3.静かなる才媛
翌朝、母さんと僕は寝坊した。
母さんはいいけど、僕は学校がある。
ワイドショーも終わっている――こんな時間までよく寝ていたものだ、とあきれるやら感心するやら。
飯を食ったあと(うちは朝はパン派)歯みがきしながら新聞を取りにいき、戻ろうとして、足を止めた。
確か母さん、新しい表札がどうのこうの言ってたよな。
僕は門の表札を見た。
そこには――。
「えっ『そりゃまあ』!?」
いやいやいやいや!
ありえないです倉井先生。いくらなんでもそんな姓は。
「ソウヤマ、です。先生」
僕の母さんは、笑いもせずに告げた。
――名字が変わった報告がてら、母といっしょに午後から登校したんだ。
教務室で昨夜の騒動のお詫びをしたあと、昨日の夕方僕に報告したときと同じくらい冷静な顔した母が、なんでもないことのように離婚について話した。
惣山春都――今日からの僕の名前だ。
ソウヤマソウヤマ……渡辺とどっちがいいんだろ。
あ、名簿順が変わる。
そうすると、卒業証書授与もいちばん最後じゃなくなる――確かあれって、はじめと終わりの人だけ、あっちこっちに礼しなくちゃいけなかった気がする。
そうすると、式のときは呼ばれたら起立して返事をするだけ、か。
味気ないような、楽できていいような……やっぱ残念だな。
僕は僕なのに。
倉井先生と会っても、別段変わった様子はなくて、僕は安心していた。
体調も良くなったみたいだ。
終わりのホームルームのとき、おかしなことを言った。
「去年の今頃、私はみなさんに風邪に気をつけてくださいと言った気がします。そのあと、私が寝込んでしまったのですが……」
くすくすと女子の笑い声がして、先生もちょっとはにかんだ笑顔になった。
「今年は事情が違います。さっさと風邪ひいちゃってください。そうでなかったら、受験が終わるまで、耐えてください。私からは以上です」
なんか……言うことがたくましくなったような……。
僕か? 僕と寝たからか?
考える間もなく、日直の号令。
起立・礼・さようなら。
――結論を言うと、このときの僕の勘は当たっていた。
それがわかるのは、もっとずっと先の話。
教室を出てすぐのところで、倉井先生を呼び止めた。
廊下には他にも生徒がいるから、倉井先生も僕を見て警戒する様子はない。
僕は言った。
「体の具合はもういいの?」
「……はい」
「ほんとに? 僕らも受験生だけど、先生も受験生クラスの担任なんだからな。気をつけてよ」
倉井先生は僕をまじまじと見つめて、頷いた。
そのまま行ってしまったんだけど……僕は気づいたよ。
先生、背中を向ける直前、表情が崩れた。
笑ってたんだ。
◇ ◇ ◇
何日かのあいだ――美術室という行き場をなくした僕は、放課後、家に帰りもせずに教室でぐずぐずしていた。
それほど仲良くもない女子たちがやってきては、『離婚してかわいそう』だの『こんな時期に離婚するなんて非常識な親!』だの、僕の代わりに怒ってくれた。
その様子を見ていると、ああやっぱ、家出はやりすぎでもなかったよな、と思うのだった。
◇ ◇ ◇
次の週明け、珍しくカンちゃんが『あとでつきあえ』なんて言ってきた。
……あとって?
気になってしかたのない僕は、休み時間にメール攻撃をしかけた。
『カンちゃん なにごと? ハル』
『急につきあってなんて言われても……困るよ、そういうの』
『君の気持ちにはこたえられない』
『ハルトでございまーす(←裏声)』
もう思いつくまま送りつけてやった。
いくつめかでカンちゃん、陥落。
「ハルー!」
犬じゃないんだから、そういう呼びかたはよせやい。
その直後にメール着信。
『おまえセンスなさすぎ』
カンちゃんは涼しい顔して携帯をたたみ、机のなかにしまった。おしまいの意思表示。
同じ教室にいるのに、僕らバカです。ハイ。
カンちゃんの言ってた『あと』というのは、放課後のことだった。
机をくっつけて、カンちゃんと、それからなぜか堀芝サンが僕の向かいに座った。
しかも、教科書やワーク持参。……ああ、そういうことか。
「ハルってどうせ家に帰っても、受験勉強なんかしないんだろ?」
「それほどでもないよ」
「バカ、照れるなよ。こっちまで照れるじゃねーか」
「照れ屋さんなんだから、もー」
僕らの本気とも冗談ともとれる、相変わらずのやりとりを見た堀芝サンは、頬をうっすらと染め、感激の面持ちだった。
「うわあ! この掛け合い漫才をこんな近くで見れるなんて、わたしってラッキー」
漫才って、キミ。
――堀芝サンが才女なのはよーく知ってるよ。カンちゃんも僕も、小学校からいっしょだったもんな。テストのとき、よくクラスの最高点、取っているもんな。
優秀なヤツは、カンちゃんも含めてみんな塾に行っている。
なのに堀芝サンは、学校で習ったことと自主学習だけで学年ランク十位内外をずうっとキープしている、って噂のつわものだ。
学業において華やかな戦績を残し――それでいて、なぜか地味。
なんでなんだろう……これだけ勉強ができるヤツって、みんな放っておかない。生徒会役員だったり、学級委員だったりするのに、堀芝サンはその手の役に就かなかった。
存在感がないというか、気配が薄いというか、要領がいいというか。
今だって『男のなかに女がひとり』っていう状況なのに、別段やりにくそうでもない。
男子となかよく話をするタイプでもないのに、その落ちつきはなんなんだ?
それからもう一点――カンちゃんと、どういうつながりがあるんだ?
心に浮上した疑問のすべてを、僕はぶつけてみた。
堀芝サンは、淡々と答えた。
「よくわからないけど『できる人』に見られがちなんだよね、わたし。そのイメージを壊さないようにしているだけなんだよ。落ちつきは……うん、ある。動揺を表に出さないようにしてる。今ここにいるのは、アルバム編集委員だから」
「アルバム編集委員? なにそれ」
「なに……って、そーやまくんもいたでしょ? あのとき」
なんのことやら。
「ハルがせっせと教科書やらノートやらにマジックで名前書いてたとき、ホームルームで決めたんだよ。おれと堀芝がいちばん受験のことでヨユーありそうだっていうんで、選ばれたんだ。なあ?」
カンちゃんの最後の『なあ?』は堀芝サンに向けられていて、堀芝サンは頷いたあと、僕を見た。
――そういやそんなことがあったかもしれない。
名字が変わって、『惣山』って書きにくいなあ、練習しなくちゃ! ついでだから、持ち物に書いてある『渡辺』姓を直そう。おおこんなところに油性マジックが! 僕って準備いいなあ〜。
――と思って、いそいそと内職をしていたよ。していたさ。
堀芝サンは僕の教科書の最後のページを開き、
「なにこれ。あはは! そーやまくんって、意外に男の子っぽい字を書くんだねー」
と、遠慮のない感想を述べた。
それってへたくそってことだよな?
なにはともあれ、僕は『3年1組選抜・見かけは最高に勉強できそうなペア』に囲まれて、人が羨むくらい充実した学習時間を過ごすことに成功したようだ。
微妙な言い回しでゴメン。きっと、僕は賢くなってなんかいない。
『身の上心配あるから参上』と言われたときは、堀芝サンって僕のために現れた助っ人なのか!? と動揺したし。
『いよちゃんの胸毛・応仁の乱』と言われたときは、頭んなか、胸毛を生やした『いよちゃん』という女の子でいっぱいになって、そんなトコ見られた日には、戦のひとつも起こしたくなるよなあと、妙に『いよちゃん』に同情した。
放課後学習会をしはじめた僕ら3人にならって、教室にはいくつもの小グループができ、居残りをはじめた。
人が勉強しているのをみると、なんとなく焦ってくる気持ちは僕にもわかる。
こうして目に見えるところで、みんなと同じ時間だけやっておけば、少なくとも置きざりにはされない。――そんな気がするけど、それは錯覚。
僕にいたっては、宿題とか明日出席番号であたるとか、そんなときしか自宅学習なんかしたことなかったのに、毎日日付が変わるまで机に向かうようになった。
続けたいから、ノルマは作らない。
夜更かしは翌日が辛くなるからしなかったし、わからないことがでてきたら、カンちゃんと堀芝サンという強い味方がいる。
いつまでも『わからないところさえわからない状態』じゃ、時間を割いてくれているふたりに悪いからな。
それから堀芝サンおすすめの集中力持続法もやってみた。
僕の場合は、絵を書くことだった。
気持ちが乗ってきたときに中断できない油絵は、却下。
スケッチブックと4Bの鉛筆を部屋の勉強机の脇に置き、1日に1枚、記憶を頼りにクラスメイトの写生をした。
「名づけて背理法でーす」
なんて堀芝サンが言い、なるほど理に背くやりかたなんだなと、僕は字のまんまとらえたんだけど(堀芝サンもそのつもりだったはずだ)。
あとあと本当に『背理法』(別名帰謬法)なる証明方法があることを知り、混乱することになるとは露ほどにも思わなかった。
まあいいや。
「嫌なことをするためにやりたいことを我慢するんじゃなくて、嫌なことをするからやりたいこともやっちゃうんだ」
「馬の鼻先にニンジンぶら下げて走らせるようなもんだな」
「どうしてそういう義務っぽい解釈しちゃうのかなあ、小柳くんは」
小柳くん? ……………………おお、カンちゃんか。
「僕、生のニンジン苦手」
「それなら、トマトでもレタスでもなんでもいいじゃない」
「それ以前にハル、おまえ馬じゃないってツッこんどけよ」
「僕、馬じゃないよ」
「遅せーよ」
僕プラスカンちゃんプラス堀芝さんイコール歯止めが利かない。
先の見えない不安だらけの教室のなか、僕ら3人だけ平常の明るさを保っていた。
――保っているように、みえた。
◇ ◇ ◇
合格安全圏だとか、志望校が絞りきれないとか、それぞれの立ってる位置には関係なく、誰しも悩みはあるもので、堀芝サンも例外ではなかった。
「お茶飲んでいこうよ!」
堀芝サンとカンちゃんと僕の3人で、学校帰りに寄り道をした。
明るく誘った堀芝サンが案内してくれたのは、甘味処だった。『しろいとり』という名の、15人くらいしか入れない、小さな店。なるほど、なかは白い鳥の置き物でいっぱいだった。
雰囲気は、和風。僕の表現力の乏しさのせいじゃなく、明かりとか、テーブルとか、なんとなく居酒屋めいているっていうか、薄暗いというか。
穴場には違いなかった。お客は僕とカンちゃん以外、全員女の人。
僕とカンちゃんは、はっきりいって浮いていた。でも、居心地が悪いとは、少なくとも僕は思わなかった。
手を伸ばせば届く距離にいる、たくさんの鳥。
ピアノ曲が流れている。
カンちゃんも僕もはじめての場所だから、堀芝サンにならってクリームあんみつをたのんだ。
窓際にずらずらっと並んでいる鳥を、顔を近づけて見ていたら、カンちゃんに言われた。
「ハル、せまい。お前、堀芝の隣にいけよ」
ってなわけで、席移動。僕のせいじゃなく、お店が狭いんだ。それに、カンちゃんがでかすぎなんだ。
左隣の堀芝サンが少しだけ緊張したふうにみえたけど、たぶん僕の気のせいだろう。
頼んだものがきた(もう名前忘れた)。
白玉なんか食うの、すごい久しぶり。
みかん以外のくだもの食うのも、しばらくぶりだ。
ビタミン不足かもしれない。
スーパーでりんごでも買って帰ろう。
3人して、欠食児童みたいに、食べることに専念した。その間、会話ナシ。
適度に暖房が効いているから、のんびりしてるとアイスクリームが溶ける。
おー、寒天が固くておいしい。
それぞれの器が空になると、堀芝サンが言った。
「あのね、ちょっと話したいことがあるんだ」
意を決したような物言いで、僕まで背筋がぴっとなった。
堀芝サンは、私立の女子高への推薦入学が決まっている。ミッション系のお嬢様学校。この街から遠いので、寮に入るということだった。僕らの中学からその学校へ進学するのは、堀芝サンだけ。
「だから、せいちゃんやマッキイとも離ればなれになるんだ」
堀芝サンは内山とマッキイとつるんでいる。
内山もマッキイも、優秀という感じじゃない……よく知らないけど。
どっちかといえば、僕はマッキイと縁がある。
マッキイの名字が『若田』だから、僕は『渡辺』姓時代に席が隣になったり、日直やったりした。
そういや内山もマッキイも、放課後はさっさと帰っているような……。
カンちゃんも僕と同じことを考えていたらしい。僕より一歩進んだかたちで、堀芝サンに聞いた。
「ケンカでもしたわけ? それともあいつら、塾でも行ってんの? 移動教室のときも、あいつら堀芝を避けてるよな」
「そう。わたし避けられてる」
堀芝サンははっきりとそう言い、カンちゃん、それから僕を見た。続けた。
「せいちゃんとマッキイは同じ学校に行くんだ。高遠高校だから、そーやまくんといっしょだね」
――受かればね。
「せいちゃんもマッキイも、ふたりともなんか、ナーバスになっちゃってて……わたしに言わせれば、ナーバス以外のなんでもないんだけど、なんか……わたしが言うたびに、っていうか、なに言っても癇に障るみたいな……うまく言えないんだけど!」
堀芝サンはつっかえつっかえそう言い、熱いほうじ茶をひとくち飲んだ。
「勉強が思うようにいっていないのかもしれないし、いくらやっても不安なのかもしれない。わたしだってそういう気持ちわかるし……でも『わかる』って言ったら、ひがまれた、っていうか……そうこうしているうちに、なんかふたりともよそよそしくなって……」
教室での様子を思い出そうとしたけど、うまくいかなかった。
僕は、どこのグループがケンカしているとか、うるさいとか、もともと無頓着なほうだ。堀芝サンの話を元に、頭のなかでそのシーンが作られていく感じになってしまう。
3年1組が誇るピアニスト・内山星子。
ちっちゃくてねずみみたいにおちつきがない、若田真紀。
それから、静かなる才媛・堀芝今日子。
「わたしだけもう進路が決まっているんだから、アルバム編集委員のことじゃないけど、余裕があるぶん、もっと本当はいろんなことを受けとめてあげなくちゃいけないのかもしれない。困っているふたりと同じ場所で、いっしょに苦しむべきなのかもしれない。それができないわたしがものすごく冷たい人間みたいに思えてきて……今だって……」
僕は堀芝サンが泣くんじゃないかと思った。
堀芝サンは泣かなかった。
「こうやって小柳くんとそーやまくんに喋って、ふたりから『そんなことないよ』って言ってもらうことを期待してるのかもしれない。……そう考えたら、なんてずるいんだろうって思った。結局わたしだって、誰かに言いたいこといっぱいあって、でもいいカッコばかりして、いつもそうで、言えなくしたのは自分のせいで……そういう自分のこと、どんどん嫌いになっちゃって……それでも」
これだけの気持ち抱えている堀芝サンのどこに余裕があるというの?
「つらいの自分たちだけだなんて、思ってほしくなかった。絶対絶対思ってほしくなかった」
堀芝サンはうつむいた。
僕らのテーブルにだけ、沈黙が落ちた。
ふたつ向こうの席で、女の人が『やだあ!』と言っているのが聞こえた。
しばらくたって、カンちゃんが聞いた。
「堀芝それあのふたりに言ってないだろ?」
「言ってないよ。これからも言わない。これっきりにする。そうでなきゃ、マッキイとせいちゃん差し置いて、小柳くんとそーやまくんになんか言ったりしない」
え? え? え?
僕らの後押しがほしかったんじゃなくて?
違うの? 堀芝サン。
あの、僕は今、混乱しています。
「わたしの気持ちを誰でもいいから知っといてほしかった。せいちゃんたちには内緒でいいんだ。だってわたしはこれからもこのままでいくから」
そう言うと堀芝サンは打って変わって、ひひひと笑った。
「『あと2ヶ月しかいっしょにいられない』なんて思わない。ぎりぎりまでいっしょにいて、これからずっと友達でいつづけてやる! せいちゃんたちは、なにかにつけて、別れだなんだと悲劇にしちゃうんだよ。やんなっちゃうよー。わたしの決意も知らないでさ!」
「そりゃあ……知らないだろう、ふつう」
僕はつい吹きだしてしまった。
堀芝サンがこっちを向いた。
「笑いごとじゃないよー」
「友情の危機なんだよな」
「そだよ」
かしこまったふうに頷く堀芝サン。危機も問題も、堀芝サンにかかればなんてことはない――そうまわりから思われるのは、やっぱりプレッシャーなんだろうな。
でなきゃ、僕やカンちゃんに言ったりするもんか。
「ほかにもまだあるだろ」
ふいにカンちゃんが言った。
「女子ならではのもめごとがあったんだろ。違うか?」
なぜ僕を見てそういうことを言うんですかー?
僕は堀芝サンたち3人の友情にヒビ入れるようなことはなにも……していないとはいえないな。
放課後、堀芝サンを占有しているもんな。
僕のせいだけじゃなく、カンちゃんにも責任があるんだけど。
堀芝サンは言いにくそうだった。視線でその通りだと伝えてきた。
カンちゃんも僕も、堀芝サンの言葉を待った。
「言えない。……約束だから」
堀芝サンはそれしか言わなかった。
僕だって、そんなにしゃべったことのない女子から、
「誰にも言っちゃだめだからね」
という前置きのもと、誰々さんがなんとか君を好きなんだってー、というたぐいの噂を聞かされたことがある。
『誰にも言わない』なんて約束を守る女子、初めて見たかも。
律儀だな、堀芝サンは。
「まあ、だいたい想像つく」
カンちゃんは笑った。
僕もつられてかすかに笑いながら、考えた。
やっぱり、誰かが誰かを好きとか、そういう話なんだろうか。
僕の想像はその程度だし、よくある女子の秘密もその程度。
倉井先生と寝たっていう僕の秘密は、カンちゃんさえ知らないけれど。
「このくらいのことは答えられるよな。……おれじゃないほうだろ?」
「わたしじゃないからね」
「堀芝って面食いだもんな」
「小柳くんには負けるけど」
「おれはハルほどじゃない」
「じゃあそーやまくんがいちばん、ってことで」
「頭のいいモノ同士で盛りあがるなよ!」
僕が割りこんだら、堀芝サンが僕のほうに向き直った。
「そーやまくん」
改まって、頭を垂れる。
「ありがとね。わたし、これでもけっこう感謝してるんだ。あっ、小柳くんも」
カンちゃんは皮肉っぽく口を歪めた。
「つけたさなくていい」
「本当だもん。……けどもうそれも、今日で終わりにする。わたしはマッキイとせいちゃんとの友情復活キャンペーン期間に入ります。勉強会はおしまい。勝手でごめん。あとは小柳くんにまかせる」
もともとそんなに仲良くしていたわけでもない僕に、堀芝サンはずいぶんとよくしてくれた。
はっきりと成績向上をみせられないのが残念だけど、僕が高遠に合格すればいいんだ。
あとはこっちでなんとかする――なんとかしなきゃ、いけない。
「うん。……堀芝サンも、そろそろ自分のことをやったほうがいいよ。なんか心配になってきた」
「おう。悪かったな、堀芝もたいへんなのに」
堀芝サンは気にしないでといった様子で笑顔を見せた。
その表情がふいに崩れた。勢いよく下を向いた。
……腕時計を確認した。
伝票をつかんで席を立った。
「さて、っと。わたしもう行くね。ありがとね。変な話しちゃってごめんね。忘れちゃっていいよ。いいから。じゃ!」
止める間もないくらいの早口でそう言い、会計を済ませて、堀芝サンはひらりとドアをくぐって行ってしまった。――僕たちと目を合わせることもなく。
僕は、握手で伝えたいくらいの感謝をそっけない言葉でしか言い表わせなかった。
堀芝サンは、ぎりぎりまでいつもの顔をしていた。
カンちゃんは、なにも見なかったフリをした。
◇ ◇ ◇
母が仕事に出かけてから、カンちゃんと惣山美耶子専用カラオケルームで熱唱した。
「ハルって明らかに練習不足だよな」
せいぜい八畳くらいの空間。
イントロは流れていないのに、カンちゃんはマイクを使って僕に言った。
「なんの話?」
僕もエコーを効かせて聞いた。
ウーロン茶をがぶがぶ飲んでから、カンちゃんは口を手でぬぐい、テーブルにいったん置いていたマイクを再びつかんだ。
……地声でいいのに。
「カラオケ以外になにがあるんだ。これだけの設備があるんだから、最新曲を覚え、そしてそれをおれにレクチャーしろ」
「興味ないんだよ、そういうの。しかたないよ」
「そんなんじゃ、高校行ってからどうするんだ。合コンとかあったら」
「今の最新曲はきっとナツメロになってるから、平気だよ」
「……」
カンちゃんの声は低い。
最新曲は、基本的に高音。レクチャーうんぬんの次元じゃない。
たった30分で、通信カラオケに『選曲してください』と催促される14、5歳の僕たち。勉強だけの日々で、体がなまったようだ。
けど、弱小卓球部元副部長の僕はともかく、カンちゃんは元柔道部中量級だから、もしかしたら今でも家でトレーニングしているのかもしれない。
聞いてみた。
「ああ」
――僕の描く絵みたいなものかな。
やらないでいると、感覚が薄れていくような感じ。
遠ざかっていく速さって非情なもので、いつのまにか取り戻すのに必死にならざるを得ない。
がんばったからって必ずしも追いつけるわけじゃない。
ひょんなきっかけで思い出すこともある。
まわりが見えなくなることもあるし、見失って、まわりさえ見えなくなることもある。
……やっぱり、柔道とは違うか。
カンちゃんは堀芝サンが守り抜いた秘密を推測で補い、僕に話して聞かせた。
内山かマッキイのどっちかがひそかに僕を好きで、僕が倉井先生に熱を上げていることを知っていて、気持ちを言えずにいた。
また、受験のストレスから、さっさと推薦入学が決まった堀芝サンを目障りだと感じていた(そんなこと僕は絶対ないと思う。友達だろ?)。
その堀芝サンが、どういうわけか僕に急接近!
内山かマッキイは怒って、堀芝サンを完全無視するようになった。
友達とはいえそれまで事情を知らされていなかった(このへん推測らしい)堀芝サンは胸に渦巻くいろんな感情を殺して、内山とマッキイとの和解のため、僕とカンちゃんのもとを去った。
おしまい。
「堀芝のヤツさ、今まで澄まし顔だったくせに、今日になって急にハルのこと意識してたぜ。名前だって『小柳くんとそーやまくん』って、ハルの名前をあとにしてた。女の友情なんざ、めんどくせー以外のなにものでもねえな」
……でも推測だし。
「堀芝サン、うまくいくといいね」
「あいつはきっと、うまくやるよ」
そうだよ、堀芝サンだもんな。
「むしろおれはハルのほうが心配だ。……いろいろと」
なんで今さらそんなこと言うのさ? と聞こうとしたら、カンちゃんラップを選曲しちゃっていて、すぐに歌いだした。
僕も知っている曲だったから、気持ちよくいっしょに歌った。
そんなこんなで、会話が中断したまま、ふたりだけのカラオケ大会・第二部がスタートした。