旅の同伴者
一ページ目は挿絵と共に始まった。扉の前で女性が立ち尽くしている絵だ。よく見てみると扉にドアノブのような物はない。
そこに書かれている文章も、
私は扉の前に立った。しかし、どうやって開けるのか。
と、主人公も困っている様子だ。
私は挿絵を眺めながら、あることに気が付いた。そこに描かれてある扉の形が本の表紙そっくりなのだ。右側に背表紙のような丸みがあるので、きっと左側に開ける断面があるに違いない。
私はいたって自然に本を開くイメージを心の中で描いていた。すると、突如激しい風が部屋中を駆け巡ったのである。
肩下まで伸ばしていた髪の毛が容赦なく顔に当たり、息をするのも苦しくなる。私は持ち前の細い目を閉じながら、風が止むのをぐっと堪えていた。
「あ……あれ?」
ようやく風が止み、私は目を開けた。だが、部屋は何事もなかったかのように整然としていた。
『ちょっと、あんた』
その光景にしばらく呆然としていると突然声を掛けられた。女性のようなその声に慌てて周りを見渡すが、もちろん誰もいない。
『どこ見てんのよ』
この声はテレビからかと思って正面にあるテレビを見てみたが、今日の私はテレビをつけていなかった。真っ黒な液晶画面には、疲れた三十代の女が薄ぼんやりと映っているだけだ。私の心臓は急に落ち着かない鼓動を打ち始めた。
『こっちよ、こっち』
「ひっ!」
恐る恐る声がする方へ視線を下げてみると、私の右側の床に映っている私の影が話し掛けていた。口はないが、なぜか、にまっと笑っているように見える。
「ひぃぃぃ!」
私は気持ち悪さと恐ろしさで勢いよく後ずさった。ホラー映画でも見過ぎたかと思ったが、最近映画は見ていなかった。
(こ、これはいったい何? どういうことだ? まさか未だにバイト生活なことを理由に神様が悪魔をよこしたというのか? いやいや、いずれ就職活動を再開しようとしている私にそんなことされるはずがない。ということは、神様の悪戯? いや、そんな茶目っ気の神様聞いたことがない。だとすれば、これは怪奇現象? でもなんで私の部屋に真っ黒な気持ちの悪い奴が現れるんだ? 誰か、誰か説明して欲しい)
『まったく、そんなに目を泳がせてたんじゃ、怪しい人に思われるわよ。本当、格好悪いったらないわ』
少々呆れ気味の影は、そう言って肩を竦めたように見えた。
「いや、あの、これは、どういう」
『あんたって、本当に落ち着きがないわねぇ。まぁ、ワタシだったら、そんな風にはならないけど』
得体の知れない相手を前に、こうなるのは当然のことじゃないか、と反論したかったが、あまりの恐怖で口が話すことを放棄していた。
『あんた、その本を開いたんでしょ? だったら、最後までちゃんとしなさいよ』
よくわからないことを言った影は、恐怖に慄き固まっている私を見て、プッと吹き出した。
『そんなに怖がらなくてもいいじゃない。ちょっと話し掛けただけなんだから』
それが怖い。充分怖い。唯一の救いがあるとすれば、影は影のままであるということだ。これで目玉や口があれば、とてもじゃないが正視出来ない。
『ほら、鍵も開けたんだから、責任を持って』
そして影は後ろを見てみろと言った。
「ふえぇぇっ!」
私は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。壁であるはずの所に、本に描かれている扉と同じものが出現していたからである。それも少し開いている。
私は、ばかな、と呟きながら、慌てて本に目を落とした。
「ちょ、どうなってんの……」
あろうことか、さきほどまで開いていなかった挿絵の扉も少し開いている。
私は目を丸くさせながら、絵と突如現れた扉とを何度も見比べた。さらに驚くべきことに、その前に立ち尽くしていた女性の服装が、フリルの付いた膝丈の桃色ワンピースから、今私が着ている臙脂色のジャージとそっくりに変わっていたのである。そしてもうひとつ、私は気づいてしまった。女性の後ろに今までなかったはずの影が描かれていたのだ。唖然としながら女性とその影を眺める私を見て、
『あぁ、それワタシだから』
と影はさも当たり前のように答えた。
そんな自慢げに言われても、と私は困惑したが、そこで「凄いですねぇ」とも言えなかったので私は自分の心配をすることにした。
(どう考えてもおかしなことばかりだ。現実であるはずがない)
私は目の前で起こっている出来事をリセットするため、きゅっと目を閉じた。
(いくら毎日お気楽に過ごしてきたとは言え、この状況にはさすがについていけない。夢か幻か、はたまた自分がおかしくなってしまったのか。もしそうなら残念なことこの上ないが、何かの間違いであって欲しい)
私はそっと目を開けてみた。
『何してんのよ』
現実だった。
下から聞こえてきた声に、私の願いは見事に粉砕されてしまった。こうなったらこの状況を受け入れるしか自分の精神を保つ方法はない。私は意を決し、自分の方から話し掛けてみた。
「ちょ、ちょっと落ち着かせてもらっていいですか」
影が頷いたように見えたので、私は1度深呼吸をし、改めて口を開いた。
「あのぉ、あなたは私の影……ですよね?」
私は年上、初対面の人にはもちろん、力関係を瞬時に把握し敬語に務める、という習慣が身に染み付いている。それは学生の頃、所属していた卓球部主将から「世間の荒波を木造レベルの船で後悔しなければならない我らにとって、敬う言葉をうまく使うということは遭難を防ぐ羅針盤の如く必要なスキルなのだ」という彼独自の教えを強く受けていたからである。今の状況を冷静に判断してみると初対面であるのは間違いないし、私のほうが弱者なのは明らかだ。さらに、ただでさえ怖そうな相手を怒らせでもしたら大変である。だが影は、私が気を遣いながら尋ねた言葉に頬を膨らませたように見えた。
『何よ陰って。ワタシはワタシよ。それ以外の何者でもないわ』
では、何だろうと思ったが、私が右手を上げれば影も右手を上げていた。
どうみても私の影だった。
『あなたって呼び合うのもなんだか水臭いわよね。ねぇ、名前で呼び合いましょ』
決して水臭い間柄ではないが、私は仕方なく付き合うことにした。短い時間ながら、この影の機嫌を損ねると少し面倒臭いことに気付いたからである。
「では、なんと呼べばいいですか」
『ワタシはワタシだからねぇ……』
散々悩んだ挙句、弥次さん、喜多さんを思わせる『ワタさん』という渋いあだ名に落ち着いた。本人はかなり気に入っている様子だ。次は私の番である。
『じゃぁ、あんたは畑山優子だから……」
ワタさんは名案が浮かんだというように、にまっと笑ったように見えた。
『畑山ね』
呼び捨てだった。
少しでも期待してしまった自分を罵倒したかったが、それこそ自分が可哀想になる。ワタさんはと言えば残念な気持ちの私をよそに、急かし始めた。
『ちょっと、いい加減扉の方に行きなさいよ。いつまでもこんな所に座ってたんじゃ、前に進まないでしょ』
何をそんなに急ぐことがあるんだと思いながら、私はワタさんに促されて立ち上がった。しかしその前に聞いておかねばならないことがあるではないか。
「すみません、ワタさん。教えてくれませんか。何がどうなってるのか全く分からなくて」
状況を掴むことすら出来ていない私に、ワタさんは『仕方がないわねぇ』と面倒臭さそうに話し始めた。
『いい? 畑山はこの本を開いてしまった。だったら最後まで進むしかない。途中で止めることなんてことは出来ないのよ』
「最後まで進む……ですか」
ワタさんの説明は穴の空いたテスト問題のようにさっぱり分からなかった。
(ともかく進むこと以外なさそうだが……)
扉の前で私がまさしく挿絵と同じような姿で佇んでいると、再び風が舞い始めた。その勢いに本がぱらぱらとめくれている。
「な、何?」
風が一際強さを増したその時、どこからか真っ白な梟が姿を現した。大きく翼を広げ、テーブルの周りをくるくると回っている。
「あ、ちょっと!」
そして私が止めるまもなく梟は本の傍へと近寄り、あろうことかページを咥えてて破ってしまった。
「こ、こら!」
(それは図書館から借りた物だ。そんなことをしてしまったら、賠償問題が発生するじゃないか。こんな分厚い本、いくらするか分かったもんじゃない。ましてや年代物だ。もし一点物だった場合私の給料では払えない。どうしてくれる)
現実的な考えが頭を過ぎり、私は梟を睨んだ。だが捕まえようと足を踏み出した途端、梟は再び舞い上がり、突如現れた男の肩に留まった。
『お前は……』
「ワタさん、知り合いですか?」
私は男を眺めながら驚いているワタさんに尋ねた。
『誰だったかしら』
ワタさんに聞いたのが間違いだった。
そんな私たちに不敵な笑みを見せる男が、自ら名を名乗った。
『私はゼロム。道を妨げる者さ』
男は真っ黒なスーツに身を包み、つばが少し大きめのシルクハットをかぶっていた。着ている服の色に対し袖から見えるては青白く、浮きだった血管が数本走っている。帽子を目深にかぶっているせいか、その表情は窺い知ることは出来ない。ただ、にやりと笑う朱色の口元だけが、こちらから見えた。
『しかし、誰が扉の鍵を開けたのかと思ったら、こんなおばさんだったとは』
(誰がおばさんだ。全国の三十歳以上の女性すべてに謝ってもらいたい)
男は失礼なことを言った自覚もなく、外見に似合わない軽い口調で切り出した。しかし身に纏っている禍々しい雰囲気は一般人の私でも分かる。
『ちょっと、あんなこと言われて黙ってるつもり? 畑山! あんたも何か言い返しなさいよ!』
(そうだ。こんな変な奴におばさん呼ばわりされたまま終わりたくない)
「た、確かに実年齢は三十歳だけど、心はまだ少女よ!」
その言葉になぜか二人は固まっていた。
『畑山って、痛い子だったのね……』
私は自分でもちょっと恥ずかしくなってしまい、穴に入りたくなった。だが、どこにも開いていなかった。
『ともかく、その梟が咥えているページ、早く返しなさいよ!』
『それは出来ないお願いだねぇ。だって簡単な旅ほどつまらないものはないでしょ』
男は、にやっと笑みを見せ、腕に留まっている梟の頭を撫でた。
『でもどうしてもって言うのなら、自分で取り返したらいいんじゃないかな』
男は懐から手品師が使うようなステッキを取り出し、くるくる回すと勢いよく前に突き出した。そこから花は出て来なかったが、少しだけしか開いていなかった扉がギィと音を立てながら右側に向かって開き始め、ついには全開になったのである。開いた扉の先には、さわさわと風に揺られる幾つもの葉が生い茂っている。
『さぁ、遊んでおいで』
男の言葉が合図となったかのように、ページを咥えた梟は、茂みの中へと飛び立って行ってしまった。
『ちょっと、何てことしてくれんのよ!』
男は意外そうな顔を向けた。
『私は進むことを躊躇っていた誰かさんの手助けをしただけだよ。これで行くしかなくなっただろう?』
『それはそうだけど……』
ワタさんは私の足元でむすっとした返事をしていた。
「あのー、ちょっといいですか」
二人のやり取りを眺めていた私に素朴な疑問が生まれた。
「最後まで辿り着けなかったり、途中で止めた場合、どうなるんですかね」
男は恍惚な笑みを見せながら、「いい質問だ」と言った。
『その場合、本の登場人物として、本の世界で永遠に生き続けることが出来る。どうだ、素晴らしいだろう?』
何だかとてつもない良いことのように言っているが、それは二度と元の世界に戻れないことを意味している。
「永遠にですか……」
『そう、永遠に』
私は重い息を吐いた。
(飛んだことに巻き込まれてしまった。これもひとえに大学を卒業して上京したものの、就職も決まらずフリーターのままのんべんだらりと毎日を過ごし、三十歳になっても未だ彼氏も作らず、将来の希望や不安から目をそらし、ただテレビだけをこよなく愛していた自分が興味本位で本を読もうなどと思ってしまったのがそもそもいけなかったのだ)
『ちょっと畑山、何してんのよ。そんな暇ないでしょ』
うじうじと頭を抱える私にワタさんは眉を寄せ、きっぱりとこう言った。
『進まなきゃ、始まんない』
青春ドラマのような言葉に私は腹をくくった。
(そうだ。この状況から脱出するためにはワタさんの言うように前に進むしか方法はない。本当は全力で拒否したかったが、これは全力でやるしかなさそうだ)
私は俯いていた顔を上げ、開いている扉を扉を見つめた。
『ようやく決心がついたようだね。君がどうやって最後まで進むのか、楽しく拝見させてもらうとするよ』
そう言って男は煙のように姿を消した。私はワタさんと頷き合い、扉の向こうに一歩足を踏み入れた。