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彼方の蒼  作者: 生駒美汐
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8.特別な光

   ◇   ◇   ◇


「学校出てすぐの家じゃなかったっけ?」


 何気ないひとことで僕は墓穴を掘ったらしい。

 じゃあ春都行けよ、とどこからともなく声が上がった。


 ここ三、四日、クラス委員こと井上健一郎が無断欠席をしていた。

 理由はみんなが知っている。

 推薦入試前日あたりから彼はインフルエンザにかかり、試験が受けられなかったんだ。

 それを苦にして、完治してもそのまま欠席を続けているらしかった。

 気持ちの整理がつかないんだろうな、とひそひそと声が聞こえるのもしばしばで、気の毒に思う気配は教室内に広がりつつあった。


「最近仲いいじゃんおまえら」

と別の方向からも声が聞こえて、違うと否定したところで誰が信じてくれるだろう。

 完全に、僕が行くしかない雰囲気になった。

 もう放課後で、真っ直ぐ家に帰るつもりだったのに、今日はついてない日だ。


 

 給食の残りのパンを携え、僕にとっての対委員長的守護神カンちゃんを連れて、井上家を訪ねた。


「お邪魔しまーす」

「は。な、なんの真似だよ」


 委員長はジャージ姿で面食らっている。

 その右と左をカンちゃんと僕で同時に通り抜け、家に上がりこんだ。

 はいこれ、とコッペパンを差し出すと、間髪入れずに問い返された。


「プリンとかは」

「ねーよ」


 絶対人選間違ってるだろ、とカンちゃんはぼやくと、委員長そっちのけで階段をのぼりはじめる。

 僕に至ってはカンちゃんのとき以来、今月二度目のお見舞いだ。

 月に二回って多いよな。そういう運気なんですかね?



「おい、勝手に行くな」


「おまえの部屋、こっちであってんだろ。親の寝室とか覗く趣味ねーから、やばいと思うなら先行けよ」


「なんて図々しいヤツなんだ。お邪魔しますくらい言ったらどうだ」


「言ったよ、なあハル?」



 委員長の部屋はドアが開きっぱなしになっていたからすぐにわかった。

 想像よりも少し散らかっていて、委員長も生活している人間なんだなと妙なことを思っているうちに、お茶が運ばれてきた。

 といっても、運んだのは委員長だ。

 緑茶三つの乗ったお盆をカーペットに置いて、飲めよとつっけんどんに言った。




「委員長って進路どーすんの?」


 カンちゃんがお茶を一気にあおると、単刀直入に言った。

 あ、これはさっさとけりをつけて帰る作戦だ。 


「知っているだろう。第一志望不合格だったんだ」

「知ってる。で、どうするのかと聞いてる」


 委員長はなにも言わない。


「考えてないわけじゃないんだろ」

 それでもなにも言ってこなくて、そのまま数分が経過した。


「まさか考えてないとか」

 重苦しい雰囲気に耐えかねて僕が言うと、

「おまえに俺の気持ちがわかってたまるか」

と、間髪置かずに睨まれ、言い返されてしまった。


 沈黙を打破しようと気を遣ったのにな。

 僕もカンちゃんに倣って湯呑の中身を飲み干した。

 意外にも、ほどよく温くて飲みやすかった。



「勉強ができなかったのが原因じゃないんだ。体調を整えてもう一回受験したら、どこにだって合格できるだろ」


「簡単に言うな」


 これでも考えてしゃべってるんですけども。

 言いたいのを堪えて、言うべきことを僕は言う。


「合格したら、もともと志望していた学校にあって今の学校にないものを、不足分を身につけていけばいい。それだけのことだろ」


 内山のことを考えていた。

 内山と話したあの日に僕が得心したように、委員長にも伝わればいいと思った。


「大人の力を借りてでも、進みたい方向に行くんだよ。協力者を見つけるんだ」

 

 人選ミスだね。

 今の委員長に会わせるべきなのは僕でもカンちゃんでもない。

 内山を連れてくればよかった。


「俺はもうだめなんだ」

「なんでそう思うの」

「落ちてしまった。不名誉極まりない。親に申し訳が立たない」


「親は関係ない」

とカンちゃんが言えば、僕も続いた。

「くじけて立ち直れないのを親のせいにしているみたいだ。僕はそう思ったよ」



「誰だって落ちたらショックだよな」

 その帰り道、カンちゃんは珍しく委員長の肩を持つようなことを言った。

「本命だめで平気なヤツなんて、いんのかよ」


 そうだね。

“おまえに俺の気持ちがわかってたまるか”

 委員長は僕だけを向いて言った。

 カンちゃんには言ったつもりはなかったんだ。

 カンちゃんも、推薦入試を受けられなかったという意味では同じ立場だったから。


「僕もああまでカッコつけた手前、もう親の離婚のことでいじけられなくなったよ」


「っていうかさ、ハルはまず受験勉強だろ」


「ん」



 もっとも、倉井先生の行動は僕たちよりも早かった。

 すぐさま井上家で委員長本人とご両親とで話し合いをし、僕らが見舞ったあの時点で委員長の出願書類をすでに揃えていたんだとか。


「先生が先生にみえる」

「私はいつでも先生ですよ」


 微かな笑顔で倉井先生は僕を一瞥し、素っ気なく職員室へ入っていく。

 僕はその後ろ姿を見送るだけだ。

 卒業まで二週間を切っていた。



   ◇   ◇   ◇


 公立高校一般入試の前日、僕はカンちゃんの家でげん担ぎのトンカツをご馳走になった。

「緊張してるか?」

「まさか。まだ前日だろ」

「おれはしてる」

「柔道やってる猛者が?」

「柔道やってる猛者が」


「カンちゃんは受かるよ。波乱はもうない。いらない」

「波乱かー。落ちたら波乱なんだよな。フツーにやりゃ負けねーよな、ハルもおれも」


 普通にやれば負けない。

 呪文のように唱えながら、家まで自転車をこいだ。

 入浴を済ませると21時になっていた。

 携帯を開くも、なにもしないで寝た。


『私はいつも先生ですよ』


 僕がお願いしなくても、倉井先生のことだ。

 きっとみんなの合格を祈っている。



   ◇   ◇   ◇


 受験会場の高遠高校には、受験をする生徒に混ざって2組の担任の姿があった。

 正門に着いたところで他校に行っているはずのカンちゃんにメールを送ると、折り返しで電話がかかってきた。


 カンちゃんはおはようじゃなく、ビンゴと言った。

 えっと、それはどこの国の朝の挨拶?


『だからあ、ビンゴだよ。こっちの引率、倉井先生だ。電話、代わるな?』

 急な申し出に、柄にもなくどぎまぎする。


『おはようございます』


「おはよう、先生」


 こういうの、やってみると照れくさい。特別な日だからって電話で声が聞けるとか、やってて恥ずかしい。


『昨日はしっかり眠れましたか』


「あ、はい。それは」


『普段通りにやれば大丈夫』


 喜びが広がっていく。倉井先生が僕のことを考えてくれている。

 ありがとうと言いたいけれど、まだ早い気がした。合格してから伝えたい。

 代わりに、自分にできることをして倉井先生の役に立とうと思った。


『惣山くん?』


 ほら、名前も呼んでもらえたし、充分だ。


「先生。電話、クラスのヤツに代わってもいい? 不安そうなのがちいらほらいるからさ。先生の声が聞けたら、少しは落ち着くと思うんだ」


 僕は近くにいたマッキイに携帯を差し出した。


「やる」

「誰?」

「倉井先生」

「えっ? あ、先生! 先生ですか!?」


 横にいる内山の視線を感じて、なにを言われるかと身構えていると、

「次、代わってもいい?」

「どうぞどうぞ」

 

 やりとりに気づいた生徒が続々と寄ってくる。

 誰? 倉井先生? いいなあ、なんて声が聞こえる。



   ◇   ◇   ◇


 試験はよくできた。

 手当たり次第に感触を尋ねてまわると、いつもよりできたという声ばかりで逆に焦った。

「惣山くん、他校に知り合いが大勢いるんだね」

 感心したふうに内山に言われた。


「なんでそう思うの」

「だってあちこちで話しかけてたし。違うの?」

「試験の出来を聞いてただけだよ」

「え」


 内山の後ろでマッキイが声を立てて笑っている。

「知らない人にそんなこと聞く?」


 このことはあとで多方面から突っ込まれることとなる。

 合格発表は約二週間後、その前に卒業式だ。




   ◇   ◇   ◇


「でもさ、この日程どうなのかな」


「受験まえに卒業式するよりなんぼかマシじゃねえか?」


 堀柴さんとカンちゃんが立ち話をしているところに僕も加わることにする。


「落ちた、受かったの線引きがはっきりされるまえに同じ境遇で臨めるのはありがたいよ。自分だけ決まってないとか、嫌だよ」


 それもそうだね、と堀柴さんはあっさり言った。


 式がはじまる直前の教室で、僕たち三年生は似合わないピンクの造花を制服の胸につけてそわそわしている。

 登校時に持ってくるものもほとんどないから鞄のなかは空っぽに近くて、忘れ物をしているんじゃないかと落ち着かない気持ちにさせられていた。

 そんななか、写真を撮ろうと気の早いヤツが言い出して失笑を買っている。

 卒業証書をもらってからでないと様にならないだろ、とどこからともなく声が上がった。



「制服のボタンもまだ女子に渡せねえな」


 カンちゃんが真顔で僕にだけ聞こえるくらいの声で言った。


「え。カンちゃん誰かにあげるの?」

「欲しいってヤツにはやるよ。おまえは?」

「欲しいってヤツにはやるよ」


 お互いに顔を見合わせて笑う。

 わかんないよ?

 バレンタインチョコゼロから人気急上昇してたら、わかんないよ?



 順調かつ厳かに、式次第通りに卒業式は進んだ。卒業証書も受け取った。

 卒業生代表の挨拶は他のクラスの男子生徒が務めた。元生徒会長だ。

 うちのクラスの委員長じゃないのか、と思って委員長の様子を探ろうとしたけれど、確かめるのは悪趣味だと気づいて途中でやめた。


 こういう役、好きそうだとは思う。

 だけど、なにもかもを望みのままにすることなんてできない。叶わない願いもある。



 卒業生合唱では柄にもなくあがった。

 冷え切った体育館はストーブをいくつ置いてもちっとも暖まらなかったのに、ステージに設えられた段に上ると照明の熱を感じた。

 上から照らされると当然のことながら明るくて眩しくて、それだけ注目を浴びているということで、前方からの視線を受け止めがたいくらいに感じ取ってしまい、一曲目は頭の中から歌詞が何度か飛んだ。


 二曲のうちの最初のほうが内山のピアノ伴奏だ。

 ごめん内山。僕は心のなかでこっそり謝っておいた。

 角度がきついのとグランドピアノの蓋が邪魔しているのとで内山の姿はほとんど見えなかった。


 内山は練習と寸分と違わぬ音を響かせていた。

 ケンカの負傷休暇中の僕にびびっていたあの内山と同一人物とはとても思えない。

 肝の据わりかたがすごい。

 今のうちにサインもらっといたほうがいいかもしんない。


 少しの静寂を挟み、二曲目のピアノ伴奏が流れる。

 さすがに終わりを意識した。

 この歌のあと、僕たちは――。




   ◇   ◇   ◇


 倉井先生と初めて顔を合わせたのは、一年の美術の授業のとき。

 他の教科はぱっとしなかったけれど絵を描くのだけは得意だった僕は、とにかく美術の先生に褒められたかった。


 このあいだまで小学生だったガキでもこんな絵が描けるんだと驚かせたかった。

 先生が視界の端にいようと、見えない場所にいようと、僕は気配を嗅ぎ付けてどこから攻められても対応できる超人みたいに神経を張り巡らせていた。


 それでいて近づいてきた先生が画板の上の画用紙に目を落とそうものなら、即座に身体が固まって、たとえ話しかけられたとしても満足に返事もできなかったんじゃないかってくらいに意識していた。


 今からではとても考えられないよな。

 倉井先生もあのときの生徒が僕だって実は気づいていないかも。

 まあさすがにそれは、ないか。



 倉井先生は一度として僕の絵を褒めなかった。

 僕よりも観察が足りなくてなんとも言い難い大雑把な描きかたの他の生徒には、具体的に指で示して、このあたりがいいなんて言うくせにだ。

 この人、絵には疎いのかなって思った。彫刻や現代芸術が専門とか。

 この無反応ぶりはそうとしか考えられなかった。



 クラスのヤツらは僕の肩口から絵を覗きこんでは幼稚な言葉で大袈裟に騒いだ。

 いくら誉めそやされても、欲しい人からの声は一向にない。

 いい気分にはなれなかった。


 やがて、超うめーとあっさり言うヤツほど適当な絵を描いていることに気づく。

 僕が見ても繊細な描写をするような子は静かにひとこと言うとか、質問をしてくるとか、そうでなければ黙ったままため息を漏らすかのどれかだった。



 一学期を終えてもらった通知表を開くと、美術には10がつけられていた。

 10段階評価の10。最高評価だ。


 見てくれていたんだ。

 ちゃんと評価してもらえた。

 僕は一気に顔が熱くなるのを感じた。


 全然興味なさそうだったのに、絵を見てもただのひとことも褒めなかったのに、なんだよ。

 先生なりの考えがあってそうしていたってこと?



 だとしたら、僕はこれからどんな絵を描いていったらいいんだろう。

 たとえば、たとえばだよ?

 先生が先生としてではなく、ただの一人の人間に立ち返るしかないような、理性がぶっ飛んじゃうような絵とか?


 ――それがどういう作品かは見当もつかなかったけれど、そのときの僕は自分の思いつきに夢中になっていて、ほかの科目が片手で足りる数字であることなんて気にもならないほどの高揚を覚えた。

 やってやろう! って思った。


 こんな気持ちにさせられたのは初めてで刺激的だった。

 倉井先生が好きだとはっきり自覚したのはそのときだ。



   ◇   ◇   ◇


 指揮者から一度目を外し、館内に視線を泳がせる。

 今日の倉井先生は髪を後ろでまとめあげ、今様色の無地の着物に濃紺の袴という正装だった。

 持ちまえの清楚さが際立つ装いは、探すまでもなく目に飛び込んでくる。

 卒業生の担任席にその姿はあった。

 倉井先生の小さいその口が控えめに動いている。

 一緒に練習したほうの歌だから歌えるんだ。

 

 ああもう、誰か気づけよ。

 そんな狭いとこで口パクで参加しているその人をこっちへ連れてこいよ!


 もういっそ、僕が段の裏を回りこんであっちまで行ってやろうかと本気で考えた、そのときだ。



 女子の端からひとりが外れて、動いた。

 はじめからそうする手筈だったようになんの違和感もない自然な振る舞いで倉井先生の手を取ると、自分の元いた位置の真横に連れてきた。


 誰か知らないけど僕の念を受けて行動してくれてありがとう!

 君は最高だ! 誰か知らないけど!



 この期に及んでモチベーションが上がるなんて思いもよらなかった。

 信じられないのと感動とでのどが詰まりそうになりながらも歌に返る。

 聴きわけられるはずのない倉井先生のメゾソプラノを声の群れに探す。

 そこにあると思うだけで胸がいっぱいになる。

 それぞれ道別れても、の歌詞で危うく泣かされそうになる。


 何十回と歌ってきたのにそれまでとは全然違った。

 真剣に、大声で主張しないように響きを大切にして、音を聴いて、女子の声の重なりを聴いて、周囲の男子と歌を揃える。


 夢中だった。

 大勢で作りあげる音の真っ只中にいられて幸せだった。


 もうここでやり残したことはない。

 なにもない。

 清々しさに駆られながらおしまいまで歌った。




「内山」

 舞台から卒業生の席へと戻るときに確かめた横顔にやっぱりと思った。

 歌いながら、そうじゃないかなって気がしていたんだ。

 倉井先生を卒業生と並んで歌わせたのは、うちのクラスの内山だった。


「内山、ありがとう。なんか僕、感無量でもう。もう。なんて言ったらいいのか」


 卒業生退場の演奏に合わせて体育館から出たあと、列を崩して教室まで流れていく人並を縫いわけて突き進み、僕は感謝を伝えた。


「惣山くんのためじゃないから」


 口では言いつつも、僕に言われて感情が高ぶった部分はあるみたいだ。

 あっという間にぶわっと目に涙が浮かんで、そうなった本人が一番慌てていた。

 好奇の目にさらされないように壁際に寄せてやると、内山のほうも少し上に視線を向けるというわずかな動作だけで、泣くのを堪えてみせた。


「他の先生に怒られたら惣山くんのせいにすればいい」

「は?」

「って、今日子ちゃん言ってたし」

「今日子ちゃん? あ、堀柴サンか」


 さすが。

 その堀柴さんは集団の先にいるようだ。

 あの人にもひとこと言ってやらねば。


「でも、緊張した。ピアノ弾くより緊張した」

 内山は濡れた目をしたままふっと息を吐いて笑ってみせた。


 こいつって実はいいヤツかも、と思ったのも束の間、今度はこんなことを言いだした。


「あと、今さっき惣山くんに呼び止められたときも緊張した」


「なんで?」


「怒りの導火線がどこにあるのかわかんないから。殴られるかと思った。怖い」


 身をすくめてみせているのは冗談だよな?

 僕だって乱闘ネタがこんなに尾を引くとは思わなかったよ。

 忘れてよ、頼むから!




 3−3教室に戻ると、部屋の後ろに全員の保護者を入れての最後のホームルームとなった。

 倉井先生の話が終わり、解散となるや否や、クラスのみんなで記念写真だ。

 集合写真から仲間同士のものへと変わり、デジカメや携帯の持ち主がわからなくなる勢いで撮りあっていると、制服を小さく引かれた。

 ちょっといいかな、と堀柴サンは僕とカンちゃんを同じ階の渡り廊下まで連れていった。



「ボタンを1個ずつください」

 

 僕とカンちゃんは同時に吹き出した。

 呼び出しのシチュエーションからしてそれかなと予想はあったけど、まさかこうくるとはね。


「そんなねだりかたがあるのな」

とカンちゃん。

「今川焼でも買ってるみたい。小倉とクリームひとつずつ、みたいな」

と僕。


「角が立たなくていいでしょ」


 堀柴サンは涼しい顔をしている。

 口笛でも吹きそうに、口を尖らせて。


「もしかしたら片方はカモフラージュで、片方が本命かもよ?」


 話の流れを用意していたのか、堀柴サンが言い終わるころには僕たちふたりのブレザーのボタンはひとつずつ、彼女の手のなかにしっかり収まっていた。

 やっぱり返してと冗談めかして言っても、手を後ろに回して真面目に拒まれる始末。


「お守りにする」

と、どこまで本気かわからない堀柴サン。

 カンちゃんのはともかく、僕のボタンを持っていてなにかいいことあるんだろうか。


 尋ねようとして、あれっと思った。

 堀柴サンも気づいた。

 ボタンふたつを片手でいっぺんに握っていた。

「やっちゃったああ!」

 どちらがどちらのものなのか、わからなくなってしまった。




 堀柴サンに続いて、僕は内山からもボタンが欲しいと言われた。

 欲しがる人にはあげるって話を聞いていたんだろうか。

 うっかりしたことを言ってまた導火線云々と怯えられるのも嫌だから、いいよとあっさり渡す。

 内山は僕のブレザーの一番上、ボタンがすでになくなっているあたりに目を留めた。


「倉井先生にあげたの?」


 違うよ、と僕は笑った。

「あ、まずかったかな。僕に本命いるのに、別の子にあげたのってよくなかったかな」


 そりゃそうでしょ、と僕のぼんやりな対応を内山はちゃんと笑ってくれた。



「でも意外。倉井先生に惚れこんでいるのを知っててももらいにくる子がいるんだね」


「内山だってそうじゃないか」


「私のはそういうんじゃなくて。思い出作りでもなくて。笑わないって約束できる?」


「勿論」


「まえに惣山くんに音楽の道の話をしたから。気持ちを忘れないようにっていう、誓いのようなもの?」


「あー、いいね。美しい」


 畑こそ違うけれど、内山とは共感できるものが多い。


「そう思ってくれる?」

「うん。思う。僕のでいいのなら光栄だ」


 ――というか。


“もしかしたら片方はカモフラージュで、片方が本命かもよ?”


 堀柴サン。そうなの?

 僕が倉井先生を好きでも、僕のボタンが欲しかったの?

 お守りにすると言ったときのいつになく硬い表情が記憶によみがえる。


 くすっと内山が忍び笑いをした。


「でもその恰好を見て倉井先生がどう思うか、見ものかも」


「やきもちを焼くかもしれない、って?」


 堀柴サン。そうなのか?

 君って人はそこまで考えて、倉井先生に嫉妬させるために僕からボタンを取ったの?


 混乱して黙り込む僕に、内山はなにか勘違いをしたみたいだ。

「あんまり期待しないほうがいいと思うよ」

 妙な気遣いをしてみせた。




 いずれにせよ、倉井先生と話すつもりだった僕は、在校生の待つ正面玄関からの花道の隅に倉井先生を見つけた。

 紺色の制服と時折目につくスーツや着物の先生や親たちに混ざっても、倉井先生のいるそこだけは凛とした気配が漂っている。

 僕なんて、ぼーっといつまでも見ていたいくらいだ。

 あの様子だとひととおりの挨拶は終わっていて、一時的にその場を離れてもよさそうだった。



「そーやまくん!!」


 遠くからでっかい声が響いた。

 なにごとかと振り返って探した先のベランダにいたのは堀柴サン。


「そーやまくん! 負けんな!! がんばれ!!」


 がんばれ、がんばれ、となおも繰り返す堀柴サン。

 僕に聞こえてないはずがないのに、馬鹿の一つ覚えみたいに、身を振り絞るようにしてちぎれんばかりの声で叫んでいる。

 無理な発声だったのか、声が裏返っている。

 

 聞きつけたクラスメイトもベランダにわらわらと集まってきた。

 僕の姿は勿論のこと、そばに倉井先生がいることにも気づいて、ははーんって感じで薄笑いを浮かべている。

 どいつもこいつも。


「惣山、いけー!! 行ってこーい!!」


「ファイト―!!」


「頑張ってー!」


 みんなが知っている僕の片想い。

 倉井先生とふたりきりになろうとしていることまで、なぜかばれていた。

 ベランダの人だかりは後ろに立つ人が伸び上ってまでこちらを注目している。

 隣のクラスや他学年のベランダにもなにごとかと人の姿が見えはじめた。


「わかった! 行ってくる!」




   ◇   ◇   ◇


「で、どうしよっか」


 3月とはいえ今年の春はのんびりしている。

 桜もまだ僕らの目を楽しませてはくれなくて、蕾の気配だけを漂わせていた。

 おかげで校舎の裏手にある川を臨む土手には先客はなく、僕と倉井先生とで眺めを独占できた。


「来月には僕は倉井先生の元・教え子になるから、今までみたいな遠慮はいらないよね。つきあってるのがばれたら退学だとか先生がクビにされるとか、そういう心配がなくなる」

 

 川面から照り返されるやわらかな白い光が眩しくて、目を細めたくなる。

 春は近くまできている。


「順当にいけば僕は高校生になっているはずだ。うん。きっとなってる。自由恋愛解禁!」


 僕の言っている意味がわからないはずもないだろうに、倉井先生はさっきから黙ったままだ。


「どうする? どうする?」


 右から左から、顔を覗きこんでみた。


「僕ら、つきあっちゃう!?」


 勢いで着物の袖から覗く指先をつかみ、両手を繋ぐ。

 簡単なことだよ。先生。

 うん、とひとつ頷けばいいんだ。



 つきあおうかという明確な質問に、倉井先生は初めて反応を示した。

 ふるふると首を横に振った。


「あーまたそんなリアクションして。恥ずかしがらなくていいんだよ?」


 僕は両手をぶーんぶーんと持ち上げてはしゃいでみた。

 繋がれたままの倉井先生の両手も一緒に上がった。


「惣山くん」


 明るく楽しく元気よく、ハイテンションでかかるつもりだった。

 なにを言われてもそれでかわしてすっと迫っちゃえと思ってた。


 現実は必ずしも思うようにはいかない。

 倉井先生に名前を呼ばれた途端、潮が引くように落ち着いていき、僕の顔から笑いが消えたのがわかった。


「恥ずかしがらなくて、いいのに」

 繋いだ手を離した。




 一番近くにあった木製のベンチに並んで座った。

「惣山くんの気持ちはよくわかりました。今度は私の話を聞いてください」


 真横に呼吸をするのを忘れるほどに美しい和装の倉井先生がいる。

 なのに、情けないことに僕にはそちらを見る余裕がなかった。

 スニーカーの先で芝生を撫でながら、いいよとぶっきらぼうに返事をした。



「もともと私は油絵をやっていました。それ一本でやっていく覚悟もなくて、就職活動の一環として中学校の美術教師の資格を取ったくらいです。なにかの役に立つかもしれないと思っただけで、そのときは教師になるつもりはありませんでした」


 どうしてそんな話を僕にするんだろう。

 面食らったまま、僕は耳を傾ける。



「採用試験にも受かりました。そうなると、画家か教師か、どちらかを選ばなければならないと感じました。両立といえば聞こえはいいですが、画家の道が閉ざされたときの保険として生徒に絵を教えるようでは軽薄だと思ったからです。私が選んだのがどちらか、言わなくてもわかりますよね」


 倉井先生が選んだのは美術教師のほうだった。

 そういえば僕は倉井先生がどんな絵を描くのか全く知らない。


「絵を諦めた気でいました。でも少しまえから、諦めたはずだと自問自答をしていました。まだやれるはずだと見苦しくも主張する若くて青い自分がいて、見たくなくても見えてしまう。誰にも言えなくて苦しかったし、諦めるしかないんだと言い聞かせていました」


「描いちゃえばいいのに」


 僕は初めて口を挟んだ。

 諦めるしかないとか、僕には理解できない感覚だった。

 趣味で続けることのどこがいけないんだろう。



「そう言うと思いました」


 早い間合いで倉井先生は言った。

 嬉しそうな声に聞こえた。


 おやっと思って見ると、打ち解けたような優しい笑顔があって、僕はどぎまぎしてまた顔をうつむけなくてはならなかった。

 見つめたいのに直視できなくて、狂ったように鼓動を早めるこの心臓を持て余していて、愛しいのに苦しい。



「惣山くんならそう言うだろうと何度も思いました。瑞々しくて、それでいて人がためらうことも平気でやってのける、常識に縛られない自由な人。学生時代、美術を専攻している人と何人も知り合ってきましたし、風変わりな人も多くいましたけれど、惣山くんはそういった人たちと遜色ないくらいの個性を持っていると思います。特別であろうとしなくても、特別な光を放ってしまう人」


 苦しまま倉井先生を見た。


「そんな人から背中を押されたくないんです」


 僕を目を合わせると、涙を堪えているのか目の淵を赤くした倉井先生が無理に笑顔を作ってきた。


「わかりますか」


 僕は返事に窮してゆっくりと首を横に振る。


「そんな急に褒め言葉の大盤振る舞いされても、呆然とするっていうか。頭が回らないっていうか」


 じきにわかります、と倉井先生。


「そうこうしているうちに、少しおつきあいの真似事のようなことをさせていただいていた石黒先生の子供を妊娠して」


 おつきあいの真似事、と言うとき、言葉を見つけるのに時間がかかった様子だった。


「妊娠したことで今後の見通しが制限されて、教職を続けることさえ危うくなって、諦めるどころかこれで完全に道が絶たれたと思いました。気持ちの整理が中途半端だったのだと思い知りました。周囲の生徒たちは受験まであとわずかだし、お腹の子は私がくよくよしているあいだにも成長を続けている。私個人のことで後悔したり四の五の言ったりしているときではありません」


 これはあれだ。決意。


「認識を改めようと思いました。彼か彼女かわからない、お腹のこの子がチャンスをくれたのだと。もう迷わない。私はこの子に恥じない人でありたい。いろんなものに触れ、貪欲でありたい」


 倉井先生の決意のほどが、言葉の端々から伝わってくる。


「もう一度、絵をやります。教師も辞めずに続けます。もう来なくていいですよと言われるまで。塾の先生でも非常勤講師でもなんでもいい。絵に夢中になっている子供たちと関わっていたいんです。あなたのような人と出会えるのは楽しいから」


 言えるのはそれだけです、とおしまいの合図のように倉井先生は告げた。


 女の人はずるい。

 流麗なしゃべりで人を気持ちよくさせてしまう。

 寡黙な人だったんじゃないのかよ。

 だんまりで来ていて、ここにきてこんな。

 こんなのずるい。


「どうしてそれが僕の告白への答えなんですか」


 好きも嫌いもないなんて、どこまで焦らす気だよ。


「あなたは3月31日まで中学生だからです」


「おまけに進路が確定していないから?」




 倉井先生は答えなかった。

 代わりに、今初めて気づいたかのように唐突に話題を振ってきた。


「それ、いいですね」


 僕のブレザーのボタンが取られた痕跡を言っているようだ。

 気勢を逸らされながらも、僕は話に乗ることにした。


「先生が学生のころにも、こういうしきたりあった? もらいに行った?」


「ありましたね。もらいには行きませんでしたけれど」


「えー? そこはほら、勇気出さなくちゃ!」


「相手がいなかったんです」


「つきあってなくても、片想いでもいいらしいよ」


「それもなかった。好きだと思える相手があるのは素敵なこと。どんな事情があれど」



やばい、と僕は口元を押さえてうずくまる。


「一瞬、振られてもしょーがないやって思っちゃった」


 流されるな流されるな、と僕は声に出しながら頭を抱える。



「こういうとき、なんて言ったらいいのかしら」

「なにが」


 つっけんどんな物言いの僕に、倉井先生は驚くべき発言を寄越した。


「ボタンが欲しいとき」


 聞き間違えたかと思った。

 信じられない思いで僕は頭にやっていた手をベンチの背もたれと座面に移すと、倉井先生ににじり寄る。

 十数センチの至近距離で見つめあうこと数秒。

 そのあいだ、先生はなんの衒いもなくただ僕を純粋に見つめていたし、僕からの視線も真っ直ぐに受け止めてくれた。


「先生」

「はい」

「もう一回言ってくれない?」

「……やっぱり、いいです」


 ふっと覚めたように倉井先生は顔を背けた。


「ああもう、わかった。わかったから受け取ってよ」


 僕は急いでボタンをむしり取ると、先生の手に押しつけた。

 欲しいって言われたからあげたはず。

 なのになんでこーなっちゃうんだか。


 渡されたボタンをじっと見ていた倉井先生は、どうしても僕のブレザーのボタン跡に目が行くようだ。

 気になる? 妬いてる?

 なにか言ってよ。この沈黙が嫌だ。

 結局、僕が視線に負けた形で弁明をすることに。


「違うからね。知っていると思うけど、僕は倉井先生一筋で、これは欲しがる子がいたからあげちゃっただけ。ほら、今日は無礼講で」


「ちょっと重い気がしてきました。返します」

「だーめ。返品不可」

 

 そう、返品は不可。

 僕のボタンが欲しいと言ってくれたのも訂正不可だよ、倉井先生。



 雲間から太陽が顔を出したのを潮に、僕は立ち上がった。

 倉井先生をエスコートするかのように片方の手を取り、みんなのいるほうへ戻るよう促した。



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