案内役
扉をくぐると、そこは森の中だった。
草木が生い茂り、地面では見たこともない虫たちが、あちらこちらで色鮮やかな体をもそもそさせて徘徊している。虫が苦手な私は辺りを見渡しながらその姿にぞっとした。私は急いで一旦部屋に戻り、靴下と愛用のスニーカーを履いて行くことにした。
改めて周りを見渡すと、こちらは昼間なのか茂る葉の隙間から陽光が差している。普段、ひしめき合った都会の建物の狭間で暮らしている私にとって、何だかこの光は天からの贈り物のように思えた。深く息を吸ってみると、心なしか空気が冷たい。やはり緑ある所空気も美味しいようだ。もう亡なくなってしまったが、祖母が住んでいた熊本を思い出した。
小学生の頃、夏休みになるたび祖母の家を訪れた。そこで私と二人の姉は、大阪で味わえない自然との遊び方を教えてもらった。川で泳ぎ、山で遊ぶ。歳の近い従兄弟たちとの虫取りをしたり。
私は懐かしさから、もう1度深く息を吸い込んだ。
『ちょっと、何浸ってるのよ』
「すみません、つい」
私は後ろの地面に貼り付いている影に頭を下げた。
『つい、じゃないわよ。すぐにそうやって、ぼーっとする癖、直したほうがいいんじゃない?』
「いや、ぼーっとって。ちょっと思い出に浸っていただけです」
言いながら顔を上げた私は焦った。大木の幹を切り抜くように私の部屋が見えたからだ。
『誰かにここを見つけられたら厄介ね。畑山、何かで隠しておいた方がいいわ』
確かに森の中でこの光景は異様である。ましてやこの世界にどんな住人が居るのか分からない。部屋が全開状態になっているのも落ち着かないし、勝手に部屋に入られてもプライベートを侵害されたようで非常に困る。
私はワタさんの助言を素直に聞き、辺りに落ちている枯れ枝を集めて入口を覆った。
「ひっ!」
ふいに足元を何かが横切った。
『何? 今の』
走っていった先を目で追うと、木の陰から尻尾が見えた。見覚えのある物だったが、何せここは本の世界。どんな生き物なのか、この目で確かめないと信用出来ない。私は恐る恐る覗いてみた。
「あっ」
そこには黒猫がいた。
毛並みの良さを表す艶が頭から尾の先まで走り、顔に浮かぶ二つの翡翠色は、じっと見つめられると吸い込まれそうになる。ピンと姿勢良く立つ耳が少し警戒しているようにも見えるが、お尻から伸びる尻尾は静かに地面に横たわっていた。
私は自分と同じ世界にいる動物の登場に、ほっとした。これでいきなり怪獣にでも出くわすことになったら、貧弱な私の神経が持つかどうか分からない。ごく普通の動物に出会った嬉しさから、気づけば私は猫の傍らにしゃがみ込み、その体を優しく撫でていた。気持ちがいいのか猫は逃げることもなく、ゴロゴロと喉を鳴らし、うっとりと目を瞑っている。
「可愛い」
自然と自分の顔がほころんでいることがわかった。やはり動物には人の心を癒す効果があるようだ。
(どちらかと言うと犬派だが、猫もいいな)
そんな私の気持ちを感じ取ったのか、黒猫は顔を上げてこちらを見つめて来た。
『男の子に可愛いはちょっと照れますね』
撫でていた私の手が止まった。信じたくないが、猫の口から人の言葉が聞こえる。
『もう止めちゃうんですか? 気持ち良かったんだけどな』
「ね、ね、猫が、しゃ、しゃ、喋ってる」
残念そうな黒猫とは対照的に、私は驚きのあまり腰を抜かしてしまった。口をパクパクさせながら驚く私を見て、黒猫はくすりと笑った。
『そんなに驚くことかな。どちらかと言うと、僕のことより、あなたから伸びている影が話をすることの方が驚くでしょ』
それもそうだな。とはならなかった。
「すみません。どちらも結構驚いてます。はい」
『人間っていうのはね、常に驚いて生きる行きものなのよ』
ワタさんが下から分かった風に口を挟んで来た。全力で否定しようと思ったが、
『へぇ、そうなんですか』
と既に納得している黒猫が心配になった。
『でも、いきなり出て来るなんて、びっくりするじゃない。もうちょっと考えなさいよ』
怒ったようなワタさんの口振りに、、黒猫は申し訳なさそうに頭を下げた。
『すみません。驚かすつもりじゃなかったんですけど』
「ワタさん、知り合いですか?」
ワタさんは得意げな顔を見せた。
『この子はね、案内猫よ』
「案内猫?」
黒猫は「はい」と短く頷いた。そして猫背をしゅっと伸ばして身を正した。
『自己紹介が遅れてすみません。僕はルビ。この世界の案内猫です』
「はぁ」
次から次へと現れる個性的な登場人物に、私の脳は飽和状態だった。そんな私を不憫に思ったのか、ルビは改めて丁寧に説明をしてくれた。
『もう少し詳しく言うと、僕はこの世界に迷い込んだ読者の手助けをするべく、本の作者に創られたキャラクターなんです』
「それは、いったいどういうこと?」
何しろ私はその迷い込んだ当事者である。これは誰よりもしっかり聞いておかねばなるまい。私はルビの口から紡がれる言葉を一言一句、聞き漏らさないように耳を傾けた。
『作者であるオラクル・フォン・ドゥリーブルは、大人になっても夢が持てるようにと願いを込めてこの本を書きました。本は何十年と人々に愛され、読み続けられて来ました。しかし次第にその想いが、本に力を与えてしまったんです』
読者の本に対する愛情が、本に自我をもたらした。本は徐々に、自分の力が人に夢を与えている、と思い始める。しかし、読者全員が最後まで読んでくれるとは限らない。途中で止めてしまう人だっている。そこで本は、読むことを途中で放棄させないように、読者を本の世界に連れてくるようになったらしい。
しかし――。
『いつの間にか本当の目的であるはずの、人に夢を与えるということはどこかに行ってしまった。今はひとりでも多くの人間を本の中に取り込むことが狙いです』
「な、何のために?」
聞き捨てならない言葉に私は大きく目を見開いた。
ルビが静かに答える。
『自身が作者に成り代わるつもりなのです』
「作者に……」
(人のためにと創られた本が、逆に人を苦しめる物に変わってしまうなんて)
私は本の捻じ曲がった想いが恐ろしく感じた。
『狂い始めた自分の本に胸を痛めたオラクルは、作者として僕を登場させました。この世界に来てしまった読者が迷うことなく最後まで進めるようにと』
ルビのお陰で大体の状況は分かって来た。しかしもうひとつ、気になることがある。
「さっき、ゼロムという男に会ったんだけど」
その名前を口にした途端、ルビの顔が険しいものに変わった。
『やはり、会いましたか』
「道を妨げる者だって言ってたけど……」
黒猫は深刻な顔で頷いた。
『オラクルが創り出した僕に対抗するべく、本も独自にキャラクターを生み出しました。それがあの男、ゼロムなのです』
私はさきほどの出来事を思い出していた。
男は気さくな話し方をし、口元に笑みを見せていたものの、実際何を考えているのか分からない不気味さがあった。
『あれは読者の邪魔をし、この世界に留まらせることが目的なのです』
確かに人の窮地を心から楽しんでいるようだった。そして何気に失礼な奴だった。今度会ったら、思いっきり言い返してやろうと考えていた私の足元でワタさんが叫ぶ。
『それよりもさっき、そいつの手下みたいな梟が、本のページをちぎって行っちゃったのよ!』
『えっ、それは本当ですか?』
ルビと目が合った私はこくりと頷いた。
『何なのあれは。今までこんなことあった?』
ワタさんの問いに、ルビは驚いたように首を振った。
『とうとう手段を選ばなくなったのかもしれません』
これってもしかすると結構まずい展開になっているのかもしれない。いや、きっとなっているに違いない。私の動物的勘がそう叫んでいた。
私の不安を肯定するようにルビは視線を地面に落とし、眉を寄せている。その表情は声を掛けるのも躊躇ってしまうほど険しい。かと言って、このまま何も聞かないでいることも出来ない。私は重い空気を払うように、思い切ってルビに尋ねてみた。
「あのーさ、何かまずいの? そのページがなかったら」
『あるはずのページがないとなると当然前に進めなくなる。それは途中で放棄したことと同じになります。そうなれば、永遠にこの世界の登場人物として生きていかなければなりません』
「は、はは。そうなんだ」
(最後まで進むだけでも充分大変そうなのに、奪われたページも取り返さないといけないなんて)
無理難題を突きつけられ、私のやる気は一気に萎んでしまった。反対に足元にいるワタさんは、面白そうにへらへら笑っているように見える。
『畑山は今までぐうたらし過ぎだったんだから、これぐらい刺激があった方がいいじゃない。ワタシならそう考えるけど』
「いや、それとこれとは」
(別だろう)
ましてや生死に関わる問題と言ってもいい状況で、そんなのんきに考えてなんかいられない。欲を言うならば、私はもっと長生きがしたい。
『いい歳して何ブツブツ言ってんのよ。ワタシだったら、いちいちそんなことで悩まないけどねぇ』
そう言いながら、ワタさんは首をかしげているように見えた。
(それにしても、さっきからワタシ、ワタシと我の強いワタシさんだ。私の影なのだから、大人しく静かにしてればいいのに)
などと考えていると、ルビがふっと笑みをこぼした。
「どうしたの?」
『やっぱりお二人は仲がいいんだなぁって』
いや、そうでもない。
『あ、あの、これにはちゃんと理由があるんですよ』
私の疑いの視線が痛いのか、ルビは慌てて言葉を添えた。
『オラクルは迷い込んだ読者が寂しくならないように、相性が良いその人の影をパートナーとして登場させているんです』
「そうなの?」
私は驚きながら足元に視線を落とした。
『でも畑山ったら、中々私の存在認めないし、全然話分かろうとしないし、扉の中にも入ろうとしないから参ったわ』
「いやいや、本を開けた途端、いきなり自分の影に話し掛けられるなんて恐ろしいったらないですよ。そんな状況で誰も望んで自分から行かないでしょ」
しかしワタさんは、『そうかしら?』と構う様子もない。
『まぁまぁ、二人共落ち着いて。でも畑山さん、鍵を開けてしまった瞬間から、もう旅は始まっていますからね』
そう言ってルビは私に優しい笑顔を向けてくれた。
『しっかしとんでもない世界だわよね。本が自我を持ったり、猫がしゃべったり。ねぇ、畑山、あんたもそう思わない?』
「ははっ。そ、そうですね」
自分のことは棚に上げ、影であるワタさんはぺちゃくちゃとよくしゃべった。ようやく黙ったかと思ったら、今度は踊りだしたのか体を揺らし始めたのである。
「ちょ、な、何してるんですか!」
次第にワタさんの体が3Dの如く、こちらに盛り上がって来たように見えるのは気のせいか。
『ふんっ!』
そしてワタさんは腹筋に力を入れると黒い影は地面から剥がれ、私の隣にぬっと起き上がって来たのである。おまけになかった所に瞳まで現れた。くり抜いて出来たような目は、気持ち悪さと恐ろしさがマックスのレベルだった。そして鼻だけでなく、切込みが入ったような口まで出来ている。
『こっちに来たら、もう地面に貼り付いている必要はないからね。はぁ、やっぱこの方がいいわ』
唖然とする私に構わず、ワタさんは気持ちよさそうに手を伸ばしたり、腰をひねったりしている。地面から起き上がったワタさんの体は、有名な妖怪漫画に出てくる布のお化けのようにぺらぺらしていた。
「ワタさんが勝手に動いている……」
その姿に私が口を開けていると、ワタさんは髪をかきあげ、土を払う仕草をした。
『地面は昆虫や小動物にはいいかもしれないけど、ワタシにはちょっと土臭いのよねぇ』
ワタさんは少し口を尖らせながら、自分の腕や肩を嗅いでいた。
『影は読者のパートナーです。こちらの世界では旅がしやすいように自由に動けるようになっているんです』
とは言え、ワタさんは私の影。当然足は私と繋がったままだった。
「それはそうと、これからどこに行けばいいの?」
右も左も分からない私が決めるより、ルビに教えてもらう方が断然早いし信頼出来る。まさにこんな時の案内猫だろう。
『読者は主人公と一体となって、物語を進めていかなくてはないりません。ある時は客観的にそれを見つめ、ある時は共に泣いて喜ぶ』
ルビはぴょんと前に飛び出すと、私の顔を見上げた。
『この世界には、物語の主人公となる者が数人存在します。種を芽吹かせる、即ち最後まで読み進めるためには、その者たちと出会わなければなりません』
「その人たちに魔法の種について教えてもらうってことか……」
そして案内猫は、前足を上げて道を示した。
『この獣道を道なりに行きましょう。その先に主人公の一人、ペパル青年がいるジャンバラヤという国があります』
「ジャンバラヤ?」
美味しそうな名前に、私のお腹がきゅうっと自己主張した。
『ちょっと、今の何?』
「すみません、本を開いたの、ちょうど晩御飯食べる前だったから……」
申し訳なさそうに肩をすくめる私に、ルビは気にしないでくださいね、と微笑んでくれた。呆れたような息を吐くワタさんとは対照的である。
『ジャンバラヤに着いたら、ひとまず腹ごしらえをしますか』
私はルビの言葉に苦笑で返しながら、小さく頷いた。