9.今どき、往復葉書……
"それ、いいですね"
春を意識した街中のパステルカラーのショーウィンドーに目をやったとき。
横断歩道の向こうからくる女の人の服装の一部に、あの日倉井先生が身に着けていた着物の色を認めたとき。
桜の枝先にたくさんの蕾を見つけたとき。
雲の間の空の青に目を奪われたとき。
"こういうとき、なんて言ったらいいのかしら"
"ボタンが欲しいとき"
卒業式のあとの倉井先生を、僕は唐突に思い出していた。
なんの前触れもなく記憶が再現されるものだから、隣にカンちゃんがいようものなら、
「まーたニヤケてるし」
と呆れた声を上げられることもしばしばで、僕はその都度、力強く反論していた。
好きだと思える相手があるのは素敵なことなんだ、って。
◇ ◇ ◇
高校受験は僕を含めてクラス全員が合格となった。
波乱がなくてなによりだ。
やっと肩の荷が下りたね、と倉井先生に労をねぎらうメールのひとつも打ちたい気分だったよ。
肩の荷そのものからそんなメールが届いたら返事に困るだろ、とカンちゃんからツッコミがあったからしなかったけれど。
三月の終盤には高校オリエンテーションがあって、入学早々テストをやるとか意味不明な日程を申しわたされたから、感傷に浸っている余裕はなかった。
進学校じゃないはず。なのに、なんだこれ?
騙された気がした。
あとで聞いた話では、このあたりの公立高校はどこも入学直後に試験をするものらしい。
入試があって合格したから終わり……じゃないんだ!! と檄を飛ばされているみたいだ。
――そんなわけで。
高校がはじまって、例のテストもどうにか切り抜けて、見知った顔、初めましての顔と打ち解けるべく教室の雰囲気がいくらか和んできたころ。
僕はときどき、身体がここにありながら気持ちだけが遠くに向かう感覚に見舞われていた。
倉井先生は今頃、どうしているかな。
学校に行けばあたりまえに会えていた。
そうじゃなくなる日がくることを頭では知っていても、どういうものか想像が追いついていなかったんだ。
世の中から完全にいなくなったわけじゃないのに、同じ街のなか、それもあの中学校にいるとわかっているのに、僕の生活圏にいないというだけなのに。
ただそれっぽっちのことなのに、圧倒的に足りない。失ったかのようだ。
姿が見えなくて、声が聞こえなくて、もういっそ先生の元に駆けていきたくなる。
カレンダーを確かめるまでもなく、最後に会ってからまだひと月ほどしか経っていなかった。
会いたいとメールしようにも、画面を開いて頭をよぎるのは倉井先生のひとことだった。
"ちょっと重い気がしてきました"
軽いノリの惣山春都が求められているのなら、会うに会えないじゃないか。
卒業式の日に撮った、先生も交えたクラス写真を眺めては口を堅く結んだ。
……会いづらいな。
「好きだと思える相手がいるのは素敵なこと、っておれが暗記するくらい繰り返していたヤツはどこいった?」
と、カンちゃんは言う。
ここにいます、と僕は小さく挙手をする。
厳密には、好きだと思える相手があるのは、だけど。
「会わなければ振られないと考えている臆病者もここにいます」
「記憶は美化されていくぞ。美化された相手でいいなら、おれはなーんもせずに傍観者でいるからな」
高校でも柔道部に入ったカンちゃんは、部活のない日も地域の道場に顔を出している。
そうとは知らずに家を訪ねた僕を追い払わずに部屋に上げてくれたのがうれしかった。
ゆっくりしていけばいいのに、とカンちゃん家のおばさんは言ってくれたけれど、道場に向かうカンちゃんと一緒に小柳家をあとにする。
家に着くなり写真を広げた。
倉井先生は変わらなく美しい。
◇ ◇ ◇
高校では僕は美術部に入った。
もともと卓球の才能はなかったからそっちへの未練はなかった。
入部して意外だったのは、先輩や同学年の部員のレベルと意識の高さだ。
活動はコンクールの年間計画に合わせていて、出品した作品が上位入賞することもよくあるのだとか。
五月の連休にはさっそく合宿がある。旅先でスケッチをするんだそうだ。
高校生ってすごい。僕は中学との差にただただ驚いていた。
「泊りがけで部活とか、運動部みたいだよね」
同じ部でクラスも一緒のカズオミくんは、なにかと行動を共にすることが多くなっていた。
女子みたいな風貌の優男だ。
委員長こと井上健一郎みたいなタイプかと本能的に警戒したけれど、ヤツとは違って空気が読めるし、すぐにぺろっと本音を漏らす僕をいさめるのも感心するほどうまかった。
「どうせ泊まるなら温泉がいいな。僕、中学で卓球部だったんだ」
そんな僕の論点のずれたコメントにも、カズオミくんは、んー、と穏やかな笑みで応じてくれる。
「そういうのってさ、ぎりぎりまで黙っていて、いざ卓球をするときにばばーんって腕前を披露したほうがカッコよくない?」
「いいね、それ。その路線でいこう。それまでは真面目な美術部員の顔に徹するよ」
僕はすっかりカズオミくんに気を許し、梅雨入りするころには互いの家に行き来する間柄になっていた。
こいついいなって相手と出会えるのはそうそうあることじゃない。
とんでもない拾い物をしたようなハッピーな気持ちでいられる。
「惣山くんって、カズオミくん大好きだよね」
とうとうクラスの女子からそんな発言を頂戴してしまった。
僕はもう本当に、犬のように彼に懐いているんだろう。
うん、まあそうだ。
好きだと思ったら一直線。
思いの出し惜しみなんてしないし、転ぶときには前のめり。
僕はそういうヤツだった。
少しのあいだ、忘れていたけれどね。
悲しいような淋しいような、後ろめたささえ混ざった気持ちでまた倉井先生の写真を眺める。
◇ ◇ ◇
梅雨空の合間の晴れの日、この期を逃すまいと僕はカズオミくんと隣町まで足を運んでいた。
このあたりで随一の品揃えを誇る画材専門店があって、部の先輩からも行ってみるといいよと勧められていたからだった。
インターネットでも買えるしね、と乗り気でなかった僕をカズオミくんがまあまあといつもの要領で言い含める形だったのだけれど、人の話ってちゃんと聞いてみるもんだね。
「いいな。ここ」
「うん。扱う物の種類も豊富だけど、それだけじゃなくて」
僕の言わんとしていることをカズオミくんも言いたかったみたいだ。
買いに来ている客の質問に丁寧に答える店員には好感が持てたし、陳列棚の幅もゆったりと取ってあって、全部をまわりやすかった。
品物にしても、見ているだけで、触ってみたい、使ってみたいという気持ちにさせられるし、画材特有の匂いも道具に囲まれていると実感できた。
僕は絵が好きなんだな。
改めて思った。
それに、絵の好きな人がやってくるこの場所が好きだ。
BGMのない静かな店内で、僕らは小声でいいねを連発した。
あれこれ試したい欲を抑えつつ、そうはいってもせっかく遠出したのだからと適当に冒険の入った選択をして会計に向かおうとしたときのことだ。
なぜと問われても答えられない。
気配とも視線ともつかないものに導かれるかのように、僕は振り返った。
通路の向こうに女性が立っていた。
口元に手を当てて、不躾なくらいにじっとこちらを見ている。
フリルが四段入った白いブラウスに灰色の七分袖カーディガン。
くるぶしまでの黒いパンツ。
ローヒールの靴と肩にかけている大きな鞄は揃って紺青。
顎の下までの緩く波打った髪だけが、僕のこれまで持っていた印象と異なっている。
それでも、見間違うはずがない。
「倉井先生」
偶然の再会だった。
「背が伸びているから誰かと思いました」
倉井先生は穏やかな笑みを僕に向けてきた。
その刹那、もどかしく抱えていた想いがせきを切ったようにあふれ出てきた。
自分でもびっくりするような勢いで止めようがなかった。
ほとばしる気持ちのまま口走っていた。
「成長したのは身長だけじゃないよ。ずっと先生に会いたかったけど、会えなかった。勇気が出なくて。中学のときはガキだったから」
ガキだったから無茶ができたんだ。
ほんの数ヶ月前の話を遠い昔話のように言ったことに気づいて、笑われるんじゃないかと思ったけれど、倉井先生はそういう他の大人たちがやりそうなことはしなかった。
ただ耳を傾けてくれた。
春都くん、とレジを済ませたカズオミくんがこちらにやってきた。
「先生。こちらはカズオミくんといって、クラスが一緒で部活も同じ美術部なんだ。今日はそれで画材の買い出しに来たとこ」
僕の紹介に合わせて、こんにちはとカズオミくんが挨拶をし、先生もこんにちはと返す。
「で、こちらは倉井先生。僕の中学の担任の先生。美術の」
なんの気なしに同じ調子で続けていると、惣山くん、と珍しく倉井先生が話をさえぎってきた。
「はい?」
「石黒の姓になりました」
え、という声がして、それが自分のものだと気づくのに少し時間がかかった。
あ、そうなんですか、とか言った気もする。
そのあいだに、お腹の膨らみにいち早く気づいたカズオミくんが、おめでとうございますなんですね、と如才なくかつ微妙な言い回しをして先生の笑顔を呼び寄せている。
「近くに甘味処があるので、よかったらご一緒できませんか。男ふたりじゃ入り辛くて困ってたところなんです。和スイーツならカロリーも低いから、妊婦さんにもいいでしょう?」
僕の横から進み出たこの男はカズオミくんの皮を被った別人じゃないだろうか。
よく回る口が強引に倉井先生を説き伏せて、純和風喫茶店まで来てしまった。
甘味処というのはでまかせじゃなかったんだな、と店のまえに出ているメニューをなんとはなしに眺める僕に、カズオミくんはあとはよろしくと短くささやくと、
「すみません、僕のところバスの本数が少なくて、もう帰らないと。春都くんのこと、頼みます」
じゃ、と漫画でしか見たことのない見事な立ち去りかたを披露してくれたのだった。
このテクニック、恋がはじまりかけているふたりには有効だろうけど、僕と倉井先生のような関係性のできあがっているペアには苦笑しかもたらさなかった。
「あいつね、気配り上手のいいヤツなんだ。僕が倉井先生のことを話してなかったばっかりに、こんなことしてくれちゃって」
横断歩道のあちらを小走りでゆく小柄なカズオミくん。
まぎれもなく、今の学校での一番の親友だ。
なのに、倉井先生への出口の見えないこの恋を一度も打ち明けたことがなかった。
なんでもしゃべっていると思っていたのに――そのことが僕には少なからずショックだった。
ごめんなさい、という声にはっとした。僕の身体に緊張が走る。
倉井先生は僕に向かってもう一度、
「ごめんね」
と言った。
僕を食い入るように見つめていた。
あまり見たことのない種類の真剣なまなざしだった。
店に一緒に入れないという意味もあったんだろう。
けど、そればかりではないのだと、瞬時に悟った。
悟りたくなんてなかった。なんでわかっちゃったんだろう、僕。
これまでは、相手にされないことばかりだった。
からかい口調で、中学生の性欲につきあってられませんと言われたこともある。
らしくなく、ぶっきらぼうなその対応が好きでわざと僕はどんどん迫っていたっけ。
それが――どうだろう。
僕の成長を待っていたかのようだった。
ああ僕、今がそうなんだな。
振られているんだな、と思った。
◇ ◇ ◇
委員長から電話があったのは、八月のある豪雨の朝のことだった。
『倉井先生、無事出産。名前は……』
中学にも連絡網があったんだな、と今更ながらにぼんやり思った。
それに、雨音で聞き取りにくかったけれど、出産と言わなかったか。
聞きなれない単語だった。
僕が耳から入る情報を処理しきれていないというのに、相手はなにやら喋り続けている。
『よかったな、春都』
「うん」
適当に相手をしているうちに電話は切れた。
"名前ははるとだって"
他の元クラスメイトは僕に連絡を寄越さなかった。
気を遣ってくれたんだと思う。
僕のほうからなにか言ってくるまで黙っているつもりだったんだ。
カンちゃんがそうだった。
「やってくれるぜ井上健一郎。そのデリカシーのなさ、いい加減にどうにかしろよな」
ちらりと僕を窺う気配があるも、僕は自宅アトリエで筆を休めることなく鋭意創作中だ。
「どうだ」
「どう、って」
赤みが足りなくて色をパレットに落とす。
ほんの少し欲しいだけ、加減が大事と気をつけたつもりが、混ぜすぎた。
「大丈夫か。愚痴をこぼしたいなら相手してやる」
「泣きたくなったよ」
僕は筆を止めてパレットを遠ざけた。
時計を見ると、時間経過のわりに進んでいない。
「うれしいとかそんなくくりじゃ間に合わない気持ちがぐるぐるしてる」
ひとことで言い表せそうになかった。
カンちゃんにしてみたら愚痴にしか聞こえないだろう。
僕は丹念に自身の胸の内を探った。
その名前をつけた度胸と信念、決めたら絶対譲らない意志の強さ。
ずっとその名を呼び続けるのに、そう決めたってこと。
呼ぶとき、なんの感情も湧き上がらないんだろうか。僕の名前と同じ発音なのに。
そういったすべてを受け入れていくという先生の覚悟を見せられているみたいで、驚かされた。
僕が話し終えても、カンちゃんはしばらくのあいだ無言だった。
「カンちゃんは違うことを思ったみたいだね。当ててみようか。実は僕のことが好きだったのに教師と生徒の関係だから言えなくて、生まれた子を僕の身代わりにしたんじゃないかと思ったんでしょ」
クラスのみんなもそう思ったのかもしれないね、と言うと、
「委員長以外はな」
とすかさず返ってきたから笑った。
すまん、とカンちゃんは謝った。
画材を片づけた。
母に冷蔵庫のなかの果物を食べるよう言われていた。
カンちゃんがいてくれてちょうどよかった。
ひとりだと果物なんて剥く気がしない。
「無花果あるけど食べる? とよみつひめ」
「もうそんな時期か」
「もうそんな時期だよ」
◇ ◇ ◇
高校では三人の女の子とつきあった。
同学年だったりひとつ上だったりしたけれど、みんな僕と倉井先生のことを知らない、別の中学から来た子だった。
そのうちのひとりは、以前僕が声をかけたことのある女の子らしかった。
「ね、憶えてる? 入試のとき、春都くんに試験の出来を聞かれたの」
「憶えてないけどナンパには成功したみたいだね」
あははと彼女は笑い、じゃあつきあっちゃおうよと言った。
僕はそうしようと頷くだけでよかった。
他の子とつきあうときもそんな調子で、僕の片想い期間はゼロ。
来るもの拒まず去る者追わず。
別れ際になって、なにを考えていたのかわからなかったと言われたこともあった。
わからないから惹かれたんじゃなかったの?
もっと知りたいからそばにいたんじゃないの?
思いをぶつける気すら涌かなかった。
もしもこの世からすべての不可解が消えたら、僕だったらなにに対しても興味を持てなくなってしまう。
絵筆は持てなくなる。
幸いなことに世界はわからないことだらけのままだった。
年度予定で最も重要視していた美術公募展で、まさかと思う出来事があった。
二重の意味で度肝を抜かれた。
素晴らしい作品ばかりだったけれど、迫力が群を抜いていたのはただひとつ。
その制作者名には、石黒葉子と名が記されていた。
カズオミくんが肩を叩かれなかったら、一晩中そこに突っ立っていたんじゃないだろうか僕は。
自分の自信作もなにかしらの賞に引っかかっていたけれど、中途半端なものを出品して申し訳ありませんと詫びたくなった。
こんなんじゃだめだとしか思えなかった。
展示スペースから持ち去って、最初からなかったことにしたいくらいだった。
もう一度、やり直さなくては。
受賞した数名を褒めたたえ、次回作への意欲を新たに会場を去る美術部員の最後尾で、僕だけが口を閉ざしていた。
にわかに胸の内に湧き上がった熱いものの正体を持て余していた。
こんなの、ひとりでがんばっているときには一度も出会ったことがない。
力の出し惜しみをすることなく高みをめざしたなかで、これだけやればよしと満足していた。
実際に結果もついてきた。
できたと思っていた。
それが今、覆された。
ある程度のラインまではいけても、もうそこから先へは行ける気がしない。
こんなふうに先生のすごさを思い知られるなんてね。
◇ ◇ ◇
先のことなんか本当にわからない。
思う結果が出ないかもしれない未知への挑戦も、続けてみるべきなのかもしれない。
先生自身が、僕にとっては説得力のある道しるべだ。
違う誰かから千の言葉を向けられても到底敵わない。揺るがない。
そもそも片想いがなかったら、先生への執着がなかったら、受賞作は僕にとってもただのいい絵で終わっていたのかもしれない。
そうだ、きっとこれほどの衝撃は受けなかった――。
改心したおかげか、僕は美大に現役合格し、二年目の夏を迎えることができた。
上級生に変なふうに気に入られてしまい、事あるごとにあちこちのイベントに駆り出され、参加者のような裏方のような曖昧な立ち位置にいて、自分の時間を確保するのが大変だった。
今だってこんなことでもなければ知りもしなかったはるか遠方の島で里山アート共同制作中だ。
海が近いせいか、来る日も来る日も空が際立って青い。
滞在先で昼休憩をとっているところに、実家から同窓会の案内状が転送されてきた。
「委員長、相変わらずだな」
往復はがきの往信側には余計なひとことが手書きで添えられている。
"倉井先生と必ず再会させてやるから来いよ!"
「倉井じゃなくて石黒だっての」
同窓会があるのはカンちゃんや他の友人からのメールで知っていた。
出るか出ないかは決めかねていたけれど。
僕は午後休憩になるのを待って自転車を飛ばし、里山アートに出品する作家たちが滞在しているシェアハウスのような古民家を訪ねた。
囲炉裏のある入口すぐの共有スペースは僕のような学生でも出入り自由で、何度か先輩に連れられて宴会に混ざったこともある。
時計を見ながら暇を持て余していると、待ち人が来た。
「なにか、飲みますか」
「じゃあコーヒーを」
「冷たいのでいいですか」
「はい」
淹れてもらった水出しのアイスコーヒーで喉を潤す。
「こんな葉書が届いたんだ。見る?」
真向かいに座っているその人に、委員長直筆メッセージつきの往復はがきを差し出す。
昔と少しも変わらない笑顔が広がったのを確認して、やっと満足できた。
炎天下、ここまで自転車で駆けつけたかいがあった。
「どうする? 石黒先生」
そう、僕の目のまえでアイスコーヒーのグラスを傾けているこの人は、石黒先生こと、旧姓倉井先生だ。
今では中学校で欠員が出たときだけ臨時で美術教員をしながら、家では育児もしつつ、絵画制作に励んでいる。
大きな賞を受賞したことでその名は広く知れ渡り、いまでは絵画の世界の新鋭作家として注目されているんだ。
この里山アート制作だって島側から招待されて滞在しているというのだからあっぱれな話だ。
しがないいち美大生で授業の一環として来ていて、しかも周りは上級生ばかりでほとんど雑用係になっている僕としては、大きく水をあけられてしまったなあというところだ。
「いろんな作品に触れて刺激を受けて成長してほしくて、先輩も連れてきてくれたんじゃないかしら」
数日前、アート制作者の懇親会の席で僕はつい本音を漏らしてしまった僕に、先生はそう言った。
慰めてもらっても……そんなの言われなくてもわかってら!
「そのうち絶対追いついてやる」
僕が悔しさを露わにしたら、先生は泣き笑いのような顔になった。
「え、ちょ、ちょっと、どうしたの」
「なんでもありません。ただうれしくて」
涙はほんの一滴だけで、気づいた人は僕以外にはなかった。
先生は同窓会の案内状の裏表を代わる代わる見ている。
「今どき、往復葉書……」
「うん。それは僕も思った。……じゃなくって!!」
立ち上がった僕は木目調のテーブルに両手をつき、先生を見据える。
「先生のところにも知らせが入っていたんじゃない? で、行くの? 行かないの?」
日程はアート制作の終盤に見事に被っていた。
日帰りで行くのは自家用ジェットを所有している金持ちでもない限り無理だ。
「中学を卒業して丸四年以上になるんだよ。進学した人もいれば高卒で就職した人もいる。みんな先生に今の自分を見てもらいたいんじゃないかな。先生にとっても刺激になるんじゃないかな」
僕らしくもなく、そんなことを口走っていた。
それは先生にも伝わったようで、じいっと見られて思わず横を向いてしまった。
「あ、別に、先生にも都合があるよね。第一、作品進行に影響するし」
「行きます」
「ほんとに? やった!」
誰に頼まれたわけじゃないけど、まるで僕の説得に応じてもらえたみたいでちょっとうれしかった。
そもそも、僕と先生が同じ島のイベントで活動しているなんて誰にも話していない。
先生は招待作家だから島のイベント情報として告知されているけど、僕まで参加しているとはみんな思っていないはずだ。
「できれば、惣山くんと一緒に行きたいのですが」
「え」
思いがけぬ申し出に、僕はなんの冗談かと思った。
こんなにトントン拍子にことが運んでいいんだろうか。
実は物陰にカンちゃんとか堀柴サンが潜んでビデオ撮影していて、見世物として同窓会の余興に使うとか……。
あり得る。おおいにあり得る。
「四歳児を抱えての長距離移動は大変なので、いてくれると助かります」
「ああ。そっちか」
極めて現実的な理由を示されて、やっぱりねと思う。
先生の息子のはるとくん、本名は石黒大翔と書く。
漢字だと僕とは似ても似つかない。
島が過疎地域のため、幼稚園でも快く滞在中の大翔くんの短期預かりを受け入れてくれたそうだ。
「ずっと気になってたんだけどさ」
聞くなら今しかない。
僕は自分の声が震えないように気を張って尋ねた。
もうあのときから何年もたっていたから、普通に聞いても動揺は声に出なかったかもしれない。
けれども自分の心がどう動くかまったく見当がつかなかった。
「はるとくんの名前の由来は、僕と関係ある?」
今にして思えば、ただの自意識過剰って気もする。
はるとなんてよくある名前だ。
百人いたらひとりかふたりいてもおかしくない。
急に恥ずかしくなってきて、ほら、と言葉を重ねる。
「卒業生のあいだでも気にする人は多かったみたいなんだ。どういうつもりなんだって、直接先生に問いただす気満々の女子もいたらしくて。やめろって、僕が先生に聞くまでそういうことしないでってカンちゃんを介して伝えたら、そのときはみんなどうにか心の内に収めてくれたんだ。そういう経緯もあって、まえから聞きたかった」
テーブルの上で組んだ指先がそわそわしだした。
僕はなんて答えてほしいと思ってる?
関係ある? 無関係?
ただの偶然なら、それはそれで淋しい。
もっとも、先生が嘘をつくことだって考えられるわけで――。
「素敵な名前だと思ったからです。あの中学で惣山くんが呼ばれるたびに、いつも思っていました。男の子が生まれるならはるとにしようって」
まさか。まさか。
ど直球な回答が返ってきた。
ごまかすことだってできるはず。
なのに先生は僕を前にしても平然と言い放った。
僕の名前と同じ発音を聞かされて、僕の顔はひとりでに熱くなる。
僕のことじゃないのに!
でも、嫌じゃなかった。
たとえ名前であっても、僕の一部が先生に好かれていた。
今すぐ駆け出していきたいくらいに嬉しい事実だった。
「ずるいなあ」
駆け出す代わりに僕は笑い出していた。
「面と向かってそんなふうに言われちゃ、もうなんにも言えない。わかるよ。先生の言いたいこと。いいと思ったからそうしたって」
気弱そうにみえて、やりたいように生きる人。
欲しいものは手に入れる人。
心の揺らぎの忠実さが絵にも表れている。
「でもさ、その理由は他の人たちには言えないよね」
常識やモラルの欠如と言われかねない。
それは先生のほうが重々承知していたようで、
「黙っとくよ」
と一応言った僕に、そうしてください、と深々と首を垂れた。
そうしてふと時計を見あげた。
そろそろお迎えの時間のはずだった。
「行ってらっしゃい」
僕は先生に手を振って送りだした。
コーヒー飲んだらおいとまします、と言い添えて。
僕はとても穏やかな気持ちで先生と先生の息子の生活を見守ることができていた。
数年前には決して想像できなかった未来が今ここにあった。
やっぱり、先のことってわからないものだ。
さて、そろそろ持ち場に戻らないとさぼりがばれてしまう。
僕はアイスコーヒーを一気に飲み干し、グラスをすすいで洗い籠へ伏せた。
テーブルに四角いものが見えた気がして戻ったら、案の定、大事なものを置き忘れていた。
同窓会の案内状。
坂の途中のポストに投函していけばいいか、とバッグをあさり、先の丸まった鉛筆を握る。
僕は出席に丸をつけ、高校卒業以来帰っていない故郷と中学時代のみんなを素直な気持ちで思い出していた。
― 彼方の蒼・了 ―