吾輩と下僕の話
吾輩はねこである。
名前は…2回前の冬から頻りに呼ばれるものがそうだとすれば“ジルさま”と言うのがそうなのであろう。
2回前の冬、吾輩は新しい世界へ行くはずだったのだが、下僕が泣いて縋るから仕方無しに現世に留まってやっている。
下僕の名前は知らぬ。
なぜなら、下僕の名前を呼ぶ存在がいないからだ。
下僕は世に言う“一人暮らし”と言う奴で“しゃちく”と言う仕事をしている。
毎日毎日、同じ服を着て死んだ様な濁った目で家を出て、くたくたになって帰ってきては“ジルさま”“ジルさま”とまとわり付いてきて本当にうるさい。
2回前の冬まで、吾輩は“冬”と言うヤツが心底嫌いだった。
寒いだけならまだしも、草はカサカサになるし虫も滅多に見かけなくなる。
体の弱いヤツや年取った顔見知りの猫を急に見かけなくなる事も段違いに増えるので、なんだか気分が悪くなる。
たぶん、奴等は一足先に新しい世界へ旅立ったのだろう。
下僕が下僕になった日は、吾輩も旅立つ直前だった。
人間が移動するのに使う、うるさくて、尻から臭い煙を吐く“車”と言うモンスターは、寒い冬の夜には大人しく、動きを止めたばかりのヤツはあたたかい。
吾輩はあたたかいヤツを見つけては中に潜り込んでいた。
風も入ってこないし、狭くてあたたかく、座りのいい場所を見つけられれば快適なことこの上ないのである。
いつもなら動き出す前に人間が乗り込む騒がしい音で目を覚まして逃げ出すのだが、その日は連日、飯にもあり付けず少し弱っていた為か、気が付いた時には周りの物が煩く動き出していた。
慌てて隙間を抜ける時に足を少し怪我してしまい、逃げ込んだ先の公園で力尽き、動けなくなってしまっていた。
寒いし腹は減るし喉は乾くし、まったく、散々だったのを覚えている。
小さく寂れた公園には大した遊具も無く、あまり手入れのされていないそこは、誰の目にもとどまる事はないのだろう。
吾輩が逃げ込む前も、逃げ込んでからも、人の気配などいっさいしないそこは、不思議と居心地が良かった。
ベンチ裏の草むらに倒れ込んだ吾輩に気付く者などおらず、暗くなった頃には痛覚も感覚もだいぶ感じることはなく、新しい世界はどんな所だろうかと、どうでもいい事を考えながら時間を潰していた。
吾輩は悪足掻きなどしないのだ。
ちらちらと冷たい雪が舞い始めたのは夜もとっぷりと更けた頃だろうか。
突然、鼻を啜る耳障りな音と共に荒々しく目の前のベンチに腰掛けた人間がいた。
古びたベンチがギシギシ言うのにも構わず、深く腰掛けた人間は、声を抑えるのも難しいのか、ぐしぐし、ズルズル、ひぃひぃと、忙しなく、そして大いにうるさい。
その存在のせいで、吾輩の穏やかな旅立ちは踏みにじられたも同然で、思わず唸るような声が枯れきったと思っていた喉からこぼれ出た。
「ひ、ひぃ!?な、なに…?」
意外にもそれは煩い人間の耳に届いてしまったようで、吾輩はせめてもの意趣返しにありったけの力を込めてソイツを睨んでやったのだ。
霞んだ視界の中でも、その人間の顔が涙と鼻水で汚らしく汚れているのがわかる。
あんなに汚れた人間の大人を見るのは初めてで、吾輩はあまりの汚さに眉を顰めた。
…まぁ、人間にはそんな事わからないだろうが。
薄暗い中でも何故だか、あっという間に目を合わせてきた人間は僅かに息を呑むと、そっと近付いてきた。
「ぇ、い、生きてる?」
ぐしぐしと鼻を啜りながら、探るようにこぼれ出た声に苛立ち、再び唸り声が口から飛び出してしまう。
誰のせいで安らかな空間が崩れたかわかっているのか?ん?
「わ!あ!生きてる!よかったぁぁぁ!」
叫んだ人間は何を思ったか、突然上着を脱ぐと、慌てて吾輩に被せて抱き上げた。
ぎゃーッ!痛い!痛い!痛い!
本当はフーッ!っと立派に威嚇して噛み付いてやりたかったが、その時の吾輩は急に抱き上げられた痛みによるショックであっさりと意識を手放してしまった。
これは、致し方の無いことだとおもっている。
気が付いた時には泣いて縋る人間の目元が鼻先にあり、吾輩は思わず舌を伸ばして流れる涙を舐めてしまった。
…喉が乾いていたから反射的に、だ。
ビクッと身を竦めた人間に、少しばかり溜飲が下がったので鼻で笑うと、更に泣いて縋ってきた。
意識を飛ばしている間に、人間に…まぁ、後の下僕なのだが…担ぎ込まれた“病院”とやらで怪我をしていた足を手当され“点滴”とやらを施されていた吾輩は、どうやら新しい世界への旅立ちの機会を逃してしまったらしい。
後で酔っ払った下僕が、その日の事を泣きながら話した事があった。
余談だが、下僕は驚くほど涙脆い。
嬉しくても、悲しくても、淋しくても、辛くても、吾輩の前だとすぐに無様に泣き崩れる。
…その日、下僕は嫌な事が積み重なり宛もなく夜の街をさ迷っていたそうだ。
仕事も、プライベートも、なにもかもが面白くなくて、でも“しぬゆうき”とやらもなく惨めで情けなくて寂しくて、感情に任せて泣きはじめたら止まらなくなって、あの公園に一時避難した所で吾輩を見つけたのだと。
か細い声を辿れば、傷つき動けないのにギラついた目で睨みつける吾輩と目が合い、一瞬で心を奪われたと言っていた。
…本当に気持ちが悪いヤツである。
咄嗟に抱き上げ“病院”に走り、目を閉じてる吾輩が今にも消えてしまいそうで不安で泣いていいたらしい。
…一体、何が下僕の心をとらえたのか…
薄汚れていても隠せない程の、吾輩の溢れんばかりの愛らしさなのか、闇夜に浮かぶ宝石の様なこの眼に囚われたのか…
まぁ、なにはともあれ…それ以来、吾輩に尽くしに尽くす下僕いわく、吾輩のおかげで生きる目的が出来たとのことだ。
暇さえあれば吾輩に付きまとい、下らない、ふさふさしたモノが付いた棒を振っては吾輩の気を引こうと必死になり、寝ている吾輩の“写真”をとってはニマニマとしている。
まったくもって理解が出来ないし、やっぱり気持ちが悪いが、優しい吾輩は嫌々ながら付き合ってやっている。
あれから2回の冬を越したが、下僕は狭い寝床から広い寝床へ住処を移し、吾輩の世話を嬉しそうに焼いている。
下僕と生活を共にしはじめて気が付いた事だが、寝床のある冬は良い。
冷たい風が吹かないだけではなく、あらゆるお気に入りがあらわれる。
“エアコン”は夏でもお気に入りなのだが、吾輩は冬になるとあらわれる“コタツ”とやらが特にお気に入りなのである。
他にも、広い寝床に移ってから下僕が献上してきた“キャットタワー”も大いに気に入っている。
べちょべちょした特に美味い飯はたまにしか出てこないが、まぁ、カリカリしたやつも嫌いではないので問題ない。
動いている下僕はうるさいし、しつこいからあまり近寄りたくはないが、寝ている下僕の“布団”に潜り込むのは嫌いではない。
気分が良い時は自慢の毛並みを触らせてやるのもやぶさかではないし、時にはにくきゅうを揉ませてやるサービスだって忘れない。
ただ、余りにも簡単に許してしまうと調子に乗るので、もったいぶる事も大事なのである。
普段煩い下僕が大人しい時は膝に乗って様子を見てやる事もある。
吾輩は普段はあえて表現などしないが、下僕の事はそれなりに気にかけているのである。
小さくザラザラした舌で下僕の手を舐めてやると、しくしく泣き出したりする時もあるので、その時は別段優しくしてやる。
調子に乗った下僕が吾輩の腹の毛をびしょびしょにしても、その時ばかりは我慢してやるのだ。
ただ、元気になった時には容赦はしないが。
吾輩はねこである。
2回前の冬までは“のらねこ”で、新しい世界へ旅立つところであったのだが、今は寝床もちの、下僕が心から愛する“ジルさま”なのである。
なにはともあれ仕方がないので、下僕か吾輩、どちらかが旅立つその時まで、愛され、可愛がられてやる心積りなのである。