「愛の讃歌」だけなら何万回と聞いているので暗記している。しかし、夜にこの曲を聞きながら歌うと嫁から音が大きいと怒られる。私の楽しみは狭まるばかりだ。そんな日々がつづいているある日の朝だった。私が「愛の讃歌」歌っている時に事は起きた。オープニングが流れている時にチャイムがなった。
「お母さん。お客さんが来るんですから少し音を落としてください。」
息子の信二は黙っていた。私は嫁の注意を無視し歌った。
「Le ciel bleu sur nous peut s’effondrer」
「ちょっとあなたなんですか?」
「Et la terre peut bien s’écrouler」
「キャー!」
また嫁の大騒ぎが始まったと思い、私は無視した。信二は焦って様子見に行った
「Peu m’importe si tu m’aimes」
「幸子!お前は誰だ?」
「Je me fous du monde entier」
「うわ、止めろ!」
「Tant qu’ l’amour inondra mes matins」
黒いマスクをした男が現れた。筆に赤い絵の具を塗って、それを息子に着けている。
「逃げろ!母さん」
私は可笑しくなって、笑った。
「なんだい。信二いい大人が絵の具つけて遊んで」
「絵の具じゃない!血だ!」
黒いマスクの男の子はニッコリ笑った。
「いい曲ですね。」
「おお、あんたこの曲わかるのかい?」
「ええ、「愛の讃歌」ですね?」
「そうだよ!よくわかったね。」
黒いマスクの男は絵の具をつけ続ける。
「お母さん。歌止まってます。歌い続けてください。今いい感じなんで」
「わかったよ!~Mon amour puisque tu m’aimes」
「母さん逃げろー!」
「J’irais jusqu’au bout du monde」
黒いマスクの男は絵の具をつけ続け、信二の声も小さくなってきた
「Je me ferais teindre en blonde」
黒いマスクの男は絵の具を塗り続け、信二の顔は真っ赤になった
「Si tu me le demandais」
信二の声はもうしない。
「J’irais décrocher la lune」
嫁もお腹に絵の具をつけて何処かに電話している。
「J’irais voler la fortune」
それを見た黒マスクの男が嫁に絵の具をつけだす
「Si tu me le demandais」
嫁が大きな声で叫ぶ、私も負けじと大きな声で歌う
「Je renierais ma patrie」
黒いマスクの男は絵の具を嫁にもつけづける
「Je renierais mes amis」
嫁の声がどんどん小さくなる
「Si tu me le demandais」
やがて、嫁の声はやみ、私の声だけとなる
「On peut bien rire de moi」
ゆっくり黒マスクの男が私に近づいてくる
「Je ferais n’importe quoi」
遂に手が届く距離まで来た
「Si tu me le demandais」
黒マスクの男はその手をゆっくりと円盤の機械に近づけ、□のマークがついているボタンを押す
「Si un~なんだいこれからいいところだよ?」
「たしかにいい歌です。ですがどんないい歌も聞きすぎるのはよくない。毒になる。歌も一種の娯楽であるべきですからね。」
私は嗤った。
「じゃあ、何かい?あんたはこの毒に侵されている老婆を救う。特効薬を持っているのかい?」
「いえ、私にそんな技術や道具はありません。ですが、全てをなかったことにすることはできる。私の狙いはいつも変わらず無垢な少女にあります。」
「少女?ここには老婆と赤い絵の具まみれの女しかいないよ?」
「いるじゃないですか?目の前に」
自分をさされることに驚きはなかった。私はここを去らなければいけない人間。
「あんたには何が見えるんだい?」
黒マスクの男は自分の手をみた。
「私も彼岸の人間いつこの世から消えてもおかしくない。だから自己の照明のために私は存在するのです。だから、あなたと私に違いはない。」
「随分、文学的な自己証明だね?」
「そうですね。でも、そんな会話についていけるあなたも随分文学的ですよ。ボケた老人には見えません。」
お互い笑った。
「一瞬だよ。重要なポイントではおりてこないと意味がないからね。それもどこまで持つのか・・・」
私も自分の手を見た。
「そうですか・・・。」
黒マスクの男も自分の手をまた見た後に私を見た
「もう時間のようです。さようなら。」
「また会いたいね。」
「ええ、私もです。ですが、それは難しいでしょう。」
「わかんないよ。人生なんて」
私はニッと笑った。黒マスクの男も答えるようにニッと笑ってその場を去った。ほんの2、3分だった。それだけで人生が変わった。後は私しだい。私はベットからヨロヨロと立ち上がり、這いつくばってほんの数メートル離れている嫁の手にあった電話を取り、110と番号を押した。
「息子と嫁が殺されました。」
そう伝えると、力が抜け電話を離した。電話口で誰かが何かを叫んでいたが、今の私にはそれを理解することができなかった。ただ黒マスクに「ありがとう」と伝えたく、涙が出た。