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ツァラトゥストラを巡って、ニーチェの根本思想を読み解く (極私的ニーチェ論) 神の死、ニヒリズム、ルサンチマン、運命愛、超人、永劫回帰。力への意志。2019.6.8増補・改訂版

作者: 舜風人

今、、日本では、再び二-チェブーム?だという。


ニーチェに人生のお悩みの解決のヒントをもらいたい?

ニーチェに励ましてもらいたい?

ニーチェに慰めてもらいたい?


、、、ということらしい?



だがよく考えていただきたい、

ニーチェはそれまでの西洋倫理、西洋価値観、キリスト教的な世界を

そういうものをすべてひっくり返そうとした人ですよ。

「すべての価値の価値転換」を目指した人ですよ。


そういう人の哲学に、、あなたのちっぽけな?ささいな?どうでもいいような?

庶民人生のお悩みの相談ですか?

それってはっきり言って、無理でしょう??


そもそも、、ニーチェは私たちを慰撫しないし、温めてもくれないだろう、

ニーチェに「慰め」を期待しても無駄だ。

そうではなくてニーチェは私たちを、脅し?揺さぶり扇動し、毒をまきちらすだけだろう。

ニーチェに慰めてもらおうと思っても無駄だ。


それどころかニーチェの毒に当って中毒死しないように十分気をつけなさい。

ニーチェ思想は誰にでも優しい、ぬくもりと柔和と温柔の生ぬるい、そんな慰めの哲学なんかじゃないんだからね。


かれの代表作ツアラツストラの冒頭「神は死んだ」という衝撃的な宣言からニーチェは出発する。

ツアラツストラは10年間、山にこもって修行していよいよある日山から下りてきた

町についたツアラストラは民衆に向かって「超人」のことを宣言した。

そして開口一番「神は死んでいた」と民衆に告げるのである、

「神は死んだ。これからは汝自身の価値に従って生きよ」と。

だが民衆は全く理解できなかった、そしてあざ笑うのだった。


ツアラツストラはそれを見てまだ気は熟していないと悟り、もっと思想を熟成させようと、再び山にこもり修行を続ける。

永遠回帰の思想を熟成させるために、、、瞑想と修行を続けて、、、

そして今度こそいよいよ新しい価値を人々に告げるためにふたたび、山を下りるのだった。

そして、ツアラストラは自らの思想を力強く、街々を歩いて人々に説いて回るのだった、


「神は死んだ、

この世には神も、絶対者も存在しない。絶対的な価値もない」


ニーチェはこういう新しい価値を倫理を「人類への最大の贈り物」を届けようとする。


今までの哲学常識では

表象界の先にはイデア界があってそのイデア界からの表象としての現実界でしかないという、

つまり現実界とはイデアの影にすぎないという虚論。


或いはこの世の先にはあの世があってこの世を統括しているという虚論。


神 絶対者が取り仕切る世界、、という幻想。


イデア界からの残照としての現実世界、。人間界


物自体と現象という対立軸。


それは頭の狂った?やつらが編み出した、虚妄でしかない。


と、ニーチェは考えた。


それはそうあってほしいという人間の願望に過ぎない。


つまり幻想である。


だがさすがに、近代社会になって来ると

その幻想も力を失い人々は


幻想から目覚めつつある。


つまり人々は現実に目覚めたのだ。


ツアラストラは高らかにこう宣言する。


「神もあの世も存在しない」、と。


これが「神が死んだ」ということなのだ。


ニーチェは言う。、


頭の中で考えた幻想で生きるのは止めて現実界で生きよう。


だがそうなると、、ありもしない神とかあの世にすがって心のよりどころとしてきた人々は

その虚妄が崩壊して価値観の喪失状態に置かれる。

すがってきた価値が無だったというのだ、

その空白状態、、カオス状態を

それを「ニヒリズム」という。


それは今までのキリスト教的な価値観こそが諸悪の根源だったからだ。


キリスト教は今まで弱者こそが価値があると宣伝し、


「貧しき者が幸せだ。、その人は天国へ行かれる』と説き、


人間の生命力をけなし、貶め、強いことを悪と決めつけてきた。

こうしたキリスト教的価値観がいかに生命力を阻害したか。


つまりそれは、、こういうことだ、

「みんな仲良く一緒にゴールしましょうね、徒競走で順位をつけるのは平等に反しますからね」

「みんなでいたわりあって、傷を舐めあって生きてゆきましょうね」

「貧しきものは幸いなり、」「天国は貧しき人のものである」

「富める者は悪であり、力強いモノは悪である。」

「抜きんでた天才なんていらない、無能者も愚か者も、みんな平等」

「愚者や弱者が群れて、、低次元・低レベルで生きればそれが最高」


神の価値のもとで弱者の人間どもが傷を舐めあって群れて、お互いが体をこするりつけて温めあって生きる

これが今までの価値観だった。

しかし、今、神は死んだ。

これからはこうしたキリスト教的な弱者の倫理観とは決別だ。


ニーチェはこうした弱者の倫理観を、弱者による、強者への恨み、ねたみ、から発する


弱者倫理「ルサンチマン」と名付けて、乗り越えるべきと主張したのだ。


だが一般大衆はいまだルサンチマンに


寄りかかってしか生きられない。


弱いものが最高であり

貧しいことが神の国へ至る道であり

富める者が天国に至るのはラクダが針の穴を通るのよりも困難だ、と説き、


つまり、、ただ弱者同士で群れて、傷を舐めあう、、生の流れのまにまににたゆとうて流されて生きるだけの、それが最高の価値だと信じ続ける


だがニーチェにとってそれは最悪の価値でありそういう人間は「末人」ラストマンである。


だが新しい価値観では、


これからの世界は一部の「超人」と大多数の「末人」の2極化した人類が存在するようになるだろう。


もともとありもしないそんな弱者の幻想が今、改めて無いと知ったとて、ただ消極的に


嘆いているだけの[末人]になってはいけない。


だから積極的にそれ(ニヒリズム)を肯定しようでないか。


そうだ、それが積極的ニヒリズムだ。


ニーチェによれば、ニヒリズムを二つに分類した


「 何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)。」


「 すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。」


ニーチェはこういう積極的ニヒリズムを肯定し、


永劫回帰の思想の下、自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。 」カッコ内は引用


そういう積極的にニヒリズムに向かい合ってたくましく生きる来たるべき人類を


ニーチェは「超人」(Übermensch ユーバーメンシュ)と名付けて待望したのである。


これがいわゆるニーチェの「超人思想」である。


これから我らが為すべきは


とりあえずそうした古い幻想的価値観はきっぱり脱ぎ捨てよう。

「ルサンチマン」であり『弱者の価値観」であり、

「神様依存症?」というような

生命力の否定の旧価値観から脱却しようではないか。


「さあ見るがよい、

荒涼とした大地に牧人が横たわっている、そして、その口には蛇が食い込んでいる。

「蛇の首をかみ切るんだ、」と、ツアラツストラは叫ぶ、

それを聞いて、牧人は力任せに蛇を食いちぎる。

そうして高らかに笑うのだった。

蛇を食いちぎった牧人はもう元の牧人ではない、

彼は今や光に包まれた超人へと生まれ変わっていたのだ。。」


この寓話の意味とは??


蛇とはニヒリズム、それをかみ切ること、そうすれば超人に変身できる

ニヒリズムを超越せよ、

積極的に乗り越えよ、

神からいただいた?今までの弱者道徳

ある意味かなたからの「頂き物」としての価値感


そういう、、形而上学的な価値観は無いと宣言すると、

どうだろう、今まで単なる被造物として価値なきものとしか認識されてこなかった自然が

こんなにも豊穣だったということに気づきはしないだろうか?


今までは神の国こそ求めるべきものであり、

現実界、、自然界などはどうでも良いものでしかなかった。

捨て去るべきものでしかなかった。

しかし、今、自然こそすべてであり豊穣の根源なのだ。



自然そしてその生命、植物・動物たちの豊饒さよ、

芽生え、咲き、実って、そして役目がおわれば、枯れて死んでゆく、

正に生の高揚感、生命の発露。


動物も同様だ。

そういう自然界の生命原理ってなんだろう?


それは生きる力であり、成長しようという意志であり、

産み、増えるという、大生命力だろう。


そういう生命力の根源にあるものをニーチェは


「ビーレツールマハト」wille zur macht(力への意志)と表現する。


この、力への意志こそが


生命の原理の基盤であり、


この世界のすべてをつかさどる根本原理であるのだ。


ただし、この「力への意志」を生物的な生命力だけという単純化や

あるいは逆に

形而上学的に物自体としてとらえてはならないだろう。


そうではなくこの意志は、永劫に繰り返し、成長と衰亡を繰り返す。

その原動力でもあるからだ。

そうだ、この営み(力への意志)は「永劫に回帰」するのだ。

宇宙の生成も、星々の運行も、生命の循環も、

すべての指導原理。それが

ヴィーレツールマハトなのだ。


ニーチェは言う。


「お前が生きてきたこの人生を永劫に繰り返す。お前はそれに耐えられるか?」と。


ニーチェは言う。


「どんな人生もそれを全面的に引き受けて全肯定して、永劫に回帰すべきものとして


「それを私が欲したのだ」と宣言して生きるべし」と、


それこそがニーチェの思い描く理想の新人類 Übermensch ユーバーメンシュ(超人」である。


運命を愛する、

良い悪いもすべてひっくるめて全てを肯定しなさい、

運命にそもそも良いも悪いもないのだ、


そういう永遠に回帰する運命を愛する

運命愛こそが超人の生き方なのである。


ところでニーチェは「ツアラツストラ」において人間の発達段階を


「ラクダ」→「ライオン」→「幼な子」の三段階に例えている。


文字通りの末人である、、ラクダの段階。弛緩しきった末人状態


それを乗り越える、ライオンの段階 生命力讃歌、強さへの回帰


だが、さらにもっと高い境地があるという、


それが「おさなご」の段階だ、


一切から自由になり、無邪気に満たされている赤ん坊こそが理想の段階だというのだ。

このたとえからもわかるように

超人とは、、単なるビースト(野獣)ではないということなのだ。

超人とは、、幼子、仙人、山の奥にいる聖者のようなものでしょうか?


単なるビースト、独裁者、ではないことは明らかですね。

自己の価値にしたがってしなやかに、、幼子のように、、生命散華して運命を愛して

運命よ、私はあなたを愛する。あなたが何度でも繰り返すことも愛する。

わたしの一切を私は肯定する、

運命よ、何度でも永劫回帰せよ、

わたしの人生は偶然ではない

一切は必然なのだ


つまり、、、

あなたの運命をそして人生を無前提で愛しなさい、


一切のあなたの運命を愛せよ、

それが超人の姿なのだから、


「ツァラトゥストラかく語りき」より。


「深夜の鐘の歌」。



一つ! おお人間よ!しかと聞け!


二つ! 深い真夜中は何を語るか?


三つ! 私は眠った 私は眠った


四つ! 深い夢から いま目が覚めた


五つ! 世界は深い


六つ! 昼が考えたよりも深い


七つ! 世界の苦しみは深い


八つ! よろこび それは心の底からの苦悩よりも一層深い


九つ! 苦しみは言う「終わってくれ!」と


十! しかしすべてのよろこびは永遠を欲する


十一! 深い 深い永遠を欲する!


十二!


(12の空欄はニーチェが書き忘れたのではなくてそこは

あなたが考えろっていう意味であえて空けてあるんですよ)





汲めども尽きぬ

フリードリヒ・ニーチェという自己矛盾のかたまりのような詩人哲学者。

すべての今までの価値の転覆の試み、

それを彼は「ポエム」で「寓話」で?ツアラツストラという架空人物に託して表した。


ツアラツストラという寓話?叙事詩?で語った彼の哲学思想。

その内容は寓意的で、、暗示的で、、ある意味どうにでも受け取れる「ポエム」なのです。


ルー・ザロメという女神?への無償の愛。その挫折から生まれたというこの物語的な叙事詩

それが「アルゾ・シュプラッハ・ツアラツストラ」Also Sprach Zarathustra なのです。



ルサンチマンを乗り越えて運命を愛する

ニヒリズムを乗り越えて超人の域へ

一切は歓びに充ちているのではないか?

ただ末人にはそれがわからない。

今だにルサンチマンと弱者道徳に縋り付いて傷を舐めあって生きている

力強く生きるのだ

強者の倫理こそがこのニヒリズムを超えられるのだから


彼の思想こそまあこういってはなんですが

読みかた次第では

まさに「毒の塊」「毒の爆弾」みたいなものですよね。


この人の思想は過激な言辞と扇動で、まさに毒の哲学でもあるといえましょう。

表現が苛烈なのです。

ポエムなのです

扇動的なのです。アジテーションなのです。


その結果、あのヒトラーが心酔して、ニーチェの弟子とまで公言するようになったといういわくつきの

哲学者なのです。ヒトラーはそこにナチズムの論理の基盤を読み取ってしまった?ということであり。、

特にヒトラーを狂喜させたのが、ユダヤ人への憎悪と軽蔑でしょう。

まあニーチェにしてみればキリスト教批判のそのシンボルとしての、イエスを生んだユダヤ人への批判なのでしょうけどね。旧価値のシンボルとしてのキリスト教です。

価値の転換のニーチェなりのパフォーマンス?でしかないのですが。

彼の哲学は比喩と寓話ですからある意味どうにでも解釈できるんですよ。

ツアラツストラはまさに「寓話」であり「物語詩」です。

読みようによってはどうにでもなるんです。


でも、ヒットラーが、そこにナチズムの論理の基礎を読み取ったという事実はやはりニーチェの思想の毒性?両義性?でしょうか?


こうして、ニーチェは期せずしてナチズムという「鬼っ子」?を生み出してしまった。

ホロコーストの犠牲者は590万人、。

同様に?マルクスは共産主義という「悪魔の赤ちゃん」?を生み出してしまった。

この二人、思想上は正反対の位置にいるわけですがまあこういう極端な思想というものは往々にして

こういう鬼っ子を産んでしまいやすいものなんですよ。

ナチズムも共産主義もその後何千万人という犠牲者を生み出しているのは皆さんご存知の通りです。

そういう意味ではマルクスと二―チェは立派な?キケン思想家なのです。

スターリンの粛清で1000万人の虐殺

毛沢東の文化大革命で700万人の虐殺

ポルポトの虐殺は400万人  

これがマルクスの生み出した共産主義の結果なのです。


ニーチェの著作、例えばツアラツストラなどを、表面づらで読めばユダヤ人への罵倒の文言に満ちあふれていますからね。

読み方次第というか、、受け取り方次第ですよね。

末人と、超人の思想も、、まあ表面づらだけよめば,優性主義、劣悪な種族の抹殺という方向に向かいかねないわけですからね。


そして最も有名なニーチェの毒と言えば「ブロンドの野獣」です。

これはそのまま読めば、暴力的な白色テロルの全肯定です。

バーバリズムの肯定

そして暴力の肯定


「金髪の野獣」が腐った末人を野蛮に無慈悲に抹殺するということの肯定。

まさにニーチェの毒の頂点でしょう。

これもニーチェはあくまでもシンボル(たとえ話)として語ってるだけなんですが。

文字通り取れば、読み方によっては?、ホロコーストの肯定、、ともなりうるわけですからね。

それまでの古い価値の大転換をしたという肯定的な面と


野蛮さの奨励と、暴力の肯定とは、

ニーチェの複雑な二面性でしょう。

まあこれもあくまでも詩人哲学者ニーチェの「比喩」にすぎないといえばそうなんですが、


と、まあ時代を超えたすごい思想というものはこういう

読み取り方次第というか

両義性に彩られたものなんですよ。

だがいま、共産主義は世界において見る影もなく落ちぶれて完全に、見捨てられてしまったが

ところが

ニーチェはまるで不死鳥のように?悪名を乗り越えて再び復活再生し続けてくるのはなぜなんだろう?


それはおそらく「人間の闇の部分」に対する深い洞察がそこにはありニーチェはその闇を真剣に捕捉してるがためなのであろう。

ニーチェによる、人間というある種、魔物的な存在にひそむ深層心理の深い闇への洞察は

すごい深いものがありますね。

人間の醜さとか、愚かさとか、権力欲とか、支配欲とか物欲とか

性欲とか、残忍さとか、凶暴性とか、、、人間てそういう闇をひそめた存在なのです。

そういうものに鋭い考察と予言を随所にちりばめています。そこがニーチェの深くて鋭いところです。


それに対してマルクスには、、残念ながら人間の心の深い闇についての認識など全く皆無で

ただ馬鹿の一つ覚えで、共産主義理想というありもしない幻想世界?の出現を楽天てきに夢想するのみだからだ。


だからこういう浅薄な人間認識による共産主義理想社会という幻想を盲信してその結果、

のちのちには、、、救いがたい人間どもの闇によって

共産主義イコール虐殺と血みどろの粛清、恐怖政治、収容所国家、密告社会、統制社会、そして、粛清の死体の山また山、、、、

そんな最悪な末路になるとはマルクスには予見できもしなかったということなのだ。

人間というものは救いがたい闇を秘めた存在なのだという認識がマルクスにはなかったから、

結局共産主義はすべて人間悪の汚濁まみれになり、その残した教訓とは、所詮人間とは救いがたい「馬鹿者」だったという事実だけだったのだ、



ツアラツストラは言う


「小さい悪意、小さい思想、小さい良心、これらが最大の害悪なのだ。

「小さい善人である限りお前はやがてしおれ腐り死んでしまうだろう。

私はむしろこう言いたい。

「お前の中の悪魔を育てよ」と、

そうすればお前にはまだ偉大さへの道が残されている」と。



「私の言うことが分かるのか?十字架にかけられたもの、対、ディオニソス」   



ツアラツストラはある日とある街を通りかかった。

民衆に向かってこう説いた

「見よ、私は今あなた方に超人を教えよう、人間とは動物と超人の間に架け渡された一本の綱である」


すると、、そこに今しも綱渡り芸人が綱を渡りはじめたのである。、

綱渡り師が半ばまで来たとき、後ろから道化師が現れて綱を飛び越えて綱渡り師を蹴落としてしまった。、

哀れ綱渡り師は墜落して即死だった。

ツアラツストラは一部始終を見ていた、そして綱渡り師の死骸を担いで街を出ていったのだ、


「君たち人間よ、君たちは超人へと貼り渡された綱を渡っているこの綱渡り師のようなものなのだ。人間は動物と超人の間に張り渡された1本の綱なのだ。」とツアラツストラは言うのだった。





それではニーチェ思想の最高の帰結命題であるwille zur macht ヴィーレツールマハト

(権力への意志)について

はどうとらえたらよいのであろうか、

力への意志はニーチェの根本思想です。


ニーチェは生命力の讃歌を提唱した、


そもそも世界は

アポロン的とデイオニュソス的という二つの原理が支配すると二―チェは考えた、


そしてニーチェは、生きる喜び、生命の歓喜、ディオニュソス的な生活を賞揚した。

ただしニーチェ思想を単なる「生命哲学」と決めつけるのは早計過ぎよう・

生命力だけでなくてもっと巨大なパワーとしてその本源をニーチェはとらえているからである。


そして最後にたどりついた命題が、「ヴィーレ ツール  マハト」 wille zur macht である。


「権力への意志」と訳されるが、


力。パワーへの衝動とでも訳したほうがよいと私は思う。


この宇宙を、この世界を、そして人間を突き動かすのは。


この根本原理、ヴィーレツールマハトだというのだ。


私はこれを自分なりには、以下のように解釈している。



これは、大宇宙生命力信仰だと思うのである。


草木が種から芽吹き、たくましく成長する。


動物や虫たちが、その全生命をかけて、種族維持を図るさま、


何千キロをさかのぼり、鮭が傷だらけになりながら源流に遡上して産卵しそして死んでいく。



生命の力というか、


生殖力というか。


生命力というのも生殖力に帰結するわけであるから、


古代から性神信仰は深く広く行われてきたわけである。


古代インドの、タントラ主義やシャクティ主義、カーリー神などそうだろう。

若きニーチェはショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」を耽読しています。

そこから得た東洋思想インド思想ウパニシャッド哲学などに深く影響されているのです。

後日彼の主著のタイトル名をゾロアスター(ドイツ読みでツアラツストラ)にしたのも東洋かぶれ?の影響でしょうね。

また、ニーチェは「マヌの法典」のドイツ語訳を読んでここからヒントを得て

「権力への意志」という命題を思いついたといわれているのです。



またメソポタミア起源のイシス女神、


グレートマザー、(地母神)がその象徴である。


古代日本の土偶もまさに子孫繁栄の性神である。


「産めよ、増えよ,地に満てよ。」


とはエホバ神の言葉である。


とにかく子孫が生まれてこなかったら人間社会も終わってしまうのであるから、


このパワーは強大である。


人間を突き動かすのもすべてが、性力というか生命の発動であろう。


ライヒやフロイト、そしてユングと、


性の力の絶大さを彼らは証明して見せたのである。


しかしそれはプラスにもマイナスにも働く。


なぜなら、エロスとタナトスは裏表だからだ。


生きんとする意志はまた死へのパワーも秘めている。


どう使うかは本人次第という恐ろしい能力(武器)でもある。


こうした生命パワーを、


マハトとしてとらえ、たんなる生命力シャクティにとどまらず、もっと普遍化して、広大な概念化して、


地球の自転から、星々の運行までも突き動かし、


世界原理であり、また、宇宙原理、我々人間の根本パワーとしてとらえたのがこの、


ニーチェの『力への意志』という命題だったのだろう。


そこからやがて必然的に、


ユーバー・メンシュ思想も出てくるわけである。


それを、ごく簡単にあえて、矮小化して?言えば


「オオカミは生きろ。豚は死ね」、


ということになるわけである。

(本当はそんなそんな単純じゃないけどね、、、)


超人とはポジティブの極致?みたいな、

高揚感に満たされた生き方みたいな、

そういう生き方なのであろうか。

だがそれってすごい力強さが必要ですよね、

現実態としてはそれは独立独歩の自我主義?みたいなものなのかもしれませんね。

もしそういう人(超人)がこの現実にいるとしたら、

それは、、もう究極の鉄人みたいなものでしょうね。

自分を全肯定出来たら、、そのあとその人は

全てから自由になれる,自由自在に生きられるだろう。

だがこれは単なるビースト(野獣)ではない。


いみじくも二―チェが言ってるように、赤子の状態になることこそが至上の境地なのですから、

超人とはがつがつとした権勢欲のかたまりのような反逆児のライオンじゃあないということでしょうね。

融通無碍の人生、しなやかな包容力、円満具足の人こそが

それこそが本当の超人なのであろう。

ということは?

これって、大乗仏教の菩薩のような人?

ってことじゃないですか?

東洋思想にも通暁していたニーチェは

無邪気に無心にたわむれる赤子の状態を夢想した時にたぶん。

奇しくも

大乗仏教の菩薩の境地を期せずして描いていたのかもしれませんよね?



小さい差異にこだわるな。

比較するな

自分で選べ

その道を歩いて行け、

そしてその運命をすべて愛せよ、

大いに笑え

世界は力への意志だ

それが本当の人生だ。

しなやかに生きるのです。

まるで幼子のように、、


ニーチェの訴えたいことって結局そういうことだったんじゃないのか?


自己の価値を信じ

自己のどんな運命をも愛して

強く生きてゆけよ、

すべてを肯定して、、大いに笑いなさい。

そう訴えたかったんじゃないのか。


どんな運命もそれは必然だったんだよ、

偶然じゃなかったんだよ、

そうなるようになってたんだよ、

だからその運命を全身で愛して強く高らかに笑って生きてゆけよ、

それが運命愛であり

永劫回帰であり

超人の生き方だったんだよ、



ところで偉大な、、時代をぶっ飛んだような思想というものはすごく

毒性が高くてつまり、、すごく「両義性」に満ちたものなんですよね。


ニーチェの超人思想も


もし、悪用?すれば


というか曲解すれば


キケンな思想であることは間違いない。



たとえどんな毒薬でも匙加減次第では最良の万能薬にもなるだろうが


一歩、匙加減を間違えば、何千人を殺す猛毒で終わってしまうだろう。


天才と狂人は紙一重という、危ういニーチェの思想、



何故なら「ニーチェ思想」とは。誰にでも、向いてるようなそんな、人畜無害な、文部省推薦図書?なんかじゃないからなのです。

だからニーチェ自身が


畏くも「ツアラツストラ」の冒頭に自ら宣言しているように

忠告しているように、、、、


彼の書物(著作)とは  まさに、、永久に?


「万人のための、そして、だれのためでもない書物」


アイン・ブーフ・フュール・アーレ・ウント・カイネン


Also Sprach Zarathustra  ツアラストラはこう語った、


Ein Buch für Alle und Keinen 「万人のための、そして、だれのためでもない書物」


(1883-1885)


Friedrich Nietzsche


、、、、、、、、、、だからなのです。


ここに、、


ニーチェの最後の、そして最重要の著書となるべきはずだった未完成の著がある。


それが「権力への意志」ヴィーレツールマハト

で、、ある、


副題は「すべての価値の価値転換の試み」である。

残念ながら二ーチェは狂気の病に倒れて二度と復することがなく、亡なってしまったために未完

未整理。原稿のままで残されました、


妹がニーチェの死後の遺稿をまとめたものがのちに刊行されていますが、

ニーチェが直接編纂にかかわっていない、、ということは?

妹が、改変?改悪?してる可能性も排除できない、、といういわくつきの書ではあるが、、、。


その最終章にこうある。


「君たちはこの世界の名前を欲するというのか?

世界の謎への回答を欲するというのか?

君たち、、

最も秘められた

最も冷静な

最も強い

最も深夜な者である君たちよ。

君たちへの一つの光を送ろうではないか。


それは、

この世界は権力への意志 (ヴィーレツールマハト)である。

そしてそれ以外の何物でもない。

しかも君たち自身が権力への意志そのものであり

そしてそれ以外の何物でもないのである。」


これがニーチェの結論、最終命題だったのでしょうね。




されば、、、、、、、


さいごに、、



ニーチェのこんな意味深な?言葉を引用して、自戒?あるいはまとめとしておきたいと思います。






「悪魔をやっつけようとして、あなた自身が悪魔になってはいけない。


なぜならあなたが深淵をのぞき込むとき


深淵もあなたのほうをのぞき込んでいるからだ。」


                      ニーチェの言葉より、






付録


ニーチェ全著作




音楽の精髄からの悲劇の誕生


反時代的考察 1  信仰告白者兼著述家ダビドシュトラウス


反時代的考察 2  生に対する歴史的利害

 

反時代的考察 3  教育者としてのショーペンハウアー


反時代的考察 4  バイロイトにおけるリヒャルトワグナー


人間的な あまりに人間的な 第1部 自由精神のための書


人間的な あまりに人間的な 第2部 上巻 さまざまな意見と箴言


人間的な あまりに人間的な 第2部 下巻 漂泊者の影


曙光 偏見としての道徳についての思想


楽しい知恵


ツアラツストラはこう語った


善悪の彼岸 未来の哲学への序曲


道徳系譜学 論争の書


ワーグナーの場合


アンチキリスト キリスト教に対する呪詛


ニーチェ対ワーグナー


この人を見よ




権力への意志 (ニーチェの遺稿を、妹がまとめたもの)未完成


これはもし彼が狂わずに、完成させていたとしたら彼の代表作となったものです、

内容的にも

深さにおいても

浩瀚さにおいても

完成度においても  おそらくは

この「権力への意志」という書物がもしも完成されていたら最高に充実したやニーチェの代表作となっていただろうから、








付記

二―チェの思想形成の基礎となったものとは?


1、古代ギリシャ  (詩、哲学。文学 演劇)

2、インド古代思想  (マヌ法典、ウパニシャッド哲学)

3、ショーペンハウエル哲学

4、ワグナーのオペラ

5、ルーザロメとの交友

6、ダーウインの進化論

7、そして反面教師としてのキリスト教










☆総まとめ



神の死、      神(絶対者)からのありがたい[み教え]なんてもう今の時代、にはないんだよ



ニヒリズム、   そういう 旧価値の崩壊による寄る辺なさには、鷲のように耐えるんだよ。



ルサンチマン、  弱者同士の憐れみと傷の舐めあいはもうやめよう



運命愛、    振りかかる一切の運命に獅子のように立ち向かい、その運命を愛するんだよ、



超人、     人間は旧価値から自由になり、おのれの運命を愛する、

        そういう超人になるべきなんだよ。

        一切から自由になり、無邪気に満たされている幼子のように自由に

        笑い、かつ、歓喜して生きようではないか。



永劫回帰    この世界は、、そしてあなたも自身もまた永劫に循環して繰り返すのさ。

        それがこの世界の秘密の真理。

        「どんな人生もそれを全面的に引き受けて全肯定して、永劫に回帰すべきものとして

        「それを私が欲したのだ」と宣言して生きるべし」



力への意志。  究極の真理とは、「世界を動かす原理はヴィーレ・ツール・マハト」なんだよ。


       「この世界は権力への意志 (ヴィーレツールマハト)である。

        そしてそれ以外の何物でもない。

        しかも君たち自身が権力への意志そのものであり

        そしてそれ以外の何物でもないのである。」























㊟あくまでも私の個人的な観点からのニーチェ論であり、私の論が、正しいかそうでないかはお読みになる、あなたのご判断におまかせします。


最後にリヒャルト・シュトラウスの「ツアラツストラ」でも聞いて終わりにしましょうか?

SF映画「2001年宇宙の旅」のテーマソングにも採用されていましたよね。

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