45 反逆の火
反逆の火は燃える。
春季三月二十日、及び二十一日。
その翆週から緑玉週にかかる休日の二日間に、赤い髪の男がエインシュバルク伯の使いを名乗って何人かの貴族の邸を訪ねて回った。
内容は、警告。王家が隣国と密約を交わし、貴族の権威を取り上げ、国家を私物化する危険性がある事。
何を馬鹿な、と一笑に帰す事は出来なかった。休末の明けた春季三月二十二日、緑玉週の二日目に、臨時の貴族院が開かれた。
そこでまるで茶番劇のように起こった事件。
リンダール大公女の誘拐と、ドーヴァダイン大公家嫡男による救出劇、実行犯によって出されたというエインシュバルク伯の名前。
そして、権力のあるものが煽っているのだと判るほど、あまりにも急に高まったエインシュバルク伯爵への危険視を声高に叫ぶ者達の勢い。
魔法使いというものの存在と、それを王家が所有しているという『王家の力』の誇示。学習院内で火がつけられたように広まったエインシュバルク伯爵のかつての作戦内容と、リンダール大公女との不仲を疑われる噂。
警告を受け取った者達の中で半信半疑だった王家の陰謀論が、殆ど確信に変わった。
警告と王家に対する危機感は、紙につけた火の如くに広がっていった。
赤い髪の男は実に巧妙に知らせを撒いた。
一見それらの家には何の繋がりも見い出せないが、見るものから見ればある共通点が存在した。エインシュバルク伯爵の危険性と有用性を同時に理解している、他国に対してかなりの危機感を抱いている、そして、信仰心の薄いという点である。
彼等は様子見に徹した。徹さざるをえなかったという方が正しいだろうか。
アークシア王国はその特異な成立により、教会の教えが深く根付いている。様々な国がクシャ教の旗の元に集まった神聖アール・クシャ法王国を前身とするだけに、王家の存在意義が強く、建国当初よりアハルの血族が代々王座についてきた。家名は何度か変わった事はあるが、王家の血を引かぬ者、また王家より離れて三代以上を経た血族が王に立った事は無い。重要な神事を執り行うのは、王の血筋のみとされているからだ。つまり。王権神授説に基づいて国が成り立っているのである。
また、今日まで続く貴族の系譜というものは、大抵教会の神官がその祖となっている。今でこそ政治に直接関わらない教会ではあるが、その影響力は大きいのだ。
教会は神事を、貴族院は行政を、貴族に関する司法の行使はザスティン、エレイン、ヴェルナーズ、フェウトラ四公爵家のうちザスティン公爵家を除く三公が執り行ってはいるものの、それらはその権利をそのまま王より与えられている訳ではない。長年大きな問題も無く続けられたため忘れられがちではあるが、正確にはそれらは全て代理権限とされており、その実権は全て王が持つこととなっている。
そして、このアークシア王国では王権神授によって王は国政に関する権利を握っている。領地を任されている領主貴族とて、領主としての地位の世襲を許されてはいても、その領土統治を王の代理として行っていることに変わりは無い。実感こそ薄く、権力は時と共にうつろいゆけども、その事実は変わらないのだ。
故に知らせを齎された貴族達は、焦燥感を抱きつつも動く事が出来ずにいた。王家の血と権利はこの国においては絶対のもの。だが、そうであっても王家が一貴族の全財産を一方的に押収していい訳ではない。
これもまた、この国の成り立ちに起因するものだが、アークシアでは平民に至るまで個人の財産と身柄の権利という概念が認められているのである。領主としての権利が正確には代理権であり、それを王が一方的に取り上げる事は容易くとも、エインシュバルク女伯爵のように一方的な婚姻によりその全財産を押収され、身柄を拘束されるようなことが許されてしまっては、この国は一気に傾ぐ事になってしまう。
いくら神によって証明された王であっても、統治する民を持たないならば何の意味も無い。
赤い髪の男が警告を齎した貴族達は、ある意味では、王の権利は民により成り立つという、マルクやエリザの言葉を借りるならば社会契約論的な思想を持つ者たちであった。
だが、現在のアークシアにおいて王の権利は神より与えられた物というのは絶対である。特に国の支配層である貴族のほぼ全てが教会と王によってその特権を保証されているのだ。だからこそ、全ての根本たる王家の血、それ無しには王に対して貴族が動く事すら出来ないというのが、貴族達の現状であった。
そんな折に、彼らの元へと一羽の鳩が訪れる。届けられた手紙は、王家に連なる一族にのみ赦された紋が薄っすらと透けるもの。差出人はR.Zとイニシャルのみを記していた。内容は、現王家の増長に対する苦慮と、それを止めるための計画。
アハルの血を引くものが動くのであれば、貴族達も大義を掲げてそれに続く事が出来る。
貴族達の動きは、迅速だった。
全てはエインシュバルク伯爵の身柄が押さえられると同時に始められた。
夏季一月二日、紅玉週の四日目。
エインシュバルク伯爵の、学習院の寮宅より、馬車が何台か出発した。
王家に翻意を抱く貴族達には、その旗頭となった者からその馬車に乗る者たちがエインシュバルク伯爵の家臣団であったことが知らされた。一度難民として保護し、エインシュバルク伯領の住民として認可していたその者たちを、王家が難民返還を命じて取り上げたのだ。理由なき簒奪ではない。だが、その理由となるものを王家が自ら捻り出しているこの暴挙を、いよいよもって日和見であった貴族達さえも見過ごす事は出来なくなった。
夏季一月三日、紅玉週の五日目。
王城へと召喚されたエインシュバルク伯爵が、リンダール大公女誘拐に関して無罪を言い渡されたにも関わらずヴェルメール城へと幽閉された瞬間より、貴族達の翻意は日の下に晒される事になる。
近衛兵が動く間も殆ど与えぬまま、謁見の間は制圧された。
反逆の徒となった者たちを従えていたのは、大公家庶子エリック・テュール・ドーヴァダイン。その傍らにあったのは、王の寵を得て教会の管理を任されたはずのザスティン家の子供達、ラージアスとレイチェルの姿。そしてその後ろに控えるように、ジークハルト・ローレンツォレルが続く。
王城の兵力は王のものではあれど、その指揮権はローレンツォレル公爵が持つ。これも名目では代理権ではあるが、撤回しない限りはそれは公爵のものだ。
故に王城の警備は、この日ばかりは満足に機能せぬままその反逆は遂げられた。
「……誰が、これを率いた?」
捕らえられた王は、疲労を隠しもせずにそう一言聞いた。そこには少し前までは確かにあった筈の威厳はその残滓さえも見出せなかった。