1.降っても晴れても
降っても晴れても、いつも変わらないメゾソプラノ。
告げられたさよならは、今もここにある。
◇ ◇ ◇
倉井先生が呼んでいる、と言いにきたカンちゃんの目が笑っていた。こりないヤツ――そう語っている。
目配せするように笑いかえしてやった。まあね、の意味だったりする。
僕は教科書を机のなかに突っ込んで、足早に美術準備室に向かった。
『女性を待たせるな』というのが、母親からの教え・その1。
僕の描いた絵を、倉井先生は首をかしげて見ていた。
乗り気でないお見合い写真をまえに、断りの口実を探しているみたいだ。
僕には絶対の自信があった。抜きん出ている。好き嫌いの壁さえなければ、全員一押しの傑作。
自信過剰? 悪いけど、言われたことはないな。
油絵に関しては、この件だけは譲れない。他はぱっとしない僕の、唯一無二のとりえ。
描くとき――そのとき、ありったけの情熱を注ぐ。魂をぶつけるような行為(だと思っている)。
「渡辺くん。私の言いたいことがわかりますか?」
画材だらけで狭くなった美術準備室。ブルーグレーのスーツを着た倉井葉子先生が回転椅子をくるりと向けた。
生徒に対しても『です・ます』調を崩さない、潔癖な26歳。きりりとしたまとめ髪。独身。
倉井先生は生徒と向きあって困ったとき、にこ、と笑いかける。『にこっ』ではなくて、『にこ』。
この微妙なさじ加減が、最高にかわいい。同級の女どもには決してできない芸当だ。
そんなわけで、にこ、と微笑まれた僕は、わざわざまじめ声を作って返した。
「わかりません。教えてください。どうしたらいいのか」
「それは」
「どうしたら先生は僕を好きになってくれるんですか?」
倉井先生はこめかみを押さえて、ためいきをついた。
椅子にもたれかかった格好で、いつものように、丁寧語で答えた。
「そういうことをさらっと言わないでください。いざというときのために、とっておきのせりふとして、とっておいてください」
「あ、先生。今のシャレですか? 『とっておき』を『とっておく』って、わざと言いました?」
「違います。問題をすり替えないでください。あのね、渡辺くん」
引きずるようにして、名画を作者(僕だ)に見せる。
指を折って確認しながら、僕はつぶやいた。呪文のように。
「夜の海と風と空を泳ぐ魚に光る星」
「それがどうして作品名『倉井』になるんですか? 倉井って、私の名前でしょう?」
「そう」
好きだからに決まっている。生徒の言うことを少しは信じてよ、先生。
僕は本当にあなたのことが好きなんだよ。17回くらい言葉にしているのにな。
「内申点を良くしてもらおうっていうんじゃないよ。美術の成績はずっと5だったし、英語が2なのも、どうしようもないし」
「2なの? そう。もっと努力してください」
「じゃなくって」
僕はちょっと考えた。というか、迷ったふりをした。
目測の距離を頼りに、倉井先生に顔を近づける。ほのかに香るのはアリュール。
「――なんで1年3組相原知也のクロッキー帳にキスしなきゃならないんだ」
すんでのところで阻まれてしまった。デスクの課題の山から引っ張り出されたクロッキー帳。くそ。
倉井先生はくすくす笑いながら、
「中学生の性欲につきあっていられません」
と、いつものようにかるーくかわすのだった。
倉井先生にとって僕は、いてもいなくても変わらない生徒だ。ただの40分の1。
ずば抜けて成績が良いわけでもなく、素行不良で停学になったこともない。
存在感だって、あまりないほうだ。目立つのは好きじゃない。
細いわりに頑丈な体。去年の冬のことを先生は覚えているだろうか。
「風邪が流行りはじめています。みなさん気をつけてください」
クラスに呼びかけた翌日から一週間、先生のほうが寝込んでしまったよな。
みんなが口々に『だらしない』と言ったけど、僕はなによりも先生のことを心配していた。
木枯らしにさえよろめきそうな、僕以上に細っこい体。抱きしめたら折れてしまいそうだから、そっと包みこみたい。
そうだ。あのころにはもう、僕は恋をしていた。
◇ ◇ ◇
『歳を考えろよ』とツッ込むのもばかばかしいくらいに若づくりをした母が、アニメ声優張りのきゃぴきゃぴ声で、自分の息子と同い歳のアイドルの歌を熱唱していた。しかも振りつき。それもこれも日課だから、やめさせることを僕はやめている。
僕の家はかなり変わっている。
母専用カラオケボックスがある。父専用暗室がある。僕専用アトリエがある。
それぞれが得意分野の部屋を持っていて、だからというわけではないけれど、家族3人がそろうことがない。
父は365日中360日くらい、国内海外問わず旅をしていて、写真を撮っている。知るひとぞ知る(らしいよ)フリーのカメラマン。
そんな父が帰ってくるのは、狙いすましたかのように、いつも夜だ。母は接客の真っ最中だから、当然会えない。
僕がふたりの連絡役をつとめている。
「美耶子サン(母だ)最近、フラワーアレンジメント教室に通っているんだ。そこに活けてあるのがそうだよ」
「父さんが昨夜帰ってきたよ。無精ひげがボーボーだった。僕に進路をどうするのか聞いてきた」
するとふたりは言うんだ。『たまには電話ぐらいすればいいのに』って。
ばかだよな。それは僕のせりふだっつーの。
「ああ春都。おかえり」
ようやくマイクを手放した母がリビングに現れたのは、夕方5時半になるか、ならないかって時間だった。
僕は着替えて簡単な食事を作り、勝手にすませていた。
「ただいまでもないけど、ただいま」
母にウーロン茶をついでやると、うまそうにごくごく飲んだ。散歩帰りの犬じゃないんだから。
母はもともと、勉学についてうるさく言うほうではない。
だけど僕は一応受験生で、塾に行っていなくて、季節が10月の終わりともなると、事情も変わってくる。
昔は業者テストがあって、学校ごとの志望者数に対して自分がどの位置にいるか、わかるシステムだったらしい。僕もそういう時代に生まれたかった。
できる生徒はいい。受験戦争で正念場を迎えるのは、僕みたいなできの悪い子供だ。
優秀な人は、ランクを下げるっていう最終手段がある。定員が決まっているから、ピストン式に押しだされてしまう。そうなったとき、僕はまちがいなくはみだし者だ。
いくら教育に無頓着な両親とはいえ、さすがに中学浪人は認めないだろう。父なんか、『働け』って言いそうだ。
小言を言われるまえに、さっさと部屋にこもろう(勉強するとは言ってない)。
ところが、今日の母はおかしなことを言った。
「ああ春都。あんたね、しばらく絵を描くのやめなさい。勉強の邪魔だから」
僕の絵を20万で買い、自分の店に飾るような母が。
『得意分野を磨け』(母の教え・その2)と、いつも言っている母が。
「どうしちゃったんだよ」
びっくりした僕は昇るはずの階段を一段踏み外し、すねをしたたかに打って、それはそれは痛い思いをしたんだけれども、それでも母の言葉が信じられず、母ににじり寄った。
「急に受験生の子を持つ親みたいな顔、しちゃってさ」
「みたいな、じゃなく、あんた実際受験でしょう。ワタシはね、なんでもいいの。あんたの人生なのよ」
母さんは背中を向けた。おかしい。おかしい。
だけど14年のつきあいで、母が一度決めたことは絶対曲げない主義だって知っているから、こっちがひくことにする。
「わかった」
ウーロン茶のペットボトルとグラスをキッチンに運んだ。
「だけどアトリエにいろいろ持ち込んであるから、鍵かけるのは明日にしてくんない? それまでに片しておく」
母がどんな顔しているのか見なかった。顔を見ることは、顔を見せること。
母さんも僕と14年つきあっているからな。顔を見れば、見破ってしまう。
一度決めたことは絶対曲げない主義――僕は母さん似だ。
母が出勤するのを見送ってから、携帯でカンちゃんに協力要請した。てきぱきと画材や資料をまとめていると、かぼちゃの煮つけを携えて、わが心の友はやってきた。バイ・バイシクル。
「家出でもすんの?」
「そうじゃない。本拠地移転だ」
「は?」
荷物の半分をまかせた。絵の具や絵筆、スケッチブック。僕は描きかけのキャンバスやオイルといった、取り扱い注意のものばかりを自分の自転車にくくりつける。安全第一。カンちゃんの走行は早いが揺れる。
目的地は夜の学校。夜の美術準備室。
特別教室棟の窓のひとつは鍵がかからないので、そこから侵入する。内履を取りにいっている余裕はない。時刻は9時40分。先生がいそうでいない、微妙な時間。
「学校の怪談の実地調査かよ」
「倉井先生似の幽霊に限り、遭遇を許す」
小声でごちゃごちゃ言いながら、何事もなく任務遂行。迅速に撤収。――あっけない。スリルのかけらもない探険だった。
カンちゃん家の手前の自販機で、温かいココアを買った。
「なんかさ、なんもなさすぎて、つまんねえよな」
石橋に腰掛けて、カンちゃんがつぶやく。僕もまねをする。
身長差10センチ体重差20キロの僕らは、暗闇のなか、兄弟に見えるかもしれない。小さいほうが僕。
「あるよ。お受験」
「ぶは。ハル、それ本気で言ってんの?」
「うん。受験があるから、なにもかもがつまらなくなる」
空には気弱に輝く星。教科書にも載らないような、かすかな光。僕の存在も、そんなものなのかもしれない。
カンちゃんは僕と違って優秀だから、県下有数の進学校へいくらしい。『らしい』というのも、変な話だ。これだけ行動をともにしていながら、間近に迫りくる未来を語りあったことがない。だいたい想像つく。波乱なんて、そうそうあるもんじゃない。
「ハルはやっぱ、二瓶東にすんの?」
カンちゃんが聞いた。
『二瓶東』とは、二瓶東高校のことだ。この近辺ではレベルは下のほう。授業が変則カリキュラムで、女子の制服がかわいいと評判だ。
でも制服なんかどうだっていい。
化粧に1時間かける女子高生と机を並べ、彼女らと同じことを学ぶなんて、今の僕には地球の未来くらい想像がつかない。
「行きたくないけど、しかたないよ。僕もカンちゃんみたいに頭がよかったらなあ」
「そのことだけどな」
そのこととはどのことなのか。引退したとはいえ、柔道部の猛者がなに煮え切らないことを言っているんだか。
ココアの缶を欄干に置いて、カンちゃんは僕を見つめた。
「おれがもし、高遠あたりにランク落としたら、ハルも来るか?」
びっくりした。
高遠っていったら、カンちゃんの第一志望の2ランクくらい下だ。この辺からいちばん近くて、僕の家から歩いて15分の公立高校。部活動に熱心なところだ。
「カンちゃんはやっぱ、明和代? あそこって、柔道部ないのか?」
「ない。だから迷っている」
「そうかあ」
カンちゃんの両親はカンちゃんに期待しているからな。なまじ将来性が(って、高校進学の時点でそういう話をするのもなんだけど)あると、こういうときプレッシャーだよな。
ま、これがフツーの家族のありようなのかもな。
僕は言った。
「もしカンちゃんと僕が高遠なんかに行ったらさ、きっと肉じゃがとかおでんとか、食えなくなるね」
「あん?」
「僕はカンちゃんの母ちゃんにいろいろお世話になっているからな。今日だって、かぼちゃの煮物をもらったし。そういうことがなくなるよ。おばさんに恨まれるから。おばさん、『うちの克典が落ちこぼれた。悪い友達を持ったもんだ』って、言うよ」
エリートにはエリートの道を。一般人は一般人らしく。
それでいいじゃないか。手に手を取って、道を外れることはない。
もらったかぼちゃには正論しか言えなくなるエキスが入っていたのかもな。僕は口調のうえではなんの迷いもなかった。
「そんなこと……」
言いかけたカンちゃんの言葉を、僕はさえぎった。
「明和代にしとけよ。僕に遠慮はいらない」
空き缶を捨てて戻る。カンちゃんはサドルを握り、家のほうに移動をはじめた。
「妙なこと口走っちまった。ガラじゃねえよなあ、全く」
「しかたないさ」
「あーあ。早く受験が終わんねーかな」
僕はそれ以上を考えないことにした。カンちゃんは自転車を車庫にしまっている。
適当に挨拶をして、自転車を走らせた。
家に着くと同時に着メロが鳴った。メールだ。
「なんてタイミング。僕を見ていたのか?」
ひとりごとを言ってから、ポケットから携帯を出した。
『さっきのは ただの確認だから』
カンちゃんからだった。確認の確認か? 几帳面なヤツ。顔に似合わずマメなんだよな。
僕もマネた。純朴な美少年(爆)からの、顔に似合わないメッセージ。
『OH YEAR !』
そしたら速攻で返事がきた。
『スペルちがう』
ほっとけ。
翌日からの放課後、美術室に潜りこんでひたすら絵を描くことにした。5人しかいなくて、しかもだべっている美術部部員より、僕ははるかに勤勉だ。
顧問がまたいい加減な人で、僕が『部員です』と言ったら、鵜呑みにしてくれた。なんとたこ焼きの差し入れ。
OH YEAH!(今度は正解)
物事というのは、なにかしら障害があったほうがはかどるらしく、僕の意欲作『葉子(仮)』(もちろん倉井センセのファーストネーム)の進行状況は良好といえた。
絵の具を乾かす合間に、美術部員に混ざって、クロッキーや水彩画なんかにも手を出した。1年生部員の女の子をスケッチして、調子こいてサインまでつけてプレゼントしたときには、涙ぐまれてしまった。その後、そういう依頼が部活以外からもきて、いちいち引き受けていたらきりがなくなって、じきにやめた。
帰宅時間はたいてい午後6時。居残り勉強ということになっている。ベターな嘘。
母はそんな僕を疑ってはいないようだった。完全に『創作活動休業中』と信じているようだった。
◇ ◇ ◇
11月に入ってすぐ、文化祭があった。
僕の油絵はどういうわけか、作品名が『倉♯』になっていた。倉井先生の苦肉の策らしい。
「ハル〜。クラシャープってなんだよ」
カンちゃんにげらげら笑われた。
僕は来訪客でごった返す校舎を駆け回り、裏庭のフリーマーケット会場にいた倉井先生にくってかかった。
先生はいつもの『にこ』笑いで僕をかわした。
なんだよ。なんなんだよ。
「こういうやりかたは卑怯だ」
言ったって、先生の顔色ひとつ変わりやしない。
先生の怒っているところ、心から笑っているところ、泣いているところ――見たことがない。
誰にも心を許さない。開かない。受け入れない。
顔の表面だけに、一見魅力的な、薄っぺらい笑顔を残して。
――そんなやりかたが、あってたまるかよ。
機会を見つけて、びしっと言ってやりたかった。
けれども事態は予測不可能の方向へと進んでいくのだった。
◇ ◇ ◇
沈黙のなか、僕は冷や汗をかいていた。
粒にならない、気体の汗だ。そんなもの、ありえないのかもしれないけれど、僕的にはぴったりの表現。
この圧力。女って強いよな。最強だよな、母親ってさ。
「あの、渡辺さん。あんまり叱らないであげてください。受験生というのは、私たちの想像以上に、追い詰められた気持ちでいるんです」
倉井先生も、フォロー入れるくらいなら、はじめからチクルなよ。
――12月のなかば、受験生の三者面談の、最終日。
教室のまんなかに設えた席で僕ら渡辺ペアと倉井先生は対面した。
僕はかねてからの予想通り、二瓶東でケバい女子高生とラブラブなハイスクールライフをおくることになりそうだった。平均以下の偏差値みたいな中間テストの点数を前にしたら、とてもじゃないけど高遠なんて、本当にレベル高くて遠いよ。
僕は終始無言で、倉井先生進行の面談につきあっていた。母も学校のことはからっきしわかってないから、こめかみを押さえて頭痛をこらえ、口に手をあててあくびをこらえていた。
僕はそこまで露骨なことはしなかったさ。一応、自分の将来の話だ。
平凡な人生とはいえ、学校パンフで紙ひこうきを折って、より遠くへ飛んだところを志望するようなことはしたくない。……冗談みたいだけど、うちの母ちゃんならやりかねない。
で、最後、左腕のロレックスをちらちら見ながら終わりを待つ母に、倉井先生はにべもなく言ったのだった。
「放課後にあれだけの絵を描いていたら、お家に帰ってからは集中力が持続しないでしょう?」
僕に向けられた言葉。ピクリと反応したのは母。
「なんのことです? 先生」
僕は天を、天井を仰いだ。あと数十秒で終わるはずだったのに、先生は戦いのゴングを鳴らしてしまった。第二ラウンドだ。
帰りの車のなかで、僕はブツブツと悪態をついていた。
銀のセダンの運転席から、母の笑い声がする。
「あんた、あの先生にずいぶんと入れ込んでいるみたいね」
「わかる?」
「そりゃあね。あんたの母親だし、仕事柄いろんな人間、見てきたもの」
僕は腫れている左頬をハンカチで冷やしていた。口の中はまだ流血している。
母ちゃんに殴られた。
いや、母ちゃんに言わせたら『あんまりだらだらと話が続いていたから、さっさと終わらせたかった』のだそうだ。
その読みどおり、倉井先生は慌てふためいて、僕らのあいだに割ってはいった。
先生は最後の最後で僕の味方をした。ラッキー。
……けどなあ、殴りかたが半端じゃなかったぜ、母さん。
嘘をつくことが悪いんじゃない。ばれるような嘘をつくことが罪なのだ。どうせなら、徹底的にその嘘を貫きとおせ。
――これが、めったにふたりそろわない僕の親の基本観念なのだからすごい。
感情がすぐに言葉に出てしまう僕は、本当にこの親たちの子供なんだろうかと思うときがある。
だけど、齢14にして、そんな世渡りを会得したくない。
思うまま、気持ちのままでいたい。
いつか、偽りで本音を隠さなくてはいけないときがくるとしても、とりあえず今はこのままで。
◇ ◇ ◇
事態が急速に変化したのは、忘れもしない1月6日の夕方だった。
新年最初の放課後をいつもどおり美術室ですごそうとした僕を、美術部の女子部長が入り口のところで制止した。
もう来ないでほしい、と言った。部外者だから、という言いかたもした。
「誰に言われたんだ?」
その目と同じくらい気の小さい女子部長は、泣きそうな顔で言葉を濁した。
本当に困っているのは、僕が邪魔だからだろうか。それとも、本意ではないことを言わなくちゃいけないからなのか。
「わかった。じゃ、今日は片付けをする」
女子部長が半身になった横を通り、入室すると、他の部員たちはいっせいにしんとなった。すでに通達が出ていたようだ。
僕はさっさと道具をまとめ、ドアのところで振りかえった。
「お世話になりました」
引きあげた。
校内放送で呼びだされたのは、その5分後。
教務室で来客を告げられ、画材道具(心境は家財道具)一式を携えたまま、職員玄関へ向かった。
父だった。
グレーのダウンジャケットを着込み、ジーンズをはき、手ぶらだった。
「よう」
と言うので、僕も、
「うん」
と答えた。
滅多に会えない人だから、そのたびに『久しぶり』と言うのも、お互いおっくうになっていた。
無駄なことをしない、簡潔なところが好きだなと思う。簡潔すぎて、たまに意味が通じないときもあるが。
今日のはその『たまに』が該当するようだ。
「元気でな」
元気だな、を聞き違えたのかと思った。おまけに頭をなでられた。天変地異だ。どうしよ。神様助けて。
呆けている僕に構わず、父は言いたいことを言う。
「あのべっぴん先生を呼んできてくれ」
女の好みも遺伝するのかな。
「は? なに、僕の用事ってそれだけなの?」
「ああ」
「休みだよ。なんか、体調悪いらしくて」
父は少し間を置いて、
「そうか」
と言い、くるりと背を向け帰ろうとした。
慌てたのは僕だ。
「ちょっと」
上履きのまま、外玄関まで追いかけた。大股歩きの父は移動速度が速くて、あっという間に遠くなる。
こちらを向く意思がないとわかったので、そのまま言った。
「今度は、僕が高校生になるまで会えないの?」
移動が止まった。父は顔だけちょこっと向けて、白い息とともに返した。
「落ちるなよ。高校」
手の甲をひらひらさせた。
帰ったとき、母は闇のなかでソファーに浅く腰かけていた。
「うわ。電気ぐらいつけろよ」
僕はコートを脱がないで、かばんから出した財布をポケットに突っ込んだ。
冷蔵庫の中身はタマゴ6個、もやし1袋、にんじん1と1/2本、豆腐半丁……。
「春都」
きゅうり2本、なめこ1袋、生ラーメン……は、乾いてダメっぽい。
「んー?」
賞味期限ぎれのちくわに、青かびの生えたもち。
「美耶子サン、このもち早く食ってって言っただろー」
ゴミ箱にダンクシュート。
あとは変なもん……ないか? あ。
「スライスチーズも。空袋だけしまっておかないように」
足りないものは……牛乳。一日くらい飲まなくたっていいけど、帰りが早かったぶん時間があるから、買いに行こう。
ブーツのひもを結んでいるとき、母の様子がおかしいことにようやく気づいた。
出勤前だというのに、ノーメイクだった。出勤前……なのか?
「美耶子サン?」
リビングにとってかえした。
自称35歳も、今日は無理があった。45歳の顔をした母がいた。
末梢神経2、3本抜かれたんじゃないかってくらいゆっくりと、生気のない目を僕に向けた。
「父さんと、離婚したわ」
「なんだって……」
テーブルに紙があった。
横書きの書類。ただし、印鑑が黒い。コピーだ。そうだ、罫線も緑じゃない。
「これ、この、あの、元はどこにやった?」
僕は母にコピーを突きつけた。母は顔を上げずに受け取った。
「役所に出したわ。ワタシが」
「どうして!!」
「どうして、って……。ワタシが春雄さんに渡しておいたものだから」
「だからって! だから、なんでこんなもん、渡したりなんかするんだよ!? 必要ないだろ!」
「必要……いらなくなっちゃった」
クスッと母が笑った。
暖房の効いた部屋でダッフルコートを羽織っていたのに、僕は寒気がした。
「だってそうでしょ」
すっくと立ちあがる、母。
僕に向かい、離婚届のコピーを振って、妙に明るい声で。
「ワタシは春雄さんなしで生活できるし、春雄さんもそうだし、春都ももう大人だし」
僕は母の手からコピーを奪った。
びりびりに破った。
乾いた音がした。
音がしなくなるくらい細かくちぎった。
これでもか、これでもかと。
すべてをなかったことにしたくて。
「ワタシはまだ若いし、旧姓の表札も今朝発注したのにもう届いたし」
母は空になった手をまだ振っている。
ひらひらと振っている。
その仕草は父さんと同じだった。
父さんが振ってみせた手にも、結婚指輪がなかった。
気づかないどころか、虫の知らせも、悪い予感もなかった。
「うるさい親戚もいないし、年賀状も出しおえたし、あと」
――なんて鈍いんだ、僕は。
「これが肝心。春都が受験だから。願書出してから名字が変わるのなんて、嫌でしょ?」
「ふざけんな!」
限界だった。黙っていられなかった。
「そういうこと、勝手に決めるな!」
母の両肩をつかんだ。強くつかんだ。
つかまなければ離れてしまう。届かなくなってしまう。
もう手遅れなのだろうか。父さんには二度と会えないのか?
父さんは、僕に、さよならを言いにきたのか?
「僕をなんだと思ってる。息子だろ? 権利あるだろ? 僕は」
ゆすった。母の頭がぐらぐらした。強くつかんだ肩を、さらにゆすった。
いる。
確かにいる。母はここにいる。母を揺さぶっているのは僕。
ここにいる、僕。
ここに。ここに。ここに!
「ルールだから、家族の決まりごとだから、美耶子サンなんて呼んでいたけど……!」
必要なのか? なんのために?
どうして僕らはこうなった?
いつから僕らはこうなった?
「どこの世界に母親を名前で呼ばせる母親が……母……」
「春都……」
手を離す。顔をそむける。
絞りだした、声は、僕のもの。
「名字変わるかどうか、わからないだろ。僕には父さんだって、いる」
「え……?」
家を出た。
「もしもし」
――はい。
「カンちゃん? 僕だけど……」
――悪い! ハル、これから塾の模試なんだ。あとでかけるから。
「ああ、そう……わかった……」
――悪いな! じゃ!
「……」
自転車で走った。冷たい風のなか、全速で、突っ走った。
身を切るような冷たい空気――いっそ僕を切り裂いてくれればいい。凍りついてしまえばいい。
そしたら血も涙も流れない。
僕のそばには誰もいない。
◇ ◇ ◇
チャイムを押した。教員住宅202号室。出てきた住人。僕は微笑む。にこ。
うまく笑えただろうか。先生くらい、うまく笑えただろうか。
「渡辺くん?」
「入ってもいい?」
「えっ、こ、困ります。私が出ますから……」
「まいったな。倉井先生までそんなことを言う」
世界のすべてが僕を拒絶して僕の存在を認めたくないと言っている。けれども拒絶することは対象を認識することでもある。
やっぱり僕はここにいるんだ。必要とされていなくても、まぎれもなくここにいるんだ。
「どうしたらいい……」
「なにか……あったんですか?」
「いくところがないんだ。美術室も、自分の家も、カンちゃんのとこも」
「自分の家って……」
「僕はいらない人間だったんだ」
もっと早く気づけばよかった。
『ハルオ』と『ミヤコ』で『ハルノミヤコ』で『春都』。
名前からして、どうでもよさそうじゃないか。
「それとも、先生も、僕を切り捨てる?」
涙目になっていたのは、冷たい風のせい。
倉井先生はかすかに首を横に振り、僕を部屋に入れた。
オフホワイトのモヘアのセーターに、ウール地のチャコールグレーのパンツ。普段着の倉井先生を見るのは初めてだった。
「よかった」
「え?」
「家のなかでもスーツ着てたらどうしようかと思ったんだ。似合うじゃん」
「……ありがとう」
入ってすぐ右にガスコンロと冷蔵庫。左のドアはトイレと風呂っぽい。
床が続いて部屋の中央にテーブル。椅子は2脚。脚にキルティングが被せてある。
窓際にベッドとカラーボックスの本棚。カーテンは淡いグリーン系の細かい幾何学模様。
ゴールドクレストの小さな鉢植え。まとめて積んである新聞紙。
あと、コンポにクローゼットに姿見にテレビ。その脇でオイルヒーターがフル稼働してる。
もろ『ひとり暮らし』の部屋。
だけど、足りないものがあった。絵だ。美術教師なんだから、ひとつくらい飾ってあっても不思議じゃない。
聞いてみた。
「実家に置いてあります。最近は描いていません。ここは狭いから、換気しづらくて……」
物質的に、僕って恵まれているのだと思う。
家を新築するとき、アトリエを造ってもらった。絵の具だって、父が子供にお菓子を与える感覚でよく買ってきてくれた。
整えられていた環境。幸せかどうかはともかく。
豆腐みたいな形の白い壁掛け時計は6時をさしていた。そういえば腹が減った。
そうだ。病人の倉井先生に飯を作ってやろう。
「せんせ、なんか食えるだろ? おかゆでもうどんでも、消化のいいものならさあ」
倉井先生はなんかもごもごと言ったけど、そんなん無視。僕は勝手に冷蔵庫を開けた。
納豆に目が行ってしまった。3個パックの小さいやつがひとつだけ残っていた。
同じだった。僕の家と同じ。
「父さんがさ、納豆好きなんだよね」
「小粒の3個パックのを買ってる。四角い発泡スチロールの入れ物のやつ」
「冷蔵庫に入っていないと、すげえ怒るんだ。いつも家にいないくせに、帰ってきたときにないと、買いに行ってこいって」
「夜中とか関係なく、僕が寝てても、背中に蹴りとかかますんだ」
「米はなくてもいいから、納豆だけは切らすんじゃねえって、普段はしゃべらないくせに、うるせーうるせー」
「だから、ひとつは必ず取っておくんだ。納豆なんて、好きでもないのに」
「母さんは大嫌いだから僕が食うしかなくて」
「けど、いくら取っておいても、父さんは帰ってこないし、賞味期限は切れるし、しょうがないから1日とか過ぎたヤツを食って」
「あんまりうまくないな、やっぱ期限切れたせいかなって思ったりして」
「うっかりしてると3つとも腐ったりするし、ないと思って買ったら冷蔵庫の奥のほうにあったりするし」
「なんで好きでもないのに、納豆のことを父さんより考えなきゃならないんだとか」
「だけど同じテーブルで一緒に食ったことはなくって、それでもきっと父さんは僕のこと納豆好きだと思ってる」
「納豆なんか今どきアメリカでも買えるのに、家に帰るたびに納豆納豆騒ぐっていうのはどういうことなんだか」
「父さん本当は僕らに会いに帰るんじゃなくて、いや、そもそも『帰ってきた』という感覚があるんだかないんだか」
「そんで……」
言葉が途切れたのは倉井先生のせい。
悪いのは先生。こんなとき、僕の肩に優しく触れたから。
ふいうちだった。僕のほうからならともかく、先生から手を伸ばしてきたことなんて、一度だってなかった。
触れられている肩のあたりがじんわりと暖かい。
先生はなにも言わなかった。僕もなにも言えなかった。
こらえきれず、涙がこぼれた。そうなると、もう止まらなかった。
なにかにすがりたくて、先生を抱きしめた。
泣き顔を隠すでもなく、なにも言わず、貪るようにキスをした。
欠けている何かを補うために。思いどおりにならないこの現実に逆らうために。僕の存在証明のために。
そして僕は倉井先生を抱いた。