7.恋してるからね
バレンタインデーの収穫は、僕とカンちゃんのぶんを合わせてもゼロだった。
「受験生だからな」
とカンちゃんが言い、
「不景気だしね」
と僕も話を合わせた。
大本命からもらえないのなら、別にどうだっていいイベント。
だけどライバルの現況は気になる。
そういうときに限って、ばったりと出くわすものだ。
現場は保健室前――敵地だ。
風邪が流行していて、なかなか繁盛している様子。
僕とカンちゃんは体育の授業からの戻りだった。
「元気そうだな」
と、石黒。
「学校に来れば、毎日会えるから」
と、僕。
石黒は軽く頷いて、僕の顔を観察した。
良心の呵責か、単なる保身か、わからない。
昏倒するほどの力で石黒が僕を殴ったことは、カンちゃんにしか喋っていない。
黙っていたら、カンちゃんは僕の怪我の全部が自分のせいだと思い込んでしまうから、言わずにはいられなかった。
石黒は言った。
「綺麗になったな」
僕も答えた。
「恋してるからね」
「傷跡が消えたって意味で言っているんだ」
「癒してくれる人がいるからね。すごく近くに。僕の席は教卓のすぐ前なんだ」
「姿の見えない時間の方が不安になるんじゃないのか。俺の部屋がどこにあるのか、まさか知らないはずもないだろうに」
「気の毒に思うよ」
僕は少し考えてから、石黒を下から睨む。
「倉井先生と同じアパートに住んでいるんだっけ? 探していた男子生徒が、よりによって倉井先生の部屋から出てくるなんて、驚かなかった? っていうか、あのときの僕たち、隠しごとの気配がありまくりで怪しすぎたよね」
せんせー、入り口閉めてよ、寒いよという声が保健室のなかから聞こえた。
石黒は僕を見下ろしたまま、後ろ手に戸を閉めた。僕にとってもそれは好都合だ。
「もしかしたら、その教え子に香水の移り香があったかもね。さすがにもう残ってないだろうけど」
表情を変えなかった石黒の頬が動いた。
「惣山、おまえ」
険のある声色に、たまたま通りかかった生徒が驚いたような顔をしている。
「あーあ。僕もずいぶん嫌われちゃった。まえは『君』って呼ばれてたのに『おまえ』だってさ」
「覚えておいたほうがいい」
流れを完全に無視して石黒は言う。
「あいつは、言わないと決めたことはどんなに親しい間柄でも決して口を割らないんだ。弱音すら吐かない。なにを話したか知らないが、あいつの言ったことがあいつのすべてだと思っているのだとしたら、思い上がりもいいところだ」
それは、本当に石黒の言葉通り、僕が覚えていたほうがいい事柄なのかもしれなかった。
思い上がり、か。
痛いとこ突いてくる。大人のくせに僕とやりあっただけのことはある。
僕は内心とは裏腹に、なに食わぬ顔で隣のカンちゃんを促してその場をあとにした。
◇ ◇ ◇
卒業式の合唱練習が始まった。卒業生全員で歌うんだとか。
そうだっけ、去年もあったっけ?
いつの間にそういうことになったの?
なんて聞ける雰囲気はもう既になかった。
練習時間は毎日、放課後に20分。
2曲を2回ずつ歌うと、大体そのくらいになる。
3年生の4つの教室からそれぞれ、ソプラノ・メゾソプラノ・アルト・男子の声が聞こえてくる。
本当にそれぞれで、ときどき輪唱みたいに追いかけっこになる。
女子の声のほうがよく通るけど、人数が人数だから、本気出した男子がたいてい勝つ。
んでもって、音楽の近藤先生に、応援練習じゃないのよと叱られる。
そんなこと言ったってさあ……。
「男は男でひとまとめ、ってのが気にくわね―な」
壁にもたれたカンちゃんが、やる気なさそうに譜面を畳んだ。
そうだよそうだ、そういうことなんだ。
半分くらいの声量でね、なんて、近藤おばあちゃん先生に言われたら、従わないわけにはいかない。でも釈然としない。
ムカムカを家まで持ち帰って、カンちゃんと通信カラオケでシャウトする日々。
こっちのほうが断然上達しちゃって、卒業式後の打ち上げで披露しようぜなんて、気が早いんだか用意周到なんだかわからない約束をした。
僕もカンちゃんと同じように、学生服を着た男子ばかりの教室をボンヤリと眺めていた。
やたらと黒々としていて、見ているうちに息苦くなってくる。むさくるしいとはこのことだ。
ひとつの教室には収まりきれない人数を、問答無用に押し込むとこうなる。
「男子校って、こんな感じなのかな」
僕の言葉に、カンちゃんが頷いたようだ。
「絶対嫌だな。やっぱ女子がいたほうがいいだろう」
「隣のアルト女子と合流したいなあ」
アルトでもテノールでもなんでもよかったんだけど、これじゃあアルトパートに用事があるみたいだ。
言い直そうと思ったら、案の定、突っ込まれた。
「えっ。ハルトって、とうとう倉井先生を諦めたのか?」
「そんなんじゃないよ」
僕は声のしたほうを見ずに答えた。
委員長だ。
どこが気に入ったのか知らないけど、あの勉強会からこっち、妙に僕に絡んでくる。
何故かハルト呼ばわりしている。
許可なんていらないけど、許可した憶えはないよと言いたくなる。
受験ストレスでも、コンプレックスでもない。そんなイライラ。
「委員長、女子と一度合わせてみないかー? 男ばっかじゃベース音聞き続けてるみたいで、つまんねえよ。士気が下がる、士気が」
カンちゃんの提案は、僕にとっては助け舟となった。つまり、委員長除けの。
委員長はそれもそうだと頷いて、女子パートに交渉しにいった。
結局パートがどうとかっていう次元じゃなく、日数の問題で、全員で体育館で合わせることとなった。
いつもは伴奏ばかりの名ピアニスト内山も、今回は一曲歌わせてもらえるとかで嬉しそうだ。
教室に掛けられた卒業式までのカウントダウン用日めくりカレンダーは、一枚また一枚と徐々に減っていった。
僕は合唱練習に限らず、移動教室や帰り道なんかをカンちゃんと共に行動した。
カンちゃんと喋っているときは、どういうわけか委員長もあんまり僕に話しかけてこない。
あの委員長でも苦手意識があるのかと、僕は軽い驚きを憶えた。
◇ ◇ ◇
そんなある日、突然、石黒が倉井先生と結婚すると言った。
結婚するしないってことよりも、今このタイミングで公にしたことがひっかかった。
倉井先生は受験生の担任で、しかも今は2月。
誰しも神経過敏な時期だというのに、石黒のヤツはいったいなにを考えているのか。
けれど、倉井先生が動揺するのがわかってて、それでも行動を起こしたんだから、それ相応の理由があるんだろう。
女子は倉井先生の元へ、男子は石黒の所へ詰め寄り、別々のルートから納得のいく答えを求めた。
もっとも僕は、相手が石黒ならどんな答えであっても信用しない。
この間の口論の腹いせに決まっている。
そのことが念頭にあったから、石黒に直接接触せずに、他のみんなが持ち帰る情報を待った。
二人の結婚を後押ししたのは、どういうわけか、うちのクラスの委員長だったらしい。
それも、どうせ結婚するんなら、陰でこそこそと話を進められるよりは、自分達の在学中にはっきりと決めてもらったほうが、お祝いできていいじゃないか――と言ったとか言わないとか。
「やってくれるぜ、井上健一郎。おまえの言葉は3年全部の意志じゃねえよ」
カンちゃんはだいぶ立腹している。
そうかと思いきや、僕をしみじみと眺めてみるなど、情緒不安定気味だ。
受験ストレスなのか、元来の心配性なのか、やれやれ気忙しい人です。
「ハルはなんでそんなに落ち着いてるんだ? 顔色ひとつ変えずに。諦めてないんだろ? なのにどうしてそんな、静かにしていられるんだよ」
「そうだよな。慌てなきゃいけないんだろうな」
「だろうな、って、おまえ……」
「人が動いたからって、それにいちいちつきあって、なんになる? 僕は振り回されたくない。いつも変わらずに倉井先生一筋でいたい」
「カッコつけんのもいいけど、今回ばかりは時間ねえよ。どうすんだよ?」
その日の放課後、倉井先生をようやく掴まえることができた。
「ぴんと来ないんだよね」
聞こえなかったはずはないだろうけれど、倉井先生は職員室から出てきたそのままの早さで廊下を突っ切っていく。
僕は当然追いかけた。
腕をつかんで制止したいけれど、生徒や先生が通りかかることを考えたら軽率な真似はできない。
「そうしようって、ふたりで話し合って決めたことなの?」
特別教室棟に入ったところで正面に回り込んだ。
足を止めた倉井先生はそれまで見たことのないくらい険しい目で僕を睨んでいた。
まえに睨まれたときはちっとも怖くなかったのに、それとは比べ物にならない。
本当に怒っているのだと瞬時に理解できた。
謝らなきゃ、と思っちゃったくらいだ。
とはいえ、なにがいけなかったのかは全然わからないので、謝りようがない。
倉井先生、どうしちゃったんだろう。
「僕、そんなに気に障ることを言った?」
「そのまえに、なにか私に言うべきことがありませんか?」
廊下のど真ん中での立ち話は邪魔なので、ふたりで窓側に寄る。
僕はカムフラージュのために持参したバインダーを開き、先生に相談している体を装った。
「言うべきこと。んー、なんだろう」
愛していますとか、そういうことですか? なーんて軽口を叩きそうになるのを堪える。
脊椎反射でアイラブユーってもう末期症状もいいとこ。
堪えたのは、石黒に言われたことが引っかかったからだ。
“あいつの言ったことがあいつのすべてだと思っているのだとしたら、思い上がりもいいところだ”
僕が混ぜっ返したら、倉井先生の話の糸口がなくなってしまう。
せっかく、自分から進んで話すことの少ない倉井先生がモノ申したいと言ってきているのに。
「なんだろう。わかりません」
いかにも調子に乗りそうな僕が殊勝な様子を見せたので、倉井先生はいくらか考え直してくれたようだ。
「言わないでおく約束だったのに、石黒先生に言ってしまったんですね」
「約束?」
「共犯者と言ったのはあなたですよ」
言わない約束? 共犯者?
僕と倉井先生のあいだで?
――なにか引っかかった。
もしかして、あれか?
僕が親の離婚で家を飛び出して、倉井先生のアパートに押しかけたときのこと?
他の先生方が必死に探しているというのに、倉井先生は僕をかくまってくれて、あとであれこれ言われるだろうから黙っておこうと口裏を合わせたんだった。
それを僕は先日、保健室の前で石黒を相手に言ってしまった。
……ん? あれ?
「や、違う。思わせぶりなことは言ってやったけど、ばらしてはいないよ」
してないしてない、と僕は大袈裟なくらい身の潔白を主張する。
ばらしてはいないけどそれに近いことをやった自覚はあった。
「でも」
「石黒がなにか言ってきたんだね。惣山のヤツがよお〜、ンなこと言ってたけどよお〜、それってマジ? とか」
「似てません」
「そっか。似てないんだ……」
「そんなにしょげなくても」
「それもそうだね」
気を取り直して、僕はもう一度問いただした。
「石黒になにを言われたの? それがあったから、石黒の口から結婚宣言が飛び出したの?」
倉井先生は答えなかった。
それはたぶん、イエスってことだ。
もうひとつ付け加えるならば、結婚宣言は石黒の暴走あって、今さっきの僕への怒り具合から察するに倉井先生はこんな展開は望んでいなかったんじゃないだろうか。
――違うんだよ、先生。
僕は唇を固く結んだ。
石黒とのやりとりで、倉井先生に迷惑をかけるなんて思わなかった。
僕が言ったことが巡り巡って倉井先生にそんな暗い顔をさせるなんて、ちっとも思ってなかった。
石黒と倉井先生は同じ教員住宅に住んでいる。
距離が近いということは、話す機会がいくらでもあるという意味だった。
正確に切実に受け止めるべきだった。
もしかしたら、そうやって心が近づいていったんじゃ……。
可能性が初めて胸をかすめ、戦慄する。
――倉井先生。
今まで聞かなかったけど、石黒先生のこと、好きだったりする?
見つめるふりをして僕は表情をうかがう。
さっきまでの憂い顔はなりをひそめ、倉井先生は窓から空を見ていた。降りそう、なんてひとりごちている。
あー、そうだよ! こういう人だよ!
嫌なことがあっても平常モードで、悟られたり言い当てられたりしない。
何があろうと、肝心なところを教師の面構えで隠してしまう。
後ろで髪をひとつにまとめているから、倉井先生の顔はよく見える。
なまじ見えているものだから、それがすべてだと安心してしまうんだ。
悔しいけれど、石黒の言うとおりだ。認めよう。
あのさ、と僕は伝えたいことを伝えようと思った。
一緒に窓のほうを向き、曇り空を眺めた。
厚い灰色の雲は風がないのか流れずにとどまっている。
「僕さ、倉井先生は受験生のクラス担任としてすごくがんばっているのに、おかしいなって思ったんだ。受験がはじまるってときに、急に結婚するとか、生徒を動揺させるようなこと言うかな、言わないよな、って」
降りそうといえば降りそう。
持ちこたえそうといわれればそうなりそう。
どちらともいえない空模様。
「委員長が結婚宣言を後押しした説もあったけど、よくよく考えてみるとおかしいんだ。あいつは人を乗せるの、そんなにうまくない。だから気になってた」
振り向いて一度微笑む。
「倉井先生はそんなこと言わない」
僕と倉井先生は同じ窓から外を見ていた。その距離は案外近い。
倉井先生は面食らったように身を引いた。
構わず続けた。
「そして石黒のヤツはそういう倉井先生を困らせた。許せん。懲らしめてやりたい」
僕はわかりやすく頬を膨らませてぷりぷりしてみせる。
倉井先生は頬を染めたかと思うと、あからさまに顔を背けた。
「え。変顔のつもりはなかったんだけど」
心外だと抗議すると、小さく、
「違います」
と返される。両手で顔を覆っているその後ろ姿には不自然に力がこもっている。
「なんだ? なんだよ、なんだっていうの?」
周囲に人気のないのを確かめ、腕を伸ばして無理にこっちを向かせると、俯いた顔がまだ赤らんでいた。
僕の視線につかまらないためかどうかは知らないけれど、逸らされた目が涙を湛えて潤んでいる。
滅多なことでは遭遇しない表情にびっくりしながらも、惹きつけてやまない愛らしさに僕は言葉を失い、息を飲み、いっそ抱きしめてしまいたい、キスもしたい、そんな衝動に駆られた。
けれどもそれは叶わなかった。
気配を察知したのか、倉井先生が腕をのけるほうが早かった。
「ありがとう。信じてくれて」
え、と僕は瞬く。
あたりまえのことを言ったまでなのに、どうして感謝されるんだろ。
そう思うと同時に、僕はその先の追究を即座に諦めていた。
僕のなかにそういった疑問が生じても、倉井先生は常日頃から煙に巻くようにうやむやに流してくれる人だった。
今回もまた教えてはもらえないものだと、勝手に思い込んでいた。
――卒業してからわかることなのだけれど、先生という職業を考えたらこれはおかしな点なのだった。
先生といったら、勉強も悩みごともまずは問題解決の手引きをしてくれるもの。
あいまいに流すのは正当なやりかたじゃない。
鋭い子なら勘付くのだろうけれど、僕はすでにこの人にのぼせ上っていたから、ずっとあとになるまで気づくことはなかった。
長い睫毛を伏せて倉井先生は言った。静かに響く声だった。
「惣山くんは、惣山くんにしか言えない言葉を持ってる。それが人を楽にさせてくれる」
褒められているのかな、と思った。
ぼんやりしていたから反応が遅れた。
僕が気の利いたセリフを繰り出すまえに、もうひとつ来た。
「結婚予定については石黒先生に言って白紙撤回となりました。先のことは言えませんが、すぐにという話ではなくなりました」
やった! と声を上げた僕に、倉井先生はすかさず言い放つ。
「それから、教師を呼び捨てにするのはいけません。石黒先生とちゃんと呼んでください」
うわー来たよ! 来たよ! これ!
いつか言われるだろうなと思って故意に呼び捨てしていただけに笑えた。
なんだかんだいって、僕はこの人に叱られるのが好きなんだ!
結婚白紙と合わせてしばらくは笑いが止まらなかった。
◇ ◇ ◇
今日の放課後の合唱練習には倉井先生の姿があった。
聴きにきたのを女子の誰かが強引に引っ張りこんだようで、列に混ざって指揮者を向き、隣の子に楽譜を見せてもらいながら大真面目な顔つきで歌っていた。
遊びだからと手を抜けないところが愛くるしい。
知ってたけど! そんなのずっとまえから知ってたけど!
なんというか、ああそうだ、たとえば天使がいるとして、誰が天使か見抜けるヤツにしかこの感動はわかんないだろって話だ。
天使は歌い終えると僕には目もくれずに体育館から去った。
周囲にいた女子たちは口々に天使の美声を誉めそやし、話の聞き役になってしまった生徒たちはそんなことならもっと自分の近くの場所で歌ってほしかったとしきりに残念がっていた。
僕のような信者以外にも喜びが伝播するとは、やはり天使だ。
「なんとも意義のある練習だった」
「そうか? いつもとどこか違ってたか?」
「天使がいた」
「あー、はいはい。おまえにとっての天使様ね」
練習を終えてみんなが散り散りに教室へ向かうなか、トイレに寄った僕とカンちゃんは最後尾からのんびり続いた。
「使えるねこれ。今度から人前で先生のこと話すとき、天使って言おうかな」
「はあ? ハルの片想いなんてみんな知ってるだろ」
「そうかな。まだわかんないよ」
「わかるって」
カンちゃんは小さい子にでもするように僕の頭をぽんぽんと叩いた。カンちゃんが前、僕が後ろとなって階段を上る。
「密やかだからこそ噂が流れて、学校側から厳重注意を食らったり、処分が下されたりするもんだろ。おまえのは大っぴらすぎて微笑ましいっつーか、冗談っぽいっていうか、まともに学校に相手にされてねえだろ。あ、怒るなよ?」
なんだ。片想いかどうかわかんないよって意味で言ったんだけどな、僕は。
それでもカンちゃんの言おうとしていることは理解できた。
僕からすぽーんと抜け落ちていた発想だっただけに、新鮮だった。
「怒らないけど、子ども扱いされて腹立たしい」
「怒ってんじゃねえか」
そうカンちゃんがバカにした笑い顔を向けたときだった。
誰かが倉井先生の噂話をしている。噂話とも少し違う。
「どうした?」
足を止めた僕にカンちゃんも気づいて立ち止まる。
僕は鼻先に人差し指一本を立てて合図を送ると、静かに耳を傾けた。
「いくら練習とはいえ、卒業生でもないのに混ざる?」
女子の声だ。角を曲がった先にいるみたいだ。
「みんな、すぐコロッとやられちゃって。なんだかなあ」
誰だろう。他のクラスのヤツ、か?
「白けちゃったの、私ひとりみたいだし」
気にしすぎだよ、とそのそばでもうひとつ声がし、軽く受け流すよう勧めると、話の主導者がまたもや不満げな声をもらした。
「こっちは毎回、真剣に弾いているのに。家でも練習してるんだよ。当たり前だけど。受験勉強だってあるのに。遊びで参加とか、マジ勘弁」
弾いている? ……まさか、ピアノ?
ねえもう帰ろう、と女子のどっちかが言い出してこっちに来る気配があった。
まずい見つかる、と僕が思ったときには遅かった。
廊下の真ん中でばったり鉢合わせしていた。
まさかと思ったのに、そのまさかだった。
角から飛び出してきたのは同じクラスの内山星子だった。
角の先に人がいるのに気づいていなかったみたいだ。そりゃそうだろう、気づいていたら人目を気にしてあんなこと喋るもんか。
しかもいたのが僕だ。先ほどのカンちゃんの弁を借りるなら、内山も僕の片想いを承知しているはず。驚くと同時に気まずかったことだろう。
内山はうんともすんとも言わず、僕を見据えて口を真一文字に結んでいた。
内山と一緒にいたのはマッキイで、こっちは露骨にわあっと声に出してきた。素直なことだ。
行こ、と内山がマッキイを促す形で、ふたりは階段を上っていった。
マッキイは姿が見えなくなるまで、ちらちらとこっちを窺っていた。
◇ ◇ ◇
「内山ってああいうこと言うヤツだったんだ?」
つるんだ女子が加速度をつけて人の悪口を言っているのを見たことがある。
話題なんてツールにすぎず、ただ気持ちを分かち合いたくて、共感したくてやってみせているものだってことくらい、僕にもわかっている。
でも、と思う。今日目撃したのはそれとは少し違っていた。
「あのくらいフツーだろ。言わせとけよ。みんながみんな、同じだったらかえってキモい」
「そうかなあ」
内山の一件があった数時間後。
学校から真っ直ぐ僕の家に来て、カンちゃんと互いの問題集を交換して勉強して、そろそろやめようかと思ったところだ。
カンちゃんも集中が途切れたようで、鞄から携帯を出していじりはじめている。
「おまえは倉井信者だから。倉井先生が悪く言われりゃなんだってカチンとくるだろ。だけどよ、その倉井の部分をたとえば……そうだな、音楽のおばあちゃん先生の近藤にしてみろよ。どうだ?」
近藤先生は、仕草がおばあちゃんっぽいから『音楽のおばあちゃん先生の近藤』と呼ばれている。
優先席付近で席を譲りたくなるような、階段で手を引いてあげたくなるような雰囲気の、実年齢は50代後半の女性だ。
その近藤先生が女子生徒に手を引っ張られて一緒に合唱し、きれいな歌声だとちやほやされ、頬を朱に染め逃げるように立ち去る――そんな場面を想像してみた。
「う、うーん?」
「うーんじゃなくて、どうなんだよそれ」
「あの年齢ですごいというか、はあそうですかと白けるというか」
イメージでは『音楽のおばあちゃん先生の近藤』が持っているなけなしの少女性が浮き彫りになっただけだった。
ややもすれば、無理やり当てはめた合成映像のようでもある。ひとつ間違えばコントだ。
僕はたぶん、倉井先生のときほどには感動しないし、もし惹きつけれて浮かれているヤツがいたら冷ややかな目を向けそうだ。
思ったままを端から伝えると、カンちゃんはお茶を飲みほして大きく伸びをし、ついでにあくびをひとつした。
「そういうことを内山は言ってたんじゃねえか?」
「そういうこと言うヤツだったのか。内山って」
僕はもう一度言った。
しみじみとしたニュアンスはカンちゃんには伝わらなかったみたいだ。
「だからー」
心底面倒くさそうに、それでも放棄しないで僕の相手になろうとするカンちゃん。
違うよ、と僕はそれを遮った。
「違うよ。わかってるよ。幻滅したとかじゃなくて、意表を突かれたというか、意外というか。思いがけない感じなんだよ。気が小さくてびくびくしてピアノ弾いてなきゃ弱っちいだけだと思い込んでいた。人前で言わないだけで、内側にいろんな想いを抱えてそうだなあ」
そういう人の話を最近どこかで耳にした覚えがある。
覚え……そうだ、覚えておけと言われたんだ。石黒に。
倉井先生もまた、言わないだけで秘めているものがあるんだった。
カンちゃんはあっさり頷いてみせた。
「たいていのヤツはそうだよ。ハルみてーに思ってるまんまをいっつも言うほうがまれなんだよ。角立ちまくり。フォローする人は大変」
大変、のところを、た〜いへ〜んと妙な抑揚をつけるものだから、ちっとも大変そうに聞こえないのだった。
◇ ◇ ◇
「おーい、内山」
目があったと思ったから声をかけたのに、内山のヤツは慌てたように非常扉を押し開けて階段を降りていこうとした。
「内山ってば」
午前の授業が終わったばかりの昼休みだ。これから昼食を取るつもりなんだろう。
内山の手には小ぶりのトートバックが握られている。反対の手にも大きなノートのような本のようなものを抱えている。
僕は呼ぶだけ呼んで突っ立っていたわけではなく、ちゃんと内山を追っていた。
だから内山が足を滑らせて階段から落ちそうになっても、危ういところで腕を捕まえて落下を食い止められたのだけど、助けられたはずの内山がそうは思っていないことは火を見るよりも明らかだった。
「そうびくつかなくてもいいよ」
「だって、殴り合いするような人だし」
「そういうけどさ、昔、誰だったか忘れたけど廊下で似たような喧嘩やってたし」
「昔って……小学生の頃でしょ」
言われてみればそうだ。
内山は落とした本を緩慢な動作で拾っている。
違った。本ではなくて楽譜だ。合唱用のものみたいだ。
慌てていたんじゃなくて、昼休みに練習しようとして急いでいたのかもしれない。
ついてくるなとは言われなかったから、僕は内山に続いて非常階段を降りた。
「内山って進路どーなの?」
「一応、高遠だよ」
「音楽の強いとこ、行かないの?」
「それどこにあるの」
「僕が知るわけないよね」
なんとなく笑いあう。
僕がいつまでもついてくるものだから内山も観念したようで、並んで歩くことを許可してくれた雰囲気があった。
「都会にならあるんだろうね。音楽で有名な学校かあ。考えたこともなかった」
「そうなの? ピアノ好きなんでしょ?」
「じゃあ聞くけど、惣山くんって美術部だったっけ? 絵が好きなんじゃなかったの?」
「倉井先生目当てで先生が顧問をやっていた卓球部に入ったけど、本当は絵が好きで絵心もほんのちょっぴりある少年なんだ」
「変なの」
内山が笑う。
「高遠から毎年何人か音大に進んでいるって、ピアノ教室の先生が教えてくれたの。先生は高遠で音楽を教えている先生の先輩にあたるんだって。だから、道はこっちであっているはず」
道はこっちであっている、か。
「いいね、その言いかた」
人の発言でも自分のものでも、どんぴしゃりの言い回しが決まったときの快感ってある。
カンちゃんといるときにそれはよく出るんだけど、まさかこのタイミングで内山から聞けるなんて思わなかった。
内山、侮りがたし。
ほくほくしながら、隣の内山に目を移す。
「話ができてよかったって気分になった」
「あの、あのね」
特別教室棟に差し掛かるところで、内山の足が止まった。僕もつきあいついでに立ち止まった。
購買部とも体育館とも離れているこのあたりの廊下には他に人気がない。
「告白? もしかして恋の告白ですか!?」
「違うってば」
僕がおどけてみせると、内山はむきになった。
抱えた楽譜で口元を覆いながら、目を逸らしてぼそぼそと話しはじめる。
恋ではないものの、告白には違いなかった。
「このあいだは嫌な話を聞かれちゃったな、と思って」
「うん。あのあと、気が荒ぶって大変だった」
「そ、そうなんだ」
萎縮する内山。
ボブカットのサイドの髪が流れ、顔が隠れてしまう。
そうだ、内山は怖いの苦手なんだっけ。
このままじゃいけないと思った僕は、カンちゃんの言葉を借りることにする。
「僕みたいにいつも思ってるまんま口にするほうが稀で、たいていの人は内に秘めているんだって。だから、僕のフォローは大変なんだって」
安全確認が取れたのか、内山は楽譜の上からそっと双眸を覗かせた。
しかも僕の心配をしてくれているようだ。
「あまり体は張らないほうがいいと思うから」
「以後気をつけます。高校からはカンちゃんと別々だしね」
「そうなんだ」
「内山も、堀柴サンと離れるから淋しくなるね」
「うん」
内山はもう楽譜でのガードをやめていた。
僕はというと、淋しいとただ頷かれただけなのに、素直さに打たれて優しい声のひとつもかけたくなっていた。
「あ、淋しくない淋しくない」
「ん?」
「君らは淋しいことにはならないって、とある人が断言してたよ」
「とある人? 誰だろう」
堀柴サンだとは言わないでおく。
君らの友情を信じるから。