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彼方の蒼  作者: 生駒美汐
2/9

2.ネクタイがベッドのうえに落ちてる

 毛布がするすると肌をこする、慣れない感触で我にかえった。

 どうしたんだっけ、と思ったのはほんの一瞬で、次の瞬間には僕がしたことをはっきりと認めた。

 倉井先生と寝たあと、少し眠ってしまったようだ。だいたい、その行為自体が夢のような出来事で、現実感が希薄だった。

 自分のものではないベッドで、肘を突いて半身を起こした。暖房が効いているから、裸でも寒くない。

「先生?」

 テレビもステレオもついていない、音のない部屋のなか、倉井先生は不自然なくらい部屋の隅っこで僕に背を向ける形で座っていた。

 俯いて肩を細かく震わせていた。泣いているのかもしれなかったし、それは僕のせいかもしれなかった。

 僕はわりと落ちついていた。ベッドの近くに落ちている衣服を拾い、手早く身につけた。

「先生。倉井先生」

 返事をしてもらえなかった。怒らせたのだろうか。

 感情らしい感情を表に出さない人でも、強引に抱かれたりしたらやっぱりショックなのかもしれない。

 できるだけ足音を忍ばせて、顔を覗き込むようにまわりこんだ。


「返事してよ。頼むよ」


『どうしたらいいかわからない』というよりは、『どうしてあげたらいいか』わからなかった。

 無性に力になりたかった。

 僕にできること。

 僕ができること。

 僕にしかできないこと。


 ――って、僕が原因で泣かしたんだけどさ。

 ああもう、認めるよ。


 僕は倉井先生のそばを離れ、冷蔵庫を開けた。

 納豆は、今はただの納豆でしかなかった。

 特別な感慨もない。


「うどんなら、食えるよね?」


 とりあえず、なんか食おう。

 うどんなら、僕でも作れる。

 かつお節でだしを取って、濃縮の麺つゆとあわせて、うどんを茹でて、卵ふたつ落として、かまぼこのっけて。


「せんせ。できたよ。食うだろ?」


 うどんをテーブルに運んで、先生の手を取って連れてきて、向かい合って座る。

 箸を渡した。

 僕はもう、テレビCMみたいにめっちゃうまそうに食ってやった。

 ずぞぞぞーっ、とさ。

 つられて先生も食べはじめた。

「……あ」

 思わず、といった感じで漏れた先生の声に、僕は勇気づけられた。

「うまい?」

「ハイ」

 僕は椅子にふんぞりがえった。

「『ハイ』じゃ、ちっともうまそうじゃないよー。なんだよ、作り甲斐がないなあ」

「おいしいです……」


 ちびちびと食べる先生。

 それ、おいしい麺類の食べかたじゃないよ?

 ま、いいか、食ってんだから。


 僕はテレビの上になぜかあったりんごの皮をむき、実を切り分け、ガラスの皿に入れて出した。

 楊枝を2本刺す。

 りんごを食べながら、僕は何気なく言った。

「せんせぇ、ここって家賃いくら?」


 先生の赤い両目がくるりと僕をとらえた。

 噛み切られたうどんが、ぼちゃぼちゃとどんぶりに落ちた。

「あー、もう子供みたいなことすんなよー」

 僕が取ってきたティッシュでテーブルやらセーターやら拭きながら、ようやく倉井先生はまともに口を利いてくれた。

「公務員だから、手当が出ています」

「あ、そっか。教員住宅だっけね。ふうん」

 先生は、たちの悪い不動産屋に目をつけられた、お客の入らない飲食店経営者みたいな顔になった。

 簡単に言うと『勘弁してください』だ。


 先生は言った。

「家出するなんて言わないでくださいね」

 困ったような声。

 うわ、心外だなあ!

「家出じゃないよ。同棲」

「渡辺くん!」

「あ。そうそう。さっきから言おう言おうと思っていたんだけどね、僕もう『渡辺』じゃないよ」

「……え?」


 僕はここに至るまでの経緯を話した。

 暗い部屋に、ひとりたたずんでいた母。

 冷蔵庫のなかの黄色い明かり。

 何度やってもうまくいかない、ブーツのひものちょうちょ結び。

 僕と母とが向かい合ったときの空気の乾いた感じ。

 花びらくらいに小さくちぎられた、離婚届のコピー。

 肝心なときに使えない携帯電話。

 風の速さで走る自転車。 

 それから、後になってわかった、父との別れ。

 すべてが断片で、なのにすべてが僕の過去だ。


「お母さんの旧姓は?」

 先生が言った。

「……シラナイ」

「え? 不知火しらぬい?」

「――って、どこの相撲部屋だよ!」

「あ、ごめんなさい」

「いや別に……謝ることもないけど」

「……ごめんなさい」



 部屋に落ちる沈黙。

 テレビをつけようと、リモコンに手を伸ばす先生を制した。

 僕は先生ともっと話したい。

 話がしたいんだ。


 先生はのそのそと席を立ち、ティーポットで紅茶を淹れてくれた。

 僕は砂時計を眺めていた。

 白い砂がさらさら落ちていく。


「僕は謝らないよ」


 時間が砂で表せるんだから、僕の言葉もなにかで表現できないんだろうか。

 僕の想い、形にならないだろうか。


「先生を抱いたこと。誰にも言うつもりはないし、それに……前よりもっと好きになった」


 倉井先生は、僕の知っているどんな『先生』とも違っている。

『先生』ってさ、生徒をビシバシしごくもんだと思ってたよ。

 おっかなくって、権力振りかざしてさ、でも僕らは生徒で立場弱いから、しょうがないって諦めてる。 

 対等になることを諦めてる。


 倉井先生はその点、はかなげで、今にもくじけてしまいそうで、それでいて頑固で、ぜったい譲れないモノを秘めている。

 ……譲ったっていいのに。

 ちょっとくらい、スキがあったっていいのに。

 僕はそんなに頼りにならない?

 話相手にもならない?


 僕は時間をかけてしゃべった。

 先生のどんな弱さも受け止めたかった。


 暖かいけど乾燥した部屋。

 すっかり冷めてしまった紅茶。

 砂糖がなかなか溶けなくて、スプーンでぐるぐる混ぜているとき、電子音がした。

 携帯電話の呼び出し音だった。

 僕はハンガーでつるしてあるダッフルコートの左ポケットを探った。


「……はい。倉井です」


 ――僕のじゃなかった。

 先生はパールホワイトの携帯を左手に持って、部屋の隅に移動した。

 先生も着メロ苦手なんだ? 僕とおんなじおんなじ。

 音楽さえかけていないから、その気はなくとも盗み聞き状態――なんていうのは言い訳。

 倉井先生のことならなんだって知りたい僕は、先生の呼吸さえ聞き取る覚悟で耳を澄ました。

 どんなにがんばってみたって、相手の声までは聞こえないんだけどな。


「はい。……いえ」

 相手は友達じゃないな。

 いや、倉井先生だったらたとえ恋人相手でも、ですます調を貫きそうだ。

「え? はい。……はい、いえ……え、あ……はい……」

 なんかもう会話じゃないよな。

 先生は『わかりました』と言って、携帯を切った。

 しばらくそのまま動かなかった。

 ……先生?

「渡辺くん。送っていきます」

 ぜんまいを巻きなおしたみたいに急にてきぱき身支度をはじめた先生は、はっきり言って変だった。

 とろい印象しかないのに、いつの間にそういう身のこなしをおぼえたんだ?

 っていうか、それだけすばやく動けるのなら、いつもそうすりゃいいのに。

 なにも僕とふたりっきりのときに、そんなせかせかとさあ……。


「渡辺くん? ほら、上着を着てください」

「えー? もっとゆっくりさせてよ」

「ダメです」

「えー」

 嫌だなあ、まだ帰りたくないよ。

「僕、泊まっていこっか……」

 おちゃらけて言ったら、ものすごい目で睨まれた。

「それもダメです」

「けちー」

「けちとかそういうんじゃありません。電話が」

 先生はおかしなところでいったん言葉を切り、僕の黒いコートを手渡そうとした。

「さっきも、ありました。ところで、それはなんのマネですか?」

 僕は両手を横に広げて、笑って答えた。

「サラリーマン家族ごっこ」

「はい?」

「サラリーマン。僕の両親は月給取りじゃないし、スーツも着ないから……着なかったから」

 僕が過去形に言い直すと、先生は自分のことのようにしゅんとした。

 僕はなぐさめたほうがいいんだろうか。

 しかしさー、この場合、どう考えたって、かわいそうなのは僕だと思うんだけど。

 まあいいか。

「せんせー。僕の家庭のことやさかい、あんま気にせんといてやー」

「なんですかそのエセ関西弁は」

「うわ。すばやいツッコミ!」

 今、句読点いっさい入らなかったような気がする。

 会話しながらも、先生は僕にコートを着せてくれた。

 まず左腕を通してー、右腕を通してー。

「あ。せんせ。ネクタイがベッドのうえに落ちてる」

「えっ!」

「なにその過剰反応」

 顔を赤らめてネクタイを拾いにいった先生を、僕はやっぱりかわいいなと思った。

 歳はひとまわり近く違うけど、精神年齢同じくらいじゃないですか?

 それとも、感性が似てるのか?


 僕がなにも頼まなくても、倉井先生は制服のエンジのネクタイを結んでくれた。

 首の近くで白い両手が結び目を作る様子を、僕は不思議な気持ちで見つめた。

 こういうことを毎日してもらえるんなら、家族っていいよな。

 途中、先生の髪が一本挟まってしまい、それを取るためにさらに接近した。

 息がかかる距離で、僕はドキドキした。

 髪をおろした先生の耳に光るダイヤのピアス。

 なにもしていなくても、扇形に長く伸びたまつ毛。

 赤みがだいぶ直ったけれど、それでも濡れている瞳。

 化粧っ気がなく、青白い肌。小鼻の横が少し荒れている。


「はい。できました」


 これ以上見ないでと言っているようにも聞こえた。

 先生の結ぶさまは、手馴れてはいなかったけど、下手でもなかった。

 これだけで男の影を見抜くことは、僕にはできなかった。

 とりあえず、部屋には匂いも灰皿もないんで、タバコ飲みの恋人はいないようだ。

   


 玄関先で、僕はブーツの紐を丁寧にほどき、確認するようにゆっくりと結んだ。

 すぐ後ろに倉井先生の気配。

 サラリーマン家族ごっこは、まだ継続中。

 先生は送ってくれるといったけど、考えてみたら僕は自転車で来たんだっけ。

「さっきの電話、誰からだったの?」

「……あなたの、お母様」

 え。

 まさか、そういう返事がくるとは思わなかった。

 なんであいつ、僕も知らない倉井先生の携帯番号知ってるんだ!

 ちくしょー、あとでおぼえていやがれ!

「渡辺くんが眠っているときにも、何回かあって……田中先生からもありました」

 田中先生っていうのは、気持ちよく頭の禿げあがった学年主任。

 俗に言うハゲナカ先生。独身。

 指の分かれた靴下を履いているため、水虫の疑惑あり。

「なんでハゲナカまで倉井せんせの携帯知ってんだよ?」

「大騒ぎしているみたいです。渡辺くんがいなくなったって、お母様から学校へ連絡がいったらしくて……。みんなで探しているみたいです」


『みたいです』って……先生……。

「かくまってくれてたの? 先生」

 なにも言わずに、僕につきあってくれた。

 そのことが、うれしくて、ただうれしくて、僕は立つに立てなかった。

「ありがとう……」

 あとでどんなイヤミ言われるかわからないのに、僕のことを黙っていてくれた。

 生徒も家族も(きっと先生だって)受験でぴりぴりしてんのに、倉井先生はいつもと変わらぬ顔して、僕を受け入れてくれた。

「僕も共犯者だ。このひとときのことは黙っておく。誰にも言わない」

 思わぬところで、秘密の共有。

「秘密、か……」

 先生の口からふと漏れたその呟きが、僕を振り向かせた。

 

 僕はあまり背が高くない。倉井先生とも10センチと違わない。

 玄関のたたきに立った僕は、先生よりわずかに背が低くなっていて、見あげる感じ。

 よけいなひとことを言うから、逃げられてしまうんだ。

 僕は先生を見つめた。

 先生も僕を見つめていた。

 体を伸ばして、僕は唇を求めた。



 けれどもそれは、未遂に終わった。


「倉井せんせーい! 夜分遅くにすみませーん!」


 ノックとチャイムとあとは……なんだ!?

「倉井せんせーい! 少しお話があるんですがー」

 ガチャガチャとドアノブを回す騒々しい男が、扉の向こうに確実にひとりいる!

「出ることないよ、先生」

 僕はすばやくささやき、抱きしめるように倉井先生を取り押さえた。

 や、どさくさにまぎれて抱きしめたんだけどさ。

 振りほどこうとする先生に、僕はさらに言った。

「なんなら僕が恋人の役をしてやろうか?」

 逆効果だった。  

 僕の腕から逃れた倉井先生は、ドアチェーンを外して、鍵とドアを開けた。

 僕が相手が誰なのか悟るより、向こうのほうが早かった。


「渡辺。君……こんなところにいたのか」

 保健の……ええ?

「石黒先生? 先生こそなにしてるんですか?」

「なにって……」


 僕は倉井先生と石黒の間にいた。

 石黒はそんな僕の頭を片手でぐいっと自分のほうに寄せた。

 力と上背が無駄にあるヤツだ。

 体育教師でもないくせに。

 僕と倉井先生は、リハーサルをしてあったみたいに、交互にうまく状況説明をした。


「僕が今ここに来たんです」

「もう少しで警察に連絡がいくところだったと、話しました」

「僕はもう驚いちゃって……そんな大げさにされても困るっていうのにさー」

「なに言っているんですか! みんなが心配していたっていうのに」

「だーってさー」


「――もういい」


 石黒は僕らの名演技を中断させ、僕ひとりを階下まで連行した。

 途中、僕は振り返り、そのまま見送ってくれていた倉井先生に声をかけた。

「せんせー。明日は絶対、学校来いよなー!」

 倉井先生はたぶん微笑んでくれた。

 ニコ笑いではなかった気がするけど、暗くてよくわからなかった。

 先生とつきあえたら、どんな笑顔なのか、すぐ間近で見られるのにな。

「わかりました。明日、学校で」

 きっぱりとした口調が、なかなかりりしくて、夜風の冷たさに勝っていた。

 僕の心はしばらく冷めそうにない。



   ◇   ◇   ◇  


 石黒からは、だいたい想像通りの説明を聞かされた。

 母さんから学校へ電話がいって、カンちゃんからも僕んちに問い合わせがあって、学校から倉井先生のアパートに電話がいって……。

 家に帰ったら、僕は母さんになんて言えばいいんだろう。

 そんなことを考えながら、街頭の明かりを頼りに自転車の鍵を外していると、石黒の声が降ってきた。


「倉井先生と同じ匂いがするな」

「じゃあシャンプーがおんなじなんじゃないですか? 香水なんか、僕はつけてないから」

「アリュール」

 ――それは倉井先生の香水の名前。

 なんで男のあんたがそんなもん詳しいんだよ。

 僕は母さんから見せてもらったから、知ってるけど。

 いつもの僕なら、ここでおとなしく引き下がったんだろうけど、今日の僕は違った。

「いくら無愛想な倉井先生だって、お客が来ればコーヒーぐらい飲んでいけって言うだろ」

 石黒は無言だった。

 鍵が外れた。

 サドルにまたがらずにすぐにでも地面を蹴って、行ってしまいたかった。

 けど、思い直した。

「どうした?」

「忘れ物」


 どこまでも強気な僕。

 階段一段飛ばしで駆け上がり、202号室のドアを叩いて、住人に再会した。

 顔を見るなり、僕は言った。

「すげえむかつくこと言われたんで、なんとかしてもいいですか?」

 答えなんかいらない。

 僕は欲しかった唇をさっさと奪い、耳元でぼそりと告げた。


「またな」



 石黒にはさよならも言わなかった。

 振り切るように、自転車のペダルをめいっぱいこいだ。

 してやったり! っていう笑い顔を、見られるわけにはいかなかったから!



   ◇   ◇   ◇  


 閑静な住宅街のなか、一軒だけ、部屋という部屋すべてに明かりが灯っていた。

 クリスマスツリーみたいだ――住人がひとり減ったとは、とても思えない。

 僕はなんとはなしに、我が家を見あげた。

 

 考えてみたら、この光景を目にしたのは初めてだった。

 家族が少ないのに部屋数はやたら多いし、母の出勤時間は夕方だから、こんなにたくさんの電気をつけることはなかった。

 外に出て、それを眺めることもなかった。

 誰かの帰りを待つ――そのためだけの無数の明かりが、好ましかった。

 僕はそうやってしばらくそこに佇んでいた。



「春都っ!」


 仕事のはずの母が玄関から飛び出してきた。

 自転車を倒す勢いで僕にしがみつき、また僕の名を呼んだ。

「春都っ!」

 母は泣いていた。

 ずっと泣いていたのか、急に泣き出したのかはわからないけれど、とにかく今、泣いていた。


「あんたまでいなくなったらって、ワタシ……ワタシ……わああああ」


 声をあげて泣いていた。あとはもう言葉にならなかった。

 肩を揺すって息をして、泣いていた。震えていた。

 顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしていた。髪も乱れていた。

 玄関のそばにサンダルが片方落ちている――母はサンダルを左足しか履いていなかった。

 こんなに取り乱した母は見たことがなくて、それだけ僕を心配していたんだと思うと、こっちまで泣けてきた。


 痛いくらいに締めつけてくる、僕の背中にまわされた両手。

 あごに触れる母の頭は濡れてもいないのに冷たくて、つい今しがたまで家の外にいたことを示していた。

 きっと、家じゅうの電気をつけて、僕を探しに出かけていたんだろう。

 僕を出迎える人は他にいない。せめて、誰もいない家から『おかえり』を言ってもらえるように。



 1月の深夜、寒空の下、どれだけ長い時間そうしていただろう……。

 僕はじっとしていた。

 腕のなかの母の呼吸が落ちつくまで待って、

「ごめん」

と、ただそれだけ言った。

 再び母は泣き出した。

「あんたは悪くないよぉぉ」

 向かいの家のおばさんが窓の隙間からこっちを窺っているのが見えた。  

 僕は小さい子をあやすみたいに母をなだめて、震えるその肩に自分のコートをかけてあげた。


 家に入って玄関の鍵を閉め、壁の時計を見ると、午前1時すぎだった。

 倉井先生のアパートですごした時間は全くわからなかった――僕が時計を見ないようにしていたから。

 そんなことを思いながら、母を風呂場まで連れていった。


「もうどこにも行かないで」


 ひとまわりもふたまわりも小さく見える母。

 このときばかりはいつもの軽口をたたくことはできず、僕は母の言葉をそのまま返した。

「もうどこにも行かない」

 やっと安心したのか、母はおとなしく風呂に入った。

 母の姿が見えなくなって、ようやく僕も冷静になりはじめた。


 家の留守電をチェックして、倉井先生と学校に帰宅を知らせ、雑巾で玄関から風呂場まで続く母の足跡をふき取り、リビングのヒーターをつけて、キッチンでお湯を沸かした。

 長風呂の母だけど、今日だけはすぐに出てくるだろうから、今のうちにと思っていたら、

「春都おお! どこおっ!?」

「便所だよっ! うるせーなっ!」

「……あっそ」

 ――やっぱりな。

 けど、風呂で血の巡りがよくなって、完全復活したみたいだ。

 僕としてはそっちのほうが断然うれしい。

 元気のないかあちゃんなんて、つまらない。

 よそがどうかは知らないけど、僕の母親はこうでなくっちゃ!



   ◇   ◇   ◇  


 風呂あがりに冷蔵庫からポカリを出していたら、なぜか熱燗を手酌している母ちゃんがするすると近寄ってきた。

「お前も飲め!」

 げ。酔っ払いモード突入かよ。

 仕事のとき以外、日本酒なんか飲まない人なのに。

「これからはワタシが春都の父親だ」

 すると『父さん』って呼んでもいいってこと?

 やだなあ。

『美耶子サン』『母ちゃん』『母さん』『お袋』に続いて……呼び名5個目だよ。 

「で? 父さんの残していった酒を干そうっていうの?」

「ああ!」

 返事まで男らしくなってるし。

「コシノカンバイって、冷で飲むんじゃないの?」

「子供はそんなこと知らなくていいの!」

 ……どうしろってんだよ、この酔っ払いめ。


 僕は自称父の母を放置して、自分の部屋に引っ込んだ。

 カンちゃんにメールでもしよっかなー。


 ……

 ――『しよっかなー』じゃなくって『しなくちゃ』だよ! おいおいっ!!

 コートのポケットからはみ出している白いストラップを引っ張り、携帯を開いて、僕はベッドに横になった。

 メールは17件。その内訳は母さん2件、怪しいやつ2件、カンちゃん……13件!?

 

『ハルさっき悪かったどうしたなにかあったかカン』

『ハルハル応答せよカン』

『もしもしあたしりカンちゃん』

『春tどした?カン』

『生きてるかー』

『今帰宅我即入浴予定』

『この携帯は渡辺春都のものです拾った人は警察へ』

『おーい!返事しろー』

『電池切れかよダセエな』

『お楽しみのところ失礼します連絡待ってますよん』

『ケータイ替えたい』

『はると怒ってるのか?』

『もう寝る』


 カンちゃんお得意のスペース抜きメール。最後の送信は1時22分。

 それから『お楽しみのところ』ってヤツ……!!

 留守電もふたつ入ってた。

 僕はウケを狙おうと思ったけど、なんにも思いつかなかった。


『学校で話す』


 ――そう打って、寝た。


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