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彼方の蒼  作者: 生駒美汐
4/9

4.持つべきものは友!

 翌日、学校はたいへんな騒ぎになっていた。 


 教室に入るとすぐに、何人かのクラスメイトが駆け寄ってきた。僕が来るのをずっと待っていたようだ。挨拶もなしに、口々に言った。

「春都、おまえは知ってたのか?」

「倉井先生が……」

「あ、その顔だと知らないな」

「実はさ……」

 僕は説明とも噂ともつかない話を聞いた――相槌さえ打てずに。

 途中、女子が邪魔した。

「やめなさいよ! ホントかどうか、わかんないんだから!」 

 その女子を、僕が制止した。


 落ち着いているように見えた、とカンちゃんはあとで言った。

 真相は、全然違う。身動きひとつとれなかっただけだ。

 ショートホームルームに教壇に現れたのは、学年主任だった。

 倉井先生の姿のないまま、一日がはじまった。

 


 休み時間中に、様子を見にいこうと思った。授業をさぼろうかと思った。

 今までの僕なら、とっくにそうしてる。

 真っ先に会いにいって、聞きたいことを聞いて、それから――。


「惣山君、具合悪いの?」

 隣の席の井上さんが、教科書を机から出しながら、声をかけてきた。

「別に」

「……本当にどうしたの? なんか変」

 答えなかった。

 隣にいながら雑談したことのないクラスメイトでさえ、僕を心配してくれる。

 頭を抱え込むようにして、頬杖をついた。

 びっくりするくらい、両手が冷たい。


 机の脚と椅子の脚と床だけだった僕の視界に、小柳と書かれた上履きが現れた。

「ハル」

 その瞬間、少しだけ、教室の空気が変わった気がした。

 僕はうつむいたままだったけど、いくつかの視線がこちら向きであることに気づいていた。

「直接、聞いてきたほうがいい」

 顔をあげると、カンちゃんが僕を見おろしていた。

 笑ったり、悲しげだったり、そういった感情の一切を殺して、じっと見ていた。

 それでも僕は動けなくって、目を逸らしたんだけど、教室のどの方向を向いても誰かしら僕を気にしているような気がして、ますます体が固まってしまった。

「ハル、行ってこいって!」


「行きなよ」

 後ろの出入り口のほうで声がした。堀芝サンだった。

 すぐそばにはマッキイと内山がいる。

 仲直りできたんだな……よかった。

 そう思ったのも束の間だった。

「自分ばっか逃げんな」

 堀芝サンは言った。


 らしくないくらい、手厳しい言葉。一瞬、教室内がシンとなった。

 近くにいた女子がどうしたのかと尋ねたけど、堀芝サンは返事をせず、僕を睨んだままだった。 

 内山とマッキイも、立っている位置は堀芝サン寄りだったけど、立場は他のクラスメイトと同じで、話が見えていない様子だった。


 堀芝サンの言葉は、僕のもとにまっすぐ届いた。

 たいして大きくもなく、個性的でもない声。

 けれども、決して嘘の混ざらない声。


『しろいとり』から帰る道中、カンちゃんと喋ったことを思いだす。



『堀芝はなんだかいつも戦っているよな』

『僕たちのことも、敵に見えているのかな』

『さあ。敵なら近づかないんじゃねーか?』

『堀芝サンは、敵にも近づくよ。なんでもない顔をして接近して、必要な情報をかき集めて去っていくスパイみたいだ』

『……ハルがそういうこと言うのって、珍しい。堀芝、嫌いか?』

『嫌いじゃないよ。ただ……友達相手に、あんなに無理することないのに、って思った。ああいうのは僕は嫌だ』

『ハルみたいに、思ったことストレートに言えないって』

『そうかな?』

『ああ』

『友達でも?』

『友達だからだろ』


 

 僕は堀芝サンとは違う。

 だけど今回だけは、堀芝サンのほうが正しい。気になることはすぐ聞くはずなのに、臆病になってた。

 僕と倉井先生しか知らないあの夜のことは、今もまだ秘密になっているはず。

 事情を飲み込んでいないのに、それでいて的確な助言をくれるあたり、やっぱり堀芝サンだ。


 昨日まで全く存在しなかった噂話。  

 僕の知らないところで、少しずつ動いていたかもしれないという事実。

 驚きと恐怖と戸惑いと……それからかすかな期待。

 僕はきっと複雑な表情を浮かべているんだろう。ここに長居は無用だった。

 みんなが見ているなか、席を立った。倉井先生のもとへ向かった。 



 2時間目開始のチャイムと同時に、教務室の戸を開けた。

 蛍光灯の下、並んでいる机にはほんの数人の先生の姿しかなくて、僕の探しもとめる人はいなかった。

 入り口からいちばん遠い席にいた理科の山口先生が僕を見た。注意されるより先に、僕はとうとう言ってしまった。

「倉井センセが妊娠しているって本当ですか?」 

 そこにいる全員の視線が僕を貫いた。

 それが答えらしかった。倉井先生は妊娠していて、そのことは周知の事実で……僕は……僕は……。


 教室に戻りなさいとか授業中だとかそんなことはありえないとか、いっぺんに複数の人間に言われたって困る。それでなくたって、どうしたらいいのかわからないのに。

 ぽんと肩を叩いた人がいて、見ると教頭先生だった。

「倉井先生は私たちにまだなにもおっしゃっていない。今、校長が事情を聞いているところだよ」

 教務室にいた6人の先生すべてが僕を取り囲んだ。教頭先生は言った。

「倉井先生の口から話を聞くまで、軽率な発言は控えようじゃありませんか。私たちも心配しているのです。力になりたいとも思っています」

 他の教師たちはびっくりしたような顔を教頭先生に向けた。僕も意外な気がした。

「それって、辞めさせないってこと? 妊娠していても? 結婚まえの妊娠でもですか?」

 教頭先生は頷いた。



 中学3年生の2月――受験シーズン真っ只中だ。堀芝サンみたいに私立に合格した人もいれば、カンちゃんみたいに公立の推薦入試をしあさってに控えた人もいるし、僕みたいにやっと志望校を絞り込んだヤツもいる。 

 もし本当に赤ん坊ができていたとしても、卒業まであと2ヶ月もないのだから、このまま担任を続けてもらったほうがいい。

 今さら新しい先生をよこされたって、よろしくお願いしたい気持ちになれない。

 ましてや僕は倉井先生を好きなんだから、担任でいてほしいと切に願う。


 教頭先生だけは僕と同じ目線でモノゴトを見ているらしかった。

「倉井先生もこの時期、こんなふうに渦中の人になるなど、おそらく不本意でしょう。お辛いはずです。心中を察してあげようではありませんか、ねえみなさん」

 こんなふうに穏やかな微笑みで呼びかけられたら、他の先生たちだって引きさがるしかない。

 それでも僕に『早く教室に戻りなさい』と吐き捨てるように言い、それぞれの席に帰っていった。

 教頭先生が僕だけに聞こえる声で、ささやいた。

「受験間近でみんなが神経質になっているだろうから、気をつけてあげてください」

 あれっと思った僕が尋ねようとしたら、それよか早く答えが返ってきた。

「他のなによりも倉井先生が気がかりだと、君の顔に書いてあります」


 教頭先生はああいう言いかたをしたけど、少しも慰めにはならなかった。

 校長と話し中ってことは、もう妊娠は決定的じゃないか。

 僕たちが卒業するまで、倉井先生は先生でありつづける――それだけじゃ、僕にはたりないんだ。そこんとこ、教頭も、教務室の先生たちも、わかっていない。

 倉井先生に会いたい。会って、じかに声を聞きたい。話を聞きたい。 



 校長先生との話を終えた倉井先生が、教務室の自分の席につくとはどうしても思えなかった。僕は美術準備室で待つことにした。授業はとうにはじまっているけど、どうでもよかった。

 

 準備室に設置されているヒーターは、つまみを強にしても弱のままでも、変わらぬ温風を送りつづけている。カーテンを引いたら、びっくりするほど室内が暗くなった。

 電気をつけた。パイプ椅子をヒーターのまえまで引き寄せ、逆向きにまたがった。背もたれに突っ伏して、重ねた腕にあごを乗せる。低くうなるモーター音を聞いた。


 僕の子供。



   ◇   ◇   ◇  


「ハル」

 カンちゃんが立っていた。

 どうやら僕は眠ってしまったらしかった。ぼんやりとした頭のまま、周囲に目をやった。倉井先生の姿はなかったし、室内もなんら変わりなかった。

「先生は?」

 僕の声はかすれていた。寝起きのせいか暖房にやられたのか、よくわからなかったけれど、カンちゃんは気にする様子もなく、持っている音楽の教科書を僕に見せた。

「会っていないのか? もう次、四時間目なんだが」

「うん。……そういやお腹すいた気もする。もうそんな時間か」

「おまえの腹はどうでもいいんだ」

 カンちゃんは別の意味を込めて言ったらしい。僕にもすぐに通じた。

 ――問題なのは、倉井先生の腹。

「わかってる」


 喉が痛い。温風に顔を向けて、口を開けたまま寝たせいだ。

 変な格好をしていたせいもあって、肩や首や背中まで、ぎしぎしと痛んだ。


「さっきの休み時間に、教室で説明してくれた」

 誰が、とはあえて聞かなかった。

 くわしく知りたがっていたくせに、僕の知らないことをカンちゃんやクラスのみんなが先に知ってしまったと思うと、自分の耳をふさぎたくなった。

 カンちゃん。それを聞いて、僕をどう思った?

 僕は怖くてなにも言えなかった。

 カンちゃんは淡々と話した。

「もうすぐ3ヶ月半だそうだ。相手については言えないらしい。倉井先生は産むつもりだ。できることなら、おれたちが卒業するまで、隠しておきたかったと言っていた」


「そんなこと……」

「できるはずないよな。隠し通すなんてさ。そもそも隣のクラスの北野に見つかったってのが、運のツキだ。あいつが言いふらしたんだ。倉井先生ツワリかも、なんて……」

「もういいよ」


 もう、いい。必要なことはこれで全部だ。やっぱり子供ができたんだ。

 僕が父親だって、隠しておくのか? 先生。


 僕は目のまえが急に暗くなったように感じた。胸のあたりがムカムカして、頭がぼうっとしてきた。つばを飲みこむたびに喉は熱を持ったように痛んだし、顔の肉はこわばったままよく動かなかった。


「だいじょうぶか?」

 カンちゃんが近づいて、僕に手を差しのべた。

 けれども、なにをしようとして手をのばしたのか、自分でもよくわからなかったみたいで、ぎこちなくその右手を引っ込めた。

「だいじょうぶ……だった?」

 僕は言いかけた返事を質問に変えた。

「倉井先生はだいじょうぶだったのか? みんなのまえで話したんだろ? どうだった? みんな、先生にひどいこと言わなかったか? カンちゃん!」

 カンちゃんの学生服の袖をつかんだ。

 カンちゃんはびっくりしたように僕を見た。

 僕は続けた。

「受験生クラスの担任なのにとか、なんか、嫌なこと言われてなかったか!? 僕のときがそうだっただろう? 女子とか、この時期に離婚するなんて親って勝手だとか、なんか……言ってたじゃないか! どうなんだよ! どうだったんだ!!」


 教頭先生が言っていたのに、頼まれたのに、僕はなにやってるんだ。

 僕が守らなきゃいけないのに。


「落ちつけよ」

「落ちついていられるかよ!」

「春都!!」

 呼ばれて、ハッとなった。


 いつのまにか、カンちゃんのほうが僕の袖口を捕らえていた。

 元柔道部はだてじゃない、条件反射で引き手を取っちゃうのかと、僕は妙なところで感心した。平常心を取り戻しつつあった。

「僕は平気だ。僕の気持ちは変わってないよ。やっぱり先生のこと、好きだ」

 カンちゃんが手を離した。床に落とした筆入れや音楽の教科書を、腰から体を折り曲げて拾った。

 ゆっくりとした動作。まるでなにかを考えているみたいに。


「ハルがそこまで倉井先生を好きとは思わなかった」

「あ。それひどいよ」

「じゃなくって」


 カンちゃんは筆入れのなかから赤いボールペンを出した。

 棚に置いてある、左耳にひびが入ったヴィーナスの石膏像の首筋になにか書いている。

「ちょっと感動? 悪かったな、ムリヤリ言わせたようで。本当はハルのその告白を倉井先生に聞かせたかった」

「これでもしょっちゅう言ってる。相手にされてないだけ」

 僕も石膏像に近づいた。――2003.2.3 惣山春都ここに眠る?

「カンちゃん!」

「寝てただろ!? 真実じゃないか!!」

 シリアスなときはシリアスを貫こうよ!


 さすがのカンちゃんもこのイタズラは度がすぎると思ったのか、あるいは最初からそのつもりでいたのか、微妙なんだけど、ひとつ僕に知恵を授けてくれた。 

「倉井先生にとっての校内唯一の安息の地に、おまえがいちゃダメだろ? 先生はたぶん、この部屋の入り口まで来たぜ」

 なかに僕がひとりで待ちかまえていることに気づいて、逃げたっていうの?

 僕は避けられたってことか?


 僕の思いをよそに、カンちゃんは僕に携帯電話を出すように指示した。

 そういやカンちゃんは、倉井先生の携帯の番号を知っているんだった。

 僕んちの離婚騒動のとき、先生の携帯に何回か電話したらしいからな。

 ……僕は先生に『教えてくれ』って言っても、断られそうだ。

 その点、カンちゃんは人望もあるし、人脈もある。

 倉井先生は、カンちゃんなら、と考えたのかもしれない。


 あるいは、カンちゃん経由で僕に電話番号を伝えようとした……?

 いやいや、そういうご都合主義的発想はよくないよな。でも、そうだといい。


 なにはともあれ持つべきものは友! 友情万歳!!

 ところが、カンちゃんは僕の携帯で学校に電話をかけた。

   

「もしもし、わたくし、3年1組の惣山春都の父なんですが……」 

 カンちゃんといい、母さんといい、どうして僕の父を名乗りたがるんだろ。

「はい、いつもお世話になっています。担任の倉井先生をお願いしたいんですが。ええ、緊急の用事なんです!」



 カンちゃんが差し出した僕の携帯を、厳粛な思いで受け取る。


 学校の事務員は、授業中にもかかわらず、倉井先生に外線が入っている旨の放送をしてくれた。つまり、教務室にはいないってことだ。

 倉井先生は美術教師。授業はたいてい美術室。隣の部屋にいないのなら、校内のどこか別の場所にいる。

 外線電話に出るために、どこか、空き教室に移動するはずだ。

 ときには携帯よりも便利な有線電話。どうか先生と僕をつないで。


「じゃあおれ、音楽の授業に行ってくるわ」

 細く開けた戸のあいだからするりと廊下に出たカンちゃん。

 僕は応答のない携帯を耳にあてたまま、全神経を聴覚に集中させていた。

 軽く手を振り、カンちゃんと別れ、足早に歩きはじめた。

 保留の音楽が続いている。教室を端から順に探っていこうと、僕は走りだした。


 階段の踊り場まで来たとき、音楽が止んだ。

『大変お待たせいたしました。倉井です』

 先生の声だ。本物だ……って、当然なんだけどさ。

「先生? 僕です。惣山」

 電話の向こうの倉井先生は、息を飲んだようだった。僕は気にしなかったし、走り続けたし、まあ言葉を選ぶ余裕もなくって、せわしない。

「元気ですか?」

 図書室、調理室、木工室にはひと気なし。

『惣山くん。授業はどうしたんですか?』

 音楽室は僕のクラスが使っているから、見る必要なし。

 次、1階の第一・第二理科室……誰もいない。

「倉井先生のことを考えていたら、授業どころじゃなくなった。心配してるんだ、これでも」

『受験生でしょう? 自分の心配をしてください』

「ごもっともです。でももう内申書は書いたんだろ? 願書も今週中に提出するんだっけ? なるようになるさ」

 先生は黙ってしまった。この沈黙が怖い。

 被服室までもぬけのカラってことは、この特別教室棟にはいないってことか。

 僕は一般教室棟に目的地を変更し、またもや駆けだした。

 息の乱れをなるべく入れないようにしたいんだけど、これが難しい。

 というか、無理だ。


『惣山くん、息遣いが変ですけど、風邪でもひきましたか?』

「たちの悪い病気かもしれません」

『えっ?』

 恋の病、って言いたいトコだけど、そのまま返事をしないでおいた。

 一秒でも一瞬でも長く、僕のことを考えていてほしかった。


 倉井先生は言った。

『あの件に関しては、さきほど教室で説明したとおりです。あれ以上のことは言えません』

「そう言われても、僕はそのとき、教室にいなかったよ」

『さぼるほうがいけません』

「休み時間だったじゃないか」

 先生は黙った。

 僕も、言ってから、ああそういえばそうだったと思った。


 見たところ、1年生は全部、教室での授業だった。

 本当にこんな探しかたで見つけられるんだろうか。

 鼓動の速さは、運動不足のせいだけじゃない。

 僕は不安になってきた。

「せんせー。今どこ? 個人授業をお願いしたんですけど。あ、個別面談でもいいや」

 足を休めた。疲れた。


 倉井先生は電話を切ってしまった。

 この階の空き教室のどこかから、ふいに顔をのぞかせるのかと期待したのに、それもなかった。

 

  

 僕はすごすごと引きあげた。なぜか美術準備室へ。

 音楽室で歌う心境じゃないし、誰もいない自分の教室で自主学習する勤勉さはもともと持っていない。

 部屋の電気はつけなかった。ヒーターに手をかざし、ポケットを探った。

 活用できたのかいまいち不明の携帯で、カンちゃんに状況報告メールした。

 カンちゃんが今どこで誰となにをしているのかなんて、当然考えるはずもなく。



   ◇   ◇   ◇  


 ところで、僕は今までカンちゃんが本気で怒ったところを見たことがない。

 ケンカはした。しょっちゅうした。

 幼稚園の芋掘り遠足でさつまいもの奪いあいをしたり、カンちゃんの両目にモノモライができたときにうっかり笑ってしまって(しかもその場にカンちゃんの好きな子がいて、その子も笑った)一週間口を利いてもらえなかったり、した。

 昔から口げんかも殴りあいもカンちゃんのほうが強かった。

 口げんかはともかく、体を張ってのタイマン勝負は、今となっては完全にかなわない。

 カンちゃんが柔道やってるから? 体格の差? ――それだけじゃない。

 このあいだだって、卓球やってボロ負けした……引退したとはいえ、僕は卓球部副部長だったのに。

 後輩のまえで完敗。立つ瀬なし。

 

 カンちゃんは強い。僕はいろいろ弱い。わかりきっている。

 それでも、立ち向かわなくちゃいけないときがあるんだ。 



   ◇   ◇   ◇  


 四時間目終了のチャイムを聞き終えても、倉井先生は美術準備室には来なかった。  

 僕は教室に戻ることにした。

 3年1組の入り口のところで、カンちゃんが僕を待っていた。

「ちょっと、いいか?」

 カンちゃんが真面目な顔をしていた。

 なにごとだろうと僕は警戒した。

 入り口の戸が開けっ放しだったので、弁当を食べている女子から寒いと苦情が来た。

 戸を閉めて、通りかかるクラスメイトたちの邪魔にならない壁際に移動し、なんとなく向かいあった。

 無駄な前置きはいっさいせずに、カンちゃんは本題に入った。


「子供を堕ろすように頼んできた」

「は?!」


 カンちゃんは僕をじっと見つめていた。

 僕は混乱した。混乱したまま、聞いた。

「いつ!?」

「ハルとの電話の最中だった。先生は保健室にいた」

「ぐ、具合……」

「体調不良ってわけではなさそうだった。この時期にしては珍しく、風邪で寝込んでいる生徒もいなくて、内緒話には好都合だった。ま、おれはハルよりさきに先生見つける自信があったんだけどな」


 それはどういう意味だろう。

 一度も疑ったことのない考えが、頭をよぎった。

 そんなのって、あり?

 カンちゃんも、倉井先生が好きなのか?


 僕は黙って、カンちゃんの言葉を待った。

「先生は、どうしても産むって言ってきかなかった。結婚しなくてもいいって言った。けど、ハルのこと見てたら……子供さえいなけりゃ、うまくいく気がしてさ……」


 ――子供さえいなけりゃ?

 頭のなか、真っ白になった。


 続きがあったけど、ろくに耳に入らなかった。音らしい音が消えた。それに、光も。極端に狭くなった視野のなか、カンちゃんの存在だけを意識していた。

 気づいたら、カンちゃんを殴ってた。僕はなにか叫んだ気がする。カンちゃんも殴り返してきた。怒声。悲鳴。ガラスの割れる音。戸口を背中に、体にかかる重圧。顔に何発かまともに食らった。気が遠のくくらいの痛み。

 男子がカンちゃんを3人がかりで取り押さえていた。僕も羽交い絞めにされていた。僕のほうが一方的にじりじりと無理矢理後退させられた。僕が引かなきゃいけないようで、胸くそ悪い。  


「おれは……」

 息を弾ませながら、カンちゃんが言った。僕をにらんでいるのかと思いきや、なんだか泣きそうな顔だった。

「お前が……なに考えているのかわかんねえよ。頼むよ……頼むから言ってくれよ……」

 僕も肩で息をしていた。向かっていく力がなえていき、後ろから拘束する腕もなくなった。


 急にまわりが見えてきた。廊下には大勢の生徒が人垣を作っていた。箸を持ったままのヤツもいた。涙ぐんでいる女子もいた。自分が痛い目に遭っていると錯覚したのかも知れなかったし、怖かったのかもしれなかった。そのなかには堀芝サンの姿もあった。僕はばつが悪くなって、目を逸らした。

 みんなが僕らを見ていた。

 なぜか3組の元保健委員長がその場をしきり、僕とカンちゃんを保健室へ連行した。付き添いと呼べるものではなかった。



 保健室では、養護の石黒が白衣を椅子にかけているところだった。

 これからお昼にするつもりだったんだろう。

 倉井先生はいなかった。

 たとえいたって、会わせる顔がない。たぶん今の僕は傷だらけ。

 いや、それよりも――。


 ここへの道すがら、ドクンドクンという脈のリズムで殴られた箇所が痛んだ。

 血が通っていると実感した。

 そのとき突然、僕はある事実に思いあたった。



 ――計算が合わない。

 僕と倉井先生のあの夜は先月のことだ。

 なのに妊娠3ヶ月半だという。

 それって、相手は他にいるってこと?


 ぐらりと世界が暗転した。

 だいじょうぶかとかたわらの面倒見のいいクラスメイトが聞いてきて、僕は生返事した。まえを歩くカンちゃんが、ほとんど傷のない顔を半分ちらっと向けた。

 カンちゃんじゃない。カンちゃんは関係ないと思う。純粋に僕を心配してくれたんだと思う――ずいぶんと出すぎたマネだったけど。



 保健医の石黒は、僕とカンちゃんに殴り合いの原因を聞いてきた。

 僕はもちろん言わなかったし、カンちゃんも黙っていた。カンちゃんの傷のほうが軽かったので、治療がさきに終わり、無言で出ていった。僕もおとなしく、オキシフルやら軟膏やら、塗られるがままになってた。


「俺の子だ」

 唐突に石黒は言った。けど、僕にはそれだけで話が通じた。

 倉井先生のお腹の子供――父親は保健医の石黒。

 僕は、驚きがないことに驚いた。

「そうですか」

 僕は言った。口の中を切っていたから、血の味がした。血の味の言葉だった。

「だけど、なんで僕にそんなことを言うんですか?」


 石黒は言った。

「君には知る権利があると思って」

 なにをもったいぶっているんだか。僕はおかしさを懸命にこらえた。傷の痛みで顔をゆがめたみたいに見えたかもしれないし、見えなかったかもしれないし。


 カンちゃんと僕の乱闘はまったくの無駄だった。

 石黒が事情を全部知っているかどうかはわからないけど、どうでもいいけど、きっと僕たちのことを余裕ある場所から眺めている心境なんだろう。 

 慌てることなく、痛みもなく。


 ……どうでもいいや。

「はっきり言ってください。僕、頭悪いんで、まわりくどい言いかたされても困るんで」

「葉子に想いを寄せている君は、葉子のお腹の子供のことを知る権利がある」

 権利権利権利。

 ほんとに教諭なのかよ。教え諭すって、こういうことなのか?

 

 僕は別にどうでもよかった。倉井先生の子供の父親が誰かなんて、どうでもよかった。


 ――僕が倉井先生と結婚すればいい。

 これ以上の思いつきはないんじゃないかってくらい、名案に思えた。 

 別に、籍を入れるのは今すぐじゃなくたっていい。いつか、そう遠くない未来の夢だ。法律ぎりぎりのところまで、先生と、それから生まれてくる子供に待っていてほしい。


 そうすれば、僕が父親だ。血なんか関係ない。

 離れ離れでも家族だってこと、誰より僕が知っているじゃないか。

 役所への届けなんて、二の次。気持ちがあれば、いつでも家族なんだ。僕の父と母がこの世であのふたりしかいないように。



「だいぶショックだったようだね。君にはすまないと思っている」

「何を?」

 僕はバカな石黒を見るのが嫌で、丸椅子に向かいあった半径1メートルの距離が嫌で、声を聞くのも喋るのも嫌で。

 必要最低限の会話ですむように、極力言葉を選んで、言ってやった。

「相手が誰であろうと関係ない。倉井葉子が好きだ。お腹の子供も愛してる」



『愛』という言葉の重みに負けたくなかった。

 使い慣れない言葉。でも、いちばん僕の気持ちにふさわしい言葉。決意の言葉。

 できれば、こんな男に向かって言いたくなかった。

 案の定、石黒はそれを鼻で笑った。

「君はまだ中学3年生なんだよ。14、5才か? 愛とか言ってみたい年頃なんだ。気持ちはわかる。俺もそうだったから。……一時の気の迷いだって、あとになるとわかるもんだ」

 僕は殴る相手を間違えていた。

 カンちゃんごめん。こいつを殴っておけばよかった。

 もう体力ないからそれができなくて悔しい。


「僕はあんたと違うよ。先生の子供があんたと血のつながりがあっても、愛していけるって言ってるんだ。倉井先生の子供だって思うだけで、気持ちが温かくなるんだ。きっとうまくやっていける。歳とか関係なしに」

「しかし俺にも責任がある。それなりに報いようと思っている」

「堕ろさせるつもりかよ」

「堕胎なんてしない。俺が家族になってやるつもりだ」 

「あんたは自分に酔ってるだけだ」


 がまんなんか、することない。

 一度はこうしてぶつかっておくべき相手だ。

 やれるかどうかはともかく、気持ちだけは諦めない。それでも――。

 ごめん、カンちゃん。それに、堀芝サン。

 ふたりが放課後つきあってくれたのに、もしかしたら僕、だめかもしれない。

 進学、だめになるかもしれない。


 僕は立ちあがって、言ってやった。

「あんたが気にしているのは、世間体だけだ。それに倉井先生も、お腹の子も、あんたに家族にしてもらおうなんて思ってないよ。なってやるなんて言われても、迷惑だし」

 石黒が笑いそうな気配があった。かまわず、続けた。

「あんたじゃ役者不足だ」


 次の瞬間、僕は殴られた。

 座っていた石黒が体勢不十分だったとはいえ、完全に吹っ飛ばされた。ベッドのパイプ部分に体を預ける格好。

「……いいの? 教師が生徒、殴っちゃって」

 痛いんだか熱いんだかわからない左側のこめかみ。

 今の衝撃で脳髄までぐらんぐらんしている。

 やせ我慢もそろそろ限界。

 なんでもなかったふうにしたいから、顔に手をやったりなんかしないけど。

「今さら傷がひとつふたつ増えたって、誰も怪しまないだろう」

「それもそうだね」


 なんでこの状況で軽口が叩けるのか。

 やっぱあの納豆オヤジの息子だからか?

 父さんのことを考えて、少しだけ表情がゆるんだのかもしれない。


「だいじょうぶか?」

 おとなしくなった気配を察したのか、石黒が僕の顔をのぞきこんできた。 

 立つに立てない妙ちきりんな姿勢の僕は、気持ちまで妙ちきりんになった。

「は? あんたが殴ったんだろ」

「それはそうだが……」

「僕がこのあと昏倒しても、誰ひとりあんたのせいにしないから、安心していいよ」

 そうだ。ここでくたばったら、カンちゃんに迷惑がかかる。

「それはまずい」

「は?」

 今度は石黒のほうがパードン? って感じ。

 だいじょぶだいじょぶ。殴られても、スペルはちゃんとおぼえてる。

 ピーイーアールディーオーエヌ。

「ほらね」

「おい、惣山?」

「なんでもないんだ」

 石黒が手を貸してくれた。

 僕は立った。

「それよりせんせ」

 一瞬、目のまえがなにも見えなくなった。

 耳が変。モワモワっとしてる。

 膝にうまく力が入らない。体が重い。

「言いかたきつくてごめん」

 僕は謝った。石黒がぎょろ目を向けた。血走った目が。気持ち悪くって。

 吐き気がしてくる。

「でも嘘は言ってない」

 言葉といっしょに。胃液まで。吐きそう。肩を貸してもらう。そろりそろりと移動。振動が脳神経に触れる。マジ、気持ち悪。視界も悪い。チカチカ。

 なんか飛んでるし。

「……だな」

 声が遠くて。

「え? なに?」

 聞き返した僕の声。

 も、遠くて。

「……」

 石黒の答え。全く。聞こえなかった。

 足が見えた。靴。ベージュの。女性モノの。


 あ。



 次に気づいたとき、僕はベッドに横たわっていた。


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