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本と魔法とふたりの私  作者: 但野 ひまわり
8/17

トリッド族の湖 Ⅰ

 しばらく走って追いかけたが、相手は自由に空を飛べる翼を持っているのである。追いつけるはずもなく、梟は私たちの視線の先を飛んで行ってしまった。

「あぁ~」

『あの梟めっ』

 ワタさんが忌々しげに舌を打つ。そして私に不機嫌な顔を向けた。

『ちょっと、畑山。どうするのよ』

「どうするって……」

 言われても、私は途方に暮れてしまった。何故なら、目の前に広がる壮大な水面が私たちの行方を塞いでいたからである。その周りを背の高い木々が立ち囲み、その奥に聳える山が水面に映っていた。

『これは湖ですね』

「そうなの?」

 てっきり海だと思い込んでいた私は、ルビの言葉に改めて湖に目を落とした。しかし左右を見ても、その端を確認することは出来ない。ひょっとしたら琵琶湖ぐらいあるかもしれない。そんな湖をどう渡ればいいのか、いくら考えても私に良いアイデアは浮かばなかった。

「周り道するしか……ない……かな」

 ようやく出した私の考えに、ワタさんは、とんでもないと眉を寄せる。

『畑山、そんな悠長なこと言ってていいの? その間にあの梟がどこか行っても知らないわよ』

 いやいや、どう考えても船もボートも無いこの状況で、それしか方法はなさそうである。けれどもワタさんは、もっと何か考えろと突いて来る。暴力絶対反対。

「ちょ、ちょっと、止めて下さいよ。そんなに言うんだったら、ワタさんも考えてくれたらいいじゃないですか」

『何言ってんのよ。考えるのが嫌だから畑山に聞いてるんでしょ』

「そんな無茶苦茶な」

『皆さん、あそこに何かありますよ』

 ルビが前足で差した方に行ってみると、茂る枝葉に隠れるようにして、筏が寂しげにぷかりと浮かんでいた。正方形に組まれたそれは、中央に一応マストのような物があるものの、使われている木材は赤茶け、木々を縛っている縄は黒ずんでいる。

『あら、良い物があるじゃない! これで湖を渡れば、あっという間に向こう岸よ』

「でも……相当年期入ってるみたいですよ。だ、大丈夫ですかね」

『だぁいじょうぶ、大丈夫よぉ』

 私の心配をよそに、ワタさんは意気揚々と船の方へ影を伸ばした。

「ルビ、この筏……大丈夫かな」

『畑山さん、ここは臆せず進むのみです』

 案内猫にそう言い切られ、私は渋々ワタさんに続き、恐る恐る筏に足を伸ばした。

「うわっ。っとと」

『ちょっと畑山、何やってんのよ』

「何って、あぶなっ」

 足を一歩置くごとに、筏に不安定な揺れが起こる。私は落ちないように、サーカスの団員の如く両手を広げて必死にバランスを取った。その格好が可笑しかったのか、ワタさんは指を差してげらげらと笑っている。

「少しくらい助けてくれてもいいのに……」

 私がぼやきながらも何とか筏に乗りきると、ルビは身軽にぴょんと飛び乗り、その一番先に立った。

『畑山さん、マストについているその縄を引っ張ってもらえますか』

「こ、これ?」

 私がマストから垂れ下がっている縄を引っ張ると、たたまれていた帆が一気に広がり、風を受けて進み出した。

『このまま真っすぐ進むことが出来れば向こう岸です』

『ほら、大丈夫って言ったでしょ?』

 ワタさんはそう言って得意気である。何だか負けを宣告されたようで面白くなかったが、汚れが目立ち、所々破れていた帆は外見に似合わずきちんと自分の仕事をし始めた。まるで胸を張るように前へ前へと進んで行く。次第にそのスピードを上げ始めた。

「すごーい! 筏に乗っちゃてるよ、わたしー!」

 先ほどまでの不安はどこへ行ったのか、私は小学生の如くテンションが上がってしまった。隣では、ワタさんが「あんたも所詮は子供よねぇ」と呟きながら腰に手を当て気取っていた。

「うーん。気持ちいぃ」

 風が頬を撫で、私に挨拶をするかのように髪を弄ぶ。私は筏の先で両手を横に伸ばし、そのまま風に身を任せてみた。某有名なハリウッド映画のワンシーンを演じている女優になれたような気がした。

「風もいい感じで吹いてるし、これならワタさんが言うように、あっという間に向こう岸ですね」

『ちょっと、何あれ』

 私が笑みを向けると、ワタさんは怪訝な顔をしながら水面を見ていた。何事かとそこに視線を合わせた私は思わず目を剥いた。

「な、何ですか、あれは」

『ワタシが聞いてるんじゃないの』

 まるで不吉な前兆であるかのように、筏の数メートル先に突如渦が現れたのである。

『ねぇ、湖に渦なんて出来るのかしら』

「そんなこと言ってる場合じゃないです! どんどん大きくなってますよ!」

 渦が巻く度その大きさは外へ外へと広がり、徐々に辺りを呑み始めた。

『畑山、何とかしなさい!』

「な、何とかって言っても」

 もちろん左右を眺めてみても、ワタさん、ルビがいるだけである。お助けアイテムどころかオールも何もない筏が進路変更出来る訳がなく、私はおろおろするだけだった。

「うわっ!」

 突然衝撃が私たちを襲った。渦が私たちの筏を捕らえたのである。

『皆さん、何かにしがみついて! 振り落とされると危険です!』

『何かってこれしかないじゃないのよ!』

 私とワタさんは、ルビの言葉に慌ててマストにしがみついた。振り落とされないよう、その手に力を込める。

『溺れ死ぬなんて御免だわよ!』

 ワタさんが叫びながら文句を言っていたが、構っている余裕などもちろんない。

「うわーっ!」

 進路を奪われた筏は左に傾きながら速度を増し、円を描くように湖の中へと呑まれて行った。


「い……つっ」

 痛みで意識を取り戻した。堪えながらゆっくりと体を起こす。どこも怪我していないようだったが、振り落とされまいと普段使っていない筋肉を酷使したせいで全身が痛い。その上、濡れたジャージがずっしりと圧し掛かり、体が異様に重かった。

「え、えと、み、みんなは……うぇっ?」

 慌ててみんなの無事を確認しようとした私の視線の先に、悠然と泳ぐ魚の姿があった。驚いていると、さらにもう一匹、気持ち良さそうに泳ぎながら目の前を通って行く。思わず息が出来ているのか慌てたが、私がいる場所は透明な壁で造られた建物の中だった。

『畑山さん、大丈夫ですか?』

 呆然と辺りを眺めている私の傍らで、ルビが濡れた体を振っていた。

「う、うん。何とか」

 案内猫が無事だったことにほっとしたが、その度に水滴が勢いよく飛んで来て、私は顔をしかめた。

「でも、ここって一体……」

 私がジャージの裾を搾りながら尋ねると、ルビがにこりと微笑んだ。

『ここは湖の中。トリッド族が住む世界ですよ』

 どんな種族なのか分からないが、水の中で暮らしているのだから、きっとお伽話に出て来る人魚のような出で立ちに違いない。人魚の歌声は、たちまち人の心を捕らえてしまうほど魅力的な物と聞く。王子様と運命的な出会いを求めるお人魚さんたちには申し訳ないが、ここは是非、私にも会ってもらわねばなるまい。

「ところで、ワタさんはどこ行ったのかな……」

 左右を眺めてもそれらしき影は見当たらなかった。

 もしかして湖に投げ出されたのかも、と思ったが、私の影であるワタさんは私と足が繋がっているのだから、足から伸びる黒い影を辿れば見つけることは簡単である。自分の足元に視線を落としてみると、案の定、影は私の後ろからその先へと伸びていた。普段口うるさいワタさんではあるが、いなくなってしまうとそれはそれで困る。私はほっと息を吐きながら、足元から伸びる影を目で追った。

「ワタさん、大丈夫です……かって、何やってるんですか!」

 私の視線の先で、ワタさんが貝殻で造られたようなベンチに座り、うら若き男性と仲良く談笑していたのである。それもかなり楽しそうである。羨ましいなと思ったのはここだけの秘密である。

 男性は、まるで筋肉の果実を体に埋め込んだような小麦色の上半身を露わにし、腰から下は女性が着るドレスのような物を纏っていた。そこには均等に切り込みが入っていて、男性が足を組む度それはきらきらと輝き、その間から棍棒のような脚が見えた。得体の知れない真っ黒な影相手に男性は嫌な顔一つ見せず、むしろ優しい笑みを向けていた。

『ここにいたんですか』

「心配して損しましたよ」

 私たちがワタさんの所に駆けつけそう言うと、私の影は「あらぁ、ごめんなさぁい」と悪びれることなく髪を掻き上げる仕草をした。

『ちょっと命の恩人にお礼を言ってたところなのよ』

「命の恩人?」

 ワタさんの隣に視線を向けると、恥ずかしそうに笑う男性と目が合った。なかなか可愛らしい笑顔を見せる彼に会釈する。

 ワタさんの説明によると、湖上で渦に呑みこまれ、放り出されそうになった私たちを助けてくれたのが彼だったらしい。

『彼がいなかったら、今頃私たちはあの筏の残骸近くを屍となって、ゆらゆらさ迷っていたのかもしれないわね。あぁ、怖い』

 ワタさんが示す先を見てみると、私たちが乗っていた筏はその形を放棄したように、ただの瓦礫となっていた。

「でもどうやって水の中を助けてくれたんですか」

 私の質問に男性はにこやかな笑みを見せ、私たちが倒れていた方へと歩き出した。透明の壁に行きつくと、そっと手で触れその手に力を込める。すると、壁が風船の表面を押さえたように窪み始めたのである。 壁がその限界を越えると男の体はぷるんっと突き抜け、水中に飛び出した。その拍子に私たちの方へ水が飛んで来て、床には小さな水たまりが出来ていた。驚いて男性が飛び出た方に目をやると、彼の二本の足は徐々に一つの物となり、ドレスが煌めく鱗に変わり足を覆い始める。気づけば男性は楽しそうに水中を泳いでいた。


『トリット族の湖へようこそ。ここは湖の岬。僕たちが水中へと出て行く場所です』

 泳ぐ為だった足を歩く物に変え、男性は私たちの元へと戻って来た。どういう足の仕組みをしているのだろうと凝視してみたが、ドレスの間からちらりと覗く逞しい足が見えるだけだった。

『僕の名前はヨギ。君たちがダンの渦によって湖に呑みこまれたところを助けた者です』

「あ、ありがとう。私、畑山優子って言います。こっちはルビ」

 ヨギさんは目を丸くさせたままの私にふっと笑みをこぼし、案内猫には、にこりと笑みを送った。

「私たち、湖を渡りたかっただけなんですけど……」

『ダンの渦のせいで、湖の向こう側へ辿り着くことは出来ません。今まで何隻もの筏がこの上を通ろうとしましたが、結果はあなた方と同じです』

『そのダンの渦って何なのよ』

 ワタさんの問いにヨギさんが続ける。

『突如現れた魔人デレクが作り出した渦です。奴は手下であるデスフィッシュを解き放ち、湖のバランスを崩してしまいました』

「デスフィッシュ?」

『巨大ナマズのことです。あらゆる湖の生物を食い尽くし、闇に変えようとしています。最近それだけでは飽き足らないのか、ここを通る筏や船を襲っては、湖を汚しているのです』

 改めて周りを見てみると、私たちが乗って来た物と同じように、何隻もの筏や船の残骸があちらこちらで無残なその姿を晒している。その為か湖の水が濁り、心なしか光が底まで届いていないように見える。

『ここはまだましな方です。湖底に行けばいくほど、被害はひどくなっています』

「そ、そう、なんですか」

『この湖を治めるポセイドン様に、魔神を倒してくださるよう、お願いしているのですが……』

 顔を曇らせるヨギさんの前で、私は笑みをこぼすまいと堪えるのが必死だった。そんな私にワタさんが耳元で囁いて来る。

『ちょっと、畑山。あんた何、にやにやしてんのよ』

「えっ。わ、分かりますか」

『分からない訳ないじゃない』

 ワタさんはそう言って呆れるように鼻で笑った。

「だって……」

 湖に住む一族、人魚のような体、デレクという名の魔神。ジャンバラヤとは違い、ここでのお話は冒険ファンタジーのようである。もしかしたら主人公と一緒になって空を飛んだり、それこそ人魚のように水中を泳げるかもしれない。私の好奇心が存分にくすぐられ、明らかに困っているヨギさんに悪いと思いつつ、自然とにやけた顔になっていた。誤魔化そうと顔の筋肉に意識を集中させてはいたものの、自分の影にあっさり見破られてしまったのである。

『畑山って、本当、空気を読まない人なのね』

「ワタさんに言われたくないですよ」

『聖なる矛トリアイナを奪われ、ポセイドン様は全てにおいてやる気を失くされてしまいました』

 はっと我に返った私に、ヨギさんは思い詰めたような顔を向けていた。後ろめたい気持ちを拭うべく、今度は真剣にヨギさんの話に耳を傾けた。

『これも何かの縁。はっさん。ここはひとつ力を貸してくれますか?』

 ヨギさんはいつの間にか私のことを、はっさんと呼んでいた。それはゲームやお話に登場する、有名な商人、ハッサンを連想させた。

「でも……」

 私は平平凡凡な一般市民である。ファンタジーな経験はしてみたいものの、そんな貸すほどの力など、これっぽっちも持ち合わせてはいない。

『畑山さん、ここは力を貸してあげましょう』

「えっ。それって、もしかして……」

 私の問いに、ルビは「えぇ」と短く答えた。

 ここに物語の主人公がいる。

 翡翠色の瞳は重ねてそう言っているように見えた。

 魔法の種を手に入れなければ、永遠に本の登場人物として生きなければならない。それは絶対に御免である。ならばここは無理を承知で頼みを受けなければならない。

 私は自分の無力さに目を瞑り、ヨギさんに分かりましたと頷いた。

『では、我が王、ポセイドン様の所へご案内します。こちらへ』

 透明な壁に囲われているここからの景色は、水族館の水槽を真近で見ているような、不思議な感覚に襲われる。そんな中、ワタさんが水中に映る影を指差した。

『何かしら、あそこ』

「魚じゃないですか? でもよく見えませんね」

 視線の先に泳いでいる魚の姿があるものの、薄ぼんやりとしか見えない。

壁際を泳いでいなければこうも見えないものなのか、と私は改めて水が濁っていることに気づかされた。水が澄んでいたならば、もっと鮮明に魚の姿を目にすることが出来たに違いない。同じようなことを思っていたのか、私とワタさんの会話に振り返ったヨギさんの顔は少し悲しげだった。

『見えてきましたよ』

「うわっ。何あれ」

 ルビの声に視線を前に向けると、幾つもの貝殻を集めたような場所が目に飛び込んできた。様々な形の色鮮やかな体をしていたそれは、どれも家を一軒丸のみ出来るほどの巨大さである。湖中に差し込む僅かな光を受けて、時折きらきらと光っていた。

『デカイのはいいけど、何の為にここにあるのかしら』

「でも綺麗ですよねぇ……」

『ここが我らの王、ポセイドン様の王宮です』

 私たちが物珍しそうに眺めていると、ヨギさんは優しくそう説明してくれた。

 更に奥へと進むと一際大きな帆立て貝の形をした貝殻の中で、貝殻で造られた玉座に膝を抱えて腰を下ろす男の姿が目に入った。瞳は虚ろ気にどこか遠くを見つめ、どこか頼りない。ヨギさんはその男の前で足を止めると右手を胸に当て、静かに頭を下げた。

『王、旅の方をお連れしました』

「……この人が……ポセイドン王?」

 体の筋肉は悲しいほどに緩み、もみあげから繋がる顎髭は抱えた膝の内側に弱々しく埋もれてしまっている。座高の高さから、私の身長の二倍くらいはありそうだが、萎んだように体を内側に丸めているので、実際より小さく見えた。

『ポセイドン様、いつまでもそのような格好では……』

『ヨギか……トリアイナを奪われたワシに、お前はどうすれば良いというのだ』

 威厳漂うどころか、ポセイドン王はうじうじと悩む困った王のようだった。

『何なのよ、この男は。ジャンバラヤのペパルより、みっともないわねぇ』

 ポセイドン王を見て、ワタさんが軽蔑するような眼差しを送っている。ワタさんほどまでは行かないが、国を治める王がこれでは国民が可哀想だ。

『王、以前よりお話していた魔人デレク討伐の任務を進めてはいかがでしょう。こちらの旅の方たちも力を貸してくれると言っています』

 私たちの顔一人一人を眺めた王は、余程頼りないと思ったのか、悲しそうな顔をした後、無理だと言わんばかりに頭を抱えて俯いてしまった。

『私が行くわ!』

その時、勢いのある声が背後から聞こえた。

「誰?」

 私たちが振り返った先にいたその女性は、貝殻で胸元を包み、手には身長と同じくらいの槍を握っていた。腰から下はヨギさんと同じようにきらきらと輝くドレスを纏っている。

 彼女がこちらへ向かって歩く度、すらっとした魅力的な脚がのぞき、露わになっている肌は神々しいほど白かった。更に腰は女性が憧れるほどの締まりようである。私はこそっと自分の腰を指で挟んでみた。ぷよっとした肉が容易につまむことが出来、少し残念な気持ちになった。

『畑山さん、あの女性がここお話の主人公、ララさんです。人間の世界に憧れ、人間の男性に恋を夢見るか弱い乙女……のはずなんですが』

 ルビがそう説明してくれるものの、ララさんはか弱いどころか気の強そうな眼差しを、王の傍らで佇んでいる男性に向けていた。

『ララ……』

『ヨギ、王なんかに任せていたら、この国はお終いよ』

 ララさんは、つりあげた大きな瞳をヨギさんに向ける。

『そんなことっ』

『あの姿を見てまだそう、思うの?』

 二人の話を聞いていた王は、ララさんに言われた言葉がかなりショックだったようで、情けないくらいべそをかいていた。さすがにヨギさんも言葉に詰まっている。

『……分かった。でも君だけ行かせる訳にはいかない』

「あの、こちらの方は……」

『僕の幼なじみです』

 場の重苦しい雰囲気に耐えられなくなった私は恐る恐る二人に声を掛けた。ヨギさんが慌てて紹介すると、ララさんは私たちに目だけで挨拶をした。

『あなたたち、旅の人なのかもしれないけど、水中を泳げない人に力になってもらうことなんかないわよ』

 えらい言われようである。確かに泳いだという記憶は学生の頃で止まっているが、二十五メートルは泳げる自信がある。そしてこうも冷たく突っぱねてくる女性はどうも苦手である。いや、嫌いである。私はそんな相手に自然とムキになっていた。

「泳げますよ。泳げるに決まってるじゃないですか」

『そうよそうよ。決まってるじゃない』

 ワタさんも腹が立っているのか、私の言葉に乗っかりはやし立てる。

『言っておくけど、デレクはここから更に深い湖の底、沈んだ船を住処としているの。それでも大丈夫だと言いきれるの?』

 言い切れません。すみません。私は前言を撤回したくなった。一般市民の私に酸素ボンベもなしで水中深く潜るなんて到底出来る物ではない。しかし言い返した分、今更出来ないというのも言いづらい。しかしごめんなさいしても、きっとこの女性は許さないだろう。それどころか、そのことをネタに、ねちねちと嫌みを言われるかもしれない。

『大丈夫だと言いきれます』

 そう言ったのは案内猫であるルビだった。ララさんは自信に満ちたルビの顔を見て、渋々私たちが同行することを了承した。そして王に軽蔑の眼差しを送った後、先に湖の岬に行っていると言ってその場を後にした。

『すみません。前はあんな感じじゃなかったんですけど……』

 ヨギさんはそう言って申し訳なさそうに頭を下げた。それを受けて、ワタさんは去りゆく女性の背中を見送りながら、荒ぶる息を鼻から吐き出した。

『本当よ。初対面なのに失礼ったらないわよ。どんなしつけしてるのか、親の顔が見たい物だわ!』

 その言葉にヨギさんは、未だ傍らで頭を抱えうじうじしている王に目を送った。

「えっ。もしかして、ポセイドンさんがララさんの父親なの?」

 頷くヨギさんに、ワタさんは、はっはーん、と妙に納得したように頷いた。

『親が親なら娘も娘よねぇ。ま、親がこれなら娘がグレてもしょうがないけど』

『ララは、本当は心優しい子です。でもポセイドン様があの状態になってしまってから、人が変わったようになってしまった』

 きっと不甲斐ない父を見てやり切れないのだろう。苛立ちが募っているのが私から見ても分かる。あの状態では誰が見てもポセイドンさんに任せられるはずがない。しかし魔神という名のつく怪物を、女性の力でどうにかなるような物には考えられなかった。

「あっ、それより」

(その前に確認しなければ)

「ルビ、あんなこと言っちゃって大丈夫? 私、一応二十五メートルは泳げるけど、潜水は大の苦手なのよ」

ルビが返事をする前に、ヨギさんが手にした何かを私たちに差し出した。

「これって……」

 それは、ダイバーさんたちがよく使う、足ヒレのようだった。形はまさにそのままだが、材質は本物の魚の如く少しぬめっとし、ヒダが何枚も重なって出来ているようだった。

『これなら、はっさんでもきっと水中を自由に泳ぐことが出来ます。あっそれと、その格好で湖底まで泳ぐのは難しいですね』

「えっ。でも私これしか持ってないし」

 私は両手を広げて濡れたままになっているジャージをアピールした。

『良い物があります』

 そう言ってヨギさんはにこりと微笑んだ。

 もしかしてララさんのような格好をさせられるのだろうか。あれはいけない、あれはスタイルの良い人がする格好である。自慢ではないが胸はグラマーな方ではないし、腰もくびれていない。お尻もどちらかと言えば通常よりビッグサイズである。そんな私がいわゆるビキニ姿になるなんて、世の男性陣から抗議の嵐が来るかもしれない。

『大丈夫ですよ。きっとはっさんに似合うと思います』

 いささか不安だったが、優しい笑みを向けて来るヨギさんに、私は戸惑いながら頷いた。


 湖の岬に行くと、ララさんの姿は見当たらなかった。

『何なのよ。まだ来てないじゃないの』

「何か準備に手こずってるんですかね?」

『準備って、畑山みたいに着替えるならまだしも……』

 そう言いながら、ワタさんは品定めするように私を上から下に眺めた。

『その歳でその水着はないわね』

「そんなこと言わないで下さいよ。私も結構恥ずかしいんですから」

 確かに水を含んで重くなるジャージで泳ぐより水着の方が最適ではあるが、ヨギさんが渡してくれたのは、学生の頃よく着たスクール水着のようだった。デレクが現れてから船や筏が転覆することが多くなり、ここへと運ばれて来る人間が増えたため、人用にあつらえた物だとヨギさんは言った。しかし、みんな恥ずかしがってか着るのを拒み、本当にこの水着を着たのは私が初めてのようだった。

『はっさん、よくお似合いですよ』

 隣でワタさんが冷たい視線を送っていたが、ヨギさんは私をそう褒めてくれた。スクール水着でも似合うと言われると嬉しいものだった。

『皆さん、あそこにヨギさんの物とは違う、小さな水たまりがあります。恐らくララさんは私たちを待つことなく、先に行ってしまったんじゃないですか?』

 確かにルビが示す所には、新しい水たまりが出来ていた。

『はっさん、急ぎましょう。さぁ、これを頭に。そうすれば、はっさんでも水の中で息をすることが出来ます』

 そう言ってヨギさんは私にもう一つ、アイテムを差し出した。それは金魚鉢を逆さまにしたような物だった。淵は波打ち、赤のラインが走っている。まさしく金魚鉢のそれを、私は戸惑いながら被ってみた。

「いやいや、これは……」

(無理だろう)

 いくら逆さにしていれば酸素が中に留まっているといっても、傾いて水が入ってしまったり、脱げてしまったら終わりである。それに、先ほど渡された足ヒレも、私にはサイズが合っていないらしく、水中に出れば真っ先に脱げてしまうほどぶかぶかだ。

『畑山さん、これを読んでみて下さい』

 私の不安な気持ちを察知してくれたのか、ルビはそう言って水たまりの上を右前足でちょこんと触れた。すると、波紋が広がる水面に再び文字が浮かび上がった。


 トリット族の若者がくれた物。キュリア。それは被ると首の部分が袋を絞るように縮まって行き、一つの球体となった。生きる為の空気はその中で常に形成され、死の苦しみを追い払ってくれる。次に、ヒレに足を入れると足首の辺りが変化し始めた。驚くことに、自分の体の一部のようにヒレが皮膚に馴染んで行く。


 読み終えた私の足は、魚人のように足からヒレが生えたような状態になっていた。そして頭に被った金魚鉢は首元が縛られ、球体というより、さながらてるてる坊主のようになっていた。ルビを見ると、案内猫も四本の足にヒレを付け、キュリアを被っている。

『何だか、格好悪いねぇ』

 確かに誰もが不格好だった。

『一つだけ皆さんにお願いがあります。水上に出てしまうとキュリアは消えてしまうので気を付けて下さいね』

 私たちは頷き、ヨギと共に、透明な壁に手を押し付けた。

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