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彼方の蒼  作者: 生駒美汐
5/9

5.結局このざまなんだよ

 堀芝サンがいた。

 保健委員でもないのに付き添ってくれてるんだ、と思ってなにか声をかけようとしたら、さきを越された。

「あ。やっと起きた」

 なんだか怒っている様子。

 はて、なんだったかなー。

「おぼえてる? 小柳くんと大乱闘やったこと。そーやまくんは救急車で運ばれて、意識不明の重体だったんです!」

 椅子を僕のほうへ寄せて、堀芝サンは座りなおした。制服にベージュのピーコートを羽織っていた。今ついたトコなのかもしれない。 

 それにしても、救急車って……じゃあここは病院か。僕は保健室までの記憶しかない。確かにここ、病室に見えなくもない。ひとり部屋だし。

「殴り合いはしたけど、あれって大乱闘だったのか? 僕のほうがこてんぱんにやられただけだよ。殴り合いでさえなかったのかもしれない」

 僕はゆっくりと言った。顔や頭にガーゼが貼ってあって、口を動かすたびに気になってしかたがない。手で触ってみたら、腫れていた。鏡を見るのが怖い。


 堀芝サンの表情が堅いのは、僕のこの傷のせいでもあるんだろう。

 保健室では応急処置程度だったのに、病院スタッフは大げさだ。触った感じからして、皮膚の出ている部分のほうが少ないんじゃないかな。なにもここまで貼りつけなくたっていいじゃないか。それとも、僕がくたばっているあいだに、ついでに美容整形してくれたとか? 


 僕の頭の外見はともかく、中身のほうはいつもより多めにまわっている。

 打ちどころが悪くて、神経おかしくなってないか、現在自主試運転中。

 そうでもしないと、首からうえがもう、痛くて痛くてたまらない。

 喋ると皮膚がつれるんだけど、それでも黙っているよりは気が紛れる。

 あと、右手にも軽い打撲傷がある。こっちはそのままになっている。


 ――カンちゃんはきっと本気だった。

 それでいて、これでも手加減したんだろう。



「2月の風邪が蔓延するこの時節がらです。病院に行きたがる健康な受験生なんていないから、しかたなくわたしがクラス代表で様子見にきました。お見舞いではないです。バカにつける薬なんてないです。医療費削減!!」

「堀芝サン……怒ってる?」 

「怒っています。もう、いろいろありすぎて、どうしようってくらいに」

 それにしては、迫力に欠けるね。

 なんだかんだ言いつつ、僕がのそのそと上半身を起こすのを手伝ってくれた。


 あのあとどうなったのか、自分自身のことよりも、カンちゃんや倉井先生のことを、僕は詳しく知りたかった。僕がうながすまでもなく、堀芝サンは話してくれるだろう。

 堀芝サンはコートを脱いで膝のうえに置き、入り口のほうに顔を向けて、なにやら思案顔だった。

「そーやまくんの綺麗なお母さんがすぐ帰ってくるから」

「不適切な形容動詞がいっこ聞こえた気がする。空耳?」



   ◇   ◇   ◇ 


「倉井先生は、ものすごくがんばったよ」

 意味ありげな出だしだ。堀芝サンなりに、言葉や順序を選んでいるんだろう。

 不吉な予感が僕の胸をよぎって止まないのだけれど。

「そーやまくんと小柳くんが仲いいってこと、みんなよく知ってるから。そのふたりがあんな……けんかするなんて……暴力はいけなかったけど……なにかよほどの事情があったはずだ、って。先生たちに囲まれて、ほとんど尋問みたいな目に遭っても、小柳くんはけんかの原因を言わなかったらしくて、それで……」

 堀芝サンはうつむいた。髪で顔が隠れて見えない。

「『小柳くんがそこまでして守ろうとしているものを、表に出す必要はないんじゃないか』って、倉井先生は言った。そうじゃなくて、その守ろうとした気持ちを汲んであげたいって」

 堀芝サンのコートのベージュの色を、僕はなんとはなしに眺めていた。

「倉井先生さ、きっと知ってたんじゃないかな。原因が自分にあるってこと。……そうなんだよね? わたしでも、そう思ったもん」

 僕は否定も肯定もしなかった。

「わかってたし、そういうの、どうしようもなくって。それに……他の先生たちに立ち向かったって、敵わないって知ってて、それでも正面から抗議したんだ。小柳くんのことを守ろうとした」

 堀芝サンは顔をあげて僕を見た。クスリと笑った。

「そーやまくんと似てる」


 そのあとは、目を逸らさずに一気に言った。

「あのあと、すごかったよー。1組はもちろんだけど、他のクラスまでいっしょになって、教務室に加勢? 応援? しにいってさあ。わたしもそーやまくんに報告入れる都合もあったから、もちろんそのなかに加わっていたけど! 卒業間近に団結したね!! 訴えたね!! もう、大騒ぎ。午後からは授業にならなかったよ。まあ、受験のストレスを発散したかっただけの人もいたみたいだけどね。はー……すごかった」



 興奮口調とはうらはらに、堀芝サンはしまいにはうなだれてしまった。

 これで終わりのはずがなかった。

 肝心なことを言っていない。



 どうしようどうしよう、という堀芝サンの内心の言葉が聞こえるようだった。


「早くしないと僕の母さん戻ってくるんだろ?」

 聞かずにすむ内容とは思えなくて、催促するよりほかはなかった。

「そうだね」

 堀芝サンはしばらくのあいだ、口を閉ざしていた。

 僕の母さんはなかなか来なかった。

 5分くらいたったんだろうか。堀芝サンは挑むような目を向けて、ようやく打ちあけてくれた。

「小柳くんが停学処分になった。3日間」


 僕はカンちゃんを思った。

 あのとき――殴ったとき、お互いになにか罵りあった気がする。

 僕は自分の言ったことを思いだせない。忘れたんじゃなく、憶えていないんだ。

無我夢中で、頭に来てて――あの瞬間の僕は僕じゃなかった。

 カンちゃんはどうだったんだろう。

 あの短い時間で物事を筋道だててとらえ、僕に拳を振りあげたとは考えにくい。

 やっぱり、カンちゃんもどうかしていたんじゃないか。


「びっくりしないんだね」

 配慮してもらったのにリアクションがなくってごめんの意味で、僕はちょっと微笑んだ。

「予想できたからな。でも、3日っていうのは長いのかな。短いのかな」

「はじめは5日間だったんだよ。それに、そーやまくんの意識がこのまま戻らなかったら、5日でもたりないって言う人もいたみたいで。でも、倉井先生ががんばってくれたおかげで3日になった」

 堀芝サンはにこりともしない。

 僕にも理由はわかっていた。わかっているってことを、伝えたかった。

 だから僕から言ってやった。

「カンちゃん、推薦入試を受けられなかったんだね」

 堀芝サンは答えなかった。



 そのあと、僕は聞きたかったことを片っ端から聞いていった。

 いちばん言いにくいことを言ったあとだったから、堀芝サンは言いよどむこともなく、すべて話してくれた。ここに来たときから、その覚悟はできていたのかもしれなかった。

 クラス代表としてではなく、友人として来てくれたのだと、僕は思った。

 その証拠に、僕の意識が戻った時点でナースコールしなくてはいけなかったのに、堀芝サンはしなかった。

 戻ってきた母さんが泡を食ってナースセンターに駆けこみ、医者や看護婦さんを連れてくるまで、話した。

 ぎりぎりまで僕らの会話は続いた。


 簡単な往診が終わると、ひっつめ髪のベテランっぽいナースが僕に尋ねた。

「さっきの子、彼女?」

 違いますと答えたけれど、信じていないようだった。

 堀芝サンが帰ったあとでよかったと思った。

 もしまだ残っていたら、ナースセンターへの連絡が遅れたことを注意されたんじゃないだろうか。



   ◇   ◇   ◇ 

  

 堀芝サンは意識不明の重体と言っていたけど、それは半分は嘘だった。

 僕は一日半くらい寝入っていたとのことだった。

 意識がないのか寝ているだけなのか、脳波を調べればすぐにわかるし、いびきもかかなかった。

 頭のなかのほうは、だいじょうぶらしい。

 外傷は、全治2週間。ただし、あさってには退院できる。

「明日じゃダメなんですか? 顔の傷だけなんでしょう?」

 僕が言うと、医者は職業病のようなスマイルを披露した。

「一応、検査入院してもらうよ。あと一日くらいは様子をみておきたい。後遺症の心配があるしね」

 この笑顔で大勢の患者さんを励ましてきたのかもしれなかった。

 なんだか実際の年齢よりも年下に見られている気がして、おもしろくなかった。

 この医者といい、保健医の石黒といい、僕のまわりの白衣の男は印象が悪い。



   ◇   ◇   ◇ 


 傷は痛んだけれど、食欲はあった。昨日の昼からなにも食べていないんだから、当たりまえともいえた。出てきたものをたいらげた。

 僕が食事を終えるのを見届けて、母さんはそのまま仕事場へ向かった。 



   ◇   ◇   ◇ 


 その夜は長かった。

 早すぎる消灯時間。ひとりきりの病室。そして静寂。

 闇のなかにいると次第にその暗さに目が慣れていくものだ。

 それはどんな物事にもあてはまるんだと思っていた。

 兄弟がいなくて、両親もばらばらだった僕は、自覚はなくとも孤独のはずだった。なのに、今まですごしてきたどの時間より、今が最も孤独だと断言できた。 たとえ家に両親が共にいて、それぞれ僕を思っていたとしても、それはここにいる僕にはなんの救いにもならない。

 そばにいて。話を聞かせて。僕に触れていて。

 僕は欲張りなんだろうか。寂しがりなんだろうか。



   ◇   ◇   ◇ 


 ベッドに備えつけのテーブルのうえに無造作に置かれた携帯電話。

 病院内だけどこっそり開こうかと、僕はなんども思った。内緒なら、ばれないならいいかと思った。

 だけど、だんだん近づく救急車のサイレンを耳にすると、どうしても電源を入れることができなかった。

 僕は死にはしないんだから。


 なにも今すぐじゃなくたっていい。

 あとでいくらでも電話なりメールなりできるだろ?

 いつもならそれで収まる気持ちも、今日だけはがまんができなくて、僕はいつまでもいつまでも自問自答を繰りかえしていた。



   ◇   ◇   ◇ 


 僕がいつそんなことを頼んだ!? 

 殺してくれなんて言ってないだろ。

 よくそんなことが言えるな! 

 僕を引き合いに出すなよ。

 カンちゃんひとりでなんだってできるだろ!?


 ――僕はカンちゃんに挑みながら、そう口走っていたらしい。

 廊下側の席だからまる聞こえだった、と前置きをして、堀芝サンが教えてくれた。



 カンちゃんには言っていなかったけど、僕は倉井先生の子供のことは、当然生まれてくるべきものとして、完全に受け入れている。

 倉井先生自身は、その子を大切にするに決まってる。

 倉井先生にとって、幸せなことなんだ。それを奪ってはいけない。よりによって、僕の親友のカンちゃんがそれをやっちゃいけない。      



   ◇   ◇   ◇ 


 時刻は午後11時。普段の僕なら、受験勉強しているころだ。

 時間が惜しいはずなのに、こんな形で無駄にすごすとは思わなかった。それとも、無駄でもないんだろうか。


 ふいに思いたった。ダメでもともと。その必要はないのに、できるだけ音を立てないようにしてベッドから降りた。

 スリッパがひんやりと冷たい。

 壁にかけてある僕の学生服のポケットをあちこち探った。

 右、左、右、左、内ポケット。横断歩道を渡るときだって、僕はこんなに注意深くない。

 やっぱりなかったか、と思いかけたとき、ズボンをまだ確かめていないことに気づいた。僕はハンガーから外す手間さえ惜しんで、外側から探った。丸くて平べったい感触。あった! 出してみた。当たりだ。10円玉。

「いつのまに」

 思わず声が出た。気持ちをこらえきれなくて、くすくす笑った。



 夜の病院は、想像していたよりもずっと静かだった。

 誰かがどこかで絶対に活動しているはずなのに、無駄な音がしなかった。

 聞こえるのは、僕が作りだす衣擦れの音とスリッパの足音のみ。

 存在感、ありまくり。僕は忍者やスパイにはなれそうにない。

 


 似たようなことが、まえにもあった。

 母さんに絵を描くことを禁止された僕が、カンちゃんにヘルプを申しでて、画材一式を夜の学校へ持ち込んだっけ。

 夜の学校も、ここと同じくらいひっそりと静まりかえっていたけれど、緊張感はなかった。

 誰かに見つかっても逃げきれると思ったし、笑い話にもできる気がした。

 僕は10円玉を握りしめ、息を潜めて、気配を殺して、病院内を歩いた。

 エレベーターは使わない。階段のみ。

 目指すは一階。公衆電話。

 たぶんあると思うんだけど……そういや僕、病院の名前さえ知らない。


 

 緑の電話は3台並んでいた。

 周囲に人気がないか、見まわしてから、銅貨を投入。

 記憶の底からカンちゃん家の電話番号をサルベージ。

 呼びだしコールがはじまる。

 ――夜中にかける電話。非常識かな?

 急に心配になってきた。


 カンちゃんは僕のせいで停学になった。推薦入試もできなくなった。

 もしかしたら、僕の声なんて聞きたくないかもしれない。

 それに、カンちゃんだけじゃない。

 カンちゃんの両親も、息子をトラブルに巻き込んだ諸悪の根源である僕となんか、縁を切りたいと思っているかもしれない。

 

 体が冷たくなっていくのを感じた。

 受話器を置こうかと思った。迷った。

 それでも、できなかった。



『もしもし、小柳です』

 声が聞こえた。

 カンちゃんなのか、お父さんなのか、よくわからなかった。

 僕ももしもしと言ってみた。――留守番電話だった。がっかりした。

 でもせっかくだから、できるだけのことをしようと思った。

 僕は発信音がやむのを待って、言った。


「カンちゃん。僕です。春都。僕はだいじょうぶです。あさってには退院します。今、病室抜けだして、公衆電話からかけてます。携帯の番号は覚えていないから、家に直にかけてみた……」

 言葉につまった。時間がないのに。言いたいことはこれだけ?

「謝りたい、すごく。でも、ほかにも話さなきゃいけないことがあるから……。今は気持ちの整理がつかないんだ。気持ちというか、言葉というか、また誤解を招きそうだし……10円分しか喋れないし……」

 ブザーが鳴った。残り時間がない。

「カンちゃんと話したかった! どうしても! 先生の番号知らないからじゃないよ。それしかなかった!! 考えられなかった!! だから……だから……」



 電話が切れた。

 僕は肩で息をしていた。そんなに大声を出したつもりはなかったのに。

 ……どこまでカンちゃんに伝わっただろう。抱えていた不安は、そのまま僕の胸に留まっている。

 いっそこのまま病院を抜けだそうかと思って振り向いたそこに、ひっつめ髪ナースがいた。

 驚いたのなんのってもうやめてくれよこういうのは!!

「こんばんは」

 悔しいから表情には出さずに言ってやった。

 そんな努力をしても、顔のガーゼがそのほとんどを隠してしまうから無駄なんだけどな。

 ナースは言った。

「もういいの?」

 おや、てっきり怒られるかと思ったのに、違う展開?

「もういいです」

 しかしながら、いくら僕でも、見張りつきで倉井先生にTELはできない。

 余計な詮索もお説教もごめんだから、足早に退散します。

「おやすみなさい」


 ところが、階段の手前で回れ右をせざるを得なかった。

 ナースは巡回時間だったらしい。懐中電灯を持ち、6人部屋から出て僕を見るなり、まだいたのって顔をした。

 僕はできるだけ平静を装って、堂々とこう言ったのだった。

   

「あの……僕の病室って何階でしたっけ?」




 退院までは、早かった。ただ、退屈で死ぬかと思った。

 6人部屋に移るか? という話もあった。

 けど『どうぞよろしく』の挨拶の翌日に『お世話になりました』を言うのもしらけるし、ひとりのほうが気楽だから、そのままここに留まった。

 風邪だかインフルエンザだかが院内大流行中だったせいもある。

 病院側としては、退院の日が決まっている僕まで風邪をひいてもらっちゃ困る、ってことなんだろう。



 担ぎ込まれた僕が寝入っているあいだに、倉井先生がお見舞いに来てくれたらしい。

「どうして起こしてくれなかったんだよ!」

 母さんに言ったら、叩かれそうになった。わ、それだけはやめて!!

「あんた、誰が呼んでも寝てたじゃないの。寝すぎよ、まったく」

 母さんは仕事のあといったん家に帰り、シャワーを浴びて仮眠を取って、僕の病室へ来ていた。

 たぶん、二、三時間しか寝ていない。退院の日まで、そのサイクルでいくらしい。

 母さん自身が僕に明言したんじゃない。ナースの口から聞かされたことだ。

 僕のそばにいたいんだって気持ちが、言外に伝わってきた。


「今回だけは、夜の仕事やっててよかったと思ったわ。変な話だけど、普段よりあんたの顔を見ている時間が多いのよね。といっても春都、変わり果てた姿だけど」

 りんごを食べながら、母さんは言った。

 自分がしっかり食べてから、あんたも食べる? なんて、楊枝に刺した4分の1個をすすめるあたりは、さすがだ。

 できればもう半分にしてほしかったけど、これ以上手のかかる息子になったら勘当させられるかもしれない。言いだせなかった。

 食べようとして、顔をしかめた。

「やっぱダメだ。半分に切って」

 包帯は減ったけど、あいかわらず傷が痛んだ。

「もう。どこまでも面倒な息子だわ」

 そう言いつつ、母さんはかすかに幸せそうに見えた。僕の気のせいだろうか。



 クラスメイトで病院まで来てくれたのは、結局堀芝サンだけだった。

「意識が戻ったってことはみんな知ってるから、そのうち誰か来るよ」

 僕が明日退院すると告げると、逆に、学校にはいつから出てこられるのかと聞いてきた。

 僕は不思議に思いつつ、答えた。

「え? 退院したらすぐにでも」

「その顔で!?」

 嫌な反応だね。

「じゃ、来週からにする」

 さっきトイレで鏡を見たけど、顔の傷、そんなにひどいとは思わなかった。

 美的感覚が麻痺しているのなら、そっち方面もついでに治してもらおうかな。



 翌日。僕は退院するとすぐに、シャワーを浴びて着替えてケーキの手土産持って、カンちゃん家へ向かった。

 カンちゃんの家は八百屋だ。午後1時、惣菜を買う主婦の相手をしていたカンちゃんのお母さんが、ふとこちらに目を向けた。驚いたような顔。

 僕は退院直後の人間とは思えないくらい元気な声を腹から出した。

「おばさん、こんにちは! カンちゃんいますか?」

 停学期間最終日だから、いるはず。

「春都くん。あんた、もういいの?」

「おじゃまします!!」

 おばさんはなにか言いたいことがいっぱいありそうだったけど、僕は無視してそのまま家に上がりこんだ。階段上ってふすまを開けようとした。

「ハル、おまえ……」

 ふすまは内側から開いた。カンちゃんがそこにいた。


 僕は開口いちばん謝るつもりだった。なのに、全然違うことを口にしていた。

「どうしたんだよ、そのひげ!」

 僕はぼう然とした。



 無精ひげを生やしたカンちゃんは、急に老け込んだようにみえた。意味もなくジャージの袖口をめくりながら、

「入れや」

と、僕を部屋に招きいれる。 

 カンちゃんの部屋は、足の踏み場もないくらいに散らかっていた。コンビニの袋、弁当のカラ、スナック菓子の空袋、ペットボトル……。

 男のひとり暮らしなら、こういうこともあるだろう、たぶん。

 でも几帳面なカンちゃんに限って、これは……。

「カンちゃん。これは?」

 僕が感情を抑えて聞くと、カンちゃんはあごを指でかきながらつぶやいた。

「親と冷戦中だ」

 

 迷ったのは一瞬だった。

「カンちゃん、顔洗ってきて。ひげ剃って。僕、掃除機取ってくる!」

「は!?」

 返事も聞かずに階段を駆け降りた僕は、指示を追加した。

「あ、そうだ。窓も開けといて。空気悪いから」

 やっぱり返事は聞かない。  

 店番のおばさんに声をかけて、壁に掃除機をがっつんがっつんぶつけながら階段をのぼり、ゴミ袋に片っ端からいろんなものを放り込んでいく。

 赤い掃除機で畳の部屋をなでおえるころには、カンちゃんも顔をすっきりさせて戻ってきた。

 階下でおばさんがお昼はどうしたと尋ねている。僕はまだだったので、食べさせてもらうことにした。やたら寡黙なカンちゃんの背中を押すようにして、居間に降りた。



 さばの塩焼きと根野菜の煮物とほうれん草のおひたしと漬物と味噌汁。台のうえは料理や食器で満員御礼。正方形のこたつのテレビに近い一辺だけ空席。そのテレビでは、悲壮感を顔面に貼り付けた俳優が熱弁をふるうドラマが展開されていた。

どこかの家の熱い支持はあるかもしれない。けど、この家はもうじゅうぶん間にあっている。

 突然部屋に閉じこもってしまった、優秀な受験生。

 食事中でもふすまのむこうの店内から声がしたら、口のなかのものを飲み込むより早く立ち上がる、母親兼店員。

 退院直後にケーキを携えて友人宅を訪問し、部屋の掃除をしてお昼をいただく、包帯の僕。

 この現実が、どんなドラマよりも重い。


 お客さんの相手を終えたおばさんと、ごはんを平らげたカンちゃんが鉢合わせした。

「克典」

 おばさんの呼びかけがカンちゃんの足を止めることはなかった。

 僕は慌てることなく、食事を続けた。

 

 おばさんがこたつに入った。日本茶を淹れてくれた。

 おばさんの食器も空になっている。小柳家が早食いなのか、僕のペースが遅いのか。カンちゃんの部屋に行こうと、ピッチをあげた僕に、おばさんは言った。

「傷はまだ痛むのかい?」

 僕は箸を止めた。台に置き、おばさんに向きなおった。首を横に振った。

「僕の傷はほっといても治るからいいよ。カンちゃんの」

 言葉を探した。見つからなかった。

「カンちゃんの傷は、直しがきかないから。停学なんて、こんな巻き込みかたは……。僕、さっきからなに言ってんだろうね」

 それでもおばさんは、ほほえんでくれた。頷いてくれた。


「ぶつかり合ったのが今でよかったよ。うちの克典も腕力しかないからねえ。強くなるなんていってみたって、結局このざまなんだよ。根性なしさ」

 ちらっと背後を振り返りながら、おばさんは疲れたような声で言った。

「部屋にこもることしかできないのさ。春都くんにはいろいろ迷惑かけっぱなしだけど、これからもつきあってやってくれないかい?」


 おばさんは僕を責めなかったし、僕に謝ることもなかった。

 僕のケガを心配したけど、殴り合いの原因を聞かなかった。カンちゃんから聞かされているふうには見えないし、学校側から説明があったとも思えない。

 食器を台所に運ぶのを手伝いながら、そのあたりのことを尋ねてみたけど、所詮子供のけんかだから、なんていう返事しか返ってこなかった。

 店に出ているからなにかあったら呼んでくれなんて、おばさんに言われて、僕はカンちゃんの部屋に行くことにした。


 原因を正確に把握しているのは、僕とカンちゃんだけ。

 もしかしたら、倉井先生もおぼろげになにかをつかんでいるかもしれない。



 カンちゃんはベッドに腰かけていた。

 こめかみを押さえるようにしていた手を離し、顔をあげた。

「なあ。おれ、ハルの携帯にメールしといたんだけど、見た?」

「見てない」

「じゃ、見て」

「うん」

 僕は壁際に追いやられた座布団をたぐり寄せ、足を放り出すようにして座った。 

 パーカーのポケットの携帯をつかみ、開いた。

 メール送信者を確かめ、カンちゃんのほうをちらっと見た。

 カンちゃんは緊張の面持ちで僕を見つめていた。

 

 送られた7通のメールを読めば、カンちゃんの考えを知ることができる。そう思ったら、僕までどきどきしてきた。

 毎日顔をあわせている友達からの深刻なメールなんて、そうそう読めるものじゃない。

 

 だけど――僕は、インチキ手品師みたいに携帯を目の高さに掲げ、一瞬の溜めもなくそのボタンを押した。

「あ」

 カンちゃんが渇いた声で呟いた。


「消しちゃった」

 僕は鼻から息を漏らすようにして笑ってやった。

 緊迫ムード? そんなの知ったことか!


「だってさ、今、僕らはここにいるんだ。話せばすむことだよ。メール読む間も惜しんで駆けつけたんだから、それくらい、わかりやがれ」

 使い慣れない言葉でそう言ってやったら、カンちゃんも言い返した。

「せっかく打ってやったんだから、読みやがれ」

 どっちもどっち。僕らは笑った。

 

 もしかしたらこれっきり絶縁関係になる可能性もあった。

 けど、これならだいじょうぶ。

 相手の話に耳を傾ける余裕がカンちゃんにも僕にもある。



「やっぱりあれだね」

 ほっとしながら携帯をしまい、僕は言った。 

「僕はひとりでいる時間が多くても全然辛くないけど、まるっきりひとりぼっちになるのはきついや。カンちゃんいてくれてよかったなあ」

 カンちゃんの頬がピクリと動いた。

「おいハル、それじゃ別におれでなくたっていいんじゃねーか!」 

「それはないよ」

 すかさず僕は言った。

「それはない」


 乱闘中の僕らの発言を、堀芝サンからすでに聞いている。

 僕が言っていたことだけじゃなく、カンちゃんのも、みんな。

 

『おまえはいつもそうだ。いつもいつも肝心なことを言わない。全部抱えて』

『頼れよ。おれを利用しろよ。おれはなんのためにいるんだ』

『離れても平気って顔して。隠し事なんかするなよ』


 ――僕はそう言われたらしい。

 申しわけございません。なにひとつ記憶にないです。

 あのときの僕は別人になっていました。


 僕は堀芝サンから伝え聞いたことを、カンちゃんにさらに伝えた。

 カンちゃんは自分の言ったことをこと細かに憶えていた。

「堀芝はICレコーダーいらずだな」

「……だね」 

 全部聞こえていたのなら、カンちゃんの言葉は堀芝サンにとっても聞き捨てならないものだったはずだ。堀芝サンだって、友達と離れても平気って顔、してるから。 


 倉井先生と寝たことも話した。

「なんでカンちゃんが赤くなるの?」

 からかい半分に言ったら、カンちゃんにバカと言われた。

「ハルこそ、なんでそんなフツーなんだよ。涼しい顔してんだよ」

「普通じゃないよ。これでも決死の覚悟だよ。先生とは誰にも言わないって約束をしたし」

 ……って、これじゃ僕、約束破ってる?

 いやいや、あれは約束のうちに入らない。『誰にも言うつもりはない』って言ったんだ、僕は。……自己弁護もはなはだしいな。

 カンちゃんは腕組みをして、僕を上から下まで眺めて、もう一回僕の顔を見た。

「そうだよな、お前ってさ、一見優しそうだけど、なんでもない素振りで女を振るんだよな」

「事実無根だよ。賭けたっていいよ」

「これからの話だよ」

「カンちゃんに占いのたしなみがあったとは知らなかった」

「おー。おれは謎多き男だぜ」

 これでこの件は終わったかと思ったら、カンちゃんはずいっと近づいて、

「で、どんな感じだった?」

 結局は、それかい!?



 そのあと、3時になるのを待って、持ってきたチーズケーキを食べた。

 おばさんから日本茶と、なぜか自家製たくあんの差し入れ。

「黄色つながりかな?」

 僕が言うと、おばさんは笑った。

「絵描きのたまごさんは言うことが違うねぇ」

 いえ、そんな面白いこと言ってないです。   

 おばさんが階段を降りてから、カンちゃんにバカ野郎と言われた。

 バカでバカ野郎で……次はなに?

「案外気が利かないヤツだな。お前に味を褒めてほしかったんだよ」

 これでもご近所では『春都くんは愛想がいいわねえ。うちの子に見習わせたいものだわー』と評判なので、このまま打ち捨てるわけにはいかない。

 たくあんひときれくわえ、部屋の戸を開け、食べながらでかい声で言った。

「あ。これ、すっげーうまい!」

「ヤラセくせーな」

 カンちゃん笑うし、下のおばさんも笑うし。

 そしたら僕も笑うしかないよな。


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