火罪(かざい)
一八七六年 十一月 メキシコ湾岸 アラバマ州 ピケンズ群 郊外
静謐な空気が漂う聖堂内をダニエラ・ホークス牧師は歩いていた。
夕刻にあった礼拝も一段落し、さぁ夕食の支度でもしようか、とした矢先のことである――急な告解の要請が入った。
告解は、本来礼拝が始まる前に済まされるべきことなのであるが、如何やら、件の告白者は、礼拝に遅れてしまったらしい。息せき切って教会へは来たものの、主への祈りの時間は疾うに過ぎ、ホークス牧師の説教も終わっていて途方に暮れていたところ、せめて告解だけでもさせてほしいとせがんできたので、仕方なく時間を取った。
時刻は、午後の七時を回っている。聖堂の後方に位置する告解室に向かう途中の窓ガラスから外を眺め遣ると、そこはもう夜の世界一色だった。柔らかな陽の光も疾うに落ち、辺りは冬の気配を犇々(ひしひし)と強めている。雲の色は濃く、燦然たる月の光も妙に淡く感じられ、どこか焦燥感を煽られる奇妙な夜だった。
ふと外へと広げていた視野を狭めると、目の前には、ひとりの黒人男性が黯然と立ち尽くしていた。
それは手にした燭台の灯りが窓ガラスへと映し出す己の虚像だった。白いローマンカラーのシャツに、銀縁の眼鏡、並々と蓄えられた顎髭に禿げ上がった頭、浅黒い顔には所々皺も多く疲れの色も濃く見えた。
ホークス牧師は、今年で五十三になる己の顔を見遣ってひとつ溜息を吐いた。黒人教会の牧師になって早三〇年、これまで多くのことが己の身に降り掛かってきた。二十代前半まで白人のもとで奴隷として働き、その合間を縫っては、読み書きの練習をし牧師の資格を取った。晴れて自由黒人になってからは、宣教活動に明け暮れ、奴隷解放を強く世に喧伝して回ったものである。南北戦争と奴隷解放宣言があったのは、かれこれ十三年前のことだ。同胞たる黒人たちの人権は、公明なるリンカーン大統領の直裁のもと見事に復活を果たし、誰もが生きる喜びと自由を手にすることができた――が、しかし蓋を開けてみれば、貧困を窮めた彼らの暮らしぶりは未だに楽にはならず、今も多くの黒人たちが、白人の経営する農園で働いている。奴隷という身分は形を変え、ただの小作人と成り果てて綿花栽培に従事することが、今のアラバマ州を含んだ深南部の現状なのであった。
告解室で待つ男も、きっとそんな黒人たちのひとりなのだろう――と、ホークス牧師は思った。自らの境遇に不満を持ち、生きることに飽いた心に魔が差した挙げ句、犯さなくてもいい罪を犯してしまったのだろう。故に罪の告白がしたいのである。己の犯してしまった罪を恭順に吐露することによって善良な士民であることを確然と証明したいのだ。
そうでないなら、此処には来ないはずである。
敬虔なクリスチャンであることを装い、恭虔な態度を示したところで何になろうか。犯してしまった罪は罪悪として未来永劫残り続け、決して洗い流すことのできない汚穢のようなものだというのに、無知なる信徒はそれを知らない――否さ、知ろうともしない。
今から向かう告解室で待つ男も、そうなのだろう。陽が落ちた直後とあって、その顔はよく見えなかったが、暗褐色の鐔付き帽子を被った――恐らく黒人と思われる――男もまた愚蒙な己の精神を顧みない卑陋な信徒に違いない。
まったく都合のいいときにだけ神に赦しを請い罪の精算を計ろうなど、至極虫のいい話ではないか――などと心中でひとり憤恚していると、程なくしてホークス牧師は、男が待つ告解室への歩みを静かに再開した。
手にした燭台の灯りを幽かに揺らしながら、幾重にも連なった簡易的な参列席を抜けると――果たして、目的とした告解室は其処にあった。
古びた樫の木でできたその外観は、まるで一戸の教会のようである。清致と厳粛さを綯い交ぜにした告解室の堅牢な出で立ちを前に、ホークス牧師は暫し息を整えた。中には告白者との間に一枚の板が敷かれているとはいえ、己の裡にある憤恚が覚られないとも限らない。告解室に入る前に蟠った膿は此処で全部吐き出しておこうと深く呼気を吐く。
そうして重厚な扉に設えられた把手に手をかけると、中から――正確には隣室から――人の気配を感じた。
燭台の火を消し、中に入る。椅子に腰掛け正面を向くと、牧師の入室に気付いてか、仕切り板の向こうで男が居住まいを正したのが瞭然と解った――直後、板に空いた格子戸を通して男の声が聞こえてきた。
「牧師さま、私の罪をお赦しください」
罪の告白が始まった。
「私は重大な罪を犯してしまいました。それは決して赦されることのないおぞましき罪でございます。しかし、もしこの罪が赦されるのであれば、どうか私の話をお聞きください」
そう言って訥々(とつ)と赦しを請う男の声は、迚もくぐもって聞こえた。何か異物でも呑み込み喉にでも痞えさせてしまったかのような声である。大いに聞きづらい。
男が発した奇声に、ホークス牧師は、数瞬、臆したように言葉を失った。まるで地獄の底から響いてくるかのような不気味な声に、思わず恐懼れを感じてしまったのである――しかし次の瞬間には、いつもと変わらぬお決まりの台詞が口を吐いて出た。
「あなたの告白をお聴きしましょう。いったいあなたはどんな罪を犯したというのです?」 ホークス牧師の諭すようなその問い掛けに、男は答えて言った。
「私が犯した罪というのは、押し込み強盗です」
「押し込み強盗……」
男が吐露した罪の告白に、ホークス牧師は一瞬息を呑んだ。押し込み強盗とは、これまた重罪中の重罪である。いったい何をして、押し込み強盗なぞしてしまったのか、と男に問うと、男は暫し緘黙してから、
「妹のためです」
と抑揚のない声で言った。
「私には、病弱な妹がおります。幼い時分より肺を病み、いつ死ぬとも知れない命に怯え病床に伏すたった一人の家族がございます。私は家族の命を救うため、薬代欲しさに強盗を働いてしまいました」
「妹さんのためですか、それは心苦しいですね。しかし真面目に仕事をしてお金を稼ぐだけでは駄目だったのですか? 罪を犯して薬代を手にしても妹さんは喜ばないでしょう」
至極真っ当な意見だとホークス牧師は、自分でもそう思った。そして酷く当たり障りのない無責任な意見だとも感じて、暫し自責の念にも駆られる。しかし仕切り板の向こう側にいる男は、ホークス牧師の内心を知ってか知らずか、
「ええ、だから妹は、私が持ってくる薬には一切手を付けようとしないのです」
と聴くからに沈んだ声を出してそう言った。
「妹は、私が押し込み強盗をして、薬代を稼いでいることを知っているのでしょう。だから悪事を為して手にした薬には、少しも手を伸ばそうとしないのです。私はただ、彼女を救いたいだけなのに、彼女は私の好意を拒み続け、命の灯火を自ら消そうと悶え苦しんでいる……私は、それが迚も耐えられないのです……」
唐突に男の言葉が止んだ。耳をよく澄ませてみると、如何やら泣いているようである。小さな格子戸を通して微かに聞こえてくる男の咽び泣く声に、ホークス牧師は、やんわりと懇教の言葉を掛けた。
「あなたは悔いているのですね、己が犯した罪の重さを。そして自覚もしている。自分が犯した過ちのせいで、大切な妹さんの命を危険に晒しているのだと、判然と解ってしまった。だからこれ以上の罪を重ねる前に此処に来たのです。罪の精算をするために――」
――勝手良く、と内心で皮肉の言葉をひとつ付け加えながら、ホークス牧師は、愍然と言葉を結んだ。するとホークス牧師の言葉を愚衷にも真に受けた男は、暗がりと化した告解室の中で、おお、おお――とくぐもった嗚咽を漏らした。そして、
「ならば牧師様、私は主の赦しを得ることができるのですか? 罪深きこの身を、清廉なる主の導きによって浄化することができるのであれば、私は何でも致します。どうぞお導きください、私は何をしたら宜しいのですか?」
と縋るような声を上げたので、ホークス牧師は、男の意望を汲んで、答えて言った。
「まずは罪を償いなさい。罪を償って真面目に働くのです。そうすれば、妹さんも快くあなたから渡される薬を口にすることができるでしょう。故に、妹さんを救えるのは、あなたの心がけ次第なのですよ。解りましたか?」
「はい、解りました。これから先は、妹のために誠心誠意尽くします。私には、妹がすべてですから――」
ホークス牧師の懇ろな言葉に、男は甚く心を突き動かされたようだった。仕切り板の向こう側で、頻りに、ありがとうございます、ありがとうございます――と呟く男の声を耳に、ホークス牧師は、ひとり恍然と善良な笑みを浮かべた。
そうして、この場限りの罪の告白を終えようとしたところで、ホークス牧師は、ふと男の素性が気になった。告解とは、元来信徒の匿名性が非常に高い悔悛の秘跡なのであるが、そんなものはあってないようなもので、概ね大抵の信徒の声には、聞き覚えがあった。故に、何処の誰が、主の赦しを請いに来ているのか解ろうはずのものだが、隣室で今も謝意の言葉を述べ続けている男の声には、些かも聞き覚えがなかった。
故に、そこはかとない好奇心が湧き起こって、ホークス牧師は思わず、
「あなたは今、何処かで働いていたりするのですか?」
などといった男の素性を探るような言葉を、ついつい掛けてしまった。
すると、それまで声涙を漏らしていた男は、ぴたりと泣くのを止め、また抑揚のない声を出して、
「なぜ、そのようなことを訊くのです?」
と訊き返してきた。
その唐突な男の声色の変化に、ホークス牧師は周章て、
「ああ、いや何……もしあなたが何処かで働いていたとして、押し込み強盗なる罪を犯したのであれば、その働き口にも何かしらの原因があると思いましてね。罪の償いをして真面目に働いたとしても、悪質な労働環境のもとでは、また同じ過ちを繰り返してしまうのではないか、と心配になったのです」
と己の吐いた違言を正すようなことを言った。
それを聞いた男は、あの酷くくぐもった低い声で、
「そうですか……」
と呟き、そして芒然とした調子で、
「私は今、白人のプランターが経営する農園のひとつを借り受けて、綿花栽培に従事しております」
と幽韻かに答えた。
「ああ、シェアクロッパー制度を利用しているのですか」
男の吐いた言葉を耳にして、ホークス牧師は、ひとり合点したように頷いた。
シェアクロッパー制度とは、奴隷解放宣言の当初から、黒人奴隷たちの経済的援助を目的とした解放民管理局が、貧困に喘ぐ彼ら元奴隷たちのために設けた職業支援制度の名称である。
南北戦争終結の後、リンカーン大統領の布告によって強僭的な白人のもとから解放された黒人奴隷たちは、しかし同時に職と生活をも失ってしまった。遠く海を隔てたアフリカの地から、四百年前に連れてこられた黒人たちの末裔は、それまで自由に生きるということを知らず、自由黒人になってからは、果たして何をしたらいいのか噸と解らない者が多かった。何世代にも亘り培ってきた奴隷という性分は、それほど直ぐには、彼らの裡から消えなかったのである。故に、住む家もなく、職にあぶれた彼らの日常は、その日食べるパンにすら事欠く始末で、実に惨憺を極め、また多くの餓死者をつくる結果となってしまった。
彼ら――元黒人奴隷たちには、生きるために働く場所が必要だった。
そこで困餒した黒人たちを救うため、解放民管理局が目をつけたのが、嘗て奴隷だった彼らを執拗に使役していた白人経営者たちの存在だった。巨大な農園を幾つも経営する彼らは、しかし奴隷制度撤廃の煽りを諸に受け、常時深刻な労働力不足に悩まされていた。全世界からの綿花需要は日々旺盛になる一方で、輸出すべき綿花の栽培は停滞気味となり、一刻も早い労働力の確保が焦眉の急となっていたのだ。
こうして、日々の生活の糧となる仕事を求める黒人たちと、広大な農園を持て余し、確乎たる労働力の所得に困急していた白人経営者たちは、解放民管理局が委ねる相互扶助という名の斡旋のもと、また強く結びつくこととなった。しかしながら、嘗ての圧服によるふたつの人種の関係性は、以前のような酷烈なものではなく、飽くまで小作人と地主という正式な契約のもと厳粛に執り成されていった。
また解放民管理局は、黒人労働者のために白人経営者に対してある条件を課した。
その条件とは、耕作すべき土地と彼らが暮らす家――と言っても小屋程度のものだが――を貸与すること。そして、その他、農機具、家畜、飼料、燃料、種子、肥料といった耕作に必要な諸々の道具をすべて支給すること――である。その見返りとして、彼ら白人経営者たちは、収穫物の半分を無庸で手にすることができた。
解放民管理局という第三者の介在により、元黒人奴隷と白人経営者の不和は、これにより解消されるはずだった。しかし実際を見てみると、当初から貯えの殆どない黒人たちは、年登の収穫期までの間に、かなりの前借りをしなければ生活することすらできなかったのである。
高い利子のつく現金を借りて収穫期を迎えても、それまでの負債を支払うと、後には殆ど何も残らなかった。その年収は、金額にすると僅か六○ドル程度のものである。人種としての待遇は改善されても、労働者としての境遇は何ら奴隷と変わることがなく、彼ら黒人労働者たちの一生は、今も猶、貧困の窮みへと立たされ続けていた。
「それでは食べていけないのですね。だからあなたは、押し込み強盗なる罪を犯してまで妹さんの薬代を稼ごうとした……しかし、当局が施行する制度を利用していけば、いずれはあなた名義の土地が手に入ったはずです。それまで頑張れなかったのですか?」
甚く憐憫を含んだ声でホークス牧師がそう問い掛けると、男は消沈したように言った。
「牧師さま。あなたさまは、奴隷飼育業者をご存知ですか?」
「奴隷飼育業者ですか……知っていますとも。彼らほど野蛮で、非道な職業人を私は他に知りません。何せ彼らは、奴隷貿易が禁止されている最中に於いても、平然と密貿易を交わし、多くの人々を此処のような深南部へと追い遣り売り払ったのです。聞くところによれば、ときには生まれたばかりの赤子でさえ売りに出され、競売に掛けられたとか……全く惨い話です」
突如として去来した沈痛な思いに、ホークス牧師は人知れず胸懐が痛くなった。
すると、男は、そんなホークス牧師の言葉に賛同するかのように、
「惨い……確かに惨い話です。彼らは、親の顔すら碌に覚えられない赤子を攫ってきては、これを二○○ドルか三○○ドルぐらいで売り買いし、一人前の奴隷となるまで育てるのです。育てた後は、南部諸州に征く奴隷取引商人に売り渡し、また新たな赤子を攫ってきては奴隷にすることを繰り返す……」
と、言葉尻を段々と窄め、そして、
「私と妹のふたりも、そんな奴隷飼育業者のもとで、惨憺たる幼少期を過ごしました」
と酷く苦々しい過去を振り返るように、寞然と言葉を吐き捨てたのだった。
「あれは六歳の頃です。私は、まだ乳飲み子だった妹と共に、ある奴隷飼育業者に誘拐されました。親の顔は知りません、覚えていないのです。自分が何処の生まれとも解らぬまま、幼少期の数年間、私は、而立間もない歳の白人の男によって育てられました。その男は、私たちふたりを、ただの商品としか見ておらず、妹が肺病を患っていると知るや否やその命を奪おうとしたのです。冷酷な人間でした。肺の弱り切った妹を、馬糞の臭いが立ち籠める馬小屋に一週間も閉じ込め、碌な食事も与えずただ放置するような酷薄な男だった。私はそんな男が大嫌いで、しかし妹も守らなければならず、男の言うことには何でも従った。ときには床をも共にし、男が悦ぶ行為にも及びました。すべては妹の命を救うためだったのです。男を満足させることができれば、あの薄汚れた馬小屋から妹を無事に出すことができるから、私は懸命に男の要求に応え奉仕しました。そんな生活が何年も続き漸く一人前の奴隷として私が売りに出される頃、妹の容態は、正に目も当たられぬほど深刻な状態へと陥っていたのです。私は無我夢中で働きました。働いて妹に上等な薬と医術を施してやりたかった……しかし一介の奴隷である以上大したお金は稼げません。さらにそこに来て、リンカーン大統領の奴隷解放宣言です。私は職を失い、妹は生きる希望を失いました……」
そこで男はひとり戚然と息を吐いた。暗渠のような告解室が、一瞬だけ静寂に包まれる。
どちらとも知れず言葉を喪失ってしまった空間で、しかしホークス牧師は言った。
「しかし、あなたは今シェアクロッパー制度を利用している。職に就いているわけだ。それなのに……」
そのまるで言葉を選ぶような物言いに、しかし男は、
「それだけでは駄目なのです。それだけでは死にかけている妹の命を救うことなどできないのです。だから私は押し込み強盗をした。そう為ざるを得なかった。当局が施行した制度を利用して土地を手にできても、その頃には、妹はもう死んでいるかもしれない。それでは遅すぎるのです。それでは妹に人間としての幸せを与えてやることができない。決して――」
と、愛する家族の不幸を痛嘆する言葉を口にした。
そうして男の言葉にホークス牧師が絶句の色を浮かべていると、
「牧師さま、私は不幸な人間です。それ故に罪を犯しました。犯した罪は消えません、それも解っております。しかし、あなたさまが仰るように罪を償い、また働くことができれば、私は妹のために全力を尽くすことができるでしょう……ですが、僅かばかりの自由を手にしても、一向に楽にならない生活はどうしたらいいのでしょうか? これならば、まだ奴隷だった頃のほうが、生活は十分に保障されていたように思います。違いますか?」
明らかに、己の人生に落胆したような言葉を男は漏らした。
その言葉を聞き、ホークス牧師はひとり――不安なのだろう――と思った。
これまでの人生の中に於いて彼は一切の不幸を背負ってきた。奴隷となることを強引に宿命づけられ、肺病に苦しむ妹を庇いながら、それでも懸命に生きることを辞めなかった――諦めなかったのだ。しかし、それは彼だけに限らず、この国に暮らす多くの黒人がそうであったように――勿論、自分も含めてであるが――酷く当たり前のことなのである。
不幸を背負う――ということは、己に託された運命を放棄しない、ということだ。不幸に負われ、逃げてしまえばそれまでだが、逃げずにいれば――其処に凝然と佇んでいるだけでも――新たな活路を見出すことができる。皆そうして今まで生きてきた。そしてこれからもそれを心がけて生きていく。自由を手にした我々は、須く不幸という名の災咎をその小心の裡に甘受させていかねばならないのだ。
しかし、板の向こうにいる男にとって、それは最早できぬことなのだろう。何せ男にとって不幸とは既に、決して抗うことの赦されぬ禍殃と化してしまっているから、あわよくばそれを受け入れたとしても、孰れは必ず破綻を来すに違いない。男は、それを本能的に解っているのだ。故に、奴隷だった頃のほうが、生活は楽だったと口にした。なぜなら、その頃の男の目には、不幸という災咎が全く視えていなかったのである。然れば、長年続いた奴隷という受動的な生活から一変、自らの力のみで生きていかねばならぬ自由黒人としての能動的な生活は、視えていなかった男の目を醒ますのに十分な役割を果たし、その結果、男は大いに怯懾え不安に駆られることとなった――果たして自分は、病弱な妹を守りつつ、これからの一生涯を懸命に生き抜くことができるのだろうか――と。
その思いに至った瞬間、男は奴隷だった時分を油然と回顧してしまったのだ。
悪辣な奴隷飼育業者に虐げられ、人間としての価値を無くした奴隷という最底辺の身分に身を窶しても、その頃のほうが生きることに一切の不安がなかった。ただ主人の命令に恭順に従い黙々と働いてさえいれば、日々の暮らしに困ることはなかったから。
男は、奴隷制度の撤廃に怒りを覚えているのだろうか――と、途端にホークス牧師は思った。そうでないのなら、奴隷だった頃のほうが良かったなどとは決して口にはすまい。ならば男の中に蟠る奴隷としての卑微たる性分を此処で払拭せねばならないと、ホークス牧師は融然とした思いで言葉を発した。
「あなたの仰ることは大いに違います。確かに奴隷解放宣言が為される以前の社会では、奴隷制度に対する人々の考えは、皆寛容的だった。私のような牧師の資格を持つ黒人でさえ『奴隷たち、汝らイエス・キリストに仕えるが如く、汝らの肉による主人に喜んで仕えなさい』と聖書の言葉を引用して奴隷制度を肯定したものです。しかし、それは過った見解だった。いくら我らが守るべき聖典に奴隷制度を肯定する言葉が書かれていようと、我らが信仰を篤くする主は、この世に於ける人間の不正を積極的に正し、また社会的被抑圧者のためにその御心を大いに砕いてくださるお優しい方だ。故に傲慢なる支配者たちが興した奴隷制度なる愚策は容易に撤廃されなければならない。ルカによる福音書にもあるように『主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由に――』するためです。主は決して奴隷制度を許諾してはいない。故に、神と人間と自然の法に背いた奴隷制度など、社会にとって有害なものと断罪されて然るべきなのです。考えを改めなさい。あなたはこれからも生きていくのです、何より妹さんのために。奴隷だった頃の自分など忘れ、自由黒人という誇りを胸に慎ましくも生きていけばいい。それこそが、今にも主の赦しを得んとするあなたに残された唯一の道なのです」
「そうなのですか……?」
「そうなのです。悲観してはならない」
そうして、ホークス牧師が説教の言葉を締め括ると、男は、
「なるほど――」
と沈思するような素振りの声を上げ、それから、
「しかし――」
と、あからさまな異論の端を発した。
「しかし、主が奴隷制度を赦さなくても、それは私たちの生活には関係がありません。主は天上におわす故、下界に於ける人々の営みには無力なのです。その証拠に、奴隷制度が撤廃されても私たち黒人は卑賤な人種として差別されている。最近では、黒人法なる法律も施行され、多くの黒人たちが夢見るホテル経営は疎か、アルコール飲料の販売まで禁止される始末だ。主が奴隷解放を強く説いても、奴隷を強いるのは、果たして同じ人間なのだから、聖書の中にだけいる主には決して何もできないのです。この世は、私たちに都合よく不利にできている」
「そんな――」
そんなことはない――とホークス牧師が男の言葉を否定しようとしたとき、先んじて男は更に言葉を被せてきた。
「主が何を以て私を赦そうというのか、今の私には解りません。主にとって私は、ただの罪人なのです。罪人は須く糾弾されなければならない――そして主の糾弾を受けるべき人間は、私の他にもたくさん――いる」
「あなたの他にも……?」
男が漏らした揚言に、ホークス牧師は思わず疑問の声を上げてしまった。
それはいったい如何いう意味なのだろうか――と、ひとり考えを巡らせていると、凄然とした声で男は言った。
「私には、同じ農園で働く友人がいます。その友人は、法の下で禁止されている酒の売買に手を染め、剰え姦通の罪さえ犯している」
「姦通とは……まさか強姦のことでしょうか?」
「ええ、そうです。彼は犯してはならない不義を犯した。しかも相手は、私たちが働く農園の貸し手でもある、白人経営者の妻なのです」
「な……なんてことを……」
男の唐突な告発を受け、ホークス牧師は途端に顔色を蒼くした。奴隷解放宣言が為されてから十三年、アメリカ国内で暮らす黒人たちへの風当たりは――緩やかではあるが――次第に弱まりつつあった。確かに黒人法なる不平等を絵に描いたような法律も施行されてはいるが、それもこれも皆が平穏に暮らしていくための苦衷の措置なのである。それ故、孰れはこの不当極まりない悪法も解除され、軈ては黒人に有利に働く法網もできることと誰もが――少なくとも明日を夢見る黒人たちは――信じている。
――が、それも我々が、常に大人しくしていれば、の話である。
嘗て奴隷として使役されていた黒人たちには、労働力としての価値があった。しかし現今の社会情勢を鑑みるに、我々の価値は如何程のものではないと思い知らされる。なぜなら資本主義を高らかに主張する彼ら白人たちにとって、我々黒人の存在など、今や無益な隣人に等しいからだ。例え解放民管理局が施為するシェアクロッパー制度に縋ったとしても、全世界から殺到する綿花の需要には、未だに応えられずにいる。それは強制的に使役される奴隷が為す生産量と、自主的に働かざるを得ない自由黒人が為す生産量の的然とした差なのである。
故に、微々たる利益しかもたらさない黒人たちに然したる資本的価値はない――そこに来ての黒人男性による白人女性の強姦事件である。
恐らくこれは既に公となっている事案なのだろう。ならば黒人に対する風当たりは、弱まるどころか益々強さを増していく一方で、罪のない多くの同胞が窮地に立たされるかもしれない――そう一途に懸念したホークス牧師は、震える声を出して男に言った。
「あ、あなたの友人だという人は、何て恐ろしいことをしてしまったのですか。選りに選って白人女性を強姦するなど神をも恐れぬ大罪です。折角我々に対する世間の目が少しずつ寛容になってきたというのに、これでは元の木阿弥だ。また我々に対する風当たりは一層強くなる――」
次第に高まる激情に任せてホークス牧師はそう言葉を放った。すると男は矢張り幽韻な声を出して、
「確かにそうですね」
と、それに応じた。
「確かに今のご時世、黒人が白人を犯すなどあってはならないことです。しかし歴史的な観点に立ってみれば、白人男性が黒人女性を犯し、剰え懐妊させたことなど間々あった。それと何が違うのです? 彼らは黒人に産ませた我が子を、商品として奴隷取引商人に売っていたというのに、その方が余程酷い話ではないですか? 牧師さま」
男の言葉は正しかった。確かに四百年近く続いた奴隷たちの歴史の中には、人道に反する唾棄すべき出来事が数多くあった。しかし、それを今引き合いに出したところで、男の友人が犯した罪が帳消しになるわけではない。
そのためホークス牧師は、男の言葉を蹶然と指弾した。
「それは嘗ての白人たちが蒙昧だっただけのことです。野蛮で愚瞽を征く彼らには、人権や人道などといった社会的正義がなかった――故の過ちです。しかし我々は違う。我々黒人は、理不尽に虐げられる悲しみを優に知っている。だからこそ、人種の違いを理由に、他人にそれを強いたりしてはいけないのです。我々は彼らとは違う。彼らは平然と自らが犯した罪を金に変えたが、我々は贖罪によって罪過を贖う。故に、あなたの友人もまた主のもと法のもと、犯した罪を償わなければならない――」
そう言い切るとホークス牧師は荒く息を吐いた。如何やら過度に興奮していたらしい。
悶々(もん)と昂ぶる気を鎮めようと深く息を吸い込んだが、何かが胸に痞えたように上手く肺へと流れなかった――が、それにも構わず咽せるような勢いでホークス牧師は、また言葉を重ねた。
「――よって、彼のことは司直の手に委ねなさい――勿論あなたもです。恐らくそれが今出来うる最善の策でしょう」
そう言葉を結んだ後、仕切り板の向こうからは何の返答もなかった。言いようのない沈黙が暫しの間流れたかと思うと――唐突に男の声がした。
「罪を償うには、それが一番ですか――でしょうね。牧師さまの仰るように、私の友人の身柄は既に司直の手にありました。彼は裁判にかけられ罰を受ける身だったのですが、しかし残念ながら、それは叶うことはありませんでした」
男の声は妙に落ち着いていた。ホークス牧師の先般の言葉にも些かも冷静さを欠いていないその声を耳に、ホークス牧師は、恐る恐るどういう意味です? と問い掛けた。
すると男は、板の向こうで少し笑ったように、
「簡単な話です。なぜなら友人が犯した罪を克明に記した事件記録は、もうこの世に存在しないのですから――」
と声を顰めて言った。
「え――」
「ご存知ありませんか? つい先日起こった裁判所の火災。あの火事で私の友人が犯した罪の記録は、全て焼失してしまったのです。そして裁判所に火を点けたのは、何を隠そうその友人なのです」
その言葉を聞きつけ、ホークス牧師は開いた口が塞がらなかった。
確かに三日前、ピケンズ群の司法の砦たる裁判所が火事にあった。当初の見立てから放火による火災であることは解っていたが、犯人の目星は依然として掴めぬままとなっていた――現場の焼け跡からは、犯人に繋がる物的証拠が何も見つからなかったためだ。
全焼した裁判所の中には、現在公判中の事件記録も数多くあったため、犯人はそれを狙って火を点けたのだろうと司直は睨んでいたが、まさか犯人のことを知る人物がこんなにも間近に現れようとは、夢にも思っていなかった。
故にホークス牧師が愕然と黙り込んでいると、男は更なる事件の真相を明らかにしていった。
「私の友人――いえ、ヘンリー・ウェルズは、三日前、自らが犯した事件の記録が裁判所内の保管庫にあることを知り、証拠の隠滅を計ろうと盗みに入ったのです。しかし、そのとき手にしていた燭台を過って落としてしまい火事を起こしてしまった……」
まるでその場にいたかのような語り口である。すると男は、
「私もそこにいたのです」
と口にし、
「私も事件の証拠を盗みに行くと言うヘンリーに誘われ、裁判所に行きました。私も押し込み強盗という罪を犯し、今を以て公判中だったからです。最初はヘンリーのその誘いを私は敢然と断りました。司法の裁きによって、犯した罪の精算を確乎りと果たしたかったからです。しかし粗暴で傲慢な性格をした彼は、強引に私を誘い出し――そして事件は起こった」
窈然と発せられる男の告白に、ホークス牧師は言葉を挟めなかった――男の言葉は続く。
「後で解ったことなのですが、ヘンリーが裁判所に行く直前、なぜかこの教会に立ち寄ったそうです。恐らくなのですが、彼も今の私と同じように己が犯した罪を告白しに来たのではないでしょうか? しかし、ここで自分の事件に関する記録が裁判所の保管庫にあることを知り、盗みに入ることを考えた――」
そのとき、ホークス牧師の耳朶に、ひとりの男の声が蘇った――三日前のことだ。
まさか――あの男が……とホークス牧師がひとり戦慄しているのを余所に、板の向こう側にいる男は、ホークス牧師にある事実を突き付けてきた――その事実とは、
「牧師さま。私の友人ヘンリー・ウェルズに、事件記録の所在を喋ったのは、あなたですね?」
その威圧的な問い掛けに、最初は何も答えることができなかった。しかし突発的な自責の念に駆られてか、次の瞬間には、
「……あ、ああ、そうだ。私にも友人がいてね。裁判所に勤めている彼から聞いた……」
と、事実を認める言葉を口にしていた。
そうして一挙に去来した不安感に、ホークス牧師が押し潰されようとしていると、男は
「そうですか……それが聞けてよかった」
と一言呟き、告解室から出て行ってしまった。
隣室の扉が開き、また閉まる音を耳にし、ホークス牧師は矢庭に眉を顰めた。
いったいあの男は何だったのか、それに裁判所を火事に見舞った男が、もし自分の発言のせいで盗みに入ったのだとしたら、これは由々(ゆゆ)しき問題である。如何にか件の男と接触し、自分は無関係であると説得しなければ、などと呟き、手にした燭台に火を点け告解室から出ようとしたところで、
「――その心配はありませんよ」
という酷く聞きづらいあの声が、その行く手を遮るようにホークス牧師の前方から聞こえた。
「…………ッ!?」
突如として現れた男の姿に、ホークス牧師は一瞬、小さな悲鳴を上げそうになった。
ホークス牧師が告解室から出てくるのを扉の前で男は待っていたのだ。暗所と化した聖堂内に昏然と佇む男は、矢張り暗褐色の帽子を被り、必然的にその顔を隠しているようだった。
そうして己の前で無言に立ち続ける男の様子を垣間見て、ホークス牧師が怖じけたように告解室の中へと後退りすると、それを見越したように男は言った。
「あなたが私の友人に、事件記録の在処を話したことは誰にも漏れません。なぜなら裁判所火災を起こした私の友人、ヘンリー・ウェルズは死んだからです。私が殺しました――」
「え――」
その言葉を耳にした途端、ホークス牧師は持っていた燭台の灯りを男の顔へと向けた――その瞬間、全身の血が凍り凝然と身が固くなるのを感じた――なぜなら仄明るい蝋燭の炎に照らし出された男の顔は、見るからに焼け爛れていたからである。
「ひッ……」
男の奇怪な容貌を直視し、ホークス牧師は今度こそ短い悲鳴を上げた。すると男は、火傷によって閉じかけている瞼の隙間からホークス牧師のことを奮然と睨みつけ、歯茎が剥き出しとなった唇を動かして、地獄の底から響くような声を発した。
「私の名は、ビル・バークホールスター……裁判所を失火させた男は私が殺しました。なぜなら彼の所為で私はこんな大火傷を負ってしまったからです。彼が私を強引に裁判所に誘わなければ――否、事件記録の保管庫の場所さえ知らなければ、私はこんな目には遭っていなかった……元はと謂えば牧師さま、あなたがヘンリーに保管庫の場所を教えてしまったのが問題だったのです。あなたは犯してはならない間違いを犯してしまった」
そう言って男――ビル・バークホールスターは一歩、ホークス牧師に詰め寄った。そして見るも無惨な焼け爛れた顔を、恐怖に戦くホークス牧師の眼前へと持っていくと、
「牧師さま、私はあなたを恨んでいます。こんな醜い顔では、愛する妹の前に出ることすらも叶わない――故に、私はあなたに復讐するため此処に来たのです」
と言って、ホークス牧師の首に手をやり、緩やかにきつくきつく締め上げていった。
「……ガッ……グゥ……」
そうして幽然と意識が昏くなっていく中、ホークス牧師は最後に男の声を聞いた。
「あなたはヘンリーと同罪です。あなたは私から家族を奪った――だから死んでください」
炯々(あかあか)と燃える炎の中に佇んで、ビル・バークホールスターは憔悴しきっていた。彼の近くには、ダニエラ・ホークス牧師の死体が転がっており、彼が落とした燭台の火によって聖堂内は看る看ると炎に包まれていった。
「ああ、ケイティー、私はもう君に会うことはできない、許しておくれ……」
そうして茫然とした調子で妹の名を口にし贖罪を果たしたビルは、聖堂内と外界を隔てた窓ガラスへと視線を遣った。そこには見る者も目を逸らしたくなるような醜悪な顔が映り込んでおり、ビル・バークホールスターはひとり潸然と涙を流したのであった。(了)