もう視界に入らないでちょうだい
俺は今年も星尾と同じクラスだった。彼女と同じならせめて移動の少ない純文クラスがよかった。
王子は純理、それも医学部養成クラスと噂されるクラスに編成された。これで星尾の目を気にすることはない、学年の女子はそう思っただろう。
しかし、ことがそう上手く運ぶはずはない。
あのとき感じたわずかな違和感は、俺の脳内セキュリティの出した警告音だったのだ。
観察するに王子はストーカー気質の持ち主である。
王子は毎休み時間、十分しかないのにわざわざ離れたうちのクラスまで星尾に会いに来ている。捨てられた犬、それも子犬が飼い主の元に舞い戻ってくるような姿だった。
女子に限らず皆は、星尾がわざと王子に来させ冷たく当たって楽しんでいるのだと思っていたのだろう。王子に同情の視線をあて、星尾に侮蔑の視線を投げかけた。
だが、おそらくそれは間違いだ。王子の目は、そんな純然とはしていなかった。キラキラ、という表現の似合う蜂蜜色の目に宿っていたのは、執着以外の何物でもない。
一度、教室に来ていた王子と偶然目を合わせたことがある。ちょうど星尾は席を外していて、王子はすがるような目で星尾を探していた。狂気じみた目。俺の目線と絡んだ瞬間、心臓を射抜くような、人を殺せるような目をしてきた。視線が外れると前の執着の目に戻ったが、俺はそれ以来王子と目を合わせられない。
星尾は、そんな王子を煩わしそうにしていた。王子の執着にも、狂気にも気付いていないようだった。きっと、そんなものに気付いていたのは俺だけだったのだろう。
星尾と一緒にいる王子には大きく揺れるしっぽが見えた。一年のときは、むしろ星尾にしっぽがあるようだったのに、立場が逆転していた。
星尾は感情をすぐに表に出す方だが、顔の筋肉がかたいのか表情はあまり変わらなかった。そのせいで、余計星尾が故意に冷たくしてると思われたんだろうけど、星尾は心底嫌そうにしていた。確かに、星尾からしてみれば別れた彼氏につきまとわれてるようなものだ。ストーカー同然なんだから、嫌って当たり前なのだ。
夏休み明けの席替えで俺は星尾の隣になった。ちなみに一番後ろの席だった。星尾は俺では役に立たないのを知っているだろうし、俺も星尾の気に障るようなことをしないから、星尾から無茶なことは言われない。大体そんなことしてたら俺は日本にいない。
王子は相変わらず遊びに来ていた。隣の席の俺を見る目は、嫉妬で冷ややかだった。できるものなら変わってあげたいが俺にはどうにもできないから、そんな目で見ないでほしかった。
星尾さんは眉間に皺を寄せて、王子を睨んでいた。王子がくると決まってその顔になる。
星尾は修学旅行には来なかった。小学校のときも中学校のときも来なかったし、遠足や運動会のような行事にはすべて不参加だったから俺は何とも思わなかった。協調性がないというより、みんなで騒ぐのが苦手な性質なんだろう。しかし俺のこの考えはかなり好意的だ。周りは友達がいないから来ないのだ、と思っていたようだ。
王子は修学旅行に来ていた。純理の男子達と回っていたが、しっぽは垂れていたように見える。周囲は星尾から解放されて楽しいだろうと考えただろうが、王子の顔は心なし沈んでいた。
修学旅行の翌日も王子は教室に、星尾に会いに来た。星尾は修学旅行なんて存在しなかったかに振る舞っていた。
王子は修学旅行のお土産を買ってきていた。中身は見えてないが、お菓子や安いストラップなんかじゃない。伝統工芸品の、高級な装飾品。平凡なセンスしか持ち合わせていない俺にだって、見えてなくても分かる、これは星尾に似合うものだ。
「きらちゃん、これお土産買ってきたよ」
喜んでもらえるだろう。王子の顔がそう物語っている。自信に満ちているが、星尾に天変地異でも起こらなければ受け取らないだろう。それくらい簡単に想像できるはずだが。
しかし、その行為は予想以上に星尾を傷つけたらしい。色白の頬を赤く染めて、星尾は唇を震わせた。
「お土産? 私が修学旅行に行かなかったから、買ってきましたの?」
「そうだけど」
理解できない、という風に王子は肯定する。
実は王子は馬鹿なんじゃないか。俺にはそう思えて仕方ない。いや、王子は星尾と十年も一緒にいないから知らないのだろうけど、星尾のプライドはエベレストを遥かに凌ぐような高さだ。友達がいないから修学旅行に来なかった、そう勘違いされてる星尾にお土産を買うのは彼女のプライドを踏み躙る行為だ。星尾が修学旅行に行かなかった理由なんてどうでもいい。大事なのは修学旅行に行かなかったことを憐れまれてる、それなのだ。
「私が修学旅行に行きたかったと思っていますのね? あれだけまとわりついてきて、私がなんたるかも理解できないなんて、嘆かわしい」
「行きたくなかったの?」
「ええ、勿論。低俗な連中と大騒ぎするなんて信じられませんの」
彼女の言葉を額面通りに受け取る奴の方が少ない。俺はそちら側だが、王子含め周囲はそうは考えない。本当は行きたかったけど、負け惜しみを言ってるのだ。そう考えたのだろう。
「受け取ってあげればいいのに」
「格好つけちゃって」
ひそやかな笑い声と共に聞こえた囁き。それは星尾にも王子にも届いたようだ。王子は声の方に振り向く。ほとんど無表情だった。人間味のないその表情に恐怖を感じたのか、誰一人喋らなくなった。王子は満足したようで星尾に目を移した。
「同情なら結構ですわ」
王子の視線を確認して、星尾は机を叩くと、王子にそう言った。王子はやはり理解できていない顔をしている。王子は同情で動いているわけではない、多少の下心を含む純粋な善意で行動したのだ。
「憐れみかなんなのか知りませんけど、迷惑ですの。もうやめてほしいわ」
机に置かれたお土産を払い落す。床に落とされた黒い重厚な箱の中で、鈴がなるような音がした。周囲の女子の敵意が増幅する。
王子はしゃがみこみ拾おうとする。悲しそうな顔で星尾を見上げて
「気にいらなかった?」
とか細く聞いた。子供が親の機嫌を窺うような声音だ。
星尾はそれに余計苛立ったらしい。立ち上がって、王子を見下ろす。
「ふざけないで」
星尾の声は、いつもは耳につく高さだ。子犬が吠えてるような声で話す。けれど、今の声は低い。金切り声とは程遠い。
王子もこんな声は聞いたことはないのだ。困惑した表情で星尾を見上げる。しゃがんだ状態から動けないでいる。
「もう視界に入らないでちょうだい」
王子にそう吐き捨てると、星尾は教室を出ていった。
王子はしばし固まっていた。今までも星尾は迷惑そうにしていた。自分のせいだという罪悪感があったのだろう、それでも近寄るな、と少なくとも直接は言わなかった。
もう休み時間が終わる。周りの生徒達もまばらに席に戻っていく。
「これ……」
王子はしゃがんだままお土産を見つめる。女子生徒達も心配そうにこちらを見ている。あわよくば私がもらってやろう、そんな視線も感じる。
垂れたしっぽどころか耳まで見えるような落ち込み具合。俺より身長が高いのに、なんて頼りなさげなのか。あまりにいたたまれなくて
「俺が渡そうか」
そう提案した。
本当は直接自分で渡したいだろう。嫉妬で殺される可能性も言ってから考慮した。けれどあの状態の王子を放っておけるほど俺の心は狭くない。
「受け取ってくれるかな」
「受け取ってくれなかったら鞄にでも入れとくよ」
「……そう。なら、頼んでも」
「分かった」
俺は了承して箱を受け取る。気持ちがのっているのか、ずいぶん重く感じた。
王子はうなだれたまま、自分の教室に帰っていった。ほとんど入れ違いで星尾が戻ってくる。同情と下心をないまぜにしていた女子の目線は、瞬間に殺意すら含む敵意に変わる。
星尾は慣れてるのだろう、そんな目線はものともせず自分の席に座った。
渡そうかどうか、俺が迷っていると、星尾から救いの手が出た。
「ちょうだい」
そう手を差し出すので、そこに箱をのせた。星尾だけに向いていた視線が俺にも向く。
自分が受け取るはずのものが、他人の手に渡るのが許せなかったのだろうか。あるいは、王子に良心の呵責を感じているのか。それとも、星尾はいまだに。
しかしそれ以来星尾は王子を取り合わなかった。王子が遊びに来ても、話しかけても、まるで王子など存在しないかの如く振る舞う。周囲の反感は高まるばかりだが、それでも星尾の態度は改まらなかった。王子も、いつまでも星尾を追う。