旅立ち
どうにもならない現実の中で、私はまたこれまでの人生に思いを馳せた。
結婚してからの事……。
親の反対を押し切り私と夫は結婚した。そして子供を授かり、慣れない生活の中で生きてきた。
夫はお金を運んでくるし、たまに愛情もくれる。しかし家庭人ではない。
次女が生まれても、夫婦であるがやはり他人なのだ。
仕方ないと諦めつつも、私は家庭を大切にしてきた。
なのに……。降って湧いた夫の浮気。
次女が幼稚園に通っている頃、ふとした事で夫の浮気が露呈した。
悔しい。悲しい……!
出張と言っては家をあける夫は、女の人の所へ通っていたのだ。
突きつけられた現実に、何度も涙を流した。
そして両親を交えての話し合い。
私は次女を連れての離婚を切り出した。
けれどその後の夫の未練と謝罪。
私は不覚にも夫を許す形となり、結局離婚せずになる。情けない……。
天は夫に罰を与えたのだろうか……。それとも夫婦に試練を与えたのだろうか。
次女の幼稚園が卒園間近になった頃。
突然夫が自動車の事故を起こした。
酷い自動車事故だったが、何とか一命を取りとめた夫の診断は『半身不随』左半身の麻痺というものだった。
それからの私は懸命に看病をし、同時に子育てもやる事になり、生活は一変。
あんな仕打ちを受けたのに、看病をする自分は馬鹿なのだろうか……。
何とも言えぬ気持ちを抑え、日々を過ごした。
元来気性の激しい夫は、思い通りにならない事があると直ぐに腹を立て、所構わず当たり散らす。
当然、不自由になった己の身体を受け入れられず、私に暴言を吐き続けた。
「やってられない!」
怒りを込めてそう言ってはみるものの、やはり夫の付き添いをしてしまう。
毎日毎日。退院してもリハビリに通い、夫に寄り添う。
「何でよくならないんだ!」
怒りの矛先はいつも私。不自由な身体への苛立ちは理解できない。自由を奪われた人の気持ちなど私には分からない……。
かける言葉もなく、ただ耐えるのみ。
ただ支えるのみだと、そう思う事にした。
そんな昔の事をつらつら思い出しては未だ動かぬ我が身にまたもどかしさを覚える。
『あの世』とはどんな所なのだろうか。
私は目覚める事なくあの世へ逝くのだろうか……。
医師達は一生懸命治療を施してくれる。
聴こえてくるのは、薬の名前やら何やらの言葉。
そんな声が部屋に木霊する。
けれど目覚めぬ私。
小さな覚悟が大きな覚悟に変わってゆく。
瞼の裏に広がる白い世界は、別れの時を意味しているのだろうか……。
「ママ? 目を開けてよ。名前を呼んでよ……」
「ババ……。起きて!」
「ババ、目を覚ましてよ!」
ああ、娘と可愛い孫達の声がする。
真奈と希だ。来てくれたのか。
「ババ! 行かないで! 目を開けてよ!」
泣き叫ぶ声が聞こえる。
この手で抱きしめてやれたら……。
こんなに直ぐに死ぬ予定ではなかったのに。
今更ながらに思っても仕方がない。
けれどやはり未練無くなんて無理だろう。
私の側で泣き、大きな声で呼ぶ皆んなを遺して逝くなんて、胸が張り裂けそうになった。
しかし別れはやって来るもので……。
『そろそろ行こうか……』
ふと頭の上で声がした。
顔を上げる事のできない私の頭に温かな何かを感じた……。
瞬間ーー。
身体がふっと軽くなり、私は起き上がった。
……。
見下ろせば横たわる自分の姿。
私の身体を揺すっては、娘や孫達が泣き喚いている。
心臓マッサージを行う医師。
静かにその様を見つめていた……。
『行こうか……』
柔らかな声の主を辿れば、その先に見えるのは光のトンネル。
私は最期とばかりに娘や孫達の側に行き、一人一人にさよならを告げた。
真に呆気ないものだ。
この子達を遺し旅立つのは実に忍びない。
けれど目の前の現実を受け入れなければならないと悟り、ありがとう。そう呟いてトンネルへと向かった。
離れたくない。まだまだ一緒に居たい。
可哀想過ぎる子供達を置いて行けない……。
胸に過る思いを振り切り、もう一度触れたい思いを断ち切り、私はその先へと進んだ。
涙が流れる。けれどこれがさだめかと、納得するしかないのだろう。
泣き声に送られ、トンネルをくぐった。